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聖書ものがたり・KingsⅠ・Ⅱ(列王記)




 ここのページはCHRONICLES(歴代誌・第一神殿時代史を含みます。

 何故、歴史書が二つあるか?―神殿と支配層(祭司とレビ人)の権威化

さて、問題は何故似たような歴史書が、列王記、歴代誌と二つあるのか。歴代誌の編集理由は、何なのでしょうか。

今までにみたように、付加部分からは、祭司特にレビの祭儀伝統の継承と重要性、ダビデ王とソロモン王による神殿の権威付け、神の超越性と神秘の強調、イスラエル民族精神の昂揚などが伺われます。

削除部分からは、ダビデ・ソロモン王と、祭司たちの不都合部分抹消と、北イスラエルの無視などがみられます。何れも、ダビデ王(民族的英雄である)による神殿と聖職者の神聖化と権威化、民族意識、愛国心の昂揚を目的として、列王記を削除・追加していることが判ります。


 歴代誌と列王記の違い

歴代誌21・1「サタンがイスラエルに対して立ち、イスラエルの人口を数えるようにダビデを誘った。」
列王記24・1b「主は、イスラエルとユダの人口を数えよ、とダビデを誘われた。」
とあり、歴代誌で初めて「サタン」が出現している。これは当時、ユダヤ教がペルシャのゾロアスター教の影響を受けていたことを物語るとされます。旧約には本来は、悪魔・サタンは存在しない。死後の復活観念もない。前2、3世紀ごろから入り始めた外国の思想。(江礼宮夫氏の見解)


 ソロモン王国

 王国の分裂と堕落

 北イスラエル王国の預言者たち

 南北両王国滅亡と捕囚

 なお拙稿の写真はイスラエル建国前の写真ですので最新版はここのHPをクリックしてください。

DAN

BEER-SHEBA

列王記と後に書く歴代誌は紀元前1000年から紀元前580年の物語である。列王記Ⅰ第11章41節には,ソロモンの他の事績,彼の行なったすべての事,彼の知恵は,『ソロモンの事績の書』に記されている。また,第15章7,31には,アビヤムの他の事績,彼の行なったすべての事は,『ユダの王の歴代誌』の中に記されている。そして,ナダブの他の事績,彼の行なったすべての事については,『イスラエルの王の歴代誌』に記されている,と。

 ソロモンの在世中,ユダとイスラエルの人々は,ダン(DAN)からベエル・シェバ(Beer-sheba)に至るまで,どこでもそれぞれ自分のぶとうの木の下,いちじくの木の下で安らかに暮らしていた。(列王記Ⅰ第5章5節)。(注:)英文のKing Jamesではこの部分は第4章25節になっている。

 ティルス(TYRE)の王ヒラムの墓のような記念碑のような?....と思われる。

 ティルス(TYRE)の王ヒラムとソロモン王に仕えた錬金術師のヒラムとは全くの別人ですので注意が必要。

 ソロモンはヒラムにその家のための食料として,小麦二万コルと純粋のオリーブ油20コルを提供した。(列王記Ⅰ第5章25節)(注:英文のKing Jamesでは5章11節)

Gorge of THE CHERITH(ケリト渓谷)。エリヤ(ELIJAH)が大カラスにエサを与えられた聖書的な場所として知られる。近くにはエルサレムからエリコに通じる旧道がある。.......主の言葉がエリヤに臨んだ。「ここを去り,東に向かい,ヨルダン川の東にあるケリトの川のほとりに身を隠せ。その水を飲むがよい。わたしはカラスに命じて,そこであなたを養わせる。」エリヤは主が言われたように直ちに行動し,ヨルダン川の東にあるケリトの川のほとりに行き,そこにとどまった。数羽のカラスが彼に,朝,パンと肉を,また夕べにも,パンと肉を運んできた。水はその河から飲んだ。しばらくたって,その川も涸れてしまった。雨がこの地方に降らなかったからだ。(列王記Ⅰ大17章2~7節)

