百島百話 メルヘンと禅 百会倶楽部 百々物語

100% pure モノクロの故郷に、百彩の花が咲いて、朝に夕に、日に月に、涼やかな雨風が吹いて、彩り豊かな光景が甦る。

大林先生の尾道愛。

2020年04月13日 | 百伝。

映画監督の大林宣彦先生が亡くなられたとのこと。

CM の巨匠と言われた映像の魔術師から映画界へ進出した大林先生。

映画監督というよりも映画作家としての自負がありました。

穏やかな語り口、朗らかな人柄、その半面、厳しい一面があり、スタッフも大変だったと考えます。

大林先生のお話を初めて聴く機会を得たのは東京の有楽町だったかな?

その後、広島でも、福井でも、何度も聞く講話、講演・・・内容は殆ど同じでしたが、尾道の事が必ず話題に出ました。

例えば、「福井に来る途中に広がる田園風景、素晴らしいものがありますね。こういう風景はいつまでも大切に残しておきたい・・・僕の故郷尾道もですね」と摩り替える、大林先生の十八番の尾道愛が半端ではないのです。

30年ほど昔、広島市内で講演テーマは何かすっかり忘れてしまいましたが、右派のジャーナリスト桜井よしこさんと対談していましたが、おそらく美しい日本、美しい尾道を語っていたはずです。

15年前、東映映画「男たちの大和」という映画のロケセットが向島の造船所で組み立てられました。

その戦艦大和のセットを一時的な尾道の観光見学コースとして大勢の観光客を集めました。

尾道が賑わうならば、戦争でも反戦でも、右派でも左派でもいいのでは?と考えていた僕は甘かった❗

 

大林先生は、尾道市に対して絶縁宣言したので

す❗

 

 

故郷は、「町おこし」ではなくて、「町まもり」が大切だという大林先生の持論なのです。

街灯が無ければ、月明かりを愛でましょう、という大林先生の語り口です。

大林先生の映画が、平和、反戦を掲げる傾向に向かうようになったのは、その頃でしょうか?

・・・分かりません。

大林先生の御父様は、軍医でした。

戦後、中央桟橋から荒神堂通りを上がった近くにあった村上病院で勤務していました。(因みに中央桟橋から荒神堂界隈が、かつての尾道港の繁栄の中心地でした。)

母は、若い頃から大林先生の御父様を知っており、僕も子供の頃、診ていただいた記憶があります。

髪を七三に分けたスラッとした優しい大先生でした。

大林先生が、子供の頃、軍医である父親に兵隊さんがきっちりと不動の敬礼して挨拶される姿に誇りを感じた途端、そのあと軍医の父親が上官に向かい、さっきの兵隊さんと同じように不動の敬礼する姿に、何か矛盾した葛藤を覚えたと振り返っていました。

大林先生の遺作となった映画「海辺の映画館-キネマの玉手箱」は、舞台は広島、尾道、時代はヒロシマへの原爆投下時の反戦映画だと聞きました。

大林先生の命日となった4月10日が、映画公開日予定だったのが、新型コロナ感染によって延期となったとのこと。

大林先生の言葉、映像、その存在が無ければ、広島のこと、尾道のこと、百島のこと、今のように想い描く事が出来ただろうか?

大林先生のデビュー映画作品HOUSE に驚いた時から、はや40年以上の歳月。

慎んで御冥福を祈ります。

感謝の一言に尽きます。合掌。