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ダンテ神曲ものがたり その15

  この記事はまだ途中です。後でまとめて肉付けを行います。


1-9. いまそれら石の縁はのわたしたちを運び行き:この9行は詩人ダンテのト書きのような部分である。現在形の使用に注意のこと。ここでの「わたしたちを」とは、詩人ダンテが巡礼者ダンテとベルギリウスを客観的に見ているのである。第8章注解109-111と比較せよ。

4-6.フラマン人が、ウィサンとブルージュの間を流れる血潮の:ウィサンGuizzanteの街は、ブーローニュBoulogneとカレーCalaisの間にあり、ブルージュBruggiaは、東フランドルFlandre(フランダース)にあり、どちらも13世紀における貿易の中心地であった。ウィサンは重要な港湾都市で、ブルージュは広範囲の、特にイタリアとの貿易で有名であった[フランドル地方の住民がフラマン人で、今のベルギー人である]。
 これらの都市が、それらの人口のうちで相当な数の貿易行商人と船乗りを占めたが、ダンテの時代に男色の評判があったかも知れないことは想像できないことではない。

7.パドヴァ人が:パドヴァが中世時代に男色で有名であったという理論を支持する根拠は知らないが、17世紀のスコットランド人(?)旅行作家であるウィリアム・リスゴーWilliam Lithgowの日記に、彼がパドヴァ人の間で書き留めた男色の好み(「獣のような男色に関しては、途方もなく不潔なものだが、それにもかかわらず彼らにとっては愉快な気晴らしで、彼らのいたずらっ子達Bardassi(buggered boyes:中世英語で「男色が行われた小姓」)の美貌と愉悦のソネットを作り、歌うのである」)に我々が関連を見つけるのは、おそらく単なる一致ではない。

8.温かい季節がカレンターナの雪を激流に変える前:カレンターナはブレンタ川の北に位置する山岳地帯である[現在、パドヴァの10kmほど北のブレンタ川沿いにPiazzola s. Padova(パドヴァに対する小広場、待避所の意味の街)があり、ここから北の20kmほどのブレンタ川が大きな岸と川幅をもっている]

11. 存在するかも知れない技師は:神のこと。

16-114

ここの輪環で懲らしめられている男色の罪はこの章での比喩的表現の多くに審美的に映し出されている(男色者の群れが巡礼者とベルギリウスに流し目を送るという方法で、17-22行)、そしてとりわけブルネット・ラティーニによって使われる言葉において。彼は「何と信じがたいことよ!」という叫び声で巡礼者に挨拶する(24)、そして彼の予言の隠喩的表現においては(61-78)、ダンテは「甘いいちじく」であり(68)、彼に対して「両陣営とも渇望してお前を貪り食う」のである(71)。次の時点で彼は「山羊」によって食べられるべき「牧草」である(72)。そしてブルネットよりもさらに明示的に難しいのはアンドレア・デ・モッツィでの彼の描写においてである(彼はヴィチェンツァで死んだが、「そこでは彼の罪深く起こされた精力が埋葬された」のである、114)。この比喩的表現はこれらの文士ないしは僧侶の男色者が第16章における兵士達のそれに用いられるより逞しい比喩的表現と比較されるべく連携して用いられたのである。

24. 衣服の縁(へり):衣服の裾であるが、英語でヘムhem(縁)というのは、「布の端を折り返して縫った縁」のことである。

30.「これはほんとに貴方様ですか、ここに居られるのは、ブルネット様ですか?」:巡礼者は彼の同時代の人であるブルネット・ラティーニ(1220-94)に敬意を表する代名詞形”voi”「貴方」で話し掛ける(ダンテが第10章でファリナータとカヴァルカンティに対して「貴方」を用いていることを参照のこと)[イタリア語の"voi"は古くは、敬語として目下から目上への話し掛けで、leiの代わりに用いられた。動詞の活用は2人称複数である。原文では、"Siete voi qui, ser Brunetto?"となっている。sieteがessere(・・・である)の2人称複数形である]。ダンテの言葉のうやうやしい響きはこの有名なゲルフ党政治家・作家に対する賞賛と愛情を示している。彼の『知識の宝庫』”Tresoro”(フランス語で書かれた百科全書、以下の119-20.を見よ)と『宝庫』Tesoretto(イタリア語で書かれた寓意詩)は、ダンテ自身の人生と作品に大きく影響した。ブルネットは公証人で、ダンテはそれゆえ彼の名前に公証人への敬称である「様」(イタリア語で"sere")をつけている。モンタペルティ(ペルティ山)でのゲルフ党敗北後強制追放されて(1260)、彼は6年間フランスにとどまった。ベネヴェントでのギベリン党敗北(1266)の結果フィレンツェへの安全な帰国が実現して、そこで彼は死ぬまで公務に活躍した。