カルメル山(Mt.Carmel)は乾季でも水の流れは絶えない。「(エリアによって)水は祭壇の周りに流れ出し,溝にも満ちた」(列王記Ⅰ第18章35節)。

ケリトの小川。(The Brook of Cherith)。しばらくたってその川も涸れてしまった。雨がこの地方に降らなかったからである。(列王記Ⅰ第17章7節)

洗濯の日は西洋より東洋のほうが面倒でない。乾季には太陽の元すぐに乾くからである。洗剤はオリーブオイルに灰汁もしくはアルカリ性のものを加える。「アッシリアの王は,ラキシュからタルカン,ラブ・サリスおよびラブ・シャケを大軍と共にヒゼキヤ王のいるエルサレムに遣わした。彼らはエルサレムに上って来て,布さらしの野に至る大通りに沿って上の貯水池から来る水路の傍らに立ち止まった。(列王記Ⅱ第18章17節)

 ヘゼキア(HEZEKIAH)は貯水池と水道を造った。1世紀の古代ユダヤ人歴史化ヨセフス(YOSEPHUS)によるとこれらの池はPool Amygdalonと呼ばれた。これらはシロアムトンネル工法による.......ヒゼキヤの他の事績,彼の功績のすべて,貯水池と水道を造って都に水を引いたことは,『ユダの王の歴代誌』に記されている。ヒゼキヤは先祖と共に眠りにつき,その子マセナがヒゼキヤに代わって王となった。(列王記Ⅱ第20章20~21節

 清らかな水は今でも流れる。この泉は壊滅した古代エリコ(Jericho)跡にあり(現在イスラエル西岸管理地区)Elisha's Fountain(エリシャの泉)と呼ばれている。......この町の人々はエリシャのところに来て,「ご覧のように,この町は住むには良いのですが,水が悪く,土地は不毛です。」と訴えた。彼は,『新しい器を持って来て,それに塩を入れなさい。」と命じた。人々が持って来ると,彼は水の源に出かけていって塩を投げ込み,「主はこう言われる。『わたしはこの水を清めた。もはやここから死も不毛も起こらない』と言った。エリシャの告げた言葉の通り,水は清くなって今日に至っている。(列王記Ⅱ第2章19~22節)

 民は皆,彼の後に従って上り,笛を吹き,大いに喜び祝い,その声で地は裂けた。(列王記Ⅰ第1章40節)

 ここにあの人の善いシュネム(SHUNAMMITE)の人が住んでいてエリシャもよく訪れた。「見よ,あのシュネムの婦人だ。すぐ走って行って彼女を迎え,『お変わりありませんか,ご主人はお変わりありませんか,お子さんはお変わりありませんか』と挨拶しなさい。」(列王記Ⅱ第4章25~26節)

全イスラエルの水より良い水?ダマスコ川のあるアバナ(ABANA)。......アラムの王の軍司令官ナアマンは,主君に重んじられ,気に入られていた。主がかつて彼を用いてアラムに勝利を与えられたからです。この人は勇士であったが,重い皮膚病を患っていた。.........イスラエルのどの流れの水よりもダマスコ川のアバナやパルパル(PHARPAR)の方が良いではないか。これらの川で洗って清くなれないというのか。(列王記Ⅱ第5章1,12節)

 ソロモンはオリーブ材で二体のケルビムを作り,内陣に据えた。その高さは10アンマであった。.........ソロモンは内陣の入り口にオリーブ材の扉を付けた。壁柱と門柱は五角形であった。そのオリーブ材の二枚の扉にもケルビムとなつめやしと花模様を浮き彫りにして,これを金で覆った。ケルビムとなつめやしの上にも金を張った。(列王記Ⅰ第6章23,31,32節)

ハザエルは贈り物としてダマスコのすべての価値あるものをらくだ40頭に載せて携え,エリシャを迎えに行った。「あなたの子,アラムの王ベン・ハダトがわたしをあなたに遣わしました。この病気が治るかどうかと言っています。」(列王記Ⅱ第8章9節)

通称イゼベルの塔(TOWER OF JEZEBEL).ここはアハブ(AHAB)が宮殿を持っていた場所で古来からゼリン(Zerin)の村人が給油所として使用していた。......イエフがイズレエルに来たとき,イゼベルはそれを聞いて,目に化粧をし,髪を結い,窓から見下ろしていた。イエフが城門を入ってくると,「主人殺しのジムリ,ご無事でいらっしゃいますか」と言った。(列王記Ⅱ第9章30~31節)

