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イトマン事件その3


マー君とