グーグルマップで山梨県護国神社と圓光禅院の真ん中あたりに、
武田信玄公の墓というのを見つけた。
これはもう参拝するしかないでしょう。
【縁起】
武田信玄公御墓所。
元亀 3年(1572)12月、三方ヶ原で家康公率いる徳川軍及び、
織田の援軍を撃破・敗走させた武田信玄は、翌年には三河国に進出し、
2月には野田城を包囲攻略するが、ここで持病が悪化、
長篠城で療養するも回復の兆しなく、結局、甲斐への帰国を余儀なくされた。
そして帰国途上の信濃国伊那の駒場(長野県下伊那郡阿智村)で信玄は没した。
天正元年(1573) 4月12日のことで、享年53歳であった。
信玄は臨終の際に喪を3年間秘めることを命じ、跡を継いだ勝頼はこれに従い、
信玄の遺骸を密かに甲斐へと送り、塗籠の中に納めたともいわれる。
3年後、遺骸は武田家臣土屋右衛門昌次の邸内であったというこの地で荼毘に付され、
天正4年(1576)4月16日、塩山の恵林寺において葬儀が盛大に執り行われた。
この地は後世になって魔縁塚と称されるようになり、
近隣の人々は恐れて近づかなかったといわれるが、
200年後の安永8年(1779)甲府の代官であった中井清太夫が発掘して石棺を見つけ、
その銘に「法性院機山信玄大居士・天正元年発四月十二日薨」とあったので、
もとのように埋めて幕府に届けて信玄の墓と定めた。
この時、武田旧臣有志らによって石碑が建てられており、それは今日に残されている。
【武田信玄火葬塚】
住宅街にあり駐車場は無しということだったので、
近くの大型墓地の駐車場をお借りして、歩いて火葬塚に到着。
火葬塚の前に車を停めれる駐車場がありましたが、
消防会館や教育センターの駐車場だったのかな。
門がありました。
いよいよです。
法性院大僧正機山信玄之墓と刻まれていました。
南無阿弥陀仏。
安らかにお眠りください。
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