Gomaler's~神社仏閣巡り~癒しを求めて

主に関西の神社仏閣巡りと御朱印集めが趣味です。

カトリック高槻教会(2012年12月30日参拝)

2013-01-14 | 旅行、その他
いよいよ高山右近所縁の高槻教会へ。
本行寺から歩いて5分くらいで着きました。


所在地:大阪府高槻市野見町2-26
宗派:カトリック教会
創建:1954年、田口芳五郎司教


【歴史】
1946年、当時の田口芳五郎司教は高山右近顕彰碑と記念聖堂の建立を計画。

まず1949年高山右近顕彰碑が現在の商工会議所の場所に建立され、
除幕式がローマ法王ピオ12世特使オルテノス司教によって行われました。

続いて当時大阪府東部地区の宣教を委託していたクラレチアン宣教会の協力を得て、
1954年現在地に仮聖堂が建てられカトリック高槻教会が創立されました。

高山右近記念聖堂が1961年に着工され、翌1962年3月に完成、4月に献堂式が挙行。
多くの人の祈りと尽力により当初の建立計画から16年の歳月を経て完成した聖堂は、
その姿を変えることなく現在に至ります。


【高山右近】
織田信長に仕えた戦国武将であり茶人でありキリシタンであった高槻城主。

洗礼名ジュスト。

高槻城主時代の右近はキリスト教徒にとっては名君ではあったが、
神道・仏教徒にとっては父・友照同様に暴君以外の何者でもなかった。

友照の政策を継いだ右近は領内の神社仏閣を破壊し神官や僧侶に迫害を加えた為、
畿内に存在するにもかかわらず高槻周辺の古い神社仏閣の建物はほとんど残らず、
古い仏像の数も少ないという事態に陥った。

山崎の戦いは羽柴勢の先峰で強さを発揮、羽柴秀吉からも信任のあつかった右近は
高槻から明石へ加封されたが後に秀吉のバテレン改宗令で右近は追い込まれる。

秀吉の側近の黒田孝高が真っ先に棄教するなどキリシタン大名には苦しい状況となるが、
右近は信仰を守ることと引き換えに領地と財産をすべて捨てることを選び、
時の権力に屈せず信仰を貫き通した信心深い高潔な男であった。

前田利家にかくまわれ金沢で前田の重臣として活躍。

家康の禁教令でマニラへ追放。

長崎から家族と共に追放された内藤如安らと共にマニラに到着。
イエズス会報告や宣教師の報告で有名となっていた右近はマニラで、
スペイン人のフィリピン総督フアン・デ・シルバらから大歓迎を受けた。

しかし船旅の疲れや慣れない気候のため老齢の右近はすぐに病を得て、
翌年の1月8日(1615年2月4日)に息を引き取った。
享年64歳。


【聖堂】




思ってた以上に大きい。

しかし人がいる気配はない。(^^;


【高山右近像】


ローマにあるクラレチアン修道会の総長ペトロス・エシェバイヘル師から
高槻教会へ寄贈されたもの。

わざわざローマから大阪の一地方に過ぎない高槻の教会に寄贈するとは、
修道会はお金持ちですね、というより高山右近がそれだけ、
遠いヨーロッパの地においても一目置かれているということなんでしょう。

そういえば細川ガラシャも信仰を貫き殉教した美談が、
神聖ローマ帝国のローマ法王まで届き、
世界で一番有名な日本人女性とまで言われている。

このように現在も修道会は何百年もの昔の人物の殉教を今なお讃えているのである。


【堂内】


恐る恐る入ってみた。

誰もいない。

あー良かった。
司教さんとか居たらどうしようと思ってたのよね。(^^;

でも無人は無人で勝手に入っていいか思案したけど。

思ってたより質素な感じです。
テレビで見る教会って絢爛豪華で荘厳な雰囲気なものばかりだけど、
それはあくまでも寺で言う大本山クラスだけなのかな。

ちょっとガッカリしたのはここだけの話。(^^;


【キリスト】




初めて生でキリスト像を見ました。

異教徒だからでしょうか、
特に何も感じるものはありませんでした。


【マリア像】


キリストと同じでこのマリア像もテレビでは何十回見たかわからないけど、
生で見るのは初めてです。

そりゃそうか、教会に行かないと見れないもんな。


【キリスト生誕】



【日本二十六聖人殉教の碑】


京都や大阪から連れられて1597年2月5日、豊臣秀吉の命令によって
長崎で処刑された26人のカトリック信徒。

日本でキリスト教の信仰を理由に処刑が行われたのはこれが初めて。

26人は1862年6月8日にカトリック教会によって聖人の列に加えられたため、
彼らは「日本二十六聖人殉教者」として2月5日に祝われています。

日本人(20名)、スペイン人(4名)、メキシコ人(1名)とポルトガル人(1名)。


このカトリック高槻教会を訪ねて感じたことは、
やはり私はお寺や神社の方が落ち着くし癒されるなぁと。

カトリックの教えも素晴らしいものがあるんでしょうけど。