とおいひのうた いまというひのうた

自分が感じてきたことを、順不同で、ああでもない、こうでもないと、かきつらねていきたいと思っている。

アニメーション映画 1

2007年01月31日 09時32分34秒 | 映画
アニメーション映画 アニメーションえいが animated film∥film d’animation[フランス]

ラテン語の anima (霊魂) から出た animation (生命を吹き込むこと) の語源どおり,少しずつ変化させた絵 (動画) を 1 コマずつ撮影し,映写することによって,それ自体は静止している絵を動いているように見せるトリック撮影およびそのようにして撮影されたトリック映画の総称。分解撮影によって現実の動きを定着する〈映画〉とは逆の工程がアニメーションの原理である。撮影素材は,絵,写真,切紙,また立体素材として人形や粘土細工など無数に考えられる。例えば人形劇をそのまま撮ったり,漫画や画集をモンタージュしたものは, アニメーションとは呼ばない。

【歴史】

[映画に先立つ映画]

 〈動画〉への衝動は,1 万年以上前のアルタミラの洞窟壁画にすでに見られ,また絵を投影することによって動きのイリュージョンを味わいたいという欲求はインドやジャワの〈影絵〉にあった。 1644 年,ドイツのイエズス会の神父A.キルヒャーが〈幻灯機〉を発明,セットされた 2 枚のガラス絵を左右に手早くスライドさせ,大食いの人物がブタに変わるといった〈動き〉のある映像が写し出された。日本では,江戸時代にオランダ人がもたらした幻灯機を使った〈おらんだエキマン鏡〉なる見世物に触発された小石川の染物上絵職人亀屋熊吉が,友人の医者高橋玄洋の助けで,その仕掛けの原理を利用した自前の器械を完成, 池田都楽と名のって,1803 年 (享和 3) に江戸で〈写絵〉と称する種板式幻灯を寄席で上演した。これはガラスに彩色絵をかいたもの (種板) を数台の幻灯機 (フロ。熱をもった箱の表面が結露することからついた呼称) にセットし,それをかかえた数人の〈写絵師〉が種板を操って絵の動きを出すもの。光源は灯明からランプに移行。祭文語りや浄瑠璃語りがついて上演された。一方,光源を使わない,つまり映写をしないアニメーションの原初の形として, 19 世紀イギリスで発明された〈ソーマトロープ〉をはじめ,網膜の残像現象を利用した一連の科学玩具, 〈ストロボスコープ〉〈フェナキスティスコープ〉〈ゾーエトロープ〉などがあり,さらにフランス人レノー⊇mile Reynaudがゾーエトロープを改良した〈プラキシノスコープ〉に映写装置をつけ加え, 92 年,パリの駐人形館で〈テアトル・オプチック (光学劇場) 〉,または〈光の無言劇〉と称して,長いセルロイド・ベルトに 600 コマ以上の絵をカラーでかいたものをスクリーンに映写する大仕掛けな動く幻灯を興行した。フィルムに撮影してそれを映写する〈映画〉が発明される以前に, アニメーションの起源があったといえる。

[史上初のアニメーション映画]

