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ダンテ神曲ものがたり その16

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1-3.すでにわたしたちは次の連環へと落ち込む水の/鳴動を耳にすることができました:この章の行動はプレゲトーン川支流の滝で始まり終わっている。最初のテルツェットでは距離があって、巡礼者が「ミツバチの巣のブンブンいう音に似ている」音を耳にするのであるが、この章の終わりで、詩人たちが崖の縁に立った時は、その鳴り響く水は「わたしたちの耳を聞こえなくするのに十分大きな」(105)音なのである。

8. お前の着ている服:[当時のフィレンツェ人は「トーガ」toga(古代ローマ市民が外出時に着用した上着)を模した華麗な衣装(裁判官が身に付けるような衣装)をローマ市民に倣い身に付けていた]

9.我等の邪道に導かれた街:フィレンツェである。話題となっているこの3人の亡霊はすべてフィレンツェ人である。

19. いつもの歩調を取り戻し:[原文は”l’ antico verso”である。山川、野上らは「古き歌」と訳しているが、ここでは「以前の身振り」すなわち「駆け寄ってくる前にしていた動作(叫び)」である]


20-45.

ダンテは今兵士の男色者達の群れに遭遇している。そしてその言葉と像は、変えられているけれども、いまだに罪を反映している。ヤーコポ・ルスティクッチは力強くて男らしい言葉を使って(前章でのブルネット・ラティーニの繊細でむしろいやに気取った言葉づかいとは対照的に)ダンテに質問し、また自身と彼の仲間を同一に論じる(28-45)。しかしこの3人の亡霊によって形作られる回転する輪の舞踏的なイメージはこれらの罪人を描写するのに完全に適している(25-27)。

37-39.この者貞淑なグァルドラーダ様の孫であった:この貞淑なグァルドラーダ様la buona Gualdradaとはフィレンツェのベリンキオーネ・ベルティBellincione Bertiの娘であった。中世イタリアでよく知られた物語によれば、彼女は皇帝オットー四世Otto IVの勧めでグイード・グエッラ四世に嫁いだが、彼女はその偉大な美貌、才覚、それに謙虚で印象づけられてきていた。この言い伝えは彼女が、オットー四世が皇帝になる前の1180年にグイード・グエッラ四世と結婚したという事実によって信用に値しない。彼女の孫がここで述べられているグイード・グエッラGuido Guerra(1220-72)であった。このグイードは幾度かの戦争でのゲルフ党領袖であったので、それゆえに彼の通称となっている(グエッラguerraは「戦争」を意味する)。彼の智恵(助言、39行)は1260年のシエーナに対する会戦に乗り出さないようにフィレンツェのゲルフ党員に助言したことで例として示されるが、彼らが彼の言葉を無視して、その闘いはフィレンツェでのゲルフ党を滅ぼしたのであった。

41-42.テッギアイオ・アルドブランディであり:彼Tegghiaio Aldobrandiは、グイード・グエッラ同様に、フィレンツェでのゲルフ党領袖であった(1266年以前に没)。彼もまた、1260年のシエーナの攻撃からゲルフ党を説得して思いとどまらせようと試みた。実際、彼はグイード・グエッラ率いるゲルフ党兵士一団の代弁者(スポークスマン)であった。彼の助言が無視された事実はおそらくダンテが彼の言葉に対して「世間がよく耳を傾けたものだったに違いあるまい」と言うことで説明されているのである。

44-45.ヤーコポ・ルスティクッチなりし:これら3人の男色者の代弁者としてしか分かっていない。彼は1235年から1266年までのフィレンツェの記録に時折名が挙がっているがおそらくはある金持ちの商人であった。「アノニモ・フィオレンチーノ」に関する初期のダンテ注釈は彼が「臣民のひとりで、生まれが低く、騎士で、勇気があり人を悦せる男であった」と語っている。この原典もまた彼の理屈っぽい妻がその両親の許に帰らせられたと述べているのである[悪妻であったため別居し、男色にふけったといわれる(野上他:注)]

48.また私はわたしの導者が許されていただろうと考えます:根底ではベルギリウスが16-18行において彼に許可を与えていたのである。

52-54.近寄りにくいなんて、決してございません。むしろ/あなたがたのありさまに対する悲しみが:ダンテがもう一度それらの罪人たちに対する悲しみ(憐れみから動かされる一つの段階)を感じることは何にも値しない、推定するになぜなら彼らが「あなたがたの業績は繰り返して聞いてまいりましたし、/わたし自身情愛をこめて繰り返して言ってきました」(59-60行)というフィレンツェ人だったからである。彼らはフィレンツェの最盛期を思い出しているが、ダンテは彼らの苦痛のために悲しませられているのである。

52. 近寄りにくいなんて:[これは30行の「お前に近寄りがたくしているならば」をうけての巡礼者ダンテの返事である。原語ではdispettoで、「無視している」または「軽蔑している」の意味である。英語ではspiteまたはscornが多く使われているが、Musaはrepulsionと訳し、「嫌悪」の意味もあるがむしろ「反発」の意味が強いので、「近寄りにくい」と訳した。また、実際にはヤーコポ達が旋回しているのであるから、近寄りがたいのである]

63.でも始めはわたしはまさにこの中心へと下りていかねばならないのです:この「中心」とは地球の中心であり、したがって、地獄の最も低い場所(コキュトス)である。

70-72.グリエルモ・ボルシエーレが:70-71行の出来事にあるように、彼が1300年頃に死んでいたに違いないこと以外分かっていない。ボッカッチョが言うには彼は宮廷の騎士で、商人で、そして調停者であった。

