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異端カタリ派

もしあなた方がこの世から出たものであったら、この世はあなた方を自分のものとして愛したであろう。しかし、あなた方はこの世のものではない。かえって、私があなた方をこの世から選び出したのである。だからこの世はあなた方を憎むのである。
  - John 15:19(ヨハネによる福音書15章19節)

ロスチャイルドの代理人セシル・ローズ奨学金の初代受給者はテンプル騎士団のエリス・ロビンス卿であった。テンプル騎士団はキリストとの関連をよく真赤な十字で示した。パテ十字として知られるこの十字架は,白いチュニカ(外衣)に縫い付けられていた。これがスイスの赤十字のマークなのであろう。誰もこのことは言わないし言えないのです。

バルバロイ目次

ホカヘー! われに続け。今日は戦うには、いい日だ。今日は、死ぬには、いい日だ!

時近ければなり その30との関連記事です。異端カタリ派はだぶっていますが大切な内容なのでもう一度載せました。



シンボル・コードの秘密―西洋文明に隠された異端メッセージ (単行本のレビューから)


私たちが時折目にするシンボルの由来が分かる。蛇はバビロニアやシュメールの文化では、知恵もしくは聖なる知識という神からの授かりもの、あるいは霊知(グノーシス)の象徴からみあった蛇は古代シュメール文化におけるニンギジダ神の象徴ギリシアで神々の使者をつとめるヘルメスの杖に使われているへび

カルナック神殿の柱にはフルール・ド・リス(百合の花)?エジプトでは、アンクやホルスの眼 ギリシア語でキリストを意味するクリストス(Christos)の最初の2文字、X(Chi カイ)とP(rho ロー)を重ね合わせたもの ギリシア語の頭文字アルファとオメガが使われたもの「魚」を意味するイクテュス(Icthus)ギリシア語の「Iesous Christos Theou Huois Soter」(神の子にして救世主、イエス・キリスト)の頭文字を組み合わせたもの 鳩、フェニックス、孔雀、子羊、パン、ぶどうの木、などがキリスト教のシンボルとして使用されていたもの

2つの三角形を組み合わせた六芒星 テンプル騎士団のシンボル パテ十字(Croix Pattee)、ロレーヌの十字、八福の十字(ホスピタル騎士団と同じ形)、グノーシス主義的な意味をもつテンプル騎士団の十字は「円盤十字または天の十字(Croix Celeste)」、正方形のパテ十字(デザインのどこかに地球のテンプル騎士団の十字 La Croix Templietre Terrestre が含まれる)

アブラクサス(Abraxus)の紋章、三日月の紋章、海の星の紋章、フルール・ド・リスの紋章などは古代の知恵の伝統に結びついている花十字は百合紋章騎士団の記章



悪魔には問題があるが,神についても疑問はある

カタリ派とは?
小パウロ派とボゴミリ派
カタリ派の信仰
カタリ派の実践
アルビジョア十字軍
カタリ派とテンプル騎士団の共通点
カタリ派の消滅

まず翻訳をご覧頂く前に、カタリ派とは何か?という概略を知ってもらいたいと思いました。まずは、簡潔にして優れた、世界宗教大辞典から「カタリ派」の項を引用します。

無頼出版から

カタリは|カタリ派
中世ヨーロッパで一時有力だったキリスト教異端の一派。カタリ(Cathari)とは清浄派の意。極度に禁欲的な戒律を奉じたためにこの名が生じた。二神論を基本教義とする。アルビジョア派、パタリニ派、ブルガリ派、プブリカニ派等、地方と時期により多くの別称がある。最初12世紀半ばライン川沿いの諸都市及び低地帯で発見されたが、次第に南に広がり南フランスと北・中部イタリアに確固たる地位を築いた。そのため南フランスではアルビジョア十字軍の発進を、また異端審問制度の創設を必要とした。14世紀半ばに根絶される。
 善神と悪神、さらにそれぞれの属性や領域の対立を想定し、いっさいの物質的存在、現実世界そのものを悪神に属するとみる。人間観は、善神の天使(霊魂)が悪神に捕らえられ牢獄(肉体)に封入されている状態と考える点に特徴がある。教義の細部については彼らの間に相違があり、二神二世界の永劫の存在を想定する絶対派、善神の一天使が反逆して悪神となった、つまり悪は善からの派生物で有限であるとする穏和派の別があった。霊魂の輪廻転生説をとるのは絶対派のみである。ローマ教会を悪魔の教会として攻撃し、旧約聖書は悪の世界の創造者たる悪神の書として排撃した。十字の聖号は、キリストを殺害するという人類最大の罪の記念であるとして嫌った。独自の教団を組織してキリストの真の教会と称し、司教を戴いた。按手礼を受けて教会の信者となり戒律をまっとうするとき、霊魂は悪神の世界から解放されて天界に復帰できると信じた。肉食、殺生、生殖、婚姻、所有など、いっさいの世俗生活を否定し、しばしば断食して苛烈な苦行を実行した。家族、誓約、権力など、いっさいの社会関係も否定される。このような極度に悲観的否定的な教団に入信するものは比較的少数だったが、その周囲に彼らを尊信するものが多かったために社会的に大きな影響力を発揮したのである。同派は中世にあってはマニ教の復活ないし再流入と理解され、今に至るも異教か異端かの議論が行われている。10世紀から14世紀末までバルカン半島の存続した二神論異端ボゴミル派の強い影響下に西欧に発現したことは確実であり、カタリ教団の設立に当たってはボゴミル教団の指導を仰いでいるし、《ヨハネ問答録〈秘密の晩餐〉》や《イザヤ見神記》等の偽書も東方から受容されたのである。さらに先行する近東の二神論異端小パウロ派からの影響が混入していることも、十分に考えられる。しかし、これら先行異端とマニ教との連続は立証できない。カタリ派はやや独自の解釈を加える傾向はあるものの、新約聖書の章句に固執し、原始キリスト教団の生活を理想化してそのまま実践しようとする強烈な意志を示した。二神論教義も、立論の根拠は常に新約聖書であった。儀典や慣行の中にも、異教的要素は全く見いだされない。マニ教から、あるいはグノーシス諸派からの間接の影響が及んでいないとは言えないが、基本的にはキリスト教内の異端であった。  渡邊昌美
  - 世界宗教大辞典 pp.358-359

