http://ameblo.jp/this-is-it-monad/entry-11323395729.html
ニンゲンの体の大部分を占める水は,水蒸気となって空に立ち昇る。それは,雨の一部となって誰かの肩に降りかかるかもしれない。何パーセントかの脂肪は土にしたたり,焼け落ちた炭素は土に栄養を与えて,マリーゴールドの花を咲かせ,カリフラワーを育てるかもしれない。(写真・文は藤原新也「メメント・モリ」30~31ページより)
メメント・モリ(MEMENTO MORI)とはラテン語でいつか自分が必ず死ぬことを忘れるなという意味でもあり,警句でもある。起源は旧約聖書のイザヤ書にある。フランスのル・ピュイのゴシック後期の修道院教会の聖歌隊席(コール)の裏手に有名な「死の舞踏」が描かれている。イザヤ書22:13には..... しかし,見よ,彼らは喜び祝い牛を殺し,羊を屠(ほふ)り肉を食らい,酒を飲んで言った。「食らえ,飲め,明日は死ぬのだから」と。
道をたずねた。
老婆は答えた。
上さまに行けば山,
下さまに行けば海。
どちらに行けば極楽でしょう。
どちらさまも天国,
どちらさまも地獄。
世界はあんたの思った通りになる。
文・藤原新也(メメント・モリより)
http://www.geocities.jp/singingstone4/dream4.htmより
世界大百科事典内の死者の書(チベット)の言及
【バルド・トエ・ドル】より
…チベットの密教文献。〈エジプトの“死者の書”〉に対して〈チベットの“死者の書”〉と通称される。正式の題名は《“安寧神と忿怒神を観想することにより自己を解脱させる深遠なる宗教書”の中より,中有(ちゆうう)(バルド)の状態での聴聞(トエ)による大解脱(ドル)≫コトバンクより
第Ⅰ部 夢見の時間への旅
死にゆく人間の宿命を認識し、それを超越する必要性から、神話を作り上げる最初の偉大な原動力が生まれました。――ジョーゼフ・キャンベル『生きるよすがとしての神話』
<死と再生の夢見の時間> 夢見の技法――
かつてエジプト人は、永遠の生命を得ることに、全生命を賭けました。生は不確かで、永遠ならざるものであったからです。そして今もそうであることに違いはありません。だが現代のわたしたちは、この不確かで、永遠ならざる生に対して関心を向けようとはしません。あたかも死は存在しなかのように。
古代のエジプト人は、しかるべき呪文を用意できれば、人は誰でも死ぬとオシリス神となって再生し、永遠の生命を得ると考えていました。そのため、永遠の生命を得て再生するための肉体を保存しておくことに絶大なエネルギーを傾けたのです。
人類は久しく、その発生以来、死後の世界を垣間見ることに全生命を傾けてきたといっても過言ではありません。生が来り、生が往くところを知ることは、人にとって最大の関心事でありました。かくして人類は、死と再生の間に横たわる"夢見の時間"の秘密を何としてでも知らないではいられませんでした。
その秘密を解くことが、生とは何かを知り、かつ何よりも永遠の生へと繋がることになるからです。
死と再生の間に横たわる"夢見の時間"の秘密を解きほどく、優れた死者の書があります。チベット仏教の経典『チベットの死者の書』がそれです。そしてそこには、永遠の生を得る秘密もまた解き明かされているのを見ることができます。
今日活躍するチベット仏教の活仏の一人、ソギャル・リンポチェは「生と死を理解する鍵は、最も奥深くにある心の本性に立ち返ることであり、それが死の瞬間に起こるのです。通常の心の妄想は消え、わたしたちの心は空のような無限の状態へと、覆いを外された状態になります。それは宇宙全体を包み込む広大なものです」(ソギャル・リンポチェ『チベットの生と死の書』講談社)と述べています。
また集合的無意識の領域を切り開いた心理学者のカール・ユングは、「『チベットの死者の書』はわたしの変わらぬ手引書であり、わたしはそれに理念や発見への多くの刺激ばかりでなく、多くの根本的な洞察力を負っている。異なる『エジプトの死者の書』である『チベットの死者の書』は、神々や原始的な野蛮人にとってというよりもむしろ、人類に向けられたわかりやすい哲学を差し出している。その哲学は、仏教心理学上の評論の真髄を含み、人々はこれを本当に比類なく卓越したものだということができる」と述べています。
死後の夢見の時間において、死者が経験するのは四九日間に渡る壮大な夢見です。
死後ただちに、わたしたちは「死の瞬間の、夢見の時間(バルド)」に入ってゆくといわれます。(注:バルドとは、チベット語で、身体を持たずに魂(意識)のみで存在する"存在の中間的な状態"を指し、仏教用語的には中有(中間的な存在)とか中陰とよばれます。)
しかし多くの人が死の瞬間、意識を失ってしまい、この「死の瞬間の、夢見の時間」を認識することができないといわれます。しかしこの死の第一段階のプロセスでは、言葉や時間や空間や自己を超えた完全な超越の状態がもたらされるといわれます。幻影や自分の姿や思考などはなく、あらゆるものから脱け出て恍惚とした、眩しく輝く永遠の生命の至福の光"クリヤー・ライト(光明)"に満たされた状態です。
そして気絶から目覚めるとわたしたちは「存在の本性を体験する、夢見の時間」を体験するといわれます。この第二段階では、研ぎ澄まされた状態の中に、次々と神や霊や天上界といった"夢見"や自分の姿が想い起こされてきて、ついには外界の現実が巻き込まれてくるようになるといいます。
さらにわたしたちは、第三段階である「再誕生の、夢見の時間」にさ迷い込み、やがてこの世界に再び再誕生してくるのだと、『チベットの死者の書』はいいます。
(注:詳しくは拙訳『チベットの死者の書』講談社を参照して下さい)
しかし、この死後の夢見の時間に分け入るには、死ぬ他ありません。
そこで、臨死体験を身体的に誘発することによって、死後の夢見の時間に分け入ろうという技法が見出されてきました。わたしたちはその技法によって、この死後の夢見の時間に分け入ってみようと思います。
アメリカの精神医学者スタニスラフ・グロフによって開発された夢見の技法で、「ホロトロピック・ブリージング(全的呼吸法)」といわれるものです。
グロフは、インドのヨーガの呼吸法である「バストリカ(ふいご呼吸)」に注目したのです。この「ハー、ハー」と、ふいごを吹くように浅くて速い過呼吸を、激しく十分から三十分くらい繰り返していると、体がこわばり、死後硬直のような状態になってきます。
