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Gomaler's~神社仏閣巡り~癒しを求めてⅢ

主に関西の神社仏閣巡りと御朱印が趣味です。
生きた証として好き勝手に書いております。(笑)

信長公居館跡~岐阜公園三重塔(2020年2月22日参拝)

2020年09月04日 | 旅行・その他
今日は好きな女性に逢う為に岐阜へ。

こんな雨の時は神社仏閣巡りだったら回避するのだが、
雨を厭わずやって来た次第。

そうは言ってもせっかく遠い岐阜にやってきたのだから、
神社仏閣巡りや観光、グルメを楽しみたいもの。

まずは前に岐阜公園に来た時に駐車難民になって、
ここにある三重塔を見れなかった悔しさを晴らす為、
岐阜公園にやってまいりました。

今回は天気が悪いので無事有料駐車場に停めれました。


【華松軒】




岐阜公園にあるキレイな茶室がある建物です。
こちらで茶菓子をいただけるようです。

建物の右手にはトイレがありました。


【岐阜公園】





【板垣退助像】




板垣退助は土佐藩士にして自由党総裁であり、
祖先は武田信玄公の守役にして武田四天王の一人の板垣信方です。

何故、板垣退助像がここにあるのかというと、
党勢拡大に努めていた明治15年(1882年)、
岐阜で遊説中に暴漢・相原尚褧に襲われ負傷した(岐阜事件)からである。

その際、板垣は襲われたあとに竹内綱に抱きかかえられつつ起き上がり、
出血しながら「吾死スルトモ自由ハ死セン」と言い 、
これがやがて「板垣死すとも自由は死せず」という表現で広く伝わることになったとか。


【冠木門】




立派な門です。

ここを進むと信長公居館跡があるようです。


<信長公居館跡>
所在地:岐阜県岐阜市千畳敷下257
駐車場:近隣有料駐車場
拝観:無料


【概要】
岐阜城の歴代城主の館は金華山の西麓にある槻谷にあります。
発掘調査の成果からこの地形は斎藤氏三代の頃に造られ、
織田信長公が大規模に改修をし、関ヶ原の合戦前哨戦まで使われていました。

現在、岐阜公園内で見られる地形は織田信長によって造られたもので、
槻谷を流れる谷川の両側に段々地形を造り、建物や庭園を配しています。


【織田信長居館跡】








天気が悪いし奥の遺跡はシートで被されているので、
今回は少し見ただけにしました。

目的は三重塔だしね。


<岐阜公園三重塔>
所在地:岐阜県岐阜市槻谷13-2
建立:大正6年(1916)
総高:22.168m
木造、三間三重塔婆
拝観:無料


【概要】
三重塔は大正天皇の即位を祝う御大典記念事業として企画され、
市民から寄付を募り大正6年に岐阜市が建立したものです。
 
塔の考案は日本建築史学の創始者と言われ、
明治神宮や築地本願寺などを設計し、
建築界で初めて文化勲章を受章した伊東忠太氏です。


【三重塔】










立派で美しい三重塔です。
惜しむらくは撮影に適さない天気なのが残念なぐらい。

近くにお寺は無いので、
どこからか移築されたものかと思いや、
大正時代に市民の寄付で建てられたそうだ。

市民の寄付で三重塔が建立されるのは極めて珍しい。
昔の市民は偉いね~。

今やってもこれほどの三重塔を建てるだけの寄付は集まらないだろう。

逆に前澤社長のように一部の超金持ちは一人で建てることは可能。

しかし一部の人間だけが巨額の富をため込むのは良くないよね。

それだけの金を社員に還元しろよと常々思う。


【ロープウェイ】



【織田信長公居館庭園の滝】






織田信長居館跡の庭園に35メートルもの2本の滝があったそうで、
庭園整備に向けて史跡に与える影響を調査する為、
去年、滝を再現実験をしているとか。


さて、岐阜城に行く為にロープウェイ乗り場は向かう。
続きは次回。

霊友会釈迦殿(2020年2月16日参拝)

2020年09月02日 | 旅行・その他
本日のメインにして最後の参拝となるのが、
霊友会釈迦殿です。

久しぶりの新興宗教の巨大施設潜入です。

一般の人からすれば霊友会という名前で、
怪しげな宗教団体かと思ってしまいますよね。

正直私も知らないし名前から推測すると、
ちょっとヤバいんじゃないの?って思ってました。

参拝するにあたって調べてみると、
法華宗系の新興宗教で評判は悪くない。

石原慎太郎や元横綱初代若乃花、元大関若嶋津等の、
有名人が信者だそうだ。

それに釈迦殿の巨大施設の中に入ってみたくて、
今回参拝することにしました。


所在地:東京都港区麻布台1-7-8
宗派:法華宗系新興宗教団体
創立:昭和5年(1930)
御本尊:仏所護念の本尊(各自先祖の霊)
釈迦殿建立:昭和50年(1975)
創立者:久保角太郎


