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山口組三代目

朝鮮進駐軍

https://blog.goo.ne.jp/0345525onodera/e/0d7f6b5db00049bfdb24b7c6366330ce

画面をクリックすると音声が聞けます。右のリンクも参照

https://www.dailymotion.com/video/x14ovxy

10 年前
ねずさんの ひとりごと より一部転載しました。
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-748.html

「在日のタブー、朝鮮進駐軍」

※「朝鮮進駐軍(ちょうせんしんちゅうぐん)」とは。

在日朝鮮人は日本と戦争をした事実は無いにもかかわらず、終戦と同時に「朝鮮進駐軍」を自称し、日本各地において婦女暴行、暴行、略奪、警察署の襲撃、土地・建物の不法占拠、鉄道の不法乗車等、横暴の限りを尽くした。

●終戦後 「朝鮮進駐軍」武装部隊が首相官邸襲撃●
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「朝鮮進駐軍」部隊2000人による「首相官邸襲撃事件」が1946年起きた。

約2000人 の在日朝鮮人「朝鮮進駐軍」部隊が完全武装して首相官邸に突入。
日本の警官隊は当時武器の所持は禁じられていため、米軍憲兵隊に応援を頼んだ。
そこで米軍憲兵隊と「朝鮮進駐軍」との間で大銃撃戦闘へと発展した。

戦後の在日朝鮮人は、なんの国際法上の地位もないにも関わらず、勝手に自分たちを「戦勝国民である朝鮮進駐軍」であると詐称し、三万人もの武装集団となって全国主要都市に出現し暴れまくった。

在日朝鮮人集団は、武装解除された日本軍の武器と軍服を盗用して武装し、勝手に「朝鮮進駐軍」と名乗り、無差別に多くの日本人市民を殺害した。
GHQの 記録に残っているだけでも四千人以上の殺害記録が残されている。

戦後の治安が整っていない空白を良いことに、「朝鮮進駐軍」と名乗った在日朝鮮人は、土地の不法略奪、金品略奪、強姦、銀行襲撃、殺略、警察襲撃など暴れ放題の限りを尽くした。

「朝鮮進駐軍」と名乗る暴徒たちは、個々に部隊名を名乗り、各地で縄張りを作り暴れた。
これら「朝鮮進駐軍」 元締め組織が「朝鮮総連」、ヤクザなどになっていった。

国有地も、都心駅前一等地周辺も、軒並み不法占拠した。そしてそのまま、パチ ンコ屋、飲み屋、風俗店等々が出現し、そのまま彼らの土地として登記され現在に至っている。

農家、農協倉庫を襲い、貨車を襲撃、商店街、国の食料倉庫も襲い、食料や商品を根こそぎ 奪って行き、それらは全て戦後の闇市で売りさばき、暴利で財を成したのは彼らであった。

財を成したのは彼らは分派し、政治組織として社会主義、共産主義組織へと発展し、政界にも進んだ。

「朝鮮進駐軍」と名乗る在日朝鮮人暴徒たちは、通りすがりの市民に言いがかりをつけ集団暴行をはたらく。無銭飲食は当たり前、白昼に目に付いた婦女子を路上で集団強姦するなどを、日常茶飯事に繰り返した。

在日朝鮮人は「朝鮮進駐軍」部隊と名乗り、武装して、町をのし歩いた。
彼らは闇市を掌握して巨大な利益をあげ、徒党を組んでは瓦礫と焦土の神戸の街を闊歩した。

腰には拳銃をさげ、白い包帯を巻きつけた鉄パイプの凶器を振り回しては、手当たり次第に日本人を殺傷、暴行し、略奪の限りを尽くした。

通りすがりの通行人の目つきが気に入らぬといっては難くせをつけ、無銭飲食をし、白昼の路上で婦女子にいたずらをした。

善良な市民は恐怖のドン底に叩き込まれた。

こうした不良分子は旧日本軍の陸海軍の飛行服を好んで身につけていた。
袖に腕章をつけ、半長靴をはき、純白の絹のマフラーを首にまきつけ、肩で風を切って街をのし歩いた。

