とおいひのうた いまというひのうた

自分が感じてきたことを、順不同で、ああでもない、こうでもないと、かきつらねていきたいと思っている。

『夜と霧』フランクル

2006年05月27日 08時49分43秒 | 読書感想
この名著は、ともすると人類の残虐性、浅はかさ、エゴイズムに絶望しがちな自分に、これこそが人類だ、よし、私も人類になろうという気持ちにさせるひとすじの希望のろうそくとして、今でも、あかりをともしてくれています。
アウシュビッツから、まだほぼ60年しか経っていないというのに、アメリカの数々の戦争暦。ここで、フランクルをふりかえってみたいという念願があります。
06/4/2

追記1:ネットをみていると、『夜と霧』の新訳を池田香代子さんが刊行し、ただいま話題になっている。『夜と霧』の翻訳に関して、わたしは混乱していることがある。私は、池田香代子さんよりもう一つ先の別の訳者さんの本は、もっている。しかし、重々しい文章で読みづらく、途中で読むのを断念した。池田香代子さんの訳は、一気に読めるライトな文章であるらしい。
混乱しているのは、じつは、四つ昔に別の『夜と霧』を祖父の土蔵のなかで発見し、読み終わっているからだ。それは、地獄のようなアウシュビッツのなかで淡々と生きるフランクルという印象であった。一気に読め、深い感動を覚えた。
その感動は、重々しさからではなく、むしろ淡々とした文章から受けた感が強い。
フランクルはアウシュビッツの有様にも触れてはいるが、それはむしろ遠景としてやんわりと触れられ、近景には静かに正気を保ち、狂気のなかを淡々と生きるフランクルという図式だったように記憶する。その本に感動したので里子にだした。そうしたら二度と手元に戻ってこなくなった。
今となっては、どなたの訳だったのか、完訳であったのか、抄訳であったのか、確かめるすべがない。
ただいま、ネットでは旧訳と新訳を比較する言論が目立つが、私はもう一つ別の訳の記憶があるので、三重の混乱に、はまっている。現在、この名著を池田訳で即刻読む必要性を感じているが、手がまわらず、はがゆい。
時間のあるときに、また追記を加え、更新することをお許しねがいたい。
第二次大戦後、スピード・グロバリゼーション・アフガン戦争以前以後の主にアメリカがしかけている戦争・主にアメリカ先導の資本主義に翻弄される現代は、ストレス時代とよばれ、もしかすると別種の狂気が漂っているのか?
私たちが、今、フランクルから学ぶことは何か?現代では、誰でもアウシュビッツの残虐性・狂気、ファシズムの恐ろしさはわかる。それは、過去のことだからだと思う。大事なことは、現代を把握することと思う。無力感をかみしめつつ。
06/5/27
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