迫害の時代

小パウロ派とボゴミリ派

その宗派の起源は3,4世紀にまで遡ることができる。カタリ派の集団は、皇帝デキウス(在位249-251)によるキリスト教徒に対するひどい迫害(249-250)を背景にイタリア、フランス、イベリア半島、そして東方でも起こった。251年皇帝の死後、ローマの信徒たちの間で論争が起こった。迫害の間もその信仰を否定することを拒んできたある厳格なグループが、キプロス人に支持された皇帝コルネリウス(在位251-253)に反対するためにノバチアン地方(Novatian)の司祭を担ぎ出した。彼らは教会には免罪の「代理人」の資格はないと主張した。彼らはカタリ派を称し、それは清浄なる者を意味し、神の概念を発展させたが、正統派にとってみればとてつもない脅威であった。彼らは聖職者たちが人々に振りかざす免罪の力と権威に対して闘った。カタリ派の人々は代わりに、一人一人の心の奥で働く聖なる精霊(天使)の力を頼りにした。
  - Lynn Picknett & Clive Prince, Turin Shroud -In Whose Image? The Shocking Truth Unveiled (1994)

本来この、天使的な清浄を主張するのは、この世が完全に邪悪で、悪魔的であるということと関係していて、それは「カタリ」という語の語源を、推測で、おそらくギリシア語の「pure」から来たものだという、誤ったものにしてしまったのであろう。実際「カタリ」というのはドイツ語が語源であって、「清浄(purity)」とは意味的に何の関係もない。
  - Emmanuel Le Roy Ladurie Montaillou, The Promised Land of Error

ヨーロッパで組織されたカタリ派は5世紀中頃に突然消えてしまった。しかしモンタノス主義の黙示録派によって支えられた東方のノバチアン地方のカタリ派は続いていた。アウグスディヌスが28人の異端者を確認した、混乱していた時期に、グノーシス派とマニ教は教会を広く組織し、カタリ派は地下へと潜った。
  - Lynn Picknett & Clive Prince, Turin Shroud - In Whose Image? The Shocking Truth Unveiled (1994)

アルメニアのローマ・カトリック教会は数世紀に渡り残酷な迫害と、数度の組織的な壊滅の試みを受けた。そして危険な異端、特に小パウロ派とトンドラキットと戦わなくてはいけなかった。これら小パウロ派はギボンの書「The History of the Decline and Fall of the Roman Empire(1776-88)」の中で特に顕著なように、早期キリスト教グノーシス派とマニ教の中世における後継者であった。小パウロ派の信仰は、彼らの敵を攻撃し破壊すること、聖パウロを真の唯一の使徒として支持すること、旧約聖書の否定、世界の創造は天使と新約聖書の神との闘いによって行われたとの主張、である。彼らは強い偶像破壊思想を持っていて、像を破壊し、可能ならば十字架さえも破壊した。
  - Burney and Lang, The Peoples of the Hills

しかし小パウロ派の問題は、それが正確に定まったものではなかったこと、歴史家の意見としてはマニ教とマルキオン派がアルメニアで混ざり合い組織されたとされている。そこはビザンティンの一部となり、7世紀には確かにコンスタンティンという名前へ繋がっていった。なぜならキリスト教信仰の基礎となる聖パウロの使徒書簡の古い形を新しいものにし、布教する努力によるものであり、その支持者が小パウロ派を自称した。ビザンティン皇帝コンスタンティン5世Copronymus(741-775)はいくらかの小パウロ派をアルメニアからトラキアに移住させ、それから再び別のグループが同じ地方に皇帝レオ4世Hazarski(775-780)によって移住させられた。小パウロ派の布教活動はすぐにトラキアからバルカン半島中に広がり、最初はマケドニア、ブルガリア、ギリシャといった近隣諸国に広がった。
  - Dragan Tashkovski, Bogomilism in Macedonia (Macedonian Review Editions,1975)

起源830年から、小パウロ派のアルメニア人分派の活動はトンドラックと呼ばれた村が中心であった。トンドラキットという名はこれに由来する。彼らは、聖職者と一緒になって彼らを迫害、抑圧してきたアルメニア人豪族たちの封建的な特権に対して闘った。トンドラキットは現代のソビエト歴史家たちからは現代の共産主義の原型として受け入れられていた。彼らの教義の手引きを紹介したパンフレットが1898年「The Key of Truth」のタイトルで出版された。小パウロ派はバルカン半島でのボゴミリ派の発展に大きく影響し、特にブルガリアにいたアルメニア移民には重要であった。
  - Burney and Lang, The Peoples of the Hills