警官が駆けつけても手も足もでない。
終戦後の警官が、一切の銃器の所持が許されていなかったのをよいことにして、

「おれたちは戦勝国民だ。敗戦国の日本人がなにをいうか」

と、丸腰警官を殴り、ド突き回し、警備用の木刀や飾りのサーベルをヘシ曲げた。

戦後当時の「朝鮮進駐軍」は今日の朝鮮総連本部である。
 
ニーベルンゲンの指輪 その5
 
 

ニーベルンゲンの指輪 その5

 

        代   紋   

わたしは山口組三代目を襲名して以来20余年,若い者からいまだかつてコーヒー一杯,うどん一杯ごちそうになったこともない。それがわたしの矜持である。物や金をもらって,目下の者に頭のあがらぬみっともない真似だけはしたくはないのだ。.........これまで,わたしは終戦直後の闇市を横行する暴れ者や,港湾における共産党勢力と真剣に闘ってきた。警察もそれを後押ししてくれた。それなのに,世の中が落ちついたから「もうやくざはいらん。やくざを潰せ」というのは,あまりに身勝手ではないか。

 落ちてなお色のかわらぬ椿かな

 わたしが尊敬しつづけている,故岩永仁雄大阪大学名誉教授の作である。
          田岡一雄自伝第三部 仁義篇より抜粋

 『憂きことの尚 この上につもれかし 限りある身の力ためさむ

 この主人の座右の銘を心の支えとして,将来なお試練多きことと思いますが,主人の陰より微力をつくし悔いなき人生に有終の美を飾りたいと,心中深く期しております。(妻・フミ子の手記より)

 昭和56年7月23日,父田岡一雄が幽明境を異にした。68歳だった。永照院仁徳一道義範大居士.......これが新しい名である。「任侠」という道を一筋に貫いた人であった。任侠精神を礎に父は国を愛し,人を愛した人だった。(長男 田岡満)

 『ポツダム宣言受諾の放送に,賭場は悲痛な虚無状態に襲われた。みんな無言であった。重苦しい絶望がのしかかってくる。のっそりと一人が帰り始めると,各自も家路を辿っていく。だれを誘うでもない。みんな黙々と賭場から姿を消していく。だれもいなくなった賭場は,散乱した花札だけがわびしい。<.......日本は負けたんや> 厳然とした事実に,わたしも放心していた。自分の体が地底の奥深くへ引き込まれていくような,あるいは鉄板で頭を抑えつけられたような,漠然とした不安があった。

 その日のうちに神戸は修羅場と変貌した。敗戦の報に茫然自失する市民とは対照的に,これまで過酷な労働で軍部から抑圧されてきた朝鮮人,中国人たちの一部は欣喜雀躍し,略奪,報復の火蓋を切ったのである。
 その日の午後七時。徒党を組んだ一団は国鉄駅構内の貨車を襲って配給物を強奪。これを皮切りに市内随所で襲撃・略奪事件が起こり,一般市民の不安も高まった。

 終戦当時,国内には強制連行された人を含めて朝鮮人,中国人が200万人以上いたが,とくに兵庫に多く,昭和18年の時点でも13万5千人,全体の7パーセント強を占め,大阪,東京につぐ3位という数であった。終戦直後の神戸の闇市は,国鉄三宮駅高架下で一個5円の饅頭が中国人の手で売り出されたのが始まりといわれている。一個5円といえば,当時の米一升の公定価格と同じ値段である。だが,飢えた市民はこれを争って買った。
 これをきっかけに彼らを主とする闇市が三宮,新開地,大正筋,長田など神戸市内に17ヶ所もひらかれ,20年10月には国鉄三宮の高架から神戸駅北東に至るまで,えんえん二キロにおよぶ日本一の長い闇市が生まれていた(神戸市『神戸市史』第3集)。

 闇市に出回った物資の大半は軍の隠匿物資といわれた。そこにはなんでもあった。一日わずか二合一勺(330グラム)の配給米さえ欠乏するという深刻な食料難で餓死者が続出し,市民はあらゆるものを物を金に替え,争って闇市で高い食料を求めた。当時,サラリーマンの月収は5,6百円。これに対して闇値は公定価格の3,40倍で,翌年夏には150倍を超えるものもザラ(読売新聞社刊『神戸開港百年』)であり『朝日年鑑』の昭和22年版によれば,大阪の闇値は中程度でさえも白米一升(1.4キロ)80円,麦40円,メリケン粉一貫目(3.75キロ),砂糖一斤(600グラム)150円と記録されている。彼らは闇市を掌握して巨大な利益をあげ,徒党を組んでは瓦礫と焦土の神戸の街を闊歩していた。