31. ブルネット・ラティーニが:[ダンテがあまりにもうやうやしく語りかけたので、「このわしが」という態度で自分の名前を入れたのであろう]

48.かつお前にこの道を案内しているこの方は誰であろうか?:巡礼者はブルネットの2番目の質問に答え損なっている、ひょっとしたら彼の第二の「先生」となっていたベルギリウスの名前を告げることが、ブルネットの感情を害したからかもしれない。

51.わたしはとある谷で道に迷ったのです:この「谷」は第1章での「暗い谷」である。

52. 昨日の夜明け:[4月8日(聖金曜日)

の朝]

54.この道に沿ってこの方がわたしを再び家路へと導かれるのです:すなわち、神へであり、人間の真の家庭へである。中世では人間の地上存在が巡礼すなわち来世のための支度として見られた[現在でも、"Life is a pilgrimage. "(人生は巡礼のごときものである)という諺がある]。

56. われが幸福な人生ではっきりと見たと言うわけではないが:[ここは原文、英文ともにse, ifの後に付属法の過去が続いているので事実に反する仮定であるが、Musaはnot if I saw ・・・と事実に反することをさらに否定して前後行の可能性を強調しているのである]

61-78.しかし感謝の気持ちがなく悪意に満ちた連中が:ローマ人の強力な闘いの間、カティリナはローマを遁れフィエーゾレFiesoleの本来はエトルリアEtruriaの街に彼自身と軍隊のために聖域を造った[中世の教会法では逃げ込めば逮捕や圧迫を逃れた]。カエサルの都市包囲成功の後は、両野戦場の生存者がフィレンツェを建設し、そこはローマ人の野戦場の最高のものであった。
 ブルネットはフィレンツェに関して両政治勢力がダンテの敵となると予言している(61-64)、なぜなら彼が、「ねたましげな連中で、高慢で貪欲」である(68)「酸っぱい野生りんご」の中では(65)、「甘いいちじく」であろだろうからである(66)。彼らは「そこに生き延びたるローマ人の残存」のような「神聖な種」が「そこに再び生きていく」(76-77)ような植物を憎むのに違いないのである。
 この予言は、フィレンツェ(そしてイタリア)の主流国家としての非難と復活しつつある皇帝をほのめかした希望と共に、第13章での「匿名の自殺者」の発言で始められた政治主題を継続し、また第14章での「クレータ島の老人」の象徴に引き継がされているのである。

63. その血に岩と山の頑固さを持っておるが:[原文、Musaともに「頑固さ」の語句がないが、あえて挿入した]

62. 昔ながらのフィエーゾレの子孫:[矢内原注:フィレンツェを建てたのはフィエーゾレの人間である。「悪意に満ちた連中」は民衆で、フィエーゾレから来た民衆とローマから来た貴族がフィレンツェの町を建てたことになっている。ダンテは自分はローマから来たローマ人の末と考えているのです。「お前のりっぱな行い」とは、フィレンツェの町の自由独立を守るため、フランスのシャルルがフィレンツェに入場することにダンテが反対し、阻止しようとしたことである。それが原因となってダンテはフィレンツェを追放せられることになりました]

65. 酸っぱい野生りんごの中では:[原文はli lazzi sorbiで「酸っぱいナナカマドの木」である。sorboは英語でもsorbがあり、mountain ash(rowan tree)ナナカマドであり、「葉が羽状で赤い実をつける高木」のことである。これをMusaはthe bitter berriesとしているが、berryは「果肉の中に種子が埋まっている果実」で、ブドウ・ミカン・イチゴの類である。ここでは英語訳に多いthe sour crab applesを採用した。日本語訳では平川の「ナナカマド」を除けばほとんどが「ソルボ」とそのまま使っている]

