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昭和日本のおバカなテロと戦争 その4

日本人の敵は「日本人」だ

 

●南京事件(昭和12年12月13日)
   奥宮正武氏著「大東亜戦争」、89~93ページが真実に近いだろう。
   杉山陸相、松井大将、朝香宮・柳川・中島中将など破廉恥
  で獰猛な軍人のなせるわざであった。米内海相、広田外相の
  外交上の苦労は推して知るべしであろう。(なお外相広田
  弘毅は和平に熱心ではなかったという説もある。最近の文献
  では文藝春秋 2003(10)、p272-274も参照)
 
  ※ 11月20日勅令により大本営が設置され、呼称は事変のま
   まで、宣戦布告もないままに、本格的戦時体制が樹立された。
   第一回の大本営での御前会議で、下村定(戦線拡大派)
   は、その上司多田駿(戦線拡大反対派)を無視して「南京
   其ノ他ヲ攻撃セシムルコトヲモ考慮シテ居リマス」という
   説明文を加筆した。参謀本部の秩序は酷く紊乱していた。
   当時は、統帥権の独立によって、議会の掣肘を受けない軍
   にとって、天皇に対する忠誠と畏敬の念こそが最大にして
   最後の倫理の基盤であったはずだ。それがかような形で侵
   されるとすれば、いかなる抑止が可能であるか、暗然とせ
   ざるをえない事態であった。
   南京を陥落させることによって、支那事変の収拾の目途
   がまったく立たなくなるということさえ予見できない無知
   無能連中が参謀本部を支配していた。
 
  ●近衛最大の失政:「・・仍て、帝国政府は爾後国民政府を対
  手とせず・・」。これをもって、蒋介石政権との決別が決ま
  った。(昭和13年1月16日)
   しかしこの声明は、近代日本史上、屈指の大失策であった
  ことは明らかである。
  ※ 当時の陸軍内部の日中和平派は、参謀次長多田駿、戦争
   指導班の高嶋辰彦、堀場一雄、それに秩父宮だった。
  ※ 石原莞爾(満州より東京を俯瞰、昭和13年5月12日)
   「・・私は事件(支那事変、南京事件)が始まったとき、
   これは戦いを止める方がいいといった。やるならば国家の
   全力を挙げて、持久戦争の準備を万端滞りなくしてやるべ
   きものだと思った。然しどちらもやりません。ズルズル何
   かやって居ます。掛声だけです。掛声だけで騒いで居るの
   が今日の状況です。・・私は3か月振りで東京に来ました
   が、東京の傾向はどうも変です。満州も絶対にいいことは
   ありませんが東京はいい悪いではありません、少し滑稽と
   思ひます。阿片中毒者ー又は夢遊病者とかいう病人があり
   ますが、そんな人間がウロウロして居るやうに私の目には
   映ります」(福田和也氏著『地ひらく』文藝春秋より)

   ------------------<近衛文麿の正体>-----------------
    (戦犯指名における E・H・ノーマンの近衛批判)
   過去10年ばかりのあいだに内政外交を問わず重大な曲り
   角があるたびに、近衛はいつも日本国家の舵を取っていた
   こと、しかもこのような重大な曲り角の一つ一つでかれの
   決定がいつも、侵略と軍およびその文官同盟者が国を抑え
   こむ万力のような締めつけとを支持したことを明らかにせ
   ずにはいない。
   近衛が日本の侵略のために行ったもっとも貴重なつとめ
   は、かれだけがなしえたこと、すなわち、寡頭支配体制の
   有力な各部門、宮廷、軍、財閥、官僚のすべてを融合させ
   たことであった。
   (粟屋憲太郎氏著『東京裁判への道<上>』講談社、p.74)
 
  ●三つの戦時統制法を制定(近衛内閣)
   ○輸出入品等臨時措置法:重要物資の軍需産業への重点配分
   ○臨時資金調整法:企業設立、増資、配当、起債、資金借入
     の規制
   ○軍需工業動員法
  ※議会における国家総動員法案の審議がはじまる。
       (S13.2、近衛内閣)
   斎藤隆夫、牧野良三、池田秀雄らは、戦争と国家総動員
   ならびに非常時における国民の権利と義務の規制などの問
   題は、ひとり天皇のみが扱いうるものであることをはっき
   りと主張して国家総動員法案の議会通過に反対した(憲法
   と天皇主権を楯にした)。
 