 通りすがりの通行人の目つきが気に入らぬといっては難くせをつけ,無銭飲食をし,白昼の路上で見境なく集団で婦女子にいたずらする。善良な市民は恐怖のどん底に叩き込まれた。こうした不良分子は旧日本軍の陸海空の飛行服を好んで見につけていた。袖に腕章をつけ,半長靴をはき,純白の絹のマフラーを首に巻きつけ,肩で風を切って街をのし歩いた。腰には拳銃をさげ,白い包帯を巻きつけた鉄パイプをひっさげた彼らの略奪,暴行には目に余るものがあった。

 警官が駆けつけても手も足もでない。「おれたちは戦勝国民だ。敗戦国の日本人がなにをいうか」警官は小突きまわされ,サーベルはへし曲げられ,街は暴漢の跳梁に無警察状態だ。さらにこれに加えて一部の悪質な米兵の乱行も目にあまった。戦時中,神戸市内には脇浜小学校はじめ六ヶ所の捕虜収容所があったが,解放されたその捕虜たちの一部は民家に侵入して拳銃をつきつけ,泣き叫ぶ婦女子を襲った。白昼強盗も横行した。9月25日,米軍第6軍33師団,17000人が神戸へ進駐してくると治安はさらに悪化し,制しにはいる警官は袋叩きにあう。終戦直後の神戸は,まさに酸鼻をきわめる地獄絵図だった。


 白昼横行する婦女暴行

 彼らの暴虐を見聞するごとに,わたしは怒りにふるえていた。彼らを制止し,阻止するものは一人としていないのだ。警察は無力化し,やくざは手をこまねいて目をそらす。いったい,だれが街を自衛すればいいのだ。
 昭和20年8月末,わたしは所用の帰途,女の悲鳴を聞いた。人通りもすくない東山病院の裏手である。白熱の太陽がきなくさい焼跡に照付けていた。

 一瞬,ぎくりと立ち止まり,悲鳴のあがる方角へ走った。途中で,4,5歳の女の子が泣きながら夢中で駆け寄ってきた。「どないしたんや」「おかあちゃんが,おかあちゃんが」少女はわたしに泣きじゃくりながらしがみつく。
 この世のものとは思えぬ女の悲鳴がきこえつづけていた。「ここにいるんやで,ええな」 わたしは少女をその場において一目散に走った。少女の母親は木立のなかで数人の男に犯されていた。飛行服姿の男達だった。彼らは不敵な薄ら笑いで女の手足をおさえつけ,一人がその上に乗っている。女はひたすら絶叫していた。<----汚ねえ.......>
 うめくと,わたしは遮二無二彼らに突進していった。得物を捜す余裕はない。あるのは彼らへの憎悪だけだ。彼らがはっと身構えたときわたしは一人の男をけりあげ,女の上に乗っていた男の襟髪ををつかんで引きずりおろし,男の目の中に五本の指を突き刺していた。17のときおぼえたあの必殺技が,無意識にでていたのだ。

 バラケツ(注:参照)どもを震撼させたこの必殺技は,あまりに危険すぎてめったにはつかわなかったのだが,わたしは無我夢中でこの技をふるっていた。男の両眼からはポタポタと鮮血がしたたり,男は視力を失ってのたうちまわる。つぎの男も首を小脇にはさんで締めつけておいて,容赦なく指を突き立て,眼球を抉りだす。「ぎゃーっ」 獣じみた悲鳴をあげて,男の顔面はみるみる血だるまとなっていった。残る男らは恐怖に顔面を醜く歪ませ,拳銃も鉄パイプもその場に置きざりにしたまま夢中で逃げ出していた。女はぼろぎれのように仰向けになったまま放心していた。「しっかりするんや,おい,わかるか」 抱き起こして揺り動かしても,うつろに瞳孔をひらいたまま,突然,けたたましい笑いをあげる。山の手の,良家の人妻であろう,美貌であった。引きちぎられたモンペと,哄笑が無残であった。<---許せん。これはぜったいに許せんのや>............置きざりにしていった拳銃をわたしは懐にねじこんだ。ずっしり重い,その拳銃の感触が,闘志を奮い立たせた。
(山口組三代目田岡一雄自伝・第一部電撃篇より)