死に際の人が酸素を求めて喘ぐのに似て、一種の酸素飽和状態がかもし出され、頭が痺れるような、あるいは透明になるといった方がいいかもしれませんが、そうした感覚が広がってくると共に、体全体が自然に引きつり、硬直してきます。そしてこれをさらに押し進めてゆくと、魂が離脱したような感覚になり、様々な"夢見"を体験するようになります。そこでは一種の臨死体験が起こっていると考えられます。
まずグロフが注目したのが、赤ん坊が狭くて暗い産道を通って生まれ出てきて、酸素を求めて激しく泣くプロセスです。分娩に際して、赤ん坊は胎内から外界へと押し出されるばかりでなく、臍から与えられていた酸素を肺呼吸に切替えねばなりませんが、赤ん坊はそこで、一時的な酸素欠乏状態に伴う「死」を経験しているのではないかという考察です。
そしてこの誕生の過程を逆行することで、分娩前後の「死」を通過して、胎児の夢見の世界に分け入り、胎児の進化過程に見られるような、単細胞からアミーバや魚、爬虫類から人類に至るまでの、幾億年の"夢見(「存在の本性を体験する夢見の時間」)"を想い起こし、さらには宇宙意識的な霊的、神話的次元(「死の瞬間の夢見の時間」)まで遡ってゆくことができるのではないか、と考えたわけです。
このプロセスをより有効に進めるために、トントントントンといった喚起的な音楽が流されたり、さらにプロセスが進んで死後硬直の兆候が現れるようになると内宇宙へとくゆりなく溶け入ってゆくような音楽が流されたりします。このプロセスは約二時間くらいつづき、回を重ねる度に、意識の様々な層の"夢見"が発見されてゆきます。
「手足が痺れてきて、しばらくすると体が胎児のように丸くなってきて、自分の内へもぐり込んでゆきました。すると緑の光が渦巻いている宇宙にふいと出てきて、光の渦の中に吸い込まれてしまいました。そして輝きと至福の感情に満たされてゆきました」
心理学のアプローチから見てみると、フロイトの精神分析は「再誕生の夢見の時間」に見られるオイディプス・コンプレックスといった性的ファンタジーの生物学的、本能的、神経症的な領域に入り込んだものの、そこで手詰まり状態に陥ってしまい、その先へゆくことはできませんでした。それを突破する鍵をユングはこの『チベットの死者の書』に見つけたのです。
そのユングが勧めているのが、ここで紹介したグロフの、「夢見の時間(バルド)の逆行」です。フロイトが達した「再誕生の夢見の時間」から、個人を超えた宇宙的事象を体験する「存在の本性を体験する夢見の時間」へ、そしてすべてを超越した根源的な〔宇宙意識〕を体験している「死の瞬間の夢見の時間」へと死のプロセスを逆行してゆくことです。そしてグロフが獲得した夢見の技法が「ホロトロピック・ブリージング」だったわけです。
この"死と再生の夢見の時間"へと分け入る「ホロトロピック・ブリージング」を行うには、必ず指導者に従って行うことが重要です。国内にもいくつかの「ホロトロピック・ブリージング」を行うワークショップが開かれています。
<アボリジニの夢見> 夢見の技法――
夢見は今も、わたしたちの意識の内に、ヴィヴィッドに存在しつづけています。
アボリジニの夢見の時間、ドリームタイムによれば、祖先のドリームタイムが、虹の蛇によって、大地にもたらされたといいます。その潜勢する波動の力は、丘や小川や湖や木々を生成して、再び天空めざして昇っていったと。大地には今も、その原初の潜勢力が宿り、活性化されつづけているといわれます。
「大地とは、創造を司る知性の中心であり、原初の夢見の象徴と記憶である。大地の歌に耳を澄まし、大地のエネルギーに意識を集中することで、アボリジニは、宇宙の夢見の声を聞き取る」(ロバート・ローラー『アボリジニの世界』青土社)
といわれます。この世界そのものが、祖先の夢見であり、そこに原初の夢見が宿されているからには、大地やこの宇宙の声を聞き取ることそのものが夢見の技法であるのです。わたしたちは夢見の中で夢を見ようとしているといえます。
「アボリジニは、ドリームタイムの造り主ならではの純粋知覚を通じて、野生と創造の不思議に直面しているのである」(ロバート・ローラー、前掲書)
アボリジニにおける夢見の技法は、睡眠中にも意識を目覚めさておくことからはじまります。そうした一連の儀礼(歌や踊りなど)を通して、意識の変容状態をつくり出し、その覚醒した意識状態(トランス状態)において夢見の時間へと入ってゆき、そこから夢見を紡ぎ出してきて、それを形象化させ、その形象化を生きるのです。夢見を生きることが生きるということなのです。世界は夢見(潜勢力)の形象化に他なりません。そしてまたわたしたち一人ひとりの内に全宇宙(全宇宙の潜勢力)が宿されているわけでもあるのです。夢見を通して、わたしたちはそのことを知るのです。こうして全宇宙(全宇宙の潜勢力)を生きているわたしがここにいるのです。
踊りを通してトランス状態に分け入る技法は、世界各地にも見られます。スーフィーの旋回舞踏、バリのケチャ(これは近年作り上げられたものである)、そしてインドの内的本質と合一しようとするバウル(瘋狂者)の歌など、様々なものがあり、舞踏や歌は最も基本的な夢見の技法だといえます。
最もシンプルなものとしては、多くのシャーマニズムに見られるように、ドラミングなどの繰り返されるリズムによって、催眠を誘導するようにして、夢見の時間に分け入ってゆくことができます。その時、眠ってしまうのではなく、意識を目覚めさせておくことがとても重要です。そうすることによって、覚醒しながら夢を見ることができるようになるのです。
アボリジニにとって性的なものもまた、大地に宿された潜勢力の発現であり、アボリジニの人々は性を通して霊性的次元に深く巻き込まれています。性もまたとても霊性的な、夢見のものなのです。またインドのヒンドゥー教やチベット仏教におけるタントラの中にも、こうした要素を見ることができます。
霊性的な宇宙的エネルギーと共に生きるということは、夢見の中で夢を見て、夢見を生きるということに他ならないのではないでしょうか。そこに夢見の技法の究極的な姿があるように思われます。
「自然は生命を人類に与え、人類は文化を通じて、自然に意味を与える。こうして人類は、肉眼では捉えられないドリームタイムの創造者の姿を具体的に捉えているのだ」(ロバート・ローラー、前掲書)