 BENJAMIN領とみなすべエロト(BEEROTH)の人々。.....このサウルの息子のもとに二人の略奪隊の長がいた。名をバァナとレカブといい,共にベニヤミンの者で,べエロトのリモンの息子であった。べエロトもベニヤミン領と考えられるからである。べエロトの人々はかつてギタイムに逃げ,今日もそこに寄留している.....(サミュエル記Ⅱ第4章2~7節)

 BENJAMIN(ベニヤミン)に関してはここの記事の下段にあるラケルの墓参照


ソロモンの時代イスラエル連合は北に向かいハマス王国(Kingdom of Hamath)まで侵攻した。写真は古代ハマスの現代シリアの町ハマ(HAMA)を流れる川。町の水と灌漑用か?

 絵:「荒れ野のエリヤ・Elijah in the Wilderness」Frederick Lord Leighton1830-1896(Walker Art Gallery,Liverpool所蔵)。彼自身荒れ野に入り,更に1日の道のりを歩き続けた。彼は一本のえにしだの木の下に来て座り,自分の命が絶えるのを願って言った。「主よ,もう十分です。わたしの命を取ってください。わたしは先祖にまさる者ではありません。」彼はえにしだの木の下で横になって眠ってしまった。御使いが彼に触れて言った。「起きて食べよ」見ると,枕もとに焼き石で焼いたパン菓子と水の入った瓶があったので,エリヤはそのパン菓子を食べ,水を飲んで,また横になった。(列王記Ⅰ第19章4~6節)

 ここはエリヤがホレブ(HOREB)へ向かう途中休止した場所。.....それを聞いたエリヤは恐れ,直ちに逃げた。ユダのべエル・シェバ(Beer-sheba)に来て,自分の従者をそこに残し,彼自身荒れ野に入り,更に一日の道のりを歩き続けた。(列王記Ⅰ第19章3節)

 ダマスコの門前でらくだに積んだ香料などを降ろすキャラバン隊。そして彼女はエルサレムにやって来た。..........シェバの女王は主の御名によるソロモンの名声を聞き,難問をもって彼を試そうとしてやって来た。彼女は極めて大勢の随員を伴い,香料,非常に多くの金,宝石をらくだに積んでエルサレムに来た。..........彼女は金120キカル,非常に多くの香料,宝石を王に贈ったが,このシェバの女王がソロモン王に贈ったほど多くの香料は二度と入って来なかった。(列王記Ⅰ第10章1,10節)

絵:Grenville Manton1855-1932。ヤロブアム(jeroboam)の妻は言われたとおりにした。彼女は立ってシロ(Shiloh)へ行き,アヒヤ(注;預言者)の家に着いた。アヒヤは老齢のため目がかすみ,見ることが出来なくなっていたが.............アヒヤは戸口に着いた彼女の足音を聞いて言った。「ヤロブアムの妻よ,入りなさい。なぜそのように変装したのか。わたしはあなたにつらいことを告げるように命じられている。行ってヤロブアムに言いなさい。『イスラエルの神,主はこう言われる。わたしはあなたを民の中から選び出して高め,わが民イスラエルの指導者として.............ヤロブアムの妻は立ち去り,ティルツァに戻った。彼女が家の敷居をまたいだとき,幼いその子は死んだ。イスラエルのすべての人々は主がその僕,預言者アヒヤによって告げられた言葉のとおり,彼を葬り,弔った。(列王記Ⅰ第14章6、17節)

ティグラト・ピレセル(TIGLATH・PILESER)アッシリア王(後にPulと呼ばれる)。......アッシリアの王プルがその地に攻めて来たとき,メナハム(MENZHEM・King of Israel)は銀一千キカルをプルに貢いだ。........アハズはアッシリアの王ティグラト・ピレセルに使者を遣わして言わせた。「わたしはあなたの僕,あなたの子です。どうか上がって来て,わたしに立ち向かうアラムの王とイスラエルの王の手から,わたしを救い出してください。」アハズはまた主の神殿と王宮の宝物庫にある銀と金を取り出し,アッシリアの王に贈り物として送った。(列王記Ⅱ第15章19節,第16章7,8節)