  ●「国家総動員法」が正式に公布された(昭和13年4月1日)
   「本法ニ於イテ国家総動員トハ戦時(戦争ニジュンズベキ
  事変ノ場合ヲ含ム)ニ際シ国防目的達成ノ為国ノ全力ヲ最ム
  有効ニ発揮セシムル様人的及物的資源ヲ統制運用スルヲ謂フ」
    (同時に「電力国家管理法」も公布された)
  ※ 「国家総動員法」の内容
   国民を好き放題に徴用できる、賃金を統制できる、物資の
   生産・配給・消費などを制限できる、会社の利益を制限で
   きる、貿易を制限できる・・・つまり戦争のために国民は
   もっている権利をいざとなったら全面的に政府に譲り渡す
   というもの。
   ・第四条「政府は戦時にさいし、国家総動員上必要ある
   ときは、勅令の定むる所により×××することを得る」
   ("×××"の部分は文言が入ってない。つまり何でもあり)
  (半藤一利氏著『昭和史 1926->1945』平凡社、p219)
 
  <「国家総動員法」の本質:軍人は人的資源だ>
   Hさんの母親から気がかりなことを聞いた。NHK『日曜討論』
 (2003年6月8日)で、自衛隊イラク派遣の推進者、山崎拓自民
 党幹事長(当時)が、「自衛隊という資源を、人的資源を我々
 が持ってる以上、しかもそれに膨大な予算を費やして維持して
 るわけだから、それを国際貢献に使わないという手はないわけ
 で」と、薄ら笑いを浮かべながら発言した、と。
  「資源というのは消費するものですよね。人間を資源という
 のはおかしい。自衛官を使い捨てにするような発想が表れてい
 ると思います」と言う彼女は、我が子の痛ましい死を通して得
 た鋭敏な直覚によって、たとえ比喩であっても裏側にある本音
 を、小泉政権にそして国家そのものに潜む人命軽視の体質を見
 抜いたのだ。
  そしてHさんの母親から後日、電話があり、「人的資源」と
 いう言葉が気になって調べたら、それが国家総動員法のなかに
 出てくるのがわかったと知らされた。
  確かに国家総動員法(1938年公布)の第一条には、「本法ニ
 於テ国家総動員トハ戦時(戦争ニ準ズべキ事変ノ場合ヲ含ム以
 下之ニ同ジ)ニ際シ国防目的達成ノ為国ノ全力ヲ最モ有効ニ発
 揮セシムル様人的及物的資源ヲ統制運用スルヲ謂フ」とある。
  ここでは人間は、人格も意思も認められず「統制運用」され
 る対象として物資と一緒くたに扱われている。「人的資源」の
 発想の源は、かつて国民を戦争に駆り立てたあの国家総動員法
 にあるのだ。戦前~戦中~戦後を通じて国家の非情な本質は連
 続性を持つという事実を踏まえて、状況を見抜いていかなけれ
 ばならないことを痛感する。(吉田敏浩氏著『ルポ 戦争協力
 拒否』岩波新書(2005年)、pp.102-103)
 
  ※ この法律は立法権制限の最たるものであり、これがその
   後8年間の政府の議会に対する関係を変えた(議会と政党の
   役割がかつてないほどまでに低下した)ことには疑問の余
   地がない。
   統帥権を法令化したこの法律をもって「軍が日本を占領
   した」(司馬遼太郎)。
 
  ※ 軍部は美術家も総動員して戦争画を制作させ、戦意高揚
   ・戦争協力を押し進める方針を打ち出した。(「聖戦美術
   展」、アホクサ!!)

  ■政友会両派の指導者である中島と久原は、政党制度の競争的
   性格を根本的に修正して、議会を恒久的に支配できるような
   単一の新政党を結成し、その新政党を国家のための国民動員
   の機関とすることを提唱していた。これは当時の内務省をは
   じめとする官僚どもの立場と共通であった。じつにおぞまし
   い時代だった。

  ※ 大本営の特設
   天皇の統帥権行使を輔翼すべき戦時の最高統帥機関とし
   て参謀本部と軍令部の二位一体的に機能するように設置。
   単一化した機構の下に統帥と軍政との統合、調整及び陸海
   軍の策応協同を適切敏活ならしめる。
   大本営は陸軍部と海軍部に分かれていた。
   ○「大本営政府連絡会議」と「戦争指導」
   (「戦争指導」:「戦略」と「政略」の統合と調整)
   戦略(大本営、「用兵作戦」)と政略(行政府、外
   交、財政、教育)の統合と調整を行うために天皇を輔
   佐する固有の国家機関は当時、法的にも実質的にも存
   在せず、大本営と政府の申し合わせにより「戦争指導」
   に関する国家意志の実質決定機関として「大本営政府
   連絡会議」が設置された。
   ○「御前会議」
    天皇の御前における「大本営政府連絡会議」をい
   う。枢密院議長が統帥部、行政府に対し第三者的立
   場で出席し大局的見地から意見や勧告を陳述した。
  (以上、瀬島龍三『大東亜戦争の実相』より引用)
 