 フランスの L.リュミエールとアメリカの T.A.エジソンによって〈映画〉が発明された後,最初のアニメーション映画がアメリカのJ.S.ブラックトンによって作られたというのが通説になっている。黒板にチョークで顔をかいては消し,表情の変化やギャグを与えた《愉快な百面相》(1906) がそれである。ブラックトンはまた,1 コマ撮りの技法によって家具が室内を駆け回る《幽霊ホテル》を作り, 〈立体アニメ〉の先駆者の一人ともなった。 《愉快な百面相》を見て,そのトリックを見破ったフランスのコール⊇mile Cohl (1857‐1938) は,フランス最大の映画会社ゴーモンのトリック撮影部主任となり,白紙に黒インキでかいた〈マッチ棒で組み立てたような〉単純なデザインのキャラクターによる動画を撮影し,ネガのまま映写して黒地に白の画面を作った。これが世界最初の〈漫画映画dessin animレ〉の《ファンタスマゴリー》(1908) で,上映時間はわずか 1 分 57 秒だった。その後もコールは〈ファントーシュ〉という世界最初のアニメ・キャラクターを主人公にしたシリーズ (1908‐10) を数多く作り,これが最初のアニメーション・シリーズとなった。アメリカでは 1909 年に《リトル・ネモ》で知られる人気漫画家マッケーWindsor McCay (1869‐1939) が,コールの漫画映画に触発されて《恐竜ガーティ》(1909) を作った。白地に黒の線で背景まで同じ 1 枚の紙にかき込まれ,作者 (実写) の命ずるままに恐竜がサーカスのゾウのように芸をする〈漫画映画 animated cartoon〉である。その後もマッケーはアニメーションによる SF 映画,怪奇映画,文化映画などの実験を続け, 1918 年には動画枚数 2 万 5000 枚に及ぶ世界最初の長編《ルシタニア号の沈没》(ニュース,記録映画の代りともいうべき再現アニメーション) を作った。

[セル・アニメの誕生]

  1914 年に,アメリカでジョン・R.ブレイとアール・ハードが透明なセルロイド板に動画をかく〈セル・アニメ〉を考案し,これによって初めてアニメーションの技術が完成される。このセル・アニメの発明により,動画部分を静止した背景から切り離してかけるようになったため,流れ作業による分業が可能となり,アニメーション映画の飛躍的な発展の礎が築かれた。

【各国のアニメーション映画】

[アメリカ]

 初期のアメリカの漫画映画は新聞雑誌連盟 Newspaper Syndicates のスポンサーを得て発展した。 コミック・ストリップと呼ばれた新聞連載漫画のキャラクターが,サイレント時代の漫画映画の主流になったのもそのためであった。まずパット・サリバンの《フェリックス・ザ・キャット》 (1917‐22) がある。ほぼ同時期にジョン・ブレイの,世界初の色彩 (二色カラー) 漫画映画《ザ・デビュー・オブ・トーマス・キャット》 (1916) が作られている (この後,色彩漫画映画は 1930 年の《キング・オブ・ジャズ》のオープニングのウォルター・ランツによるアニメーションまで作られていない)。次いでフライシャー兄弟の《道化師ココ》 (1916‐29),ポール・テリーの《アルファルファじいさん》 (1921‐29) 等々が登場。こうして,スタートの時点で新聞漫画の映画化や漫画的キャラクターを主人公にしたシリーズが,笑いを好むアメリカの国民性に適合して, 20 年代には漫画映画は劇場の番組の一部として定着するようになった。セル・アニメの開発も早く,したがって企業化も早かった。その中でW.ディズニーは,アブ・アイクークスの協力を得て永遠のキャラクター, ミッキー・マウスを創造,その主演第 4 作《蒸気船ウィリー号》 (1928) が世界最初のトーキー・アニメとなった。ディズニーはまた,世界最初のテクニカラー (三色法) によるアニメーション《花と木》 (1932。クラシック音楽に合わせて自由奔放なアニメーションを展開した,有名な《シリー・シンフォニー》シリーズの 1 編) を,さらに 37 年には《シリー・シンフォニー》の 1 編《風車小屋のシンフォニー》で,最初のマルチプレーン・カメラを試用。背後を多層化した撮影台によって画面に奥行きを出すことに成功した。次いで世界最初の色彩長編漫画映画《白雪姫》(1937) を発表し,興行的にも大ヒットさせ,〈メリエスからチャップリンを含む映画的魔術の後継者〉とみなされ, 〈アメリカ国民の神話と夢の担い手〉といわれるまでになる。ディズニーの開発・完成した音楽,色彩,ギャグ,物語性などにその後のアニメーション作家の大半が追随することになるのだが,ディズニー以前から独自の道を歩いていたフライシャー兄弟のみが,ニューヨークのナイトクラブの人気歌手ヘレン・ケーンをモデルにした《ベティ・ブープ》(1932‐39), E.C.シガーの雑誌連載漫画の主人公である怪力の水夫《ポパイ》(1933‐42) といった強烈なキャラクターの漫画映画シリーズを作り,荒っぽくナンセンスな笑いを提供し続けた。しかし,2 本の長編漫画映画《ガリバー旅行記》 (1939), 《バッタ君町に行く》 (1941) および劇画 (コミック・ストリップ) の画調を生かした最初のアニメ《スーパーマン》 (1941‐42) を最後の輝きとして消えていった。質的には優れていた《バッタ君》の興行的失敗が直接の原因である。一方,ディズニーのほうは,さらに《シリー・シンフォニー》の集大成である空前の長編《ファンタジア》(1940) で世界最初のステレオ・サウンドを使用,音楽と動画の融合という壮大な野心作を完成する。