67. いつも盲目だと言ううわさ:[矢内原によると、昔ゴート人の王トチラが進入したときに、フィレンツェをだまして門を開けさせた──だまされたから彼らを盲目だという説もあるし、また違う説もある]

68.ねたましげな連中で、高慢で貪欲なのだ:羨望envy( invidia)と高慢pride(haughtinessの方が近い)(superbia)は常にディースの壁を越えた罪の基底をなす。16章注解19-127参照[どちらもカトリックにおける七つの大罪i sette peccati capitaliの一つである。七つの大罪とは、邪淫の罪、貪食の罪、貪欲の罪、怠惰の罪、憤怒の罪、羨望の罪、高慢の罪である]

72. 牧草は山羊の居るところでは育たない:[矢内原注:牧草は山より遠くの安全なところにあって山羊の口には届かない。ゲルフ党の黒党、白党ともにダンテの身を害しようとして求めるが、汝は害せられないだろう]

82-85.わたしのこころは……蝕刻されています(そして今私の心は孔を明けられている):[原文は、"ché 'n la mente m'è fitta, e or m'accora,"で、「(知能、精神、心/理性/記憶/知識)がわたしに(打ち込んだ/留めた)物が、だが今私を悲嘆にくれさせている」という直訳になろうか。これを、Musaは、"my mind is etched(and now my heart is pierced"として、原文にあるコンマをつけていない。原文のfiggere(打ち込む/固定する)-accorare(悲嘆にくれさせる)という精神的動揺語に対して”etch”(蝕刻する:エッチングは蝕刻版画と訳されている)-”pierce”(孔を明ける)という視覚的動揺語を用いている。なお、Durlingは、"for in my memory is fixed, and now it weights on my heart,"で原文に近い。なおこの4行は、一続き文であるので、他の日本語訳では、述語を最後に持ってこざるを得ないのか、82行の訳が、85行に来ている(山川、平川、寿岳とも)。ただし、この場合、原文の85-86行のつながりである、"e"(and)が生きてこないことになる。

85.あなたはいかに人が永遠たるかをわたしに教えられました:ダンテは文学的業績をとおしていかに不朽たるかを彼に教えたのがブルネットであると言うことで彼に対する感謝の念を示しているのである。

89-90. そして他の言葉と共に、/ある婦人が判断できることを示すために蓄えましょう:再び(第10章130-32行のように)、ベアトリーチェが巡礼者に対して未来の道を啓示する人として引き合いに出されている。彼女は、ブルネットによって今詳しく話された人と共に、チャッコ(6章、64-75)およびファリナータ(10章、70-81)の初期の予言に(「他の言葉と共に」)注釈を施すであろう。しかしながら、天国編においてはこの役割がダンテの祖先チャッキアグイーダに委ねられる。

95-96.また未来には未来の喜ぶままにその車輪を回転させ、こまを回し/そして農夫にはその鋤を裏返させましょう:未来がその車輪を回転することは農夫がその鋤を裏返すことと同様に正しいことである。そして巡礼者は後者についてと同様に前者に無頓着なのであろう。
 そこにはまた彼のこの農夫の鋤への関連として、(ブルネットの言葉から)「そこに再び神聖な種が生きていくその草木」(76)を掘り返そうとするかもしれない者に無頓着としての思いつきが有り得ただろうか?[Musaの疑問が実は分からないが、矢内原は単にダンテの運命論だとし、運命というものはめぐるものであり、自分に不幸が来ようとも自分に何が来ようとも、自分に覚悟ができているのだとダンテが述べていると注釈し、「つまり自分の仕事をしておればいいので、運命は好むがままにくればいい、と読んでもおもしろいですね」と述べている]