 注:バラケツというのは,硬派の不良学生をさす神戸特有の言葉で語源は”ばらける””ほどける”ということで崩れた人間を指す。

 管理人注:田岡さんは書かれていませんが田岡さん自身も在日で自伝には力道山などとのスナップが出てきますが力道山も在日です。在日=悪という一般的な解釈を愚かな日本人は持っていますが関東大震災時日本人が彼らに何をしたのか。考えれば日本人のほうが元は悪いのです。古い拙稿の下のほうにインドのカーストの最下層に位置する不可触民「プーラン・デヴィ」を書きましたが終戦直後の在日といわれている人の多くは白丁(ペクチョン)と言われる人たちで実は気の毒な人たちなのです。「ヨツ」とも言われ屠殺場の食肉処理業者は殆どがペクチョンなのです。ムンバイにあるスラムの身分よりも低い不可触民はちょうどペクチョンと重なって見えます。在日と言われている人は自尊心が強く人生の矜持をしっかりと持っている人も多いのですが戦後のどさくさで日本人になりすましたり駅前の一等地を不法に取得したりしたのはペクチョンが多かったのではないかと思います。戦前から日本に住んでいた彼らは日本人に石を投げられながらリヤカーを引き鉄くずを収拾したりぼろ布を再生したりしていましたがある日突然駅前の一等地を手に入れたわけです。ある意味で彼らの生き方は称賛に値するでしょう。生命力が強いのです。自殺?彼らは絶対にしませんよ。

朝鮮半島で白丁が受けた身分差別は、以下のようなものである(Wikiより)

1. 族譜を持つことの禁止。
2. 屠畜、食肉商、皮革業、骨細工、柳細工以外の職業に就くことの禁止。
3. 常民との通婚の禁止。
4. 日当たりのいい場所や高地に住むことの禁止。
5. 瓦屋根を持つ家に住むことの禁止。
6. 文字を知ること、学校へ行くことの禁止。
7. 他の身分の者に敬語以外の言葉を使うことの禁止。
8. 名前に仁、義、禮、智、信、忠、君の字を使うことの禁止。
9. 姓を持つことの禁止。
10. 公共の場に出入りすることの禁止。
11. 葬式で棺桶を使うことの禁止。
12. 結婚式で桶を使うことの禁止。
13. 墓を常民より高い場所や日当たりのいい場所に作ることの禁止。
14. 墓碑を建てることの禁止。
15. 一般民の前で胸を張って歩くことの禁止。

 戦後まもなく田岡一雄を慕って舎弟になり二次団体を組織した柳川組の柳川次郎さん(本名は梁 元錫 ヤン ウォンソク)は山口組七人衆の切り込み隊長として全国の極道を震撼させたことで知られますが,その後組を解散し今までの自分を反省し「かたぎ」になった柳川さんは日本のプロ野球の発展のために貢献したことはあまり知られていません。葬儀には王監督も駆けつけたそうです。

 関東大震災時ひょんなことで朝鮮人が虐殺されたとき朝鮮人をころすなら俺を殺せ言って300人を保護した警察署長がいた。こういう行動を任侠用語で「男を見せる」という。

 『関東大震災当時、流言飛語により激昂した一部暴民が鶴見にすむ朝鮮人を虐殺しようとする危機に際し、当時鶴見警察署長故大川常吉氏は、死を賭してその非を強く戒め、三〇〇余名の生命を救護したことは誠に美徳である故、私たちはここに故人の冥福を祈り、その徳を永久に讃揚する。』
       一九五三年三月二一日 
           在日朝鮮統一民主戦線鶴見委員会