わたしたちは大地の声を聞く前に、まず、わたしたち自身の身体の声を聞くことからはじめてみてはどうでしょうか。わたしたちは余りにも"聞く"ことに親しんで来なかったからです。
アボリジニの夢見に注目するアメリカの心理学者アーノルド・ミンデルの、身体の声を聞くことからはじめる夢見の技法を紹介してみましょう。
「身体の内側に注意を向け、動きに向かう極めて微細な傾向に注意を払う。その傾向を感じ取れたら、それに従い、その傾向が向かう方向に身体を動かしてみる。たとえば、首の力を抜いて頭を垂らそうとする傾向を感じたら、頭を垂らし、その傾向に従ってみる。もし、腕を伸ばそうとする傾向を感じたら、その傾向に従い、それを『展開』する。それを表現するのだ。
身体のどの部分がどんなふうに動くのかという点に注意を向け、そして自分のその動作に関連していそうな空想に注意を払う。
……要するに、ある方向に向かう動きの傾向は、ドリーミングの力によって引き起こされる。ドリーミングやその傾向に注意を払うとき、あなたは夢の源に注意を払っていることになる」(アーノルド・ミンデル『プロセス指向のドリームワーク』春秋社)
(注:詳しくはアーノルド・ミンデル『プロセス指向のドリームワーク』春秋社を参照して下さい。国内にもいくつかの、ミンデルのドリームワークを受けられるワークショップがあります。)
夢見の中に登場する人物やそれらと関係するわたし、夢空間をすばやく飛翔するドリームタイムのイメージ、そして夢から現れた日常といった色糸を、夢見るわたしとファシリテーター(促進者)が一緒になって、ドリームタイムの響きを感じとり、あるときは助けと智恵を授けてくれる盟友の力を借りながら、それらがひとりでに夢を織るに任せて、共に物語を織ってゆくのです。こうしてわたしたちはそこから、わたしたちの物語を紡ぎ出してくることができるようになるのです。
「それぞれの文化は神話――ドリーミングからやって来る物語――を共同で創り出す。神話は何千人そして何百万人の共創のプロセスである」(アーノルド・ミンデル)
<ヴィジョン・クエスト> 夢見の技法――
ネイティブ・アメリカンにとって、ヴィジョンを探す旅は最も大切なものです。世界とは何か、わたしは誰かのヴィジョンを探すヴィジョン・クエストを経て、少年は、はじめて一人の成人として、共同体に受け入れられるのです。
ヴィジョン・クエストをするためには、一人で荒野に出て、断食しながら、夢見の時間を旅しなければなりません。死を受け入れながら、洞窟の闇の中で夢を見、そしてそこから再誕生を果たしてくるのです。その時、人は、彼自身の"新しい名前"や"世界の歌"をつかみ取るといわれます。
あるいは、わたしたちは、母なる大地の子宮であるスウェット・ロッジ(汗かき小屋)のセレモニーに参加しながら、ヴィジョン・クエストをすることもできます。
スウェット・ロッジは、大地の子宮を模して、大地のあばら骨である柳の枝で作られた直径三メートルくらいの半円球のドームで、土と布で覆われ、ドームの中央に炉が設けられています。そこに熱された「原初の存在(グランドファーザー)である岩」を運び込み、その石の上に「生命の水」を注いでゆきます。すると聖なる生命の息である激しい熱気と蒸気が発して、参加者の身体と心を浄化して、夢見の時間へ、ヴィジョンの旅へと誘ってゆきます。
もちろんこれらはネイティブ・アメリカンの、夢見の技法であり、メディスンマンといわれる霊的な指導者の下で行われることが望まれます。
「ロッジ(大地の子宮)の入口の前には、小さな土の壇が築かれ、その上には、清めの儀式に用いるセージの葉が燻る貝殻と、生きとし生けるものすべてのものの連なりを象徴する『聖なるパイプ』が捧げられていた。
その向こうに、大きな火床があり、ファイヤーマンが勢いよく薪を焚き、直径二十センチくらいの岩が数十個真っ赤に焼かれていた。
生まれてくる赤ん坊がそうであるように、裸で大地の子宮の入口である小さなにじり口を、『ミタクエ・オヤシン(わたしに連なるすべてのものに)』と唱えながら入ってゆき、炉を中心にして、右回りに回りながら奥へとにじりながら入ってゆく。十人も入れば中はもういっぱいである。そして中心の炉に真っ赤に燃えた岩が次々に運ばれてくる。
入口が閉ざされると、闇に包まれ、岩がさらに燃え上がっているように見え、熱気が満ちてくる。スウェットの儀式に関する説明の後、四方位の歌やわたしに連なるすべてのものに捧げられる祈りなどが歌われながら、熱された原初の存在(グランドファーザー)である岩の上に生命の水が注がれてゆく。すると聖なる生命の息である激しい熱気と蒸気が体を襲ってくる。一気に汗がたらたらと溢れ出してきた。皮膚が焼けただれるようなすごい熱気である。生命の水が四回、真っ赤な岩に注がれた。こうして一回目の儀式が終わると、水を呑み、また赤く焼けた岩が運ばれてくる。そして再びスウェットの儀式がつづく。それが四回繰り返された。
この熱気の浄化の儀式の中で、激しい汗と共に、何かにしがみついていた意識はどこかへ吹き飛んでいってしまったかのようであった。何かもう意識どころではなかったといった方がよかった。
儀式を終えて、外に出ると、儀式の始まる前、天空に縦にかかっていたサソリ座は、今、横に傾き、星座が一段と輝きを増していた。宇宙空間に自分が浮かんでいるように感じられ、世界は至福の輝きに満ちていた。世界は心の内に融け入り、心は世界の内に融け入って、宇宙と一つとなり、世界に新たに生まれ出たすがすがしい再誕生の感動に満たされて、しばらく陶然としてそこに立ちつくしていた。『世界であるわたし』が、そこ(今ここ)ににあった」(拙著『夢見る力』所収)
また、ネイティブ・アメリカンの夢見の技法には、サボテンの一種であるペヨテというメディスン(霊的な力を持った植物、神の糧)を用いて、ヴィジョン・クエストをすることもあります。この技法もまたメディスンマンの下で行われてはじめて、その力を持つことができます。それはペヨテの採取の儀式からはじまり、儀式の一つひとつの段階が参加者に精神的な心の準備を促し、そして夢見の時間の、霊的世界の領域へと誘ってゆきます。
それらはヴィジョンばかりでなく、歌として、あるいは物語として、予言として現れ出てくることもあります。
「おれは歌だ。
おれはここを歩く」
と、あるネイティブ・アメリカンは歌っています。それが彼の見た、世界の歌(ヴィジョン)なのです。
ネイティブ・アメリカンの一部族、ホピ族には、夢見の時間から紡ぎ出された「ホピの予言」というものが語り伝えられています。ホピとは「平和」という意味です。