背後の山はMt.Carmel(Esdraelon=イゼベル(Jezreel)がはっきり見える。.....エリヤは「バアル・BAALの預言者どもを捕らえよ。一人も逃がしてはならない」と民に命じた。民が彼らを捕らえると,エリヤは彼らをキション川に連れて行って殺した。(列王記Ⅰ第18章40節)

 ベン・ヒノムの谷(VALE OF HINNOM)はかつて屠殺の谷と呼ばれた。......王はベン・ヒノムの谷にあるトフェトを汚し,だれもモレクのために自分の息子,娘に火の中を通らせることのないようにした。(列王記Ⅱ第23章10節)

エルサレムは石の町である。Masons(メーソン=石工)は絶えずこのような作業をしている。列王記Ⅰ第5章15,18節参照)

 肥沃なエフライム(Ephraim)の土地の一角を借りて耕したキャベツ,カリフラワー,オリーブなどを市場へ売りに行く農民たち。

 絵:V.de.Brozik1851-1901.「Death of Ahab」。ところが一人の兵が何気なく弓を引き,イスラエルの王の鎧の胸当てと草摺りの間を射抜いた。王は御者に言った。「手綱を返して敵陣から脱出させてくれ。傷を負ってしまった。』その日,戦いがますます激しくなったため,王はアラム軍を前にして戦車の中で支えられていたが,夕方になって息絶えた。傷口から血が戦車の床に流れ出ていた。(列王記Ⅰ第22章34,35節)

 このアラブのいたずらっこのような少年が首からさげているTALISMANは不思議な力のあるお守りとしてパレスチナでは一般的である。

 722~705BCアッシリア帝国を支配したアッシリア王サルゴン(SARGON THE KING OF ASSYRIA)。「アッシリアの王サルゴンに派遣された将軍がアシュドド(Ashdod)を襲った年のことである。彼はアシュドドと戦い,これを占領した。(イザヤ書第20章一節)

 KidronとTyropeon丘の交わったところにあった旧シロアムの池はへゼキアの度重なるトンネル掘りと貯水池としての池造りのため使用不可となった。GIHONの水流をせき止めダヴィデ市街の西側へ水を持ってきた。「上の方にあるギホンの湧き水をせき止め,ダヴィデの町の西側に向かって流れ下るようにしたのも,このヒゼキアであった。ヒゼキアはそのすべての事業を成し遂げた。(歴代誌Ⅱ第32章30節)

 ヒゼキアの時代,町ではこうして果物が売られていたのだろう。「この命令が伝わると,イスラエルの人々は穀物,ぶどう酒,油,蜜など,畑のあらゆる産物の初物を大量にささげ,またあらゆる物の十分の一を大量に運んできた」(歴代誌Ⅱ第31章5節)

 へブロンにはHaramの南西,あるいは,Machpelahのモスクにダヴィデの池とUpperの池がある。上の写真は後者の池でガラス吹きの池と呼ばれている。十字軍の時代からへブロンのガラス細工は名高かった。

 1880年シロアムの池の開通式の際,南側のヒゼキア・トンネル内で発見されたシロアムのヘブライ語の碑文。現在イスタンブール博物館所蔵。

以下はヘブライ語の碑文の英語要約:

(1)Behold the excavation!

(2)the axe,each towards his neighbour,and while three cubits still remained to (cut through,each heard)the voice of the other who called
(3)to his neighbour for there was an excess in the rock on the right hand(and on the left)And on the day of the
(4)excavation in the workmen struck,each to meet his neighbour axe against axe,and there flowed
(5)The waters from the spring to the pool for a thousand two hundred cubits;
(6)of a cubit was the height of the rock over the heads of the workmen