 命のビザで知られる杉原千畝さんも男を見せ外務省を首になった。男はこうあるべき。

 大正12年の朝鮮人の暴動を伝える読売新聞。当時戦後の闇市以上に震災の混乱に乗じ婦女暴行などの暴挙を伝えている。上の本はそういう事実があったので殺されるのが当然という内容。しかし,日本人の子どもにまで石を投げられたら日本人なんて敵と思うのは当たり前。話は変わりますが野球評論家の張本さんは現役時代公式戦の最中『朝鮮人!』と観客からやじられ『なに~』とむきになったそうです。日本人と言われて怒る人がいないように自分がそうならあたりまえじゃあないですか。つまりみな朝鮮の人は劣等感をもっているということですがこれが争いの根源でしょう。映画監督の崔洋一という人がいます。小さい頃同じように朝鮮人と言われて泣きながら父親に話したところ,『あたりまえじゃないか,お前は朝鮮人だから』と言われ立ち直ったと本人がテレビで言っていました。

書評】『関東大震災「朝鮮人虐殺」の真実』工藤美代子著 (1/2ページ)
2009.12.20 08:33
このニュースのトピックス:テロ
「関東大震災朝鮮人虐殺の真実」「関東大震災朝鮮人虐殺の真実」

 ■まるで良質のミステリー

 関東大震災の時に流言蜚語(ひご)に惑わされた日本人自警団が何の罪もない多数の朝鮮人を虐殺した-。

 多くの日本人はこの事件にある種の後ろめたさを感じ、きちんと検証してみようとしなかった。

 大震災から86年、工藤さんが初めてこの困難な作業に挑んだ。

 まず、当時の日韓関係の中で朝鮮人のテロ、日本人襲撃が決して根拠のない流言蜚語ではなかったことを多くの資料・新聞記事から立証。

 工藤さんは〈朝鮮人による襲撃があったから、殺傷事件が起きた〉〈テロリストの襲撃から家族や町内を守るのは正義といっていい〉と断定している。

 当初は朝鮮人による襲撃事件を報じていた新聞がなぜ途中から事実を隠蔽(いんぺい)するようになったのか。それが、この本の大きなテーマに繋(つな)がっていく。まるで良質のミステリーを読むような面白さだ。

 圧巻は虐殺された朝鮮人の数を検証する部分。当時、吉野作造は2613人と書き、上海に亡命した大韓民国臨時政府の機関紙「独立新聞」は6419人と書いた。


今回の取材中、工藤さんはロンドンのナショナル・アーカイブス(管理人注:ロンドン郊外地下鉄KEW GARDENの近くにある国立公文書館)で朝鮮独立運動派が諸外国の外交官にばら撒(ま)いた謀略宣伝用小冊子を発見した。

そこに書かれた数字はなんと2万3059人。

それでは当時東京に何人の朝鮮人がいたのか。政府統計によると

東京に約9千人。近県に約3千人なのである(全国で約8万人)。

そして、警察署などに保護された朝鮮人は6797人。

この数字だけからでも虐殺されたとされる朝鮮人の数がいかに根拠のないものかわかろう。先に挙げた謀略宣伝用小冊子は虐殺の模様をこんなふうに書いている。

<彼ら(日本人自警団や民衆)は朝鮮人を電柱に縛りつけ、眼球をくり貫(ママ)いて鼻をそぎ、腹を切り裂いて腸が飛び出るままにした(以下略)〉

どこかで読んだような記述ではないか。

ぼくが今年読んだノンフィクションのベスト1だ。(産経新聞出版

・1890円) 評・花田紀凱(かずよし)

(『WiLL』編集長)


やくざとテキヤの違いとは

パチンコ業界には警察幹部の天下りが多く睨みをきかせているのだろうか。こういう青い血をもった人間どもは任侠の世界と対極にある『鼻つまみ者』なのです。

日本人でよかっただと?