「ホピの予言」は、彼らの祖先であるグレイト・スピリット(偉大なる精霊、大いなる神秘)のマーサウから与えられたもので、ホピの創世記からはじまる物語です。その物語は石版に描かれた絵や象徴によって伝えられてきています。広島、長崎への原爆投下後、その石版の再解読が、一九四八年になされたました。予言には次ぎのように言われていました。
「決して母親の内臓をえぐり出すようなことがあってはならない。もし、それをえぐり出したときには、灰のびっしり詰まったヒョウタンとなって空から降り、やがて世界を破滅させるだろう。……それが空から落ちた暁には、海は煮えたぎり、大地は赤くただれ、何年もの間、そこには何も育たず、どんな薬も医者も役に立たない悪い病気が蔓延するだろう」
原爆のウランは、ホピ族の住むの母なる大地から掘り起こされ、そして広島、長崎に投下されたのです。予言はまさにこのことを告げているのだとされたのです。
わたしたちはこのままこの道を歩んでゆけば、地球そのものが破壊されてしまうだろう。もしわたしたちがそのことに気づき、もう一つの道を歩んでゆくなら、破滅は回避されるだろうとホピの予言はいいます。そしてホピの人たちはそのメッセージを世界に向かって伝えるために、世界中にメッセンジャを派遣することを決意したのです。(その姿を、わたしたちは映画『ホピの予言』宮田雪監督ランド・アンド・ライフ制作に見ることができます。)
ここには神話が今もわたしたちの内に生きている姿を目にすることができます。
<宮沢賢治の夢見の時間> 夢見の技法――
「二疋の蟹の子供らが青じろい水の底で話てゐました。
『クラムボンはわらったよ』『クラムボンはかぷかぷわらったよ』『クラムボンは跳てわらったよ』『クラムボンはかぷかぷわらったよ』」(宮沢賢治『やまなし』)
そう聞いただけで、わたしたちは忽ち、世界がぷかぷかと立ち上がってくるのを覚えてしまいます。宮沢賢治の物語にはこうした、世界を立ち上げる夢見の力が満ち満ちています。
八ケ岳の蔵屋グリーンズ(〇六年九月十六日)で、おつきゆきえさんによる、宮沢賢治の朗読会がありました。
「ゆきえさんが賢治を朗読すると、その場は突然霧に包まれ、逃げた牛を追いかけて森に迷い込んだ子どものおびえた顔や、お酒を好きなだけ飲んで気持ちよく酔っ払った山男が現れます。風が変わり、匂いが漂い、場が生まれます。賢治の魂がまさに今、ゆきえさんに降りてきている。賢治の息遣い、祈りが感じられる。今はじめて会った人たちと、目と目で語り合えるような連帯感さえ生まれます」(いしかわはるか「風の輪学校ルン」4号)
賢治と語り手おつきゆきえさんによって生まれた夢見の時間がそこに立ち上がってきたのです。
「わたくしという現象は 仮定された有機交流電灯の ひとつの青い照明です」(『春と修羅』序)と賢治はいっています。「わたし」とは、実体的に存在するものではなく、+と-の間で点滅を繰り返す幻の有機的な「関係性」であって、実体のない「ひとつの青い照明」なのだと。
そうした彼は、世界を、関係の物語として捉えていたと思われます。『注文の多い料理店』序に、それがよく現われているのを見ることができます。
「わたくしたちは、氷砂糖をほしいくらいもたないでも、きれいにすきとおった風をたべ、桃いろのうつくしい朝の日光をのむことができます。またわたくしは、はたけや森の中で、ひどいぼろぼろのきものが、いちぼんすばらしいびろうどや羅沙や、宝石いりのきものに、かわっているのをたびたび見ました。(中略)
わたくしは、これらのちいさなものがたりの幾きれかが、おしまい、あなたのすきとおったほんとうのたべものになることをどんなにねがうかわかりません」(『注文の多い料理店』序)
『銀河鉄道の夜』は、若くして亡くなった賢治の最愛の妹トシの魂を尋ねて、銀河鉄道という夢見の時間を旅する物語でもあるといわれています。
「どうしてわたしはわたしのからだを、だまっていたちにくれてやらなかったろう。そしたらいたちも一日生きのびたろうに。どうか神さま。わたしの心をごらんください。こんなにむなしく命をすてず、どうかこの次には、まことのみんなの幸のためにわたしのからだをおつかいください」(『銀河鉄道の夜』)
「銀河系を自らの中に意識して」という賢治は、夢見の技法によることなく、夢見の時間を旅する豊かな感性を備えていたのです。それらの感性は、本来、わたしたちすべてに備わっているはずです。そうした感性をわたしたちが持っているために、わたしたちは賢治の世界に出会ったときに、その豊かな感性と響き合うことができるのです。
わたしたちは賢治の物語をとおして、夢見の時間に入り込むことができます。そしてその旅から帰ってきたとき、わたしたちは、世界を異なる次元から見ているわたしに気づくはずです。世界は、活き活きと輝きを増し、物語として現れ出てくるのです。そしてあなたはその新たな物語を生きてゆこうとしはじめるのです。
<祈りという夢見> 夢見の技法――
この国にもまた、かつては豊かな夢見の時間がありました。
縄文の文化が栄えたこの八ケ岳周辺にも、「縄文のヴィーナス」像をはじめ、豊かで、創造性にあふれる文様を持った土器や土偶が多数発掘されています。そしてそこから縄文の人々の夢見の時間を垣間見ることができます。
世界は霊的な神秘の力に満ち満ち、そこでは、世界が夢見の場そのものであったと思われます。世界と人が、共振しつつ、夢を見ていたのです。夢見が世界を創り、世界が夢見を創っていたのです。
燃え上がるような火炎土器――霊的な世界とわたしたちを仲立ちする、神秘的な力を秘めた火。わたしたちは今も、迎え火、送り火を焚いて、霊を迎え、霊を送りしています。あるいはまた、創造の神秘としての女性像。そうした片鱗から、彼らの夢見の世界を旅してみることは可能です。
人と世界が共振しつつ夢を見る場が、いまだ息づいている場所があります。インドネシアのバリ島を旅したときのことです。
「夜半、濃密なバリの夜の闇の中に分け入っていった。淡く白い月のヴエールをかむって、樹々たちの霊が、夜の天界を覆っているのがありありと感じられてくる。ただならぬ世界がそこにある。天のそこに、地のそこに、生い茂る木々や草、そして石たちのそこに霊が宿り、さわさわ、ざわざわと語りかけてくる。魑魅魍魎の影絵の世界がそこにある。星がささやき、宇宙が語り、木々がおいでおいでをしている。
