Gomaler's~神社仏閣巡り~癒しを求めてII

主に関西の神社仏閣巡りと御朱印集めが趣味です。

七寺<長福寺>(2015年3月29日参拝)

2015年05月01日 | 東海三十六不動尊


大須観音から歩いて10分足らずで七寺に到着。

山門もなく何だか寂しい感じ。。。



所在地:愛知県名古屋市中区大須2丁目28-5
宗派:真言宗智山派
御本尊:聖観世音菩薩・勢至菩薩
創建:(伝)天平7年(735)
開基:(伝)行基菩薩
札所:東海三十六不動尊霊場、名古屋二十一大師、名古屋七福神


【縁起】
正式名は稲園山正覚院長福寺といい、奈良時代の天平7年(735)、
行基菩薩により尾張国中島郡萱津に正覚院が開創されたのに始まる
真言宗智山派の名刹。

七寺という呼称は延暦6年(787)、
紀是広によって七堂伽藍が建立されたところから来たもの。
是広によって建立された七堂伽藍は仁和3年(887)の水難や、
天慶4年(941)の兵火により荒廃した。

仁安2年(1167)に勝幡城主であった尾張権守大中臣朝臣安長が亡女の菩提の為に、
その婿豊後守親実と図って寺域を現在の稲沢市七ツ寺町に移し七堂伽藍と12僧坊を再建。

安元元年(1175)から治承2年(1178)に至る4年間に一切経を書写させる一方、
丈六の阿弥陀如来とその脇侍、観音・勢至の2躰を奉納。
名を稲園山長福寺と改め七寺と呼称させるようにしたと伝えられている。

その後、建武の兵乱により安長が建立した寺塔の大半を焼失したが、
天正19年(1591)太閤秀吉の命を受けて寺域を清洲に移し本堂を再建。
大塚村性海寺の寺僧良圓を迎えて中興開山した。

慶長16年(1611)徳川家康の命により寺域を現在の地に移転されるに当たって、
本堂が清洲から移築されたのをはじめ、諸堂が次々と再建された。

元禄13年(1790)には領主徳川光友の計らいにより三重塔が再建された。
これにより七堂伽藍の全てが整い大須観音、西別院ともに輪奐の美を誇るに至った。
享保15年(1730)には徳川藩主の祈願所となっている。

明治12年(1879)総本山智積院末になり、明治44年(1925)には準別格本山に昇格した。

幸にも昭和20年3月19日、太平洋戦争の戦火によって、
七堂伽藍の全てを焼失するという悲運に会い、僅かに経蔵一棟を残すのみとなった。

この時、かろうじて戦火を免れた観音・勢至の2躰及び勢至の光背と唐枢入一切経は、
その後昭和25年に改めて国より重要文化財の指定を受け、現在に至っている。


【本堂】


向かって右が本堂、左が豊川荼枳尼天です。

基本的に事前予約だが、
御住職がいらっしゃれば本堂拝観可能です。(拝観料500円)

本堂には重文の二体の菩薩様が並んで祀られています。

聖観世音菩薩と勢至菩薩が並んで祀られているのが不思議でしたが、
調べて見るとその理由がよく分かりました。

空襲で本堂が燃えた際、何とか助け出された仏様達が現在の御本尊で、
当時の御本尊阿弥陀如来や旧国宝の二天は惜しくも焼失してしまったそうだ。

その悔しさは筆舌に尽くせないでしょうね。

でも、二体だけでも現存させることが出来たのは、
せめてもの救いですね。


【阿弥陀如来坐像】


何だか痛々しい。
もっと綺麗に修復は出来ないのだろうか。

しかし、この如来様は空襲の時に真っ赤に燃えたそうだ。
真っ赤に燃えてもなお、今、こうして鎮座されておられる。

まさに戦争の生き証人ならぬ、行き証仏ですね。

ありがたや ありがたや。


【稲荷社】



【蔵】



【御朱印】



【旧伽藍】


恐らく大正時代の写真だと思われる。

巨大な本堂や美しい三重塔、出店の多さが、
往時の威容が分かるというもの。

良く見ると大日如来坐像も見えますね。

奥に見えるのが大須観音の本堂かな。

これらが全て灰燼に帰している。

戦争は全てを失う。
二度とあのような戦争を行ってはならない。

現在の七寺を訪れて強くそう感じました。

それを感じただけでも、このお寺を参拝した意義がありましたよ。
また訪れたいと思う。