 トラキラ人と、ボゴミル派。トラキア人には、新生児のために涙を流す習慣があった。また、ボゴミル派の人びとは、神を無罪たらしめるために、<創造>という汚辱に充ちた仕事をサタンのせいにした。このことも久しく脳裡を去らない。
  - 生誕の厄災, E. M. シオラン

9世紀アルメニアでは、コンスタンチノプールの皇帝が異教徒に対する死罪の勅令を出したのに伴い、山の多い辺境の地にはグノーシス派を始め様々な信仰を持つ異教徒が避難してきた。これら追放者の中にはいわゆる小パウロ派もいて、マニ教-グノーシス主義が混ざり合ったものを起源とする戦闘的な宗派もあった。しかし皇帝からの政治的支配から逃れたことでその信仰は忠実であった。(小パウロ派は)872年の戦いにおいて敗れ、いくらかはバルカン半島に追放された。
  - Tobias Churton, The Gnostics

小パオロ派は、バティラクスの合戦(八七二年)で徹底的に撃破され、クリソケイル(注:小パオロ派の将軍)自身もここで討ち死にした。バシレイオス1世は、この勝利を利用して組織的な虐殺を始めたりはしなかった。それどころか、多くの信徒を自軍に編入し、その他の者も大勢バルカン半島に移住させ、その地で説得した結果、大多数を改宗させるのに成功した模様である。ともあれ、こうしてバルカン半島に二神論の種子が持ち込まれたのである。
  - フェルナン・ニール, 渡邉昌美 訳 『異端カタリ派』(白水社)

10世紀になって初めてブルガリアにおけるボゴミル派の教会(の存在)を聞くことができるようになった。「ボゴミル」というのはブルガリア語で「beloved of God」または「God have mercy!」という祈りを意味する、もしくは(ボゴミールと号した)開祖の名に由来するとされる。彼らの信仰はグノーシス派のそれと同じ特徴を持っていて、世界の創造は神によって行われたものではない、というものだ。
  - Tobias Churton, The Gnostics

マニの教えの中の本質的なものが10世紀、ブルガリアの僧ボゴミルの教えの中で復活した。彼もまた地上の全てのものは邪悪で汚らわしいものだとした。ボゴミルは地上世界を神の長子であり、キリストの兄弟である悪魔の所産と考えた。
  - Cosmic Duality

ボゴミル運動はペルシアのゾロアスター教のような「絶対二元論」として始まり、2つの究極原理としての悪魔と神を説いた。後にはやや穏健なもの(「穏和二元論」)、世界の創造は神の長子である悪魔の謀反によると見なした二元論へと形を変えた。
  - Harold O.J. Brown, Heresies

悪魔だけではなく、実体を持たない父なる神には息子、キリストや大天使ミカエルもいた。悪魔は地上の人間をつくったが、しかし彼の命もまた父からのものであった。キリストは悪魔と戦い征服するために、外見を人間の姿にとった。
  - John Ferguson, An Illustrated Encyclopaedia of Mysticism and the Mystery Religions

...ボゴミル派の人々は悪魔によってつくられた(この地上と)神の霊的な世界は全く違うものだと考えていた。キリストが地上へ顕現したこと、そして磔にあったこともボゴミル派は単なる幻想だとした。ブルガリアの(ボゴミル派の)信者たちは、聖母マリアは実際にキリストを生んだわけではないが、しかし彼[キリスト]は彼女の右耳から体の中に入り、それから再び、幻の如く体の外へ出てきたのだと、説いた。ボゴミル派によれば、十字架の上でキリストは殺され、それは悪魔の仕業によるものである、という理由で、(彼らは十字架を)罵った。婚姻、生殖はさらなる物質を生み出すことになるだけという理由で、否定された。この観点に従えば、肉食、ワイン、教会、そして教会におけるいかなる形のヒエラルキーも否定された。ボゴミル派は洗礼のサクラメントと聖体の中のキリストの存在を否定した。彼ら信心深い信者がその信仰を表すことができるのは、通常の主への祈りの時だけであった。
  - Cosmic Duality

12世紀はじめになると、ボゴミル派の宣教師たちはドナウ川に沿って東に移動し始めた。おそらくコンスタンチノプールでのボゴミル派に対する迫害の結果であろう。残された唯一のミステリーは、このボゴミル派の宣教師たちが、実際に、ラングドック(Languedoc)におけるカタリ派の創始者となったかだ。[Languedocというのはプロバンス語のlangue d'oc(オックの言葉)から来ていて、ラテン語とともにカタリ派の儀礼で用いられていた。]
  - Tobias Churton, The Gnostics

おそらくボゴミル派や、カタリ派の異説的二元論傾向の影響を受けて、キリストの伝説の外典(例えばThe Wood of the Cross, Gospel of Nicodemus, How Christ Became a Priest, Adam and Eve, and Interrogatio Iohannis)などが東、西、両ヨーロッパに広がったのだろう。彼らは常に世界の共同創造者である悪魔の役割について、そしてその堕落は邪悪な世界が存在することによると強調した。(創造における)伝説において悪魔は主要な役割を演じ、その悪魔の活動は、通常善神の創造するエネルギーを消耗させて(それを)不活動にする。
  - Encyclopaedia Britannica