夜が明けてきた。いん陰の闇の世界が、よう陽のひ陽の世界に取って代わられようとしている。魑魅魍魎の闇に煌く影絵の世界が、大きく息を吹き、陽の風を吸う時だ。月の去った闇の空の向こうの、黒々とした樹々と雲間の間に黒ずんだ重い、しかし、赤い陽の朝映えの一滴が始まりはじめる。それはしだいに広がり、明るく輝きを増して赤く映えてくる。そして紫色のような、それでいて青のような淡く淡く透明な空へと、次から次へと移り変わってゆく。朝映えはしだいに東から西に掛け渡り、西の空に陽の映えが当たる頃には、西の陵線の雲が慌ただしく動き、遠くに山が姿を見せてきた。この陰から陽への世界のドラマの中で、朝露の風の中、稲はそよぎ、そして人は川へと沐浴に急ぎ、野へ、あるいはバザールヘと天秤棒を担いでひょこひょこと向かう……」(拙著『カントリーダイアリー』所収)
縄文の人々の伝承を受け継いでいると思われるアイヌの人たち。その『ユーカラ(神謡集)』や「ウポポ(歌)」などの中に、こうした夢見は息づいているのではないでしょうか。
万物の中に霊的な本質を見るアイヌの人たちにとって、神は、上の天の国から依り代である高い山や森や木に霊が降りてきて、川に沿って村にやってくるといわれます。そして
家は、火の神を通して様々な神々を拝するために建てられ、家の内の中心は火床であり、火の神であって、火の神を介してさまざまな祈りが神や霊たちに捧げられます。
アイヌの人たちは、祈りによって神々と結ばれています。人が祈ることによって神々は存在し、そして神々が祈りに応えてくれる故に人は存在することができるのです。霊を迎え、感謝し、そして霊を送る祈りがアイヌの生活なのです。熊や鮭が、人に生命を差し出してくれていることに、人は感謝を捧げ、そしてその霊を手厚く黄泉の国に送り、再びこの世界に環ってきて、生命を差し出してくれることを願うのです。こうして死と再生の輪が巡ってゆくことができます。
こうした儀式は、世界各地の、狩猟採取民族に共通するものです。生きとし生けるものはすべて、他の生き物を殺して食べなければなりません。それは植物を食べるとしても同じことです。他の生き物を殺して食べることと知性との折り合いをつけるために、わたしたちはこうした儀式を必要とするのです。そしてその儀式によって、死んだ魂は蘇り、儀式によって与えられた踊りや歌やごちそうを求めて、再びこの世界に、動物たちは食べられるべく現われてきてくれるのです。
そして農耕文化が始まると種がそれに取って代わり、一粒の麦は、死ぬことによって、多くの実を結ぶことができるのです。人はそのプロセスを願い、祈ってきたのです。
祈りそのものが、ドリームタイムなのです。祈りのそこに夢見の時間があり、祈りが世界を立ち現すのをアイヌの人たちは見ているのです。何よりも、祈ることが人間であることなのであり、人間の役割なのです。人が祈ることを止めたとき、世界は、世界を立ち現すドリームタイムの潜勢力を失い、崩壊してしまいます。
こうして世界は祈りによって支えられ、祈りによって与えられているのです。
そうした系譜を、今日、わたしたちは神道の中にも見ることができます。しかしわたしたちには、アイヌの人たちの系譜を参照光としながら、伝統の持つ様々なノイズを取り払って見ることが求められねばなりません。名前の中に、あるいは権威や権力の中に閉じ込められた万物の霊性を解き放ってやることです。名前や権威や権力の中にそれらはあるのではないからです。
神道と仏教の習合した修験道の中にも、夢見の時間を見ることができます。山や森そのものが、夢見の場とされ、産道である山門を逆行して母の胎内に入り、そこで夢見の時間に潜り込み、そして再び再誕生してくるのです。わたしたちはそこで、条件付けを超えて、どこまで見ることができるのかが問われます。修験の道も、神の道も、仏の道も超えて見ることをです。でなければ、それは形としての修験の道を、神の道を、仏の道を見ているにすぎないからです。禅は、仏を殺しつくして、はじめて世界を見ることができるといいます。夢見とは、そうした、"超えて見る"ところにはじめて立ち現われてくるものなのです。
<メディスンの旅> 夢見の技法――
夢見の時間を旅するために、人類はその長い歴史の中で、メディスン、神の糧といわれる神秘の薬草を用いてきました。
酒もまた、かつては、神と一つになったり、夢見の時間を旅する神の糧でありました。
ネイティブ・アメリカンのある部族の間では、ペヨテとよばれるサボテンが、南米アマゾン地帯ではアヤワスカという植物が、中米や東南アジアなどでは幾種類ものマジック・マシュルームなどの神の糧が用いられてきました。
わたしたちの脳内には、こうした薬草のもつアルカロイドの受容体があります。人はなぜアルカロイドの受容体を持ち、植物は夢見を促すアルカロイドを持つのでしょうか。自然との共振としてそれらは与えられているのかもしれません。
わたしたちは、そうした呪術師に師事した文化人類学者カルロス・カスタネダの著わした『呪術師と私――ドン・ファンの教え』シリーズ(二見書房、講談社刊)などにより、夢見の時間の内実を知ることができます。その英知の豊かさには目を見張るものがあります。
呪術師ドン・ファンは夢見を見るばかりでなく、世界を"見る"ことをカルロス・カスタネダに促します。
「『きのう、世界は呪術師がおまえに教えたような世界になったんだ』彼はつづけた。『その世界じゃコヨーテはしゃべるし、シカもしゃべる、いつかおまえに話してやったようにな。それにガラガラヘビも木も、命あるものみんなだ。だが、わしがおまえに学んでほしいのは、見るってことだ。たぶんおまえにも、見るってことは、ふつうの人世界と呪術師の世界とのあいだに入りこんだときしか起きないことがわかったろう。今、おまえはその二つの中間にいるんだ。きのう、おまえはコヨーテに話しかけられたと、信じとった。見ることのない呪術師なら、同じように信じるだろう、だが、見る者は、それを信じることが呪術師の領域に釘づけにされちまうことだってことを知っとる。それと同じで、コヨーテがしゃべったってことを信じないと、ふつうの人間の領域に釘づけにされっちまうのさ』」(『呪師になる――イクストランへの旅』二見書房)
夢見にも技法があるのです。『ドン・ファンの教え』シリーズはそのことを様々な角度から語ってくれています。
これらの神秘の薬草や、その合成薬は、サイケデリックスとも呼ばれます。"魂や心を解き開くもの"という意味で、一九六〇年代に精神医療や臨床心理の分野で用いられるようになりました。サイケデリックスを用いた精神療法のパイオニア、精神科医の加藤清(元国立京都病院精神科医長)はこう語っています。
