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ダンテ神曲ものがたり その17

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1-27
古代神話においてゲーリュオーンGerïon,Geryon,Geryonesは、三人の男の身体が腹で一つになっているスペインを統治した巨人で、「十二の功業(仕事)」【資料17-1参照】の中でヘーラクレースHerculesに殺された。地獄編のここでは、彼は詐欺師(ペテン師)の具現化であり、その顔(「だれか正直者の顔」10行)はその有毒の尾(「ちょうどサソリの毒針のように」27行)が一撃するのに十分長く犠牲者を欺くのである。ゲーリュオーンのこの三者一体の本性は、ダンテがここで彼を紹介しているように、聖書(『ヨハネの黙示録』Ⅸ,7-11【資料17-2参照】)とプリニウスPliny(『博物誌』Ⅷ,30)から引用した部分の改作と修正である。その三つの本性のためにゲーリュオーンは「三位一体」の捻じ曲げperversions of the Trinityである他のダンテ的怪物に並んで位置を占めているのである。
 私たちは、ベルギリウスの合図により[「この不思議な合図に答えるように」第16章117行]、ゲーリュオーン自身が欺かれていたことに注意すべきである。すなわち、この詐欺師の象徴が騙し取られていたのである[注解136行参照]。
 
 2-3. 全世界を悪臭に変えたその者:[『ヨエルの書』で告げられる「いなご」である。「いなご」はヘブライ語で「アルベ」(破壊するもの)である。『ヨエルの書』では、「その姿は、馬のようで、軍馬のように、つきすすむ。山々のいただきで、はねる車の、騒音のように、わらを焼いて、もえる火の、はねる音のように。戦いをととのえた、強い軍隊のように。それをみて、民は、ふるえ、顔は、色を失う。かれらは、勇士のように、攻め、兵士のように、城へきによじのぼる。それぞれ、自分の道をすすみ、その道で、さまたげあうことはない」(Ⅱ.4-7)とあり、主が(その「いなご」を)「私は、北からくるものを、あなたたちから遠ざけ、それを、荒れたみじめな地に、追いやり、その前衛を、東の海に、そのしんがりを、西の海に追おう。その臭みは、たちのぼり、悪臭を立てる。かれらははなはだしい悪を、おこなったからだ」と説明する(Ⅱ.20)]

15.唐草模様と渦巻きが描かれていました:[原文は”dipinti avea di nodi e di rotelle”で、”painted with knots and little wheels”(Durling)「渦巻きと小さな輪で描かれた」であるが、Musaは”were painted arabesques and curlicues2と訳し、”arabesque”を付け加えていて、次のテルツェットでの「複雑な」をより一層強調しようとしている。ここでは「唐草模様」と訳したが、”arabesque”には「奇抜な、風変わりな、幻想的な」の意味もある(”arabesque”はアラベスク風の唐草模様のことで、イスラム教では絵画や彫刻に偶像を取り入れることを禁じたために、植物などの幾何学的な図案が用いられた)]

16-17. トルコ人やタタール人でさえ決して作らなかった:このタタール人とトルコ人は「中世」において最高の織り手だとしばしば考えられた。彼等の高度な色使いと装飾を凝らした織り方は大変流行り大いに需要があった。

18. アラクネーによって紡がれた込み入った織布でもこのようではありませんでした:アラクネーは、伝説のリディアLydiaの[官能的な]乙女で、織物の技術に優れていたので、ある競技で智恵と芸術の女神ミネルバMinervaに挑戦した。ミネルバは、相手の布が完璧だったので烈火のごとく怒って、それをずたずたに裂いた。アラクネーが首吊り自殺したが、でもミネルバはその縄を外し、それを網にかえアラクネーをクモにしたのであった[オウィディウス『変身物語』巻6参照]。

21-22. またビーバーが:中世の動物寓話集によればビーバーは、水際の陸上にうずくまり、その尾を水中に垂らして魚を捕る。ゲーリュオーンがこれとよく似た仕種をしている【資料17-3参照】[ドイツ人というのは非常な大食漢であり大酒飲みだと言われている]。

26.有毒の肉叉:[「肉叉(にくさ)」という語は「肉のふたまた」という意味の造語である。夜叉(やしゃ)を連想願えれば幸いである]

31.右へと下り:第9章注解132行参照[なぜダンテとベルギリウスが、常に左へ旋回してきたのに、突然右へ立ち去ったのかはなぞが残るが、第9章に続いて二度目である。矢内原注:注釈者はその説明を考えているが、はっきりとはわからない。通説としているところは普通のコースの逆である──逆ということが欺瞞の印になっているのであるとする。真実に反対な、理性の正しい働き方に反対な事柄、正しい方に導くべき意思が逆さまの法に向いている、それが欺瞞である。ここで欺瞞という罪がいかに重いものであるか、いかに理性に対して真実に反したものであるか、いかに人間を滅ぼし自然と文化を滅ぼすものであるかを示すために、ここで右に行ったのだと説明しているのです。また「十歩」は少しだけと言う意味に取る人もあるし、欺瞞を暴露するモーセの十戒を象徴したと考える人もいる]。

35-36.何人かの人達が:この高利貸し達は、第11章で「自然を蔑(なみ)し、それ自身ないしはその弟子たる/技術を」蔑(さげす)む者として言い表されているが、第7連環の第3輪環での最後の一群である。ゲーリュオーンを紹介して、詩人ダンテは、次にこれらの罪人達に及ぶが、彼等は、深い裂け目のへりの本当に真際にうずくまっており、暴力の罪と詐欺師のそれとの間の場所を埋める(技巧を凝らした)連携の役目を果たしている。同様にゲーリュオーンは、それがこの瞬間には一部は第7連環に一部は第8連環に寄りかかっていて、この二つの罪に繋がっているのである。初期のダンテにおいては、(憤怒の川を横切る)「怒り」の罪に対する「不節制」から「暴力」への変遷をもたらしていた。すなわち、ここでは彼は「高利貸し」を通して「詐欺師」への変遷を果たしているのである。

42. その強き背中の貸し付けを頼もうぞ:[この「貸し付け」は、原文では”concedere”であり「譲る」であるが、Musaは"loan"と訳していて、「高利貸し」に対する言葉として、まことに妙である。普通に訳すと、Durlingのように"grant"(譲与する)である]

43. まったき一人で:[常に導者と共にいるのにここではまったく一人で巡礼者が歩くことになる。矢内原によると、高利貸しという罪に対してダンテが最も自由であったので、その群れへ危険なしに行けると考えられるし、相当経験を積んできたので、ベルギリウスがためしに一人で行かしたとも考えられる]

48.こちらで炎から、あちらで燃える砂から:男色者の手の動きを描写するのに用いられた同じような構文と比較せよ(第14章40-42行:一瞬の休息もなく律動ある/悲惨な手の舞踏(トレスカ)が続き、こちらで、あちらで、/生き生きと降らされた炎を払いのけていたのです)

55-56.それぞれの罪人の首には一つの小袋が吊り下げられ:この高利貸し達の同一性(ないしはむしろ親戚関係)は、彼等は首から吊り下げられたがま口に「自分達の目を喜ばしている」(57)のであるが、巡礼者に対してはその小袋ではっきり異なった紋章によって示されているのである。みたところ高利貸し達は、世俗的な財産への彼等の全面的な関心が彼等の個性を失わさせているために、顔の特質を通しては、見てそれと分からないのである。青いライオンの付いた黄色のがま口(59-60)はフィレンツェのジャンフィリアッツィGianfigliazzi家を示し、「バターよりももっと白いガチョウ」(62-63)をもったがま口は、これもまたフィレンツェのウブリアーキUbriachi家を示し、「青色の雌豚が、身ごもっているかのように」印された白いがま口は、パドゥアPaduaのスクロヴェーニScrovegni家を示している。

68-69.俺はおまえにいっておくが、おれの隣人のヴィタリアーノは:スクロヴェーニ家の一人によって「おれの隣人」として引き合いにされているヴィタリアーノVitalianoは、高利貸し仲間に所属するであろうが、パドゥア出身とは疑わしく、またこれ以上には何も明らかにされていない。

70.こいつらフィレンツェ人に囲まれて俺は坐っているが、パドゥア人だぜ:フィレンツェの退廃と物質主義に関するテーマは暴力の連環の最果てまで続く。

72-73.俺達に君主の騎士を遣わせろ:これは一般にはフィレンツェのベッキBecchi家の一人であるジョヴァンニ・ブイアモンテGiovanni Buiamonteであると思われている。彼は公務に着いていて1298年に「騎士」の称号を与えられた。彼の職業は、金貸し業で、一家をフィレンツェの富裕者の一人としたが、しかしながら、破産の後彼は貧しく落ちぶれたままに1310年に死んだ。