カタリ派

(1)信仰

マニ教信徒はアテキーヌ(Aquitaine)に現れ、人々を道に惑わした。彼らは洗礼、十字架、全ての正統的教義を否定した。彼らは修道士のように肉食をしなかった。彼らはあえて独身でいたが、彼らは思いのまま楽しく暮らした。彼らはアンチキリストの使者であり、信仰から踏み迷った原因となった。
  - Adh駑ar of Chabannes(c. 1018)

カタリ派はマニ教の予言者マニに言及することはなかったが、特徴は共通するものがあった。マニ教は自身を新しい啓示を受けた代表者と考えたが、彼ら[カタリ派]はそうではなく、自分たちを真の忠実なキリスト教徒と考えた。彼らの主な教義は新約聖書であり、特にヨハネの福音書(Gospel of John)と他の3つの福音書に注目していた。「Cathar」という単語はギリシア語の「katharos」から来ていて、意味は「清浄な、汚染されていない」という意味です。
  - Tobias Churton, The Gnostics

カタリ派は自身をキリスト教徒と称し、その教義は聖書に基づいていた。彼らの教義、行動、キリスト教としての教義を身につけ、歴史家が今でも議論しているように、時が経つにつれてますますキリスト教的性格を帯びてきた。しかし彼らはキリスト教と根本で異なっていた。彼らはひとつではなく、二つの神を信じていた。つまり、全ての生命や教えは二元的過程から創造されたという、圧倒的重要性を前提にしていた。ひとつは非物質世界の善であり、もうひとつは物質世界の悪である。魂は(地上世界に)落ち、捕らえられ、身体という悪の神の牢屋に閉じ込められてしまった。全物質的身体(肉体)の中に魂は捕らえられている、そこからの救済は肉から逃れることである。生殖や、その生産品、例えば肉、牛乳、卵の消費は、悪の世界がしたことであり、善を熱望する人々は避けるべきことである。
  - R. I. Moore, The Birth of Popular Heresy

カタリ派は生まれ変わり(魂の再生)を信じ、罪人に対する永遠なる断罪を否定していた。魂は人間の体の中で何回も寿命を送らされ、救済を待つ。カタリ派の教えではこの世の肉体は邪悪なものであるから、したがって神は肉体を持った人間にはなれない。そこでカタリ派は、キリストは神ではなく、神の使者であり、外見だけ人間の形を取ったと考えた。カトリック教会がサクラメントの際神への祈りを水、パン、ワインなどの物質を通して行うことを取り上げ、カタリ派はそれらを神への冒涜であるとした。婚姻も強く否定された。それは子供を生むことになり、悪の物質的肉体の中に魂が捕らえられることになるからだ。
  - Searching For A Cathar Feminism, 1100-1300

カタリ派は洗礼、十字架のシンボル、個人の懺悔、全ての宗教的装飾品を拒絶した。教会の役割はシンプルであり、どこにでも教会を開けた。それらは福音書を読み、簡単な説教をし、祝福、主の祈りから成っていた。カタリ派は典礼に関して基本に戻り、単純化したが、後に現れるプロテスタントを先んじていたわけだ。
  - Ancient Wisdom and Secret Sects

そして彼[悪魔(Satan)]は彼に奉仕させるために人間をつくることを考えた。彼は地球の土(石灰)をとり、彼に似せて人をつくった。それから第二天の天使たちに命じてその土の身体に入ることを命令した。そして彼は他の部分をとって女性というもうひとつの身体をつくり、それから第一天の天使にそれに入るように命令した。天使たちは、自分たちが形の決まった、死ぬべき運命を避けられない入れ物に包まれたことを知って大いに泣いた。
  - The Cathar Les Questions de Jean

その作品を作った作者はどのように悪魔が男と女に原罪を与えるために楽園をつくったのかを物語り続けた。彼[悪魔]は悪意に満ちた目的を持って天使の魂を囚われの身にした。コンソラメントウム(consolamentum, 救慰礼)とはカタリ派に悪魔の物質的拘束から効果的に逃れ、神の精霊、聖なる精霊に結合する力を与えるものであり、儀式が行われるまではいわば眠っている状態であり、(その後)キリストの愛による解放に加えられることができる。受礼者たちはいま、真理の中で神を「父」と呼ぶことができるようになった。
  - Gerard Zucherro, Rosamonda

魂がこのさまよい続ける霊魂輪廻から逃れる唯一の方法はカタリ派的に「完徳者」であり「善良なるキリスト教徒」である身体に留まることである。
  - Lynn Picknett & Clive Prince, Turin Shroud - In Whose Image? The Shocking Truth Unveiled(1994)