  ●日中戦争勃発とともに文部省は「修文錬武」をスローガンに
  全国の学校に軍事教練の強化と集団勤労の実施を指令した。
   (魚住昭氏著『渡邊恒雄 メディアと権力』より)
  ●厚生省が新設された。(昭和13年1月11日)
   内務省の薬務行政はすべて厚生省に移管された。
   (--->この後約8年間、厚生省が阿片政策を担当)
   ○1938年、里見甫は上海の陸軍特務部からアヘン配給
   組織をつくるよう命令された。--->「宏済善堂」
   (「火煙局」=「里見機関」)
   アヘン販売は日本政府・軍部の国家的プロジェク
   トだった。岸信介と東条英機はアヘンで繋がっていた
   という話もある。
   ○満蒙開拓青少年義勇軍応募が始まる(昭和13年)
   数え歳16~19歳の青少年を国策で満州へ移民させた。
   彼らは後にソ満国境の警備に配されたし、徴兵年齢に
   達したら関東軍に召集された。
   ○「ペン部隊」
   昭和13年8月に内閣情報部が武漢攻略に当たって従軍
   作家を組織した。菊地寛が中心になって人選した(各
   班約10名、女性1名ずつ)。
   陸軍班:久米正雄、尾崎士郎、片岡鉄兵、岸田国士、
     瀧井孝作、丹羽文雄、林芙美子ら
   海軍班:菊地寛、小島政二郎、佐藤春夫、杉山平助、
     吉川英治、吉屋信子ら
  (川本三郎氏著『林芙美子の昭和』、新書館より引用)
  ●張鼓峰事件(ハーサン湖事件、昭和13年8月)
   「ソ連軍の武力偵察」という参謀本部の中堅幕僚のちょっ
  とした思い付きと一師団長の功名心の犠牲となって、多くの
  日本人兵士が無駄に死んでしまった。参謀本部作戦課は火遊
  び好きな幼稚なものどもの集まりだった。
  ●陸軍参謀本部の漢口作戦、広東攻略作戦(昭和13年9~10月)
   日中の戦局はさらに長期消耗戦にはいっていった。
   近衛内閣はことごとくに思慮分別のない阿呆な内閣だった。
   ○「東亜新秩序の建設こそが日本の聖戦の目的」
   ○「抗日容共政権を殱滅する」
   ○「蒋介石政権は中国全土を代表せず」
  ●内閣情報委員会が、東亜新秩序建設という長期的課題に処す
  るために精神総動員を強化する計画を提出(昭和13年11月26日)
   情報委員会を通じて内閣から中央連盟傘下の全国の諸組織
  (青年団 、在郷軍人会、婦人会、農村の産業組合)に連なる
  強力な動員機構を樹立しようとした。これこそは国民を一気に
  「統合」しようとする構想であった。
  ●日本軍海南島占領(昭和14年2月)
  ●「満州開拓青少年義勇軍」計画(昭和14年4月29日)
  ●日本軍重慶を無差別爆撃(昭和14年5月)
   近代戦の最も恐るべき実例がアメリカの雑誌『ライフ』で
  提供され、アメリカ市民は大きな衝撃をうけた。以来アメリ
  カの世論は大きく動いた。
  ●ノモンハン事件(1939年、昭和14年5~9月):制空権の重要性を証明
   この敗戦を堺に日本は南方進出を決定。
   関東軍、服部・辻らの暴走で、「元亀天正の装備」の下にソ連の
   近代陸軍と対戦させられた兵士約18000人の戦没者を数えた。中には
   責任を押しつけられて自殺させられた部隊長もあった。
   (「元亀天正の装備」については司馬遼太郎氏著『この国のかたち
    <一>』を参照)
 
   # 第一戦の将兵がおのれの名誉と軍紀の名のもとに、秀才参謀
    たちの起案した無謀な計画に従わされて、勇敢に戦い死んでい
    った・・。
   <特に”ハルハ河渡河作戦”の無謀さ>
     (師団長園部和一郎中将の親書より)
    「・・・小生がハルハ河渡河作戦を非常に無謀と思った
     のは、第一、上司のこの作戦はゆきあたりばったり、寸毫
     も計画的らしきところのなき感を深くしたこと。
    第二、敵は基地に近く我は遠く、敵は準備完全、我はで
     たらめなるように思われ、
    第三、敵は装備優良、我はまったく裸体なり。
    第四、作戦地の関係上、ノモンハノンの敵は大敵なり。
    要するに敵を知らず己れを知らず、決して軽侮すべから
     ざる大敵を軽侮しているように思われ、もしこの必敗の条
     件をもって渡河、敵地に乗りこむか、これこそ一大事なり
     と愚考致したる次第なり」
      (津本陽氏『八月の砲声』講談社、p.278)