 
写真は新しいシロアムの池の出口。


 エルサレムを出たところのダマスコ門とヘロデ門の間にはソロモンの採石所の入り口がある。ソロモン神殿を建てるための石切場である。..........彼はまたティルスの王フラムに使節を遣わして,こう言わせた。「あなたは,父ダヴィデに協力を惜しまず,父の住まいとなる王宮の建築のためにレバノン杉を送ってくださいました。(歴代誌Ⅱ第2章2節)

 Dome of the Rock内にある「モリア山の岩の寺院」の再現。これはアブラハムがJEHOVAHの命によりその子Isaacを生贄に捧げようとした山でもある。(創世記22-2参照)Dome of the Rockは西暦691年に完成したがよく間違ってOmarのモスクと呼ばれている。

 沈黙のヨハンネスその1参照


 彼は神殿の前に二本の柱を作った。高さは35アンマ,頂の柱頭は5アンマであった。また内陣に網目模様の浮き彫りを造り,それを柱頭につけ,100個のざくろを造って,網目模様の浮き彫りにつけた。その柱の聖所の正面の右と左に一本ずつ立て,右の柱をヤキン(Jachin),左の柱をボアズ(Boaz)と名付けた。(歴代誌Ⅱ第3章15~17節)

 ティルス(TYRE)の王ヒラムとソロモン王に仕えた錬金術師のヒラムとは全くの別人である。上の作品は後者による。「海」は12頭の牛の像の上に据えられていた。3頭は北を向き,3頭は西を向き,3頭は南を向き,3頭は東を向いて,「海」を背負い,牛の後部はすべて内側に向いていた。(列王記Ⅰ第7章25節)

 ユダの王アサの治世第31年に,オムリ(Omri・紀元前880年ごろ)がイスラエルの王となり,12年間王位にあった。彼は6年間ティルツァで国を治めた後,シェメル(Shemer)からサマリアの山を銀2キカルで買い取り,その山に町を築いた。彼はその築いた町の名を,山の所有者であったシェメルの名にちなんでサマリアと名付けた。(列王記Ⅰ第16章24節)

 写真の中央部に見える山の頂上にはOmriの宮殿とAhabのIvory Houseがある


ダマスコの門の内側から


 指差しているのはバビロニア時代のイシュタルの門。

  バベルの塔跡

 管理人注:He walked in the PALACE of the KINGDOM OF BABILON.空中庭園は世界七大不思議の一つです。「このことはすべて,ネブカドネツァル王の上に起こった。12ヶ月が過ぎた頃のことである。王はバビロンの王宮の屋上を散歩しながら,こう言った。<なんとバビロンは偉大ではないか。これこそこのわたしが都として建て,わたしの権力の偉大さ,わたしの威光の尊さを示すものだ>まだ言い終わらないうちに,天から声が響いた。<ネブカドネツァル王よ,お前に告げる。王国はお前を離れた。お前は人間の社会から追放されて,野の獣と共に住み,牛のように草を食らい七つの時を過ごすのだ。

コメント一覧

tatsujin
聖書ものがたり・KingsⅠ・Ⅱ(列王記)
2014/3/27 22:00
達人さん、こんばんは。今聖書、列王記の下を読んでいます。「~に書いてあるではないか」という翻訳は、追加や削除があったからなんですね。ソロモンの奥さんの数は、現代人の欲望の数では?と思いました。いつも貴重なブログありがとうございます。
sophy93
1キュービットは40~55センチでしたでしょうか?

これは石工達が互いに掘り進めて行ったということですか?



sophy93
碑文だけあって、あまりにも難解ですが、大体こんな感じでしょうか? 参考にも何もならないと思います。

掘削に注目せよ!
掘り抜くまで、3キュービット残されていた時、斧?つるはし?で彼らが互いに向かって掘り進んでいると、他方の仲間の呼ぶ声が聞こえた。

その相手の右手(或いは左手)の岩に亀裂?があった。

掘削が打ち抜かれ労働者たちは互いに相手に向かって、斧つるはしを向けて行った。
水は泉から貯水池まで1200キュービットに渡って流れた。
労働者の頭上の岩の高さ?厚み?は1キュービットだった。



tatsujin
sophy93さん
英訳は載せました。読者のために日本語に訳してくださいませんか。
sophy93
シロアムのヘブライ語の碑文の英訳を知りたいと思います。
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