彼ら[カタリ派]は、悪魔は彼[悪魔]に仕える天使たちを連れて天国へ行き、大天使ミカエルと善神に使える天使たちと戦い、彼[善神]に仕える者の内1/3を奪っていったと考えた。それから彼[悪魔]はそれら[天使の魂]を人間や、動物の身体に閉じ込め、(魂は)天国に戻ることができるまで身体から身体へ移ることになった。よって彼らはこれらの神に仕える者たちを、彼ら自身がそう考えているように、「神の人々」とか「魂」とか「イスラエルの羊」などそんなふうな名前で呼んだ。
彼ら[カタリ派]は神の息子[キリスト]に聖処女マリアから生まれたという、人間性を考えなかった。そして彼[キリスト]は天使であって、外見だけ(そう)であった。彼ら[カタリ派]は彼[キリスト]は本当には食べたり飲んだり、処刑されて死んで、埋葬・復活はなかったとした。全ては外見だけがそうであって、我々がルカの書で読めるように息子ジョセフ(と考えられている)となった。彼らは全てのキリストによる奇跡をそのように説明した。
アブラハム、イサカル、ヤコブ、モーゼ、全ての古代の神、そしてバプテスマのヨハネもまた神の敵であり、悪魔の召使いであると考えた。ヨブ記(the books of Job)、詩篇(Psalms)、Solomon、Wisdom、伝道(Ecclesiastes)、イザヤ書(Isaiah)、エレミア書(Jeremiah)、エゼキル書(Ezekiel)、ダニエル書(Daniel)、十二使徒のみ堕落前のエルサレム(彼らはそこを天国と考えていた)で書かれ、それ以外の旧約聖書の全ては悪魔によって書かれたとした。
彼ら[カタリ派]は最後の審判は既に下され、それはもう二度と行われることはなく、したがってこの世に終わりは来ない、他でもないこの世界がすでに地獄なのであって、永遠の炎、永遠の罰を受けているのだと説いた。
  - Raineir Sacchoni(1250)

...カタリ派にとってのある重要なシンボルはハトであった。当時それらは、今日私たちが考えるように、「平和」を意味していた。もっと正確にもっと微妙な概念でいえば神の愛の中に「恩寵」が存在することを意味していた。第一回十字軍(1096-99)が行われた後、ゴドフロワ・ド・ブイヨン(Godfroi de Bouillon,第一回十字軍の指揮者)の仲間の中にいたヨーロッパカタリ派がイスラム神秘主義のスーフィー教徒と連絡を取った。ハトのシンボルはイスラム神秘主義のバラカと図像的につながることになり、同様「恩寵」もしくは「恩寵の船」になれることを意味した。いくつかの例では、カタリ派のハトは羽をいっぱいに伸ばした形で描写されているが、スーフィーの書の中のバラカにも船の形にした似たものがあり、ハトの羽と船のオールは逃走と、魂の自由を表現している。
  - Michale Bradley, Holy Grail Across the Atlantic

旧約聖書の中の創造についての説明では、神の魂は原始の海の上を鳥のように浮かび、羽を打って動き、流動体の中に神の息を吹き込み、そこから世界は作られた。(Genesis 1:2)プリニウスが語ると、その有名な息(spiritus)は子宮のようなものの中でゆらゆらと変動しながら宇宙を生み出す。洗礼の際、精霊がキリストの頭上で羽ばたくのを描写したイメージと似ている。(Matthew 3:16)
  - John M. Allegro, The Sacred Mushroom and the Cross

(2)実践

ボゴミリ派及びカタリ派は初期マルキオン主義やマニ教の二元論者とは、少なくとも通常の信仰において、性に関する認識に関しての教えは異なっていた。ほとんどの年老いた二元論者たちは厳格な禁欲を求めた。例えば、肉食の禁止、他の動物的な食物の禁止、ワインの禁止、そしてセックスの禁止。婚姻に関してはいくつかの理由から反対されていた。それは肉体に基づいていて、性欲とも関連している。加えて言えば、結婚は子供を生むことになる、それは新たに魂を肉体の支配の下に置き、罪悪の原因となる。なぜなら通常のヘテロなセックスは子供を産むことになる、それは認められない。そしてその場所では様々な違った形を持ったセックスが促進される。"bugger"という卑語は堕落したブルガリア人を意味していて、その名前はバルカン半島が故郷である、西ボゴミルの人に与えられた。しかし中世マニ教徒は信者がわがままに、信仰に従わない暮らしを送ることを認めていた。全てのカタリ派は死ぬ前にコンソラメントウム(救慰礼)を受けることになっていたし、そうすれば安らかに死ぬことができたのである。
  - Harold O.J. Brown, Heresies

カタリ派は子供を産むことは罪悪と考えていたが、それ以上にセックスに関しては反対していた。無関係な物質世界における行いと信仰を繋ぐことで、全ての肉体にある罪は死ぬ前に行われるコンソラメントウムによって消されるであろう。カタリ派の社会は事実上正統的宗教に見られるようなセックスに関する制限をなくしてしまった。興味深いことにプロバンスの人口は急速に増え、それがカタリ派の拡大につながったと言うことを付け加えて記しておく。
  - Searching For A Cathar Feminism, 1100-1300

通常の信者(帰依者)は死期が近づくまではコンソラメントウムの儀式を受けることはなかった。その取り決めはふつうの信者にとっては厳格なものではなく、死期が近づいたときに行えば良かったので、かなり楽しい生活を送ることを許すものであったのである。しかし(ふつうの信者がコンソラメントウムの儀式を受けて契約し)異端者となったならば全ては変わる。一度儀式を済ませたら(1300年代後期カタリ派の頃までは)エンドゥラ(endura,耐忍)の状態、絶対的で自殺的な断食をしなくてはいけなかった。その瞬間から、逃げてはいけなかったが、しかし彼らの魂を救うことは確実であった。女性や、肉に触れることは死ぬまでできなかったが、しかし自然の為すことであり、エンドゥラの結果であった。
  - Emmanuel Le Roy Ladurie, Montaillou, The Promised Land of Error