「根源的なリアリティに向かうことが、人間にとっての究極的関心でしょう。サイケデリックスはそれを活性化する一つの方法ですね。そのことを世界の宗教学者に知っておいてもらわないといけないと思って、『サイケデリック現象と究極的関心の活性化』という論文を書いたわけです。サイケデリックスはインスタントの悟りだとか言われ、実際そう言われても仕方ない面もありますが,本当はリアリティを知るための一方法なんです」(加藤清『この世とあの世の風通し』春秋社)
「山間の深い闇の中で、静寂を破ってなだれ落ちる滝壷の前に坐っていた。ドドーツと響きわたる滝壷のエコーだけが世界を満たして、深い瞑想の時が過ぎていった。
人の内で、眩しくきらびやかな閃光が飛び交いながら、宇宙の生と死の、壮大なドラマが、永遠に時をとどめて、演じられていた……。
宇宙の夢見がわたしをつくり出し、わたしの夢見が宇宙をつくり出していた。わたしが見、発見し、意識するたびに、宇宙はその新しい姿をわたしの前に顕わしてくる。わたしとそれとの間で、宇宙は創り出されつづけている。
まことにささやかな人というものの狂気の乱舞――。
世界は、スピリチュアルな、霊性的自覚の中に立ち現れてくる。
世界はそのままで、スピリチュアルな、霊性的現実としてある。
霊性としてのいのちがそこにあり、霊性としての岩が、樹々がここにある。
宇宙はわたしと共に生まれ、わたしと共に滅し去っててゆく。わたしの気づきの中で世界は生まれ、そして滅してゆく。わたしの刹那の中でそれは刹那であり、わたしの永遠の中でそれは永遠である。
宇宙というわたしがいて、滅する。それはわたしの内の、魂の、霊性的できごとと同じだ。霊性的な自覚の生起としてのみ、それはある他はない。
霊性的自覚の内に、世界を己のものと、生滅を己のものとすることができる……。
そして世界は、絶対の今(永遠)という自覚の中に舞うダンスとして、立ち現れてきた。
山間の深い闇がうっすらとピンク色に明け始めてきた。
そして目を静かに見開いていった。そこには、天地創造の壮大な営みが、光り輝くカミガミの下に、今まさに始まろうとしていた――光り輝く透明な宇宙曼荼羅が。
まさしくこの瞬間に、宇宙にあらゆる植物が息吹き始め、小鳥たちが声を得てさえずり始めた。宇宙は三六〇度、パノラマ状に開き、そそり立つカミガミの渓谷は発光する緑に燃え上がりながら眩しく輝き、いのちの世界が花咲こうとしていた。部族の長となった人は、雄々しく胸を張り岩の上に立って神々の眩しい発光に応えていた、わたしたちはわたしたちの部族の村を、まさしくここに開くのだと……。
雪崩れ落ちる滝は、人の百四十億の脳細胞を洗い流しつづけていた。人は天地創造のクリエイションに参加するのだと、天空を仰ぎ見る。天空の辺縁には発光する緑のオーロラが浮かび、カミガミ(霊性的自覚)の織りなす無数のヴィジョンが雲を形づくっていた。
人はまた静かに坐った。意識は眩しく発光する宇宙へと融合してゆき、その至福にみちた世界を旅しはじめた。
そして人は滝壷の前から、発光して輝くカミガミ(霊性)に導かれて、カミガミの地へと行進しつつあった。すその長い、ひだのきらびやかな衣につつまれ至福に満ちた聖者たちが、一歩一歩ゆっくりと山を登り、谷を下って行進してゆく。人は天の河を渡って白い花の咲き乱れ、たわわに実った、甘ずっぱいオレンジ畑を走っていった。ビュン、ビュン、ビュンと体は宙に浮いて飛びはねてゆく。暖かいカミガミの発光の中で、人は岩の上に立ち、走り、そして坐って宇宙を満たしている魂とテレパシーを交しはじめた。
人は解き放たれた魂の、あるがままの姿にあることの中にすべてを見ていた。宇宙はカミガミの、オーガニズムの「虹の風」に乗って流れていた。
わたしは誰でもなく、何でもなく、わたしは宇宙だった、わたしは眩しく輝く光だった。
晴々とした新生。死して生まれた、死の宇宙をくぐりぬけてきた生……。
山は緑に息づき、川はささやきながら流れ、草木は花咲き、鳥は歌い、人々は全き今にいた」(拙著『超死考』地湧社 所収)
これらサイケデリックスの"夢見の時間"を旅するためのガイドブックとして、『チベットの死者の書』がしばしば用いられてきました。"夢見の時間"の旅で迷ってしまったら、『チベットの死者の書』を開いてみて下さい。
夢見の時間への旅を追ってきましたが、夢見の時間への旅を通して問われているのは、世界を"見る"ことです。呪術師ドン・ファンが言うように、夢見の時間を信じることができなければ、わたしたは現実世界に釘付けにされてしまいます。しかし、夢見の時間に巻き込まれて、それらに釘付けになってもまた、世界を"見る"ことはできません。世界を"見る"には、これら二つの世界の中間に立つことなのです。
アボリジニの人たちもまた、夢見の時間(ドリームタイム)のみに釘付けされることなく、夢見と自然界が同時に存在し、それぞれがもう一方のイメージであるような世界観を持つことだと言います。
ブッダもまた、この現実世界が堅固な永遠不滅の実体をもたずマーヤ(幻)であること、そして夢見の時間を支え持つ神々もまた永遠不滅の実体をもたずマーヤ(幻)であることを喝破して、世界を"見る"とは二つの世界を包み超えた、二つの極端を離れた中観(中道ともいわれる)に立つことだと述べています。
夢見の時間の世界と関わる能においても、"離見の見"ということが言われます。
夢見を実体化して釘付けされてしまっても、そしてまたこの世界を実体化して釘付けにされてしまっても、世界を"見る"ことはできません。
そしてこの"見る"ことの中からはじめて、世界に向って解き開かれた神話が、立ち現れてくることができます。第二部では、神話の再生への道を追ってみたいと思います。
〔"見る"について、詳しくは拙著『宇宙の見る夢』第6章「SEE」(雲母書房)を参照していただければと思います。〕
●『チベットの死者の書』--神と個の、空性性の理解のために
『チベットの死者の書』というのは、死者が、死の瞬間から、死後四十九日の中有(魂が再誕生するまでの間の、存在の中間的状態)の間に辿る、死者の魂のための導きについて書かれたチベット仏教の経典です。
それは、八世紀の頃、チベットにこんごうじょう金剛乗(タントラ乗、密教ともよばれる)仏教をもたらしたパドマ・サムバーヴァ(れんげしょう蓮華生)によって書かれ、十四世紀カルマ・リンバによって発見されたといわれています。
