ちよ旅、函館での2日目です。
今日は函館山山麓の坂道をめぐりながら、付近の観光スポットを見て歩きます。
僕らの泊まった「チサングランド函館」前の坂道から、西へスタートします。
「護国神社坂」(ごこくじんじゃざか)、坂の上に護国神社があるので護国神社坂と呼ばれました。(左上)
ちなみに、左奥の高い建物が「チサングランド函館」です。
民間人でありながら函館の基礎を築いた、高田屋嘉兵衛の銅像があります。(中上)
「谷地坂」(やちざか)、遊興地として知られていた谷地頭方面へ通じていることから谷地坂の名がつきました。(右上)
「南部坂」(なんぶざか)、蝦夷地の警備にあたった南部藩の元陣屋があったので南部坂と呼ばれました。(左上)
「函館山ロープウェイ」の山麓駅があり、125人乗りで頂上まで3分で運んでくれます。(中上)
1889(明治22年)につくられた配水池がある元町配水場で、これは噴水池でロープウェイの真下にあります。(右上)
下から見上げると、今日も山頂は見えません。
「二十間坂」(にじゅっけんざか)、防火帯としてできた坂で道幅が二十間(約36m)あるので二十間坂と呼ばれました。(左上)
1915(大正4年)再建された、日本初の鉄筋コンクリート寺院東本願寺函館別院です。(中上)
函館は昔から火事が多く、いたる所に黄色い「消火せん」が整備されています。(右上)
「大三坂」(だいさんざか)、坂の入口に大三という家印の郷宿(ごうやど)があったので大三坂の名がつきました。(左上)
郷宿とは、地方から公用で出てくる村民が泊まった宿のことをいいます。
カトリック元町教会で、幕末宣教再開の先駆として最も古い歴史をもつ教会のひとつです。(中上)
ここからだと、カトリック元町教会特徴の赤い屋根がよく見えます。(右上)
大三坂を上って行くと、同じ石畳の細い道に入ります。
「チャチャ登り」(ちゃちゃのぼり)、チャチャとはアイヌ語で「おじいさん」の意味で急坂を腰をかがめて登る姿が老人に似ていることからチャチャ登りと呼ばれました。(左上)
上空から見ると十字形に見える、近代的なデザインの函館聖ヨハネ教会です。(中上)
日本初のロシア正教会である函館ハリストス正教会で、鐘の音から「ガンガン寺」の愛称で親しまれています。(右上)
その愛称どおり、今でも日曜のミサ・結婚式などで独特な明るい音色が街中に響きます。
「八幡坂」(はちまんざか)、八幡宮がこの坂の上にあったので八幡坂の名がつきました。(左上)
現在の八幡宮は、谷地頭町に移転しています。
海が見える観光スポットで、函館港に停泊している旧青函連絡船の摩周丸が見えます。
シンプルなゴシック建築の日本キリスト教団函館教会で、プロテスタント教会では国内で3番目に古いそうです。(中上)
八幡坂と交差する函館市電通りで、レトロな市電が通り過ぎます。(右上)
「日和坂」(ひよりざか)、坂の上から港を一望でき空模様をよく判断できるので日和坂の名がつきました。(左上)
1880(明治13年)金森洋物店として建てられた店舗で、それを利用した市立函館博物館郷土資料館になっています。(中上)
北海道を踏むものが第一歩を印したのが東浜桟橋(旧桟橋)で、ここに置かれている「北海道第一歩の地」のいかりのモニュメントです。(右上)
青函連絡航路も当初はこの桟橋が使われ、客は沖に停泊した連絡船と桟橋の間をはしけ(小舟)で行き来したそうです。
日和坂から函館山を見上げると、ようやく頂上が顔を出してきました。(左上)
函館の豪商相馬氏の私邸である旧相馬邸ですが、内装はほぼ当時のまま残っています。(中上)
明治大火で焼失した町会所を、その相馬氏の寄付をはじめとして1910(明治43年)に再建された壮麗な旧函館区公会堂です。(右上)
左右対称になるように3つのベランダを配し、それをコリント式の円柱が支えています。
海の見える「元町公園」まで、来ました。(左上)
ここには日米和親条約により、箱館開港が決まると箱館奉行所が置かれました。
しかし海に近く防備上不利のため、後に移転した所が五稜郭です。