   # ソ連・モンゴル軍の情報混乱作戦
    計画の中で、また準備処置の中で特別の位置を占めていた
    のは、敵に、我が軍が防衛態勢に移っているかのような印象
    を与えるために、情報を混乱させる問題である。このため、
    各部隊には、「防衛線に立つ兵士の手引き書」が配られた。
    構築された防衛施設についての嘘の状況報告と技術物資の質
    問表とが手渡された。全軍の移動は夜間にだけ行われた。待
    機位置に集結される戦事の騒音は、夜間爆撃機と小銃・機関
    銃掃射の騒音によってかき消された。日本軍には、我が諸部
    隊によって、前線中央部が強化されつつあるかのような印象
    を与えるために、前線中央でだけラジオ放送が行われた。前
    線に到着した強力な音を立てる放送所は、くい打ちの擬音を
    放送して、あたかも、大防衛陣地の工事をやっているかのよ
    うに見せかけた。日本兵には戦車の騒音に慣れっこにさせる
    ために、襲撃前の10~12日間は、消音装置をはずした自動車
    何台かが前線に沿って絶えまなく往復した。こうした方策す
    べては極めて効果的であることが明らかになった。日本軍司
    令部は、我が軍の企図をはかりかねて、全く誤解に陥ってし
    まった。
       ---------------------------------
     ソ・モ軍はこのように工事や戦車の悪日を放送した
     のみならず、「レコードやジャズの音」をひびかせ
     (田中誠一「陣中日記」)、あるいは「日本軍の兵隊
     の皆さん、馬鹿な戦争はやめて内地の親兄弟、妻子の
     いるところへ帰りなさい。馬鹿な戦争をして何になる
     のですか。命あっての物種、将校は商売だ」などと戦
     線離脱をすすめる放送を「1日数十回放送した」とい
     う。(山下義高「ノモンハンに生きた私の記録」)
       ---------------------------------
   (シーシキン他『ノモンハンの戦い』田中克彦訳、岩波現代文庫、
    pp.49-50)
 
   # 信じられないようなことだが、陸軍にあっては「戦車は戦車
    である以上、敵の戦車と等質である。防御力も攻撃力も同じで
    ある」とされ、この不思議な仮定に対し、参謀本部の総長とい
    えども疑問を抱かなかった。現場の部隊も同様であり、この子
    供でもわかる単純なことに疑問を抱くことは、暗黙の禁忌であ
    った。戦車戦術の教本も実際の運用も、そういうフィクション
    の上に成立していたのである。じつに昭和前期の日本はおかし
    な国であった。(司馬遼太郎氏著『歴史と視点』より引用)
 
   # 幼年学校、陸士、陸大を通じての大秀才であった辻政信の、
    ソ連の戦力に対する偵察が、実に杜撰きわまりないものであっ
    た事実は、何を意味するものであるのか。
   頭脳に片々たる知識を詰めこむことを重視するばかりで、現
    実を正確に観察する人間学の訓練を受けなかった秀才が、組織
    社会の遊泳術ばかりに長じていても、実戦において眼前の状況
    に対応するには歯車が噛みあわず、空転することになる。
   辻参謀は根拠なく軽視したソ連軍機械化部隊と戦闘をはじめ
    るまで、自分が陸軍部内遊泳の才を持っているだけで、用兵の
    感覚などという段階ではなく、近代戦についての知識がまった
    くといっていいほど欠落していることに気づいていなかった。
   日露戦争からわずか二十三年を経ただけで、日本陸軍は大組
    織の内部に閉じこもり、派閥抗争をもっぱらとする、政治家の
    ような官僚的軍人を産みだしていたのである。
   時代遅れの武装をしていた中国国民軍、中共軍を相手に戦闘
    しているあいだに、日本軍も時代遅れになった。歩兵戦闘にお
    いて世界に比類ない威力を備えているので、いかなる近代兵器
    を備えた敵国の軍隊にも、消耗を怖れることなく肉弾で突っこ
    めば勝利できるという錯覚を、いつのまにか抱くようになって
    いたのである。(津本陽氏『八月の砲声』講談社、pp.276-277)
 
   # 鈍感で想像力の貧困な、無能きわまりない将官たちが、無数
    の若い将兵を血の海のなかでのたうちまわらせて死なせるよう
    な、無責任かつ残酷きわまりない命令を濫発している有様を想
    像すれば、鳥肌が立つ。
   彼らを操っているのは、無益の戦闘をすることによって、国
    軍の中枢に成りあがってゆこうと考えている、非情きわまりな
    い参謀であった。
   罪もない若者たちの命を、国家に捧げさせるのであれば、な
    ぜ負けるときまっているような無理な作戦をたて、恬として恥
    じるところがないのか。作戦をたてる者は、戦場で動かす兵隊
    を、将棋の駒としか思っていないのかと、残酷きわまりない彼
    らの胸中を疑わざるをえない。
      (津本陽氏『八月の砲声』講談社、pp.288-289)
 