Brune Pourcelが15年か17年前の復活祭の夕方に話してくれたことなんだけれど、Guillaume Belotとその息子Raymond BenetとRixende JuliaがNa Roquaを家に連れてきたそうだ。彼女はほとんど死にそうで、すでに受礼を済ませていた。そして彼らは私に向かってこう言った。「彼女に飲み物や、食べ物を与えないでくれ。絶対にだぞ!」
その夜はRixende JuliaとAlazais Pellisseirと私が寝ないでNa Roquaと一緒にいた。私たちは彼女に「何か話してくれ、何か言ってくれ」と言い続けた。しかし彼女は口を開かなかった。私は彼女にソルトポークのスープを飲ませようとしたが、彼女は口を開けなかった。私たちが何か飲ませようとしてもかたく唇は閉ざしたままであった。彼女は二日二晩生き三日目の朝死んだ。彼女が死につつあるとき二羽のフクロウが私の家の屋根にとまっていた。フクロウが鳴いているのを私は聞いたが、彼らは私にこう言ったんだ。「悪魔がNa Roquaの魂をいまさらっていったんだ」って。
  - Brune Pourcel of Montaillou, as recorded in the Inquisition Register of Jacques Fournier
   (Bishop of Pamiers in Ari鑒e in the Comte' de Foix from 1318 to 1325)

第一の異端:婚姻。実際にこの語について言及する人の中には、婚姻を非難・弾糾する人がいて、死ぬまで結婚生活を続けた人には永遠の地獄が約束されていた。
第二の異端:肉食の禁止。
第三の異端:肉の生産。なぜなら全ての肉は悪魔によって作られるから。
第四の異端:子供の洗礼。彼らは子供には洗礼を受けさせる意味がないとした。なぜならそれは自分の意志で洗礼を受けたものではなく、したがってそれはどんな形であれ、信仰の告白ではない。
第五の異端:洗礼の水。彼らの宗派に加わるには秘密の方法による再洗礼が必要であった。火と精霊による洗礼である。
第六の異端:死者の魂。彼らは死者の魂は死んでからすぐに永遠の幸福か、永遠の地獄へ行くと信じていた。彼らは一般的な教会の見解、今回の生涯で十分に償えなかった罪は、選ばれ、それを見つけられ、贖罪を受けなければならないというのを否定していた。
第七の異端:ミサの軽視。彼らは教会が行っている無意味なミサの儀式を軽蔑した。
第八の異端:神の身体と血。彼らはキリストの身体と血は聖変化(コンセクレーション)によって作られるはずがなく、また聖体拝領を通して受け取ることもないと信じた。
第九の異端:救世主の人間的な属性。彼(正式なメンバー)は私に救世主に対する信仰の間違いを話してくれた。彼[キリスト]は本当は処女マリアから生まれたのでも、人間の肉体を持っていたのでもなく、ある種の肉体を装ったものであった。死から甦ったのではなく、死を装っていて、そして復活した。
第十の異端:人間の魂。彼らは言う、人間の魂は反逆し、世界の創造の際に追放されたものである。人間の肉体の中の魂は善行によって救済されるべきであるが、しかしこの教団に所属していなくてはいけない。
  - Eckbert of Schau(1163)

カタリ派には二つの分類があった。一般信者は帰依者(credents, believers)と呼ばれた。彼らは完徳者(perfecti, bonhommes)と呼ばれるカタリ派教会の上位者のような厳格な節制のきまりには従わなくても良かった。
  - Ancient Wisdom and Secret Sects

カタリ派でもカトリックでも全ての結婚した女性は(夫からの)暴力が待っていた。求婚に関しても男性が主導権を握っていたし、後には暴力の権利も主張した。Guillemette Clergueの目の周りのあざは、そんな夫からの行為(暴力)を示すものであった。いくつかの事故と病気でGuillemetteは目を悪くした。そして治療しに旅にでた。その途中で完徳者Prades Tavernierに出会った。彼は彼女が殴られたのだろうと思って、後にはJacques Fournierに対する彼女の証人となった。Guillemetteは夫の虐待から死の恐怖を感じたので、Tavernierの分派と良い関係を続けた。
しかし女性たちはは完徳者たちには受け入れられ、広く女性たちにカタリ派を引きつけるものとなった。完徳者はカタリ派の司祭として信者とともに田舎をまわった。女性と男性は一緒に改宗者を得るため、信仰を維持するために働いた。完徳者は女性にカトリック教会では決して得ることのできなかった高い地位を与えた。
  - Searching For A Cathar Feminism, 1100-1300

男性でも女性でも誰でも完徳者に加わることを強く望む者は少なくとも2年間は続く試練を通過しなくてはならなかった。その期間は、彼または彼女は全ての俗世のものから離れ他の完徳者と一緒に暮らさなければならなかった。肉やワインの飲食も絶たなければならなかった。肉からの誘惑を避けるために、新入りは別性との接触は否定され、裸で寝ることも許可されない。
  - Ancient Wisdom and Secret Sects

頭に手を置き(按手)行われるコンソラメントウムという儀式を通して、カタリ派信者は完徳者のクラスまで上れる。儀式はこれまでの罪を無にするだけではなく、人生が続く間それをカタリ派に保証する。
  - Searching For A Cathar Feminism, 1100-1300