73-75.突然の富を得た新しい種類の人々が:ダンテはフィレンツェの不幸を、確立されたフィレンツェの中流上層階級という田舎連中の潜入のせいにしている。ここでの彼のフィレンツェに対する修辞的効果をねらった(技巧的な)非難は放蕩者(浪費家)への彼の心象(ラーノと聖アンドレアのヤーコポ:第13章)につながっているのかも知れない、第13章での匿名の自殺者の言葉と共に、第14章でのクレータ島の老人の象徴的表現と共に、そして第15章でのブルネット・ラティーニの予言と共にである。すべてが神から贈られたものとしての暴力の浪費──個人的なものと社会的なもの――を通したこの街の衰退と黄金時代の損失をほのめかしているのである。すなわち第7連環に居る亡霊たちの堕落(性倒錯)が、ダンテがやってきた「邪道に導かれた街」(堕落した街)(9行)を反映しているのである。

85.必ずや我等のことを世人に話してくれたまえ:地獄の亡霊の多くは、彼らが「生き」続けている地球における彼らの思い出に頓着させられている。チャッコの巡礼者への最後の言葉(第6章88-89行:「しかし君がもう一度甘美な世界に居るとすれば/我々の友人達にぼくのことを思い出すようたのみたい」)を参照のこと。

88. 「アーメン」が発音され得なかったほどそれ程すばやく:[矢内原によれば、当時のフィレンツェの教会ではアーメンを大変早口に言うのが有名だったそうである。つまりこれは極めて辛辣な言い方で、フィレンツェの町の礼拝がきわめて形式的であった、いわば早く礼拝が済んだ方がいいので、アーメンをきわめて早く言ったことに対する皮肉である]

94-101.アッペンニーノ山脈の西斜面へ向かうかの川のように:ダンテは地獄におけるプレゲトーン川の支流の転落descent(急降下)を聖ベネディクト修道院の近くのモントーネ川の飛び込むような落下fall(滝)になぞらえている。明らかに、ダンテの時代にはこの川がモントーネ川となるフォルリまでは「静かな水」Acquachetaと呼ばれた。今日ではその全体がモントーネ川として知られている[この「静かな水」は英訳、和訳に限らず、イタリア語のAcquachetaを固有名詞扱いにしているが、アックァケータでは転落するように落下する流れに対する静かに流れる渓流の名称的意味が把握されないので「静かな水」とした]。

102. そこでは少なくとも一千もの家臣に住居があてがわれていたに違いありません:ボッカッチョによれば、この地域を統治したコンティ・グイーディConti Guidiのひとりが、この滝の近くに、多数の彼の家臣のための宿泊設備を建設する計画をしていた。しかし彼が死んで、彼の計画は実行に移されなかった。
 もし、ある川の進路に対する長い記述の最後で、落下し通り過ぎることから無関係なようなこの突然のほのめかし(隠喩)が、難解に思えるのならば、その読者はブリカーメから流れる流れ(その水は、ご存知のとおり、娼婦達に割り当てられたものである)に対する第14章(79-81行)での引用を思い起こすしかないであろう[ここで第14章を再読するとよく理解できる。「『神曲』は全体の中に一部があり、一部の中に全体があり、すべてが連環を為して繋がりたる」このため、巡礼者ダンテは「栄光の港」に向け進むのみであるが、読者は行きつ戻りつしながら読む必要があるのである]。

106-108.わたしは一本のひもを腰に巻きつけていました:ベルギリウスが巡礼者から受け取り急斜面の端から放り投げるこのひもに関しては多くの解釈がある。ある人はこの一節に詩人ダンテがフランシスコ修道士となったと見てきている(このひもがその集団のしるしである)。しかしながら、そうかもしれないが、ここでのひもは純粋に象徴的な意味を持っていると思われる。それは自信(うぬぼれ)をはっきり指摘している。なぜなら、そのひもによって、彼がここで我々に告げるのは、彼がヒョウ(我々が第1章で会ったもの:32-33行)を捕らえることができたと彼が一度は考えていたことである。したがって彼はここではばかげたうぬぼれ(自信)のもろさ(欠点)を慎重に(熟考して)告白しているに違いないのである。彼が詐欺師と遭遇するようになった時に、十分に自分を信頼するために、彼がそのひもを自分で解くのは、彼の導者の命令(すなわち理性)においてである。詐欺師は、怪物ゲーリュオーンによって具現化されているが、当然この信頼の象徴[すなわち「ひも」]によって引付けられて、この頂上へと泳いで来るのである。しかし、理性に対しては、詐欺師は優勢であることができない。巡礼者は今から、煉獄編でカトーが煉獄の山を登ることができるように葦(よし)giunco,で身を巻くように彼に指図するまで、ひも無しで進むだろう。この葦は謙遜を象徴していて、うぬぼれの反意語であり、巡礼者が成長するに向けてのまた別の段階なのである。
 巡礼者が地獄の新しい区画(第3輪環および最後の区画)にまさに入らんとする時におけるこのヒョウの記述(108)は明らかに第1章での「どこでもない」場所における三匹の獣の痕跡であり、詐欺師が懲らしめられるこの最後の区画を支配するのがこのヒョウなのである(ある注釈者はヒョウが不節制の連環を支配していると信じている)。
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