   # ・・・(筆者注:ノモンハン惨敗、日本軍潰滅敗走のなかで)
    辻参謀はいきなり司令部壕から飛び出し、某中尉以下約40名
    の前に立ちふさがる。将兵の瞳孔は恐怖のために拡大している
    ようであった。辻は右第一線全滅と報告する彼らを、大喝した。 
   「何が全滅だ。お前たちが生きてるじゃないか。旅団長、連
    隊長、軍旗を見捨てて、それでも日本の軍人かっ」
   潰走してきた兵は辻参謀に詫び、彼の命令に従い、背嚢を下
    し、手榴弾をポケットに入れて前線に戻ってゆく。
    (津本陽氏『八月の砲声』講談社、p.452)
 
   # 停戦協定(昭和14年9月14日)あと、ノモンハンの惨敗の責任
    隠しのため、自決すべき理由の全くない3人の部隊長が自決させ
    られた。
   歩兵第72連隊長酒井美喜雄大佐、第23師団捜索支隊長井置栄一
    中佐(部下の無駄死にを防いだ)、長谷部理叡大佐(陣地撤退)
    の 3名だった。 (津本陽氏『八月の砲声』講談社、pp.488-490)

   # 日本防衛軍全軍総指揮官、第23歩兵師団長小松原の卑怯さ
    はじめに忘れないうちに----一つ、特徴的なエピソードを
    述べておきたい。こ頃、我々は、関東軍(すなわち、事実上、
    仝満洲戦線の)司令官植田将軍が、ハルハ河事件との関係で
    解任されたという、驚くべきニュースを受けとった。ところ
    が、それにすぐそれに続いて、ハルハ河で全滅した第六軍団
    司令官小松原将軍が勲章を受けとった。何勲章だったか、青
    銅の鷲〔鷲はナチス・ドイツの勲章〕だったか、黒いトビだ
    ったかの。その頃の日本配層の心理のある特性を考えに入れ
    なければ、この知らせは、ほんとに謎のようなものだ。
    小松原将軍は、かれの部隊が我が軍の包囲網によって閉じ
    られたその次の日、この包囲網から脱け出して後方へ、満洲
    へと飛び去った。捕虜となった将校たちが証言していたころ
    によると、表向きは、満洲の奥へとさらに前進して行く我が
    軍に反撃を準備するたであったかもしれないが、じつは、単
    に自分が助かるためだったようだ。
          ・・・
    小松原は、ハルハ河で壊滅した後、ほとんど手中には何も
    なく、大急ぎでかき集められるだけの兵を集めた。すなわち
    鉄道大隊2個、若干のバルガ騎兵、包囲から脱出したどれか
    の連隊の残党、独立警察連隊ーーこれらの手勢をもって、我
    が軍からかなり離れたところに防禦線を敷いた。たぶんその
    頃の実際の力関係を考えてであろうが、それはとても防御と
    は呼べぬ、名ばかりの防禦であった。・・
    かくもわずかな兵力をもって、何倍もの優勢な敵に抗した
    「見事な防禦」という満洲国境の物語は、東京ではもしかし
    て、すこぶる英雄的に見えたかもしれないが、麾下の二個師
    団を、むざむざ絶滅の包囲の中に投げ込んだこのへまな将軍
    は、本当ならば、日本の誠実の概念からすれば、突然勲章な
    ど受けとるかわりに、腹切りをすべきだったのだ。・・・は
    っきりしていることは、日本軍部というものは、その特有の
    精神構造からして、誰が率いる部隊であれ、無防備の前線を
    目の前にして、あえて国境を越えようとしないとか、他国の
    領土に突進したりしないなどということは考えもしないだろ
    う。もしそんなことが考えられないとすれば、誰かがソビエ
    ト・モンゴル軍を阻止したとしなければならなかった。その
    時点で、それをやれたとしたら警察隊と鉄道隊員を率いた小
    松原将軍だけだった。
    一見して説明のつかない、ハルハ河における日本軍司令官
    の軍功のものがたりはこのように見える。(シーシキン他
    『ノモンハンの戦い』田中克彦訳、岩波現代文庫、pp.157-159)

   # 「戦後の辻参謀(元陸軍大佐、辻政信)は狂いもしなければ
  死にもしなかった。いや、戦犯からのがれるための逃亡生活
  が終わると・・・、立候補して国家の選良となっていた。
  議員会館の一室ではじめて対面したとき、およそ現実の人の
  世には存在することはないとずっと考えていた『絶対悪』が、
  背広姿でふわふわとしたソファに坐っているのを眼前に見る
  の想いを抱いたものであった。・・・それからもう何十年も
  たった。この間、多くの書を読みながらぽつぽつと調べてき
    た。
  そうしているうちに、いまさらの如くに、もっと底が深く
    て幅のある、ケタはずれに大きい『絶対悪』が二十世紀前半
    を動かしていることに、いやでも気づかせられた。彼らにあ
    っては、正義はおのれだけにあり、自分たちと同じ精神をも
    っているものが人間であり、他を犠牲にする資格があり、こ
    の精神をもっていないものは獣にひとしく、他の犠牲になら
    ねばならないのである。・・・およそ何のために戦ったのか
    わからないノモンハン事件は、これら非人間的な悪の巨人た
    ちの政治的な都合によって拡大し、敵味方にわかれ多くの人
    々が死に、あっさりと収束した。・・・」
    (半藤一利氏著『ノモンハンの夏』より引用)
 