99. 聞くことをよく書き留める者はよく耳を澄ますものである:ベルギリウスは確かに巡礼者を厳しくはしかっていない。ある考えとしては(彼のブルネットの言葉に対する想定された無頓着に対しては)そうであるが、しかし他の予言を覚えていることとそれらが結局はベアトリーチェによって明らかにされることを信じていることに対して彼をむしろ誉めているのである。そして確かに、巡礼者が「しかしわたしはその人には返事しませんでした。わたしは歩き続け」(100)たように、巡礼者は反応していなかったはずである。

110. アッコルソのフランチェスコもまた然りである:ある褒め称えられたフィレンツェの法律家(1225-94)で、ボローニャ大学で法律を教えた後エドワード一世の招きでオックスフォードで教えた。

112-14. お前は僕の中のしもべが:モッツィのアンドレアAndrea de' Mozziは1287年から1295年までのフィレンツェの司教で、その時、教皇ボニファキウス八世Boniface Ⅷの命により(「僕の中のしもべ」とはすなわち神の僕の中のしもべのことである)、彼は(バッキリオーネ川Bacchiglione沿いの)ヴィチェンツァVicenzaに転任させられ、そこで彼がその年か翌年に死んだのである。初期の注釈者は彼の素朴で場違いな説教と全般的な愚鈍さに言及している。ダンテは、彼の「罪深く起こされた精力」を挙げることで(114)、彼の重要な弱点(自然の理に反した色欲と男色)に注意を向けさせている。上記注釈16-114参照。[「罪深く起こされた精力」sinfully erected nervesは、原語では、li mal protesi nervi「悪く人工的に補欠された神経(または元気)」で、nervoは「神経、筋肉、元気」であり、英語のnerveとほぼ同意語であるが、Durblingはずばりill-protended musclesと「筋力」としている。114行の他の日本語訳は、平川:「その地で不節制の体を死後に遺した」、寿岳:「そこで罪深いぶよぶよの肉の衣を脱いだ」、野上:「悪のため/生命の力を喪った」である]

118. われが混じってはならぬ人々:[第16章で問われる政治家や軍人]

119-20. わが『知識の宝庫』を思い起こせよ、そこではわれ生き続けておる:「知識の宝庫「」は(中世の百科事典のタイトルとして用いられ)、ブルネットの重要な作品であり、フランスに流刑中にフランス語散文で書かれた百科事典である(fr. Livres du Tresor)。テゾーロtesoroは「宝」。

123-24.  緑の絹布を勝ち取るために:13世紀にヴェローナで四句節の第一日曜日に年1回開催された競技の一つである徒競走での優勝品は、緑の絹布であった(パリオpalioと呼ばれた[現在は特に競馬の勝者に与えられる絹の旗のことで、競馬レースをいう。なお、シエーナのパリオでは、年2回中世の服装で行われる])。皮肉にも、巡礼者が見た初老の威厳のある師の最後の姿は、罪を同じくする彼の仲間に合流するために一目散に彼から駆け去る裸の姿である。このヴェローナにおける競技のイメージ(この章における審美的な役割にふさわしく、裸で走る)は読者に次章の運動選手らしいイメージを準備させている。[四句節Lentはイエスの荒野での断食にちなみ、復活日を迎える準備のために行う断食・悔しゅんの期間で、灰の水曜日から復活日前夜までの主日を除く40日間]【資料15-2参照】[矢内原注:ダンテはラティーニに対して非常な尊敬をもってこれを書いております。ラティーニとははからずもここで会い、師弟両方が肝胆相照らした。ダンテはブルネットによって自分の知己を見出し、ブルネットはダンテによって自分の知己を見いだしたのですが、ダンテは身を曲げ頭を垂れてブルネットに近づこうとしましたが、自分のおる立場を下りてゆこうとしなかった。自分はやはり堤の上を歩いているのです。ブルネットは罰を受けているのです。ブルネットはダンテに悪い連中の悪習に染まないようにしろ、と言いましたが、それをダンテはラティーニ自身にもあてはめているのです。ダンテは学問や芸術に対して非常な尊敬を払い、地獄においても尊敬を払うことを忘れませんが、自分がいる立場を少しも譲歩しないのです。それ以外に対してはたとい地獄の中にいる人に対しても、尊敬すべきことは非常に尊敬しておるし、また反対にどんな偉い人でもその冒した罪に対して毅然たる態度をとっている]
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