アナーキー小池の反体制日記

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#446 続 シベリア抑留

2010年06月24日 | ボクの思い・信条・理念
抑留され、強制労働をさせられたボクの伯父(母の兄)について記します。
ボクは伯父に抑留と強制労働について、聞いたことはありません。
ボクの母(伯父の妹)から断片的に聞いたのですが、大方は忘れてしまっています。
そんな中で一つだけ、忘れられないシーンがありますので紹介します。
ただ年代などは不確かですので、前後の出来事から類推して記しています。
伯父は85歳になりますが元気に暮らしていますので、機会があれば改めて聴きたいと思っています。

伯父は師範学校(後の道学芸大,今は道教育大)の学生だった昭和19年か20年に学徒出陣し、中国に送られました。歳は19歳か20歳です。
1年足らずで敗戦を迎えましたが、ソ連に抑留されシベリアで強制労働をさせられました。
その後、昭和22年から24年頃にかけて帰国しました。(正確なところはわかりません。)

母から聞いて心に残っているのは、伯父が帰国し自宅に帰って来たところです。
伯父は玄関に現れると、(帰るのは知らされていたのでしょう)家族はすぐに彼を仏間に導きました。
伯父は何事か戸惑っていましたが、額に架かっている写真を見て全てを知りました。

伯父の母親(ボクの祖母にあたります)が昭和22年始めに病死していたのです。まだ40代でした。
伯父は呆然として、その場に佇んでいたとのことです。
きっと帰国して一番遭いたかったのは母親なんでしょう。
戦中も抑留中も一番恋しかったのは母親なんだと思います。
その母親がもう死んでしまっていたなんて・・・その心情を思うと胸が潰れる思いがします。

伯父は出征前に在学した師範学校(その頃は学芸大といっていたのかもしれません)に復学し、卒業し教師として定年まで勤めました。
人生のうち一番輝いている20歳前後、数年間を過酷な環境の中で過ごさなければならなかったのは、本当に残念なことだと思います。
そんな過酷な環境を経ているのにかかわらず、85歳になる現在も元気に暮らしています。

国によって徴用され、国によって中国の戦地に送り込まれ、国に見離されてシベリアで強制労働を課され、帰国しても国からの謝罪は一切ありませんが、伯父からは国に対する愚痴一つ聞いたことがありません。
国は早急に元抑留者に対し、謝罪の言葉を述べなければなりません。
「ソ連に売り渡して申し訳なかった。」 と。
もさもさしていたら、対象者が一人もいなくなってしまいます。
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