   ※ この事件での貴重な戦訓(制空権の重要性)が生かされること
    なく大東亜戦争が指導された。過去に学ばない無知無能の関東軍
    であった。

  ★第二次世界大戦勃発(1939年、昭和14年9月1日)
  1939年9月1日ドイツが突然ポーランドに進駐。その後約1年あまりの間
  にドイツはヨーロッパの中央部を殆ど制圧しイギリスとの戦いに入った。
 
  ※われわれはヒトラーやムッソリーニを欧米人なみにののしっ
   ているがそのヒトラーやムッソリーニすら持たずにおなじこ
   とをやった昭和前期の日本というもののおろかしさを考えた
   ことがあるのだろうか。
    (司馬遼太郎氏著『歴史の中の日本』他)
 
  ●アメリカが原爆開発に着手(昭和14年10月)
  「ウラン諮問委員会」を設置した。
   ●「創氏改名」(1939年11月)
    朝鮮民事令改正の名目で「創氏改名」が公布された(翌年2月
    実施)。
    ※ 「おい日本の兵隊、イルボンサラミ(日本人)、あんた
     たちは、何の権利があって私たちの伝統的に何百年も続いた
     朝鮮、朴の名前を、変な日本名の木村に切り替え使わせてい
     るのか!!」
     木村上等兵の朝鮮名は、朴(パク)といった。しかし、
     1940年2月から実施された創氏改名によって、朝鮮人に日本
     式の氏を新しく創り、名乗らせることを事実上強要したの
     である。同年8月までの半年で、全世帯の8割、322万人が創
     氏した。儒教を重んじる朝鮮では、家をとても大切にする。
     創氏改名は、何百年も続いてきた自分の家系、祖先を否定
     される屈辱的な行為だった。
     呆然とするトウタの前で、母親はまくし立てた。
     「これは日本人が、朝鮮人を同じ人間と思っていなかった
     からだろう。バカにしているからだ!!」
     何か言おうとすると、口を利くのも汚らわしいという表情
     でトウタを睨んだ。
     「バカ者、なんで来た!! 絶対に許さない」
     母親はドアをバンと思い切り閉め、それきり出てこなかっ
     た。(神田昌典氏著『人生の旋律』講談社、p.59)
  ●日本軍の毒ガス散布の一例(昭和14年12月16日)
  <尾崎信明少尉の回想記より(嘔吐性ガス『あか』を散布)>
   かくて〔敵陣は〕完全に煙に包まれたのである。四五本
   の赤筒もなくなった。やがて「突っ込め!」と抜刀、着剣
   。しかし、壕の所まで行って私は一瞬とまどった。壕の中
   には敵があっちこっち、よりかかるようにしてうなだれて
   いる。こんなことだったら苦労して攻撃する必要もなかっ
   たのではないか、と錯覚さえしそうな状景だった。しかし、
   次の瞬間「そうだ、煙にやられているんだ。とどめを刺さ
   なきゃ」と、右手の軍刀を横にして心臓部めがけて...。
   グーイと動いた、分厚い綿入れを着ており、刀ごと持って
   行かれそうな感触。「みんなとどめを刺せ!」
  (中略)遂に敵は全員玉砕と相成った。
  (吉見義明氏著『毒ガス戦と日本軍』岩波書店、p.86-87)
 
◎1940年(昭和15年)から1945年(昭和20年、大東亜戦争終結)まで
  ★第二次世界大戦におけるナチス・ドイツの攻勢(1940年最初の半年)
  ドイツ機甲師団とそれを率いるグデーリアンの活躍。
  ナチス・ドイツがノルウェー・デンマークを占領(4月)、西部戦線で
  の戦端を開き(5月)フランス、オランダ、ベルギー、ルクセンブルクに
  進攻。パリ陥落(6月24日)。イギリスの苦境。
 
  ※ これらの欧州大戦は、日本の指導者たちの目には、日本の
   東南アジア進出を正当化し「東亜新秩序」から「大東亜共栄
   圏」拡大構想推進の千載一遇のチャンスと見えた。またアメ
   リカが対日全面禁輸の措置にでるまえに東南アジアの資源を
   確保する必要があった。
       **********   **********
   ※さてサケットの尋問は、「木戸日記」の記述に沿って、日本
    の南部仏印進駐、独ソ戦開始をめぐる問題をへて、1941年7月
   2日の御前会議へとたどりつく。この御前会議は、陸海軍の
    方針を基本的に受け入れた「情勢の推移に伴ふ帝国国策要綱」
    を原案どおりに決定したもので、その核心は要するに、第一
    に南進政策の実現のためには「対英米戦を辞せず」の方針を、
    第二に「独『ソ』戦争の推移帝国の為め有利に進展せば武力
    を行使して北方問題を解決」するとの方針を、最高国策とし
    て決定したことにあった。つまり対米兵戦と対ソ戦をどちら
    でも行うよう準備するという「南北併進」政策が国家意思と
    して設定されたのである。(粟屋憲太郎氏著『東京裁判への
    道<上>』講談社、p.136)