74. 最後の言葉だったが彼は舌を跳ねたのです:[原文は「この時口を歪めて彼は外に舌を引き出した」であるが、Musaは、"As final comment he stuck out his tongue"と訳している]

82.今より続けてわれらかような階段によって下るなり:巡礼者とベルギリウスは第8連環から第9連環へと巨人アンタイオスAntaeusの手助けにより下り(第31章130-45)、そしてコキュトスCocytusから煉獄へはルシフェルの脚をよじ登って行くのである(第34章70-87)。この「かような階段」の言い回しによって、ベルギリウスは、彼らがゲーリュオーンの背中に乗るという恐ろしい手段が、ある連環から次へ移る手段であると単純にほのめかしているのである。

106-108.もしパエトーンがもっと畏れたならばと私は疑う――その時:パエトーンPhaëthonは、アポローンApolloの息子だが、Epaphusによってアポローン(太陽神)は彼の父ではないと語られた。ある日のことこの少年が「太陽神」の子であることを立証するために「太陽の戦車」を駆ってもよいかとアポローンに頼んだ。その要求がかなえられたが、しかしパエトーンはその「戦車」を操作できないのに、その手綱を緩めた。その戦車は天空中広く疾走し、私たちが今日「天の川」と呼ぶ「一筋の空」を燃やして、「地球」にその惑星を燃やしてしまうほど近づく地点まで落ちていったのである。しかし、ユーピテルJupiter(ゼウス)が、「地球」の祈りを聞きつけて、雷電でその若き御者を殺害しその者に死を浴びせたのである。この物語はオビディウスOvidの「変身物語」Metamorphoes(Ⅱ,1-324)からダンテにはよく知られていた。

109-111.またもし可哀想なイーカロスがそうであったとしたら――彼の横腹が:イーカロスの父ダイダロスは、クレータ島から脱出するために、自分と息子のために翼をこしらえた。その羽がロウで繋げられていたために、ダイダロスは息子に太陽に近づきすぎて飛ばないように警告した。しかしイーカロスが、父の言葉を無視して、うんと高く飛んだ。そこで太陽がそのロウを溶かしてしまったので、彼はエーゲ海に飛び込んで死んだのである。
 このパエトーンとイーカロスの物語は誇りの戒めとして中世においてはしばしば使われて、ここでのように、「誇り」と「妬み」

が下地獄で懲らしめられている罪人達の根底にあるという理論をさらに支えているのである。

115-120. それはゆっくりと進んでいき、ゆっくりと泳ぎ:[この6行はダンテ一流の独白であが、詩人ダンテの独白ではない。113-14行で「あらゆる方向には何も見えずただ空のみ。わたしが坐るその獣のみがそこに有り」と述べ、117行で「上からの微風と下からの微風で知っているだけだ」と述べているように、ゲーリュオーンの背中しか見えない巡礼者ダンテがその空間の雰囲気を全身で感じ取ろうとした独白である。そして「ぞっとする音」を聞き、「首をねじり下を見る」と、そこは第8連環のおぞましい「うめき声を聞き炎を見た」のである]

136.それは弓のつるから放たれた矢のように勢いよく飛んだのでした:ゲーリュオーンのすばやい離陸(弓からの矢の放たれ)を言い表すこの隠喩的表現(メタファー)は、第8章(13-15行:どの弓弦もかつてこのようには早く/希薄な空気を切る矢を射らなかったように/わたしが瞬く間に見た小さな船は)でのプレギュアースの敏速な出現の言い回しに見られたものと同じである。敏速な動きをするプレギュアースの憤怒は明白に彼の言葉で測られていた。思うに我々は、無言のゲーリュオーンもまた怒りによって動かされていた(かつまたその間ずうっとすねていた)と推定すべきで、なぜなら彼は「理性」によって欺かれてきているのである。さらにいえば、ゲーリュオーンの降下の言い回しにおいて、その敵意に関する二つのしるしが見受けられるのである。彼自身の降下する動きに対応している鷹はその主人に対して怒りと軽蔑(132行)を示すものとしてなぞらえるし、またゲーリュオーンの着地する仕方(巡礼者と導者を「ぎざぎざに裂かれた絶壁の底に、ほとんど底につくまで」(134)運んでいく)は、不機嫌さのくだらない究極の態度を連想させているのある。
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