泉涌寺の総門に到着。
総門手前にあるお寺が泉涌寺の塔頭である即成院。
ここは車を停めれる場所が無いなぁ、と思っていたので
いつもスルーしていたのですが、
今日は歩きなんで初めて参拝すことにした。
所在地:京都府京都市東山区泉涌寺山内町28
宗派:真言宗泉涌寺派
御本尊:阿弥陀如来
創建:寛治元年(1087)
開山:橘俊綱
札所:泉涌寺七福神巡り
【歴史】
山号を光明山といい、京都東山にある真言宗の寺院で、
平安時代の正暦3年(992)に恵心僧都が伏見に建立した光明院が始まりとしています。
関白の藤原頼通は宇治に平等院を建て極楽往生を願いましたが、
その子の橘俊綱も寛治元年(1087)に伏見桃山に広大な山荘を造り、
光明院を阿弥陀堂として移設しました。
10世紀から12世紀にかけて浄土信仰が盛んになり、
阿弥陀如来に救っていただいて浄土にいくことが、
当時の人々の切なる願いでした。
臨終に際して阿弥陀如来は二十五菩薩とともに迎えに来て、極楽浄土に導いてくれます。
菩薩もみな、極楽浄土を喜び、妙なる音楽を奏でています。
本尊である阿弥陀如来と二十五菩薩は大きな像で、
功徳が大きくなることを願った浄土信仰をよく表しています。
以後、さまざまな変遷を経て、即成院は明治時代に現在の地へ移りました。
【山門】
山門をくぐると境内に車を停めれるスペースがあった。
後で御住職に聞いてみると停めてもいいとのこと。
なんや~、ここに停めれるんならもっと早く参拝していたのに。
【地蔵堂】
【鎮守社】
【石仏】
【猛犬注意】
これはマジで怖い。(^^;
【本堂】
折角なんで特別参拝させていただき、
御住職に内陣まで連れていっていただき説明を受けた。
これがまた見事な仏様のオーケストラ。
阿弥陀如来の高さは5.5メートル、二十五菩薩もそれぞれ150センチあり、
しばし見惚れていましたよ。
満足満足。(^^
堂内は撮影禁止でした。
【阿弥陀如来と二十五菩薩】
(画像はネットで拾ったものです。)
寛治8年(1094)に造られたという来迎の阿弥陀如来と二十五菩薩は、
寺伝では恵心僧都作と言われていますが、
近年は平安時代の仏師定朝とその弟子によるものとされているそうです。
仏様達を堪能して帰ろうとした時、
御住職が那須与一の墓に行きました?って言う。
え?
ここに那須与一の墓があるの?
これは見ておかねばと本堂裏側に回る。
【那須与一供養塔】
お~これはまた立派なものではないですか。
何故ここに立派な供養塔があるのかというと、
与一は屋島の合戦以前に下野国から京都に向かう道中で病にかかり
即成院の阿弥陀如来の霊験を聞き、
院にこもって病気回復を祈ると、阿弥陀如来の霊験で病が癒えた。
与一は屋島の合戦の功績で丹波、信濃、若狭、武蔵、備中の五州を与えられ下野守となったが、
京に戻り任官お礼の御所参内の後、きっぱりと武道を捨て、
恩を受けた即成院の庵で源平の戦いで亡くなった多くの方の菩提を弔い、
出家し信仰の生活を送り三十四歳で即成院の阿弥陀さまの前で亡くなり大きなお墓を残したとか。
【御朱印】
総門手前にあるお寺が泉涌寺の塔頭である即成院。
ここは車を停めれる場所が無いなぁ、と思っていたので
いつもスルーしていたのですが、
今日は歩きなんで初めて参拝すことにした。
所在地:京都府京都市東山区泉涌寺山内町28
宗派:真言宗泉涌寺派
御本尊:阿弥陀如来
創建:寛治元年(1087)
開山:橘俊綱
札所:泉涌寺七福神巡り
【歴史】
山号を光明山といい、京都東山にある真言宗の寺院で、
平安時代の正暦3年(992)に恵心僧都が伏見に建立した光明院が始まりとしています。
関白の藤原頼通は宇治に平等院を建て極楽往生を願いましたが、
その子の橘俊綱も寛治元年(1087)に伏見桃山に広大な山荘を造り、
光明院を阿弥陀堂として移設しました。
10世紀から12世紀にかけて浄土信仰が盛んになり、
阿弥陀如来に救っていただいて浄土にいくことが、
当時の人々の切なる願いでした。
臨終に際して阿弥陀如来は二十五菩薩とともに迎えに来て、極楽浄土に導いてくれます。
菩薩もみな、極楽浄土を喜び、妙なる音楽を奏でています。
本尊である阿弥陀如来と二十五菩薩は大きな像で、
功徳が大きくなることを願った浄土信仰をよく表しています。
以後、さまざまな変遷を経て、即成院は明治時代に現在の地へ移りました。
【山門】
山門をくぐると境内に車を停めれるスペースがあった。
後で御住職に聞いてみると停めてもいいとのこと。
なんや~、ここに停めれるんならもっと早く参拝していたのに。
【地蔵堂】
【鎮守社】
【石仏】
【猛犬注意】
これはマジで怖い。(^^;
【本堂】
折角なんで特別参拝させていただき、
御住職に内陣まで連れていっていただき説明を受けた。
これがまた見事な仏様のオーケストラ。
阿弥陀如来の高さは5.5メートル、二十五菩薩もそれぞれ150センチあり、
しばし見惚れていましたよ。
満足満足。(^^
堂内は撮影禁止でした。
【阿弥陀如来と二十五菩薩】
(画像はネットで拾ったものです。)
寛治8年(1094)に造られたという来迎の阿弥陀如来と二十五菩薩は、
寺伝では恵心僧都作と言われていますが、
近年は平安時代の仏師定朝とその弟子によるものとされているそうです。
仏様達を堪能して帰ろうとした時、
御住職が那須与一の墓に行きました?って言う。
え?
ここに那須与一の墓があるの?
これは見ておかねばと本堂裏側に回る。
【那須与一供養塔】
お~これはまた立派なものではないですか。
何故ここに立派な供養塔があるのかというと、
与一は屋島の合戦以前に下野国から京都に向かう道中で病にかかり
即成院の阿弥陀如来の霊験を聞き、
院にこもって病気回復を祈ると、阿弥陀如来の霊験で病が癒えた。
与一は屋島の合戦の功績で丹波、信濃、若狭、武蔵、備中の五州を与えられ下野守となったが、
京に戻り任官お礼の御所参内の後、きっぱりと武道を捨て、
恩を受けた即成院の庵で源平の戦いで亡くなった多くの方の菩提を弔い、
出家し信仰の生活を送り三十四歳で即成院の阿弥陀さまの前で亡くなり大きなお墓を残したとか。
【御朱印】