元町公園内にある旧北海道庁函館支庁庁舎で、1Fは元町観光案内所・2Fは写真歴史館になっています。(中上)
元町公園入口から見た、函館山を背景にした旧函館区公会堂です。(右上)
「基坂」(もといざか)、かつての函館本線の起点で坂下に里数を計る元標が建てられていたので基坂と呼ばれました。(左上)
函館市旧イギリス領事館で、領事館や街の様子を紹介する開港記念館になっています。(中上)
ここには英国式カフェ「ヴィクトリアンローズ」があり、ここの「アフタヌーンティーセット」がお薦めです。
市電通りにある、先ほどの相馬氏の「相馬株式会社」で米穀商・相馬商店の店舗です。(右上)
「東坂」(あずまざか)、かつてあった浄玄寺の下に2本の坂があり「浄玄坂」と「東の坂」といいましたが東坂はその名残りです。(左上)
1907(明治40年)に再建された旧小林写真館で、道内に現存する写真館では最古のものです。(中上)
「弥生坂」(やよいざか)、弥生とは春を意味し発展を祈念して弥生坂の名がつきました。(右上)
弥生坂の上の方にある、ブライダル教会でもある聖マリア教会です。(左上)
「常盤坂」(ときわざか)、この坂の上の屋敷に大きな松があり常盤の松にちなみ常盤坂の名がつきました。(中上)
明治末期の伝統的な太刀川(たちかわ)家住宅店舗・洋館で 、右の住宅店舗の一部はレトロカフェになっています。(右上)
「姿見坂」(すがたみざか)、かつて坂の上に遊郭があり遊女たちのあで姿が見られたことから姿見坂の名がつきました。(左上)
遊郭は明治大火後、蓬莱町(現宝来町)に移りました。
「幸坂」(さいわいざか)、坂下の海岸を埋め立てた時「幸多かれ」と幸町(現弁天町)ができ町名に従い幸坂となりました。(中上)
1908(明治41年)この地に完成した旧ロシア領事館で、レンガと白漆喰で和洋折衷の造りが特徴です。(右上)
「千歳坂」(ちとせざか)、昔坂の東に神社があり松の木があったので千歳の松にちなみ千歳坂の名がつきました。(左上)
東本願寺函館別院の船見支院で、元町の函館別院の墓地を管理するために建てられました。(中上)
「船見坂」(ふなみざか)、港に出入りする船舶がよく見えることから坂上を船見町と名付けその町に通じる坂なので船見坂と呼びました。(右上)
戦後、上の方が校地となり坂は途中までとなりました。
とうとう一番西にある坂道まで、やって来ました。
「魚見坂」(うおみざか)、坂の上から湾岸に押し寄せてくる魚群の発見に便利な所だったので魚見坂の名がつきました。(左上)
坂を上がって行くと、湾が見渡せる外人墓地があります。(中上)
1854(安政元年)ペリー来航時に、同行し亡くなった水兵を埋葬したのが始まりです。
坂を下ると市電の終点「函館どつく前」駅があり、ちょうど「箱館ハイカラ號」が停車していました。(右上)
ここがゴールで、このあと市電で函館駅にもどりました。
函館のおみやげは、「するめ松前漬」(左上)と「きたうさぎストラップ」(右上)です。
-ちよ旅1函館・おわり-
ちよ旅1函館のおまけ。
「スーパー白鳥」の車体に、青函トンネルの位置がデザインされています。(左上)
新青森駅で仲良く並んだE5系、僕らが乗るのは右の「はやぶさ6号」です。(中上)
帰りのグランクラスで食べた、洋軽食です。(右上)
ちなみに、「お品書」を書いておきます。
「サンドイッチ」岩手ロースハムとキャベツのコールスローサラダ、バジルポテト&ブロッコリーと海老たまサラダ。
「付け合せ」鶏肉の大根おろしソース添え、プチトマト&グリーントマトピクルス、フルーツ。
今度乗った時は、和軽食をいただきます。
追記
当ブログでは、長年に渡り「ちよ散歩」を載せてまいりました。
「ちよ散歩」の題名は、地井武男氏の「ちい散歩」をパクったものでした。
「ちい散歩」がテレビから消えた時、「ちよ散歩」も終了したのですが・・・。
その地井武男氏が、先日お亡くなりになりました。
心からご冥福をお祈りいたします。
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