『チベットの死者の書』は『バルド・トドル』と呼ばれます。「バルド」とは、存在の中間的状態(ちゅういん中陰、ちゅうう中有)を意味し、この本は、輪廻転生して次の生を受けるまでの間の、死後四十九日の間に、死者に「聴くことによる解放(解脱、あるいは覚者〔仏〕になること)を与える」ための経典です。
チベット仏教では、生そのものを"現象するプロセス"と捉え、バルドには六つの状態があるといわれます。
わたしたちが今生を受けている、存在世界のバルド
死の瞬間のバルド
そして死後の世界(中有)で、存在の本性を経験しているバルド
この世への、再誕生を求めている間のバルド
夢のバルド
瞑想のバルド
この六つです。
わたしたちのこの世界もまた、生滅を繰り返す、永遠不滅の実体のない幻のものであり、夢も、瞑想も、死後の世界もまた、永遠不滅の実体をもたないものだと『チベットの死者の書』はいいます。
●死の瞬間のバルド
チベット仏教では、生と死を理解する鍵は、もっとも奥深くにある〔心の本性〕に立ち帰ることであり、それが死の瞬間に起こる、といわれます。
死の瞬間、死者は、臨死体験者の多くが見るような、あらゆるものを超えた、『眩しく輝く原初の『こうみょう光明(クリヤー・ライト)』の中に投げ出されます。(厳密には、臨死体験者が見る『光の生命』の後に、『暗黒』があり、その後に『眩しく輝く原初の光明』が体験されるのですが。)しかしほとんどの死者は死への恐怖から、失神してしまい、『光明』を認識することができません。この『光明』の状態は死後数時間から数日間(三日半から四日半くらい)つづくといわれます。
この『輝き、至福で、空である光明(生命の源泉に輝く永遠のいのち)』をありありと認識し、それと一つになることができるなら、人は永遠の生命を得て、再びこの輪廻転生する世界に生まれ出てくることはないんです。その状態が成仏、仏(目覚めた者)に成ること、解脱です。『チベットの死者の書』には次のように説かれています。
ああ 善き人よ。聴くがよい。今汝は、まこと真の存在の本性のクリヤー・ライト(光明)の発光を経験している。それを認識しなければならない。
ああ 善き人よ。本性が空、生来の空(実体のない、非顕現な全一態)であり、何らかの特徴や色へと形づくられない汝の現在の知性は、存在の本性そのもの、妙善なる母(母なる本初仏――原初の母)である。
何も無いという空としてではなく、妨害されず、輝き、血沸き肉躍り、至福に満ち、知性それ自身としてみなされる空である今の汝自身の知性は真の意識、妙善なるブッダ(原初の仏)である。
本性が空であり何ものにも形づくられない汝自身の意識と輝き至福に満ちた知性、これら二つのものは分けられない。それらの融合が完全な啓発であるダルマ・カーヤ(ほっしん法身=精髄的な智恵、真如)の状態である。
輝き、空であり、発光の無上の体から分かちがたい汝自身の意識は、誕生も死もない不変の光――ブッダ・アミターバ(阿弥陀如来――永遠の光の生命)である。
これを識れば十分である。ブッダ(目覚めた者)である汝自身の知性の空を認識し、それを汝自身の意識であるとみなすことは、ブッダ(仏)の心の状態に汝自身を置くことである。
存在の本性を経験しているバルド
失神によってこの非顕現な、精髄的な智恵であるクリヤー・ライト(光の生命)を認識(ここでいう認識とは『悟り』、つまり『それ(光明)』と自分を一体化することで、その認識が)できなかった死者は、『存在の本性を経験しているバルド』と呼ばれる世界に、次第に下降してゆかなければなりません。
下降してゆくと、そこには大日如来(永遠の生命)にはじまる、あしゅくぶつ阿閃仏、ほうしょう宝生如来、阿弥陀如来、不空成就仏といった『平和の様相をした神々』や、それらの神々の国土のヴィジョンを七日間に渡って体験することになります。
さらに下降してゆくと、激しく怒り狂った『ふんぬ忿怒の様相の神々』のヴィジョンを、七日間に渡って次々と体験することになります。
しかしそれらの『平和の神々』や『忿怒の神々』は、死者自身の心(意識)の投影であって、神々や国土(浄土)は、永遠不滅の実体を持ったものではないのです。従って死者は次のように導かれます。
「平和の神々」は、ダルマ・カーヤ(法身)の空から発している。かれらを認識せよ。ダルマ・カーヤの発光から「忿怒の神々」が発している。認識せよ。(中略)
これらの国土は、汝自身以外のどこか外からやってくるのではない。それらは汝の心の四つの部位からやってくる。心の中心を含めて、それらは五つの方位を形づくっている。それらは心の中から発光して汝を照らすのである。
神々(仏)もまた、どこか外からやってくるのではない。神々は汝自身の知性の構造の中にもとより存在する。かれらを汝の心の性質であると認識するべきである。
●再誕生のバルド
この認識がなされないと、死者の魂はさらに下降をつづけ、『再誕生のバルド』へとさまよい隋ちてゆかねばなりません。そして閻魔大王として知られる死の神々のヴィジョンや、八大地獄といわれる様々な地獄のヴィジョンを見、否応なくそれらの地獄の中に突き落とされ、焼かれ、あるいは滅多切りにされてしまうのです。そこで『死者の書』は死者を次のように導きます。
ああ 善き人よ。聴くがよい。汝がそのように苦しんでいるのは汝自身のカルマ(ごう業=行為の集積)からくる。それは誰か他のものによるのではなく、汝自身のカルマによるのである。(中略)
心霊体である汝の体は、首を切られ分割されようとも、死ぬことはない。本当に、汝の体は空の性質のものである。汝は恐れる必要はない。「死の神々」は汝自身の幻影である。汝の欲望体は性癖の体であり、空である。空は空を傷つけることはできない。汝自身の幻影から離れて、「死の神」や「神」、「悪魔」や「雄牛頭の死霊」のような現象は、本当には汝自身の外側には存在しない。これを認識せよ。
このようにして究極的な主体である『空で、本性として光り輝く心』の認識(一体化)を迫られつづけます。しかし、それでも認識できないと、再びこの世に生まれ出てくるところの男女の交合するヴィジョンが見えてきます。男に生まれるはずの者は母に魅惑され、父に反発を覚え、また女に生まれはずの者は父に魅惑され、母に反発を覚えて、それら男女の交合する子宮の中へと飛び込んでゆき、失神してしまいます。そして再び(前世の記憶を失って)この世に誕生してくるのです。
●リアリティの根源