 第 2 次世界大戦が始まろうとする 1930 年代末から 40 年代にかけて,ウォルター・ランツ製作の《ウッディ・ウッドペッカー》(1940‐72),ウィリアム・ハンナとジョゼフ・バーベラ演出の《トムとジェリー》(1940‐58),ロバート・マッキンソン,チャック・ジョーンズ,フリッツ・フリーレングらの演出による〈ワーナー漫画〉の《バッグス・バニー》 (1938‐64), 《ロードランナー》 (1949‐68) 等々,ほのぼのとしたディズニー漫画とは打って変わって猛烈な暴力性,破壊性をもち込んだ短編アニメが隆盛を極め, 〈ハリウッド・カートゥーン・コメディ〉 (ドタバタ漫画) の黄金時代を迎えた。この傾向はついにディズニー作品 (《ドナルド・ダック》シリーズなど) さえもまき込んで 50 年代まで続く。

 ディズニー・プロに反旗をひるがえして独立したスティーブン・ボサストウ,ジョン・ハブリー,ロバート・キャノン,アーネスト・ピントフらが,彼らのプロダクションUPAを結成したのも第 2 次大戦中である。ディズニーが完成した〈フル・アニメ〉に対し,意識的に動画数を省略した〈リミテッド・アニメ〉と呼ばれる技法によるロバート・キャノンの《ジェラルド・マクボインボイン》 (1951‐56),グラフィック・アートの中に詩情を漂わせたジョン・ハブリーの《ムーンバード》 (1958) などの作品によって,従来のアニメとは異なる質のデッサンと動きを開発することに成功した。 UPA のグラフィックな手法は,《八十日間世界一周》や《悲しみよ今日は》等々数多くの映画のタイトル・バックのアニメーションで知られるソール・バスをはじめ,ロバート・ブリア,スタン・バンダービーク,カーメン・ダビーノらの仕事に受け継がれているが,その一方では〈動き〉を省略する技術だけが,高騰する人件費の節約のためにのみ安易にテレビ時代のアニメに引き継がれた。

 戦時中に隆盛を極めた暴力と破壊のギャグに満ち満ちた劇場用短編アニメは,狂気の極限ともいうべきテックス・アベリーの作品群 (《太りっこ競争》1947 など) を頂点とし,次いでフリッツ・フリーレングのパントマイム漫画《ピンク・パンサー》シリーズ (1964‐69) を最後に衰退していく。

  70 年代に入って,ラルフ・バクシがポルノと暴力というアクチュアルな要素をとり込んだ,おとな向けの《フリッツ・ザ・キャット》 (1972) や,登場人物のライブ・アクション (実写) をグラフィックに処理して,新しい映像効果をねらった〈ロートスコーピング技法〉による《指輪物語》 (1978) などで試行錯誤を重ねつつも長編アニメに挑戦している。

コメント   この記事についてブログを書く
« 児童文学 2 | トップ | アニメーション映画 2 »
最近の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

映画」カテゴリの最新記事

関連するみんなの記事