彼らはその頭に手を置くこと(按手)をコンソラメントウムと呼ぶ、霊的な洗礼、聖なる魂の洗礼である。それらの同意なくしては永遠の罪は許されることなく、聖なる魂は何者にも授けられることはない。しかしアルバニアのそれはほかのと異なっていた。彼らの方法は手は関与しなかった。(なぜならそれらも悪魔によって作られたと考えていたから。)そして神の言葉を口にするだけで、その儀式は誰によって行われても有効であった。
  - Ranier Sacchoni(1250)

大きな集団になると帰依者や、信者は生活に何の制限も受けてはいなかった。全ての休暇には従った。正統的キリスト教と違って、カタリ派は食事・飲酒に関しては何の制限も課されていなかった。最も重要なことは性的なことに関する掟はほとんどなかった。ただ一つカタリ派の重要な義務は正統派の教会(カトリック)に対する忠誠・信仰を放棄し、死ぬ前にコンソラメントウムの儀式を受けるだけであった。
  - Searching For A Cathar Feminism, 1100-1300

Catholics, Heretics and Heresy, by Gilles C. H. Nullens...セクション 1.2「カタリ派の信仰」によると、彼はカタリ派の4つの現存する文書についてふれている。

1. ラテン語の写本『The Book of the Two principles』 1230年にカタリ派Jean de Lugioによって書かれたものの翻訳。
2. 1939年にプラハで見つかったラテン語の翻訳。13世紀はじめにラングドックで書かれた。著者はParfait Barthelemyであろう。
3.Latin Ritual of Florence
4.Occitan Ritual of Lyon
  - Dennis Stallings

アルビジョア十字軍(croisade des albigeois)

またこの王の時代(フリップ2世、位1180~1223)に、マニ教の影響をうけ、南フランスの諸侯に保護された異端のアルビジョワ派(カタリ派)の討伐が進められ、彼らは13世紀のルイ9世のときに根絶された。
  - 詳説世界史(山川出版社)

ローマの聖職者たちはカタリ派の聖職者である完徳者に比べてひどく堕落していた。実際サン・ベルナール(Saint Bernard)が1145年ラングドックにこれら異端者を説教しに旅にでたとき、彼はこんな印象を受けた。彼らの説教はキリスト教徒のよりキリスト教的であったし、彼らの信仰は純粋であった。
  - Michale Bradly, Holy Grail Across the Atlantic

カトリック教会は異端カタリ派の拡大と闘った。まず初めにカタリ派の信者を(正統の)キリスト教会に戻すためにシトー修道会のクレールヴォー院長(Clairvaux)サン・ベルナールを先頭に説教のため急派した。修道士はほとんど会話することもできなかったし、異端からの反抗にもあってベルナールは落胆してしまった。彼の努力はトゥールーズの街頭で聴衆の叫び声にのまれただけであった。
  - Ancient Wisdom and Secret Sects

1179年には11回目の全キリスト教側の会議がラテラノで行われたが、そのとき法王アレクサンデル(Alexander)3世はカタリ派とその教えを支持・保護する全ての人に向けた呪詛を宣言した。全ての忠実な(カトリックの)信者たちにこの「ペスト」に反対することを熱心に要求し、それらに対して武力の行使も辞さない構えだった。カタリ派を殺害したものは誰でも2年間の悔悛の免除と、十字軍として教会の保護が得られた。
  - Lynn Picknett & Clive Prince, Turin Shroud - In Whose Image? The Shocking Truth Unveiled(1994)

8月5日、四人の男と一人の女が街(ケルン)の外に連れ出され、焼き殺された。女だけは、人々の情けによってもし仲間の運命を見て恐怖し、良いアドバイス(改宗)を受け入れるのならば助かるところであったが、しかし彼女は彼女を縛っているものを自分で切り裂き、自ら火の中に身を投げ入れ死んだと言うことだ。
  - Eckbert of Schau(1163)

男たちは決起し我々の助けとなれ、そして彼ら自身がこれら残忍な獣からの城壁となれ。夫と父は決起せよ。国の王子と人民のリーダーは決起せよ。これらの卑しい動物を追い払い、せめて子ギツネと戦え。
  - Henry of Clairvaux

アルビジョア十字軍は本来的にマニ教的二元論に対しての十字軍であった。1209年、三万の騎、歩兵からなる軍隊が北ヨーロッパから南フランスのピレネー山脈北東山麓の山の多い地方-ラングドックを嵐のように急襲した。その戦いで全ての地域は破壊され、作物は破壊され、街や都市は跡形もなく破壊され、全住民が虐殺された。この絶滅は広い範囲で、大変凄まじいものだったので、近代ヨーロッパ史上初の「ジェノサイド(大量虐殺)」であったとされている。ベジエの街ひとつを取り上げても、少なく見積もっても一万五千人の男、女、子供が無差別な虐殺にあった。それらはほとんど教会という聖域の中で行われた。(住民は教会へ逃げ込んでいた。)
  - Baigent, Leigh & Licoln, The Holy Blood and the Holy Grail

テンプル騎士団もまた法王のカタリ派壊滅の命をうけた。騎士団は直ちにそれに応じ、1209年フランスのアルビとトゥールーズの街を焼き払った。
  - Sebastian H. Lukasik, "Death of a Kingdom: The Battle of Hattin", Command Magazine, Issue 44, Aug. 1997

1209年、ベジエ攻略の際、兵士が法王の代理人(シトー院長)に異端とカトリックの見分け方を尋ねたときの答えはこうであった:

すべてを殺せ。神は神のものを知りたまう。
  - Papal legate Arnaud-Amalric (法王の使節 アルノー・カーリック)

おそらく最後の完徳者たちは、1244年3月12日抵抗をやめ自発的に要塞の外へと出ていった。そして火刑台(Champ des Cr駑ats)の上で焼かれ死んだ。彼らの最も好んだ聖ヨハネの手紙に救いを見いだしながら。
  - Lynn Picknett & Clive Prince, Turin Shroud - In Whose Image? The Shocking Truth Unveiled(1994)

兄弟よ、もしこの世があなた方を憎んでも、驚くことなかれ。
  - 1 John 3:13

教皇インノケンティウス(位1198~1216)の時に、彼の命令ではなかったのだけれども、悪名高い第4回十字軍が聖地回復のためコンスタンチノプールを占領した。
  - Harold O.J. Brown, Heresies

我々はあなた(キリスト)の中に助言を持っている。
我々は太古からあなたの信仰を忘れない。
我々は崇拝が失われたせいで、堕落したことを忘れない。
この悲しみに満ちた日々に慈悲の心がありますことを。
目の前で罪が繰り返されるのを見ることができるし、一方では世界から罪のないものが失われていく噂を数え切れないほど耳にするようになった。
我々が正しく理解できるように導いて下さい。この疑いのかけらにかかわらず、我々の価値と、これらを正しく知ることを。この人間にとって悲しみの時に、確かに人間がこの破壊を防ぐことに貢献できますように。
  - Beginning of commemoration of the Cathar Martyrs fallen at Montsegur (March 16, 1244)

カタリ派とテンプル騎士団の共通点

カタリ派とテンプル騎士団は、どちらも聖杯の所有者と言われていた。
カタリ派とテンプル騎士団は、ともに異端審問所において、秘蹟の正当性を否定し、十字架を否定し、ホモセクシャルを行っていたと告発された。
異端審問官ベルナール・ギュイは、トゥールーズでカタリ派を、パリではテンプル騎士団員を拷問にかけた。
どちらもキリスト教会とは独自の儀式を行っていた。
テンプル騎士団員は、アルビジョア十字軍に加わるのを拒否した。
テンプル騎士団はカタリ派の領域で、勢力を誇った。
カタリ派とテンプル騎士団は、どちらも1100-1300年に隆盛し、衰退していった。
カタリ派およびテンプル騎士団は、ユダヤ人やアラブ人、東方の異教と接触を持っていた。

-Ean Begg, The Cult of the Black Virgin

カタリ派の消滅

なお1307年頃ベジエに、また1318年にはカペスタンに、それぞれ異端若干名のいたことが知られている。その翌年にはトゥールーズで、審問判決が行われている。1320年、多数の異端がピレネーのスペイン側斜面に隠れていた。1321年から1335年までの間にも、まだ異端のかどによる判決が幾度か宣告されてはいるが、次第にその数は減ってきている。14世紀末頃になると、ラングドックの異端審問はもはや事実上活動していない。異端がいなくなったのである。
 カタリ派は、実際に消滅したのであろうか。これはしばしば出される問いである。往時のカタリ派の末裔が今日なお存在するかどうか、知りたがる人は多いが、私には、いると思えない。よしんばいたにしても、13世紀の先祖たちとは何の連続もないのである。オード県やアリエージュ県の特定の農民たちの間で、そう自称するものがあると聞き込むことはあっても、いずれも不確かなことに変わりはないし、本格的な調査をすると霧散霧消してしまう。カタリ派は異端審問の攻撃に耐えることができず、それ以後は思想史上の問題となったのである。ただ、それが復活再生する力を持っていないという証拠とは、どこにもないであろう。
  - フェルナン・ニール, 渡邉昌美 訳 『異端カタリ派』(白水社)


全てが終わったのか?イタリアでは何が起こった?

残された尋問の記録はとても少ないので、私たちは多くを知らない。確かなのは、イタリアのカタリ派は少なくとも15世紀までは微かに生き残っていた。当時の信者たちはボスニアへ行き、必死に完徳者を探すことを試みていた。オクシタニアの視点では、14世紀初頭の粛正以降、イタリアは十分な数の信者を維持するだけの避難所とはなりえなくなっていた。新しい信者を獲得できなくなってからは、小さな教会の種は弱まり、そして消えていった。そして、こうして教会が消え、教会なくして信仰も失われた。そしてとりわけ、信仰なくして教会はない。そして当然、一番の信者であっても、自分自身を完徳者と称することもできない。

オクシタニアやイタリアでカタリ派が消滅した後も、ボスニアのカタリ派は存続し続けたのか?

ボスニアは貴族が支配し、王は古い時代のキリスト教を広め、それはとてもカタリ派の教義と近いものであった。13世紀末以降、ボスニアにはフランシスコ会の宣教師たちがやってきて、セルビア正教を布教したが、いかなる迫害も起こらなかった。ボスニアでは2世紀の間、カタリ派が主要な宗教であった。中世の終わりにトルコの侵略を受け、ボスニアはイスラム教徒の土地となった。
  - Anne Brenon and Jean-Philippe de Tonnac, Cathares La contre-enquete
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