 在日のタブー

 在日帰化の人々 

 拙稿:タックスペイヤーズマネーで相続税,贈与税のない国のことなどを書きましたが今のまま無能な政治家が富裕層をターゲットに税を取り立ててくることはほぼ間違いのないことでマヤ暦の終わる時期が過ぎましたら対策を実行する段階に来ています。
 相続税は毎年約2.4兆円位でしょうか,しかし,廃止すれば経済乗数効果はその10倍はあるのです。スイスなどは豊かだから相続税がないのではなく相続税をなくしたから豊かな国になったのです。食料品にまで消費税をかけ今後さらに.........。全てが対米従属でバランス感覚がなく温もりさえない国からは早く脱出した方がいいでしょう。海外に永住なんかしなくても小さな会社(例えば自分の資産管理会社などの有限会社)を現地に起こして自らは住所を転籍すればいいのです。勿論ワークパーミットは必要です。税金から言えばタイが最適でしょうか。10年ほどアジアで商売をした結果分かったのは海外に転籍すれば所得税は日本ではゼロです。日本で個人が毎年100億円の収入のある場合でもゼロです。タイに転籍した場合頭を使えばいいだけのこと。租税条約もありますからね日本が持っている米国債の金利収入だけで日本は所得税などない世界一豊かな国になることだって今すぐにでも出来るのですよ。それを隠しているだけの話です。


平成14年か納税者番号制度を導入しいわゆる1200兆円の老人が持つ資産のあぶり出しがはじまるということ。すでに長いゼロ金利であぶり出しさらに追い討ちをかけようというもの。この納税者番号制度は金の出入りがすべて一円たりともわかってしまう。ちなみにタイでは小さな賄賂は生活の一部で「カー・ナムチャー」という。訳せば「潤滑油」という意味。銀行の通帳あるでしょ,タイでは出入金に名前はでない。一応法治国家ですけど日本の社会では受け入れられないような人も結構いますから(日本人に限らず)仕組みを知らないと難儀です。タイで社長をして地獄を何回も見た人が身近にいれば相談してみることです。単なる社員では駄目です。何も知りませんからね。タイ語はアルタイ語でそのへんてこりんな文字さえ覚えればあとは助詞がありませんから単語の羅列のみです。三ヶ月くらいで覚えられるでしょう。一例を挙げましょうか.....

ナーム・マー プラー・キン・モット ナーム・ロット モット・キン・プラー(単語のみでは水・来る・魚・食べる・蟻 水・乾く・蟻・食べる・魚

雨季には魚が蟻を食べ,乾季には蟻が魚を食べる........簡単でしょ。


 しかしながら植民地支配の鉄則は『生かさず殺さず』にあります。そうすれば奴隷みたいに働きますからね。これからは変化に機敏に対応し行動することです。そうでないと本当に奴隷になってしまいますよ。戦後フェミニズムが仕掛けられ奥さんからお子使いをもらっているような輩はいつの日か思い知らされたときにはじめて自分の愚かさが分かるのかもしれない。財布が空っぽになり給料日の25日にATMの前で長蛇の列で待っているような奥さんはあたかも当然のように金を引き出すのです。何の感謝もしないで。挙句の果ては居酒屋で「今度うちの女房に子使いあげてもらう交渉をする」とか部下におのろけを言っているような人はさっさと中央線に飛び込みなさい,と言いたくなる。あんたなんか男じゃないのよ。宦官だってばさ。フランスでもアメリカでも金の管理は男がやっているのです。50歳でリストラされ奥さんに預金残高を聞いたところゼロ。奥さんの隠し口座ってあるんですよ。結局会社と結婚したわけで亭主が職を失えばすぐ離婚。退職金と家をとられてご本人はホームレスになんてざらにありますよね。日本の男は極楽トンボなんでしょう。結婚すればセックスはただ。でも女はその回数をちゃんと数えているのです。

 へミングウエイは「日はまた昇る」でこう言っている。「女というのはいつ請求書を出そうか,そればかり考えている」と


 参考資料;

租税条約の締結

わが国は、一九六一年までに、米国をはじめとしてスウェーデン、パキスタン、ノールウェー、デンマーク、インド、シンガポールの各国との間に二重課税防止条約を締結したが、その後一九六三年七月末までに、さらにオーストリア、ニュー・ジーランド、英国およびタイとの間の租税条約が発効し、合計一一カ国との間に租税条約を有することとなった(マラヤ連邦との間の条約も近く効力を発出させる手続がとられる見込みである)。