  ●日米通商航海条約破棄(昭和15年1月26日)
   日本は軍事用を主とする物資の入手が困難となった。それに
  よる不利を補うため、日本は資源の豊富な仏領インドシナに注
  目。フランスとの軋轢を生んだ(北部仏印への強行進駐(S15.
  9.23)、南部仏印へ進駐(S16.7.28))、
  ●南京に汪兆銘政府成立(昭和15年3月30日)
   日本が蒋介石と決別したあと、いちるの和平への望みをもっ
  て王兆銘をかつぎだし、国民政府の正統であることを誇示する
  ように青天白日旗を戴いて成立させた。
   この政府は陸軍中央部に巣食っていた中国蔑視の考えに、日
  中和平論者の影佐禎昭参謀本部第八課長らが抵抗するかたちで
  作られたが、基盤は明らかに脆弱だった。また王兆銘自らも行
  動原則や行動理念のない言行不一致の政治家だった。
  ●満州への定住者約86万人(昭和15年)
  ●日本がウラン爆弾に「ニ号研究」として取り組みはじめた。
       (昭和15年3月)
   しかしこの研究は、日本ではあまりにも課題山積で荒唐無稽
  の試みに近かった。海軍の原爆研究は「F研究」とよばれ昭和
  15年8月に始まった が、戦状逼迫にてたち切れとなった。昭和
  天皇の強い嫌悪もあった。
  ●天才的暗号解読家のフリードマンは、数学的正攻法で97式印字
  機の模造機を作成、日本外務省電報を悉く解読した。このとき
  以来日本の外交機密はアメリカへ筒抜けになった(1940年夏)。
  また日本海軍の戦略暗号も1942年春に破られた。
  ●日本軍が北部仏印に進駐(昭和15年9月23日)
   富永恭次と佐藤賢了の軍紀違反による横暴。
   昭和陸軍"三大下剋上事件"の一つ。(他は満州事変、ノモン
   ハン事件)
  ●「日独伊三国軍事同盟」締結(昭和15年9月27日)
  ※ 近衛内閣、松岡洋右外相の電撃的(国家の暴走)締結。
   松岡洋右は日独伊にソ連を含めた四国軍事同盟締結を目論
   でいたが、ヒトラーとソ連の対立が根強く、実現ははじめか
   ら不可能であった。またヒトラーは三国軍事同盟を、対ソ作
   戦の礎石と考えていた。
  ※ 過去、平沼・阿部・米内の三内閣はこの締結を躊躇して倒
   れていた。(当時、陸(海)軍は陸(海)軍大臣を辞職させ、
   その後任候補を差し出すことを拒否してその内閣を総辞職に
   追い込んだり、新内閣の陸(海)軍相候補を差し出すことを
   拒否して内閣成立を阻止したりすることができた。総理大臣
   は法的に全く無力であった)。
  ●日本軍の中国に対する熾烈な毒ガス攻撃と効力試験(1940年8月)
   (吉見義明氏著『毒ガス戦と日本軍』岩波書店、p.111-132)
  ●日本軍の中国に対するペスト攻撃(状況証拠のみしかないが...)
   ○1940.10.4 :淅江省ツーシンへ。腺ペスト蔓延が24日続き
    21名死亡。
   ○1940.10.27:淅江省寧波(ニンポー)へ。34日続き100名
    死亡。
   ○1940.11.28:淅江省金華(キンホウ)へ。
   ○1941.11.4 :湖南省常徳(チャントウ)へ。11歳少女が
   腺ペスト発症
   (エド・レジス氏著『悪魔の生物学』、
      柴田恭子訳、河出書房新書)
  ●「三光政策(作戦)」(殺しつくし、奪いつくし、焼きつくす政策)
    南京大虐殺が、日本軍の組織的犯罪であるとされるのは、捕虜
   の大量殺害があるからだが、それ以上に、一般民衆にたいする虐
   殺として問題なのは三光作戦である。中国共産党とその軍隊であ
   る八路軍が、日本軍の戦線の背後に浸透して解放区、遊撃区を作
   り上げたのにたいして、日本軍とくに華北の北支那方面軍は、
   1941年ごろから大規模な治安粛正作戦を行なった。これは日本軍
   自らが、燼滅掃蕩作戦(焼きつくし、滅ぼしつくす作戦)と名づ
   けたことでも示されるように、抗日根拠地を徹底的に破壊焼却し、
   無人化する作戦であった。実際に北支那方面軍は、広大な無人地
   帯を作ることを作戦目的に掲げている。中国側はこれを「三光政
   策」(殺しつくし、奪いつくし、焼きつくす政策)と呼んだので
   ある。三光作戦は、南京大虐殺のような衝撃的な事件ではないが、
   長期間にわたり、広大な地域で展開されたので、虐殺の被害者数
   もはるかに多くなっている。(藤原彰氏著『天皇の軍隊と日中戦
   争』大月書店、pp.18-19)