【霊友会】
霊友会という名前は法華経の研究と並々ならぬ修行の末、久保角太郎が命名。
久保はあの世に帰れば霊の友である。この世に生きておれば会の友である、
過去・未来・現在の深い法華経のつながりという姿が「霊」という文字に現れておる、
という言葉を遺している。

霊友会では自分に繋がる父系・母系双系のすべての先祖を象徴した総戒名を前にして、
日々、青経巻と呼ばれる法華三部経からの抜粋を中心に編纂された経巻を読誦する。

これを霊友会では先祖供養と呼んでいる。

しかし、霊友会に批判的な意見もある。
名古屋市の日蓮正宗妙通寺のHPによりますと、
霊友会は創立者の久保角太郎が彼の兄嫁・小谷キミを霊能者に仕立て上げ、
シャーマニズム(霊媒信仰)と法華信仰、先祖供養な等を混ぜ合わせて、
作り上げた新興宗教と書かれている。

霊友会から分派・独立した教団は立正佼成会、正道会等、
18団体以上も存在している。


【釈迦殿】


西久保八幡神社の社務所の後ろのドーンと控える釈迦殿。

異様なデカさ。(^^;








ここから見るとコンサート会場といった雰囲気です。

さぁ、勇気を出して入ってみましょう。


【インナートリップ広場】


イベントはこちらでやられるようです。


【案内パネル】






霊友会には東伊豆に弥勒山という大伽藍があり、
そのパネルがいろいろ展示されていました。

ここは是非とも行ってみたくなりましたね。

そしてついに釈迦殿の大ホールに潜入成功。

自由参拝が出来る大ホールのようで、
信者では無い私も参拝出来ましたよ。(^^

とても広い講堂でとても厳かな雰囲気がありましたね。
天気が悪いせいか大ホールに居た信者さんは少なかったです。

また釈迦殿の御本尊釈迦如来はいつもは秘仏なのか、
御尊顔を拝することは出来ませんでした。

大ホールの撮影は残念ながら禁止でした。


【レストラン明世】




数量限定のうな重を食いたかったけど、
まだ開いてなかった。


【案内板】


案内板に従って他の場所もまわってみましたが、
入れそうな場所はありませんでした。

これにて釈迦殿の参拝終了。

怪しい雰囲気は全くありませんでしたね。

いつも大ホールが開いているか知りませんが、
興味がある人は普通に参拝すればよろしいかと。


【東京タワー】





【天ぷら蕎麦定食】




東京に行ったらだいたい寿司か蕎麦を食ってる気がする。(笑)

西久保八幡神社(2020年2月16日参拝)

2020年09月01日 | 神社
天徳寺の次は桜田通を少し歩いて西久保八幡神社へ。
ここは本日のメインのお隣に鎮座する神社です。

車は境内に停めれるようです。


所在地:東京都港区虎ノ門5-10-14
御祭神:品陀和気命、息長帯比売命、帯中日子命
創建:寛弘年間(1004~1012)
社格:郷社


【由緒】
多田満仲の三男である源頼信が石清水八幡宮の神霊を請じて、
霞ヶ関のあたりに創建したという。

太田道灌の江戸城築城に際し現在地に遷された。

徳川秀忠正室の崇源院は慶長5年(1600)、
家康・秀忠の関ヶ原の戦での戦勝と安全を祈願し、寛永11年(634)社殿が造営され、
同時に御神体の八幡宮座像・仲哀天皇座像・神功皇后座像と、
不動明王立像・愛染明王座像も奉納された。

享保8年(1723)の火災の翌年には土蔵にて社殿が建造されたが、
文化8年(1811)にも火災に遭い、文政元年(1818)に再建されている。
この二回の火災により宝物・旧記等はことごとく失われた。

明治維新の神仏分離までは八幡山普門院と称し、
東叡山の末寺で江戸八所八幡の一つに数えられた。

昭和20年(1945)3月戦災により社殿はじめ御輿庫、社務所を焼失、
5月神楽殿も焼夷弾の直撃を受けた。
氏子の町々の復興とともに昭和28年(1953)社殿を総桧木により再建、
その後、社殿を整え現在に至る。


【一の鳥居】



【石段】


石段の横に車用の道がありました。


【二の鳥居】


うーむ、絶賛大工事中でした。


【仮拝殿】




これはさすがにご利益を感じないな。(^^;


御朱印は2015年後半から対応不可になったそうで。

対応の酷い御朱印ヲタがいっぱい居て、
やってられなくなったんでしょうね。