『チベットの死者の書』は、絶対的、究極的主体として見える神々もまた、わたしたちの心の現れ(分別する作用)であり、わたしたちの心の現れである以上に実体的な神があるのではなく、神々は、わたし(主体)と神(客体)というふうに二つに分けられない一つの全体(非分節な全一態)、つまり主体と客体に分けられない(客観的なものでない)ものであるために、個的な実体を持たず、非実体的であって、空(実体のないもの)であるという。ただわたしたちの表層的な意識や無意識的な意識が、実体のない「空――本性として光り輝く心」であるそれを、境界化(分節)して形象化したものにすぎないのだ、といっています。
生命の源泉にある究極的主体は、形象化された神々の溶かし去られた、いかなる実体もない、非顕現な全一態である「本性として光り輝く心(「クリヤー・ライト、光明」)だとそれはいいます。つまり究極的主体は、見る主体であるわたしと、見られる客体である神が一つになるわけですから、そこには見る認識主体のわたしも、見られる客体としての神(客体として認識される実体的な神)もありえようがないということです。とすればそこにあるものは、現されることのない一つの全体(非顕現な全一態)ということになります。その非顕現な全一態こそカミ(「非実体的な霊性的自覚」)に他ならないものなのではないでしょうか。
ならば、この根源的な「非顕現な全一態」のヴィジョンをつかみ取るまで、わたしたちの旅は深められてゆかなくてはならず、その深みにおいて、その深みのヴィジョンの内において、はじめてわたしたちは「いつ一(非一)」に出会うことができるのであり、そここそは最も根源的で、最も創造的な、あらゆるものが溢れ出してくる生命の源泉、カミのありどころなのではないでしょうか。
仏教の最も古い経典である『スッタニパータ』には、次のようあります。
つねによく気をつけ、自己に固執する見解をうち破って、世界を空なりと観ぜよ。そうすれば死をわたることができるであろう。このように観ずる人を、死王は見ることがない。
――ブッダ
世界を非実体の空と観て、時間空間を超えた非一の、絶対の"今"に立つ時、わたしたちは、生まれ死んで輪廻する時間空間を脱して、非時間の"永遠"の内に生きることが出来るようになるのです。それが『チベットの死者の書』や、それを育んできた仏教が立とうとしてきたところであり、そこからわたしたちの世界の相互依存性的存在様態や世界はわたしであると見る境界を超えた慈悲的世界観、そして悉有仏性というあらゆるものに仏性があるとする世界観などが育まれてきたのです。
下の本を買われるとよいと思います
原典訳 チベットの死者の書 (ちくま学芸文庫) 文庫 ? 1993/6
川崎 信定 (翻訳)
内容(「BOOK」データベースより)
死の瞬間から次の生を得て誕生するまでの間に魂が辿る四十九日の旅、いわゆる中有(バルドゥ)のありさまを描写して、死者に正しい解説の方向を示す指南の書。それが『チベットの死者の書』である。ユングが座右の書とし、60年代にはヒッピーたちに熱狂的に受け容れられ、また脳死問題への関心が高まる中で最近とみに注目を集めている重要経典を、チベット語の原典から翻訳した。
ユングとティベット密教
http://mandalaya.com/yung.html
『チベット死者の書によれば、心が解脱を得ることができるのは、死の直後なのである。
そのとき意識の最も微細なレベルである明晰な光の心に到達するが、それとなじみがないため、
覚りに達するための明晰な光の心を使う機会を逃してしまうのである。
その代わりに次第に無意識と生まれ変わりの世界に落ちていく。
そのとき輪廻の輪と煩悩が、ここに再び始まるのである。
地下世界への旅で、心が出会うのは初めは美しく平和に満ちた・・後になると恐ろしく憤怒に満ちた仏である。
『死者の書』の教えるところでは、仏はそのようなものとして、本来空ろなものや幻影として認識する必要がある、
心の投影に過ぎないのである。
そう認識したとき、葛藤が・・すぐれた智慧へと変容するのである』
シンボリズムで解くティベット密教
http://mandalaya.com/simbol.html
ティベットの死者の書を解く手がかりとして.....
ティベット「死者の書」その1
http://blog.goo.ne.jp/yoshinobu32/d/20070512
ティベット「死者の書」その2
http://blog.goo.ne.jp/yoshinobu32/d/20070513
ティベット「死者の書」その3
http://blog.goo.ne.jp/yoshinobu32/e/7fb8926da4ebcadb00a279786095a3e1
ティベット「死者の書」その4
http://blog.goo.ne.jp/yoshinobu32/e/7c8c6a2c47ab631d0af06e3462369492?fm=entry_awp_sleep
自らの無智で六道に迷い込んでいた!
四十九日が過ぎても覚り解脱できないから六道輪廻する!
『死者の書』(ししゃのしょ)と呼ばれる書には、古代エジプトのものと、チベットのものが知られている。
1.死者の書(英語綴りBook of the Dead)は古代エジプトで死者とともに埋葬されたパピルスの巻き物。おもに、絵とヒエログリフで構成。
この意味が解らない方は拙稿をいくら読まれても全く意味がありませんのでご退場ねがいます。特にタダ読みの人たち......。
閲覧禁止
http://www.veoh.com/watch/v66802331rby2cHBG
http://www.veoh.com/watch/v66806066zwKmQgR5
https://www.youtube.com/watch?v=5kN4UoOcmF0
AUMと聞いただけで拒絶反応しめす人たち。自分の手を胸に当てて考えるように。上のビデオのどこが間違っているのかを。
AUM 謎と陰謀
http://d.hatena.ne.jp/rainbowring-abe/20060607
上祐は公安のスパイ
http://www.asyura.com/sora/bd5/msg/412.html
URLはすべて消去ですが文章は残っていました~戦いか破滅か 現代の黙示録を解く
http://blog.livedoor.jp/genkimaru1/archives/cat_50723.html