  ★ 無謀な戦争に最後まで反対していた米内光政海相、海軍次官山本五十
  六中将、軍務局局長井上成美少将、教育局長高木惣吉、衆議院議員斉藤
  隆夫氏の名前を忘れないでおきたい。
  ※ 井上成美
   「軍人の本分は国民を守ることにある。そして将たる者は、
   部下を大勢死なせてまで戦果を求めるべきでない」
   (加野厚志氏著『反骨の海軍大将 井上成美』より)
   協力しあって最後の最後まで戦争早期終結を望んでいた海軍
   大臣米内光政とは、「最後に護るべきもの」が違ったため、袂
   を分かった。
  ※ 斎藤隆夫(立憲民政党代議士、兵庫県但馬選挙区)
  (昭和15年2月2日、第75帝国議会、午後3時~4時30分 
     『支那事変の処理方針に関する質問演説』)
   「・・・ただいたずらに聖戦の美名に隠れて、国民的犠牲を
   閑却し、曰く国際正義、曰く道義外交、曰く共存共栄、曰く世
   界の平和、かくのごとき雲をつかむような文字を並べたてて、
   そうして千載一遇の機会を逸し、国家百年の大計を誤るような
   ことがありましたならば、現在の政治家は死してもその罪を滅
   ぼすことはできない。・・」
   (『20世紀、どんな時代だったのか』(戦争編、日本の戦争)
    読売新聞社編より引用)(当時、米内光政内閣)
  ※ 山本五十六
   「そのすぐれた見識から、米英との戦争には絶対反対し、そ
   れがいれられなくなると国家の将来を知りながらも、こんどは
   国家の運命を双肩に担って立たなければならなかった大将の心
   事は、私ごときが筆紙に尽くすことは、とうていできないこと
   である」。
   (星亮一氏著『戦艦「大和」に殉じた至誠の提督 伊藤整一』)
 
  ★「大政翼賛」への道:1940年後半は日本がひたすら堕落してゆく時代だ
  った。全政党が解党、日本から政党が消えた。(昭和15年8月15日)
  1940年1月中旬に米内内閣組閣時、既成政党所属の多数の議員と
  小会派所属の議員は、こぞって自分たちの党を解散して、陸軍と
  協力して新しい大衆政党を結成しようという雰囲気に満ちあふれて
  いた。(既成政党の内部分裂と小政党乱立が背景)。
  ※ 新体制促進同志会
   個人主義・民主主義・議員内閣・多数決原理・自由主義
   ・社会主義を弾劾して報国倫理の確立と指導原理の信奉を
   要求した。
  ※ ただし、政党の正式解散後にもその指導者たちの影響力
   は一貫して存続した。つまり彼等は戦争中にも、非政党エ
   リートや右翼や政党内反主流派などの攻撃から身を守り、
   終戦時には国政に参加する準備が出来上がっていた。これ
   は戦中政治の際立った特徴である。
  ※ 新体制準備会(1940年、昭和15年8月28日、近衛内閣)
   「世界情勢に即応しつつ能く支那事変の処理を完遂する
   と共に、進んで世界新秩序の建設に指導的役割を果たすた
   めには、国家国民の総力を最高度に発揮して、この大事業
   に集中し、如何なる事態が発生するとも、独自の立場にお
   いて迅速果敢、且つ有効適切にこれを対処し得るよう、高
   度国防国家の体制を整えねばならぬ。而して高度国防国家
   の基礎は、強力なる国家体制にあるのであって、ここに政
   治、経済、教育、文化等あらゆる国家国民生活の領域にお
   ける新体制確立の要請があるのである。
   ・・・今我国が、かくの如き強力なる国内新体制を確立
   し得るや否やは、正に国運興隆の成否を決定するものと言
   わねばならぬ」 ( 詳しくは、ゴードン・M・バーガー著
   『大政翼賛会』、坂野閏治訳、山川出版社、PP.211~221)
   (ただし、この近衛の新政治体制への熱意は、支那事変早
   期解決が絶望となって以来、戦時経済統制体制に世論を
   統一し、皇室と国家に対する国民の一体感を強め、体制
   エリートの諸集団が戦時動員に不可欠と考えたいかなる
   政策をも遂行するための手段として、新体制を発展させ
   ることだけになった)。
 
  

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