このような二重課税防止条約は、同一の所得に対して、所得が発生する国と所得が帰属する個人または法人の本国が異なる場合は、それぞれの国の税法が重複して適用されることとなるので、このような二重課税を回避することを主な目的として締結されるものであるが、あわせて、税制の面を通じて相互間の通商関係、経済協力および文化交流の促進を図るために租税の免除または軽減の措置を定めたものである。なお、このようにあらゆる所得を対象とした一般的条約が締結されていない国との間でも、国際海運または国際航空運輸の事業の安定した発展を助長する手段として、相手国の事業者の自国における所得を相互主義に基づいて免除する制度が国際運輸業を有する主要国で行なわれており、わが国は一九六二年「外国人等の国際運輸業に係る所得に対する相互主義による所得税等の非課税に関する法律」が制定され(従来は大正六年の法律に基づいて海運に関して相互免税の制度があり、新法に引きつがれている)、現在この法律に基づいて諸外国との間にこのような取極を締結する交渉が行なわれている。

以下、租税関係諸条約(取極)の一九六二年当初以降の締結状況を掲げると、つぎのとおりである。

1 日本・オーストリア間の二重課税防止条約(一九六一年十一月二十日ウィーンで署名、一九六三年四月四日東京で批准書交換、同日効力発生)

2 日本・ニュー・ジーランド間の二重課税防止条約(一九六三年一月三十日ウェリントンで署名、一九六三年四月十九日東京で批准書交換、同日効力発生)

3 日本・英国間の二重課税防止条約(一九六二年九月四日東京で署名、一九六三年四月二十三日ロンドンで批准書交換、同日効力発生)

4 日本・フランス間の海運航空運輸業の所得税相互免除に関する取極(一九六二年十二月二十一日パリで交換公文、一九六三年四月二十四日効力発生)

5 日本・タイ間の二重課税防止条約(一九六三年三月一日バンコックで署名、一九六三年七月二十四日バンコックで両国の承認の通告、同日効力発生)

なお、つぎの条約は既に署名が行なわれたが、いまだ効力は発生していない。

日本・マラヤ連邦間の二重課税防止条約(一九六三年六月四日、クアラ・ランプールで署名)
 
 
やくざの8割が同和。やくざの意味を知らない方は清水の次郎長時代の森の石松がいつも花札で893のぶたまんを出していたことから始まりました。ホントかウソか知りませんがね
 
森の石松画像
 
 
 
 

関東大震災時、朝鮮人300人の命救う 大川鶴見署長の偉業伝える

2010年9月1日

大川署長の顕彰碑の前で、児童らに震災の話をする後藤さん(中)=鶴見区で

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 関東大震災時、流言により各地で朝鮮人が殺害される中、鶴見署内に朝鮮人約三百人を保護し、命を救った故大川常吉署長。八十七年前の事実を後世に伝え、外国人への差別をなくそうと、横浜市鶴見区の郷土史研究家らが三十一日、署長の顕彰碑がある東漸寺(同区潮田町)で、地元の児童ら約六十人に震災当時の話を聞かせた。 (水野健太)

 話をしたのは「鶴見歴史の会」相談役の林正己さん(82)と、在日韓国・朝鮮人児童を支援している「ヨコハマ ハギハッキョ」実行委員の後藤周さん(62)の二人。

 林さんは、一九二三(大正十二)年九月一日の震災後、「朝鮮人が井戸水に毒を入れた」といううわさが流れ、パニックになった民衆が、焼け出された朝鮮人約三百人を保護していた同署に押し掛けた。その際、大川署長は民衆に向かって「朝鮮人を殺すなら自分を殺せ」と立ちはだかったとされるエピソードを紹介した。

 後藤さんは「顕彰碑は、国籍や民族が違っても、協力して地震に立ち向かうことの重要性を教えてくれている」などと語り、「虐殺の悲劇を繰り返してはいけない」と締めくくった。

 話を聞いた同区の市立潮田小学校六年の小泉直人君(12)は「自分が殺されたかもしれない状況の中で、多くの人を守った大川さんの勇気はすごい」。同小六年の小名野克貴君(12)は「大川さんのことを周りの人に伝えていきたい」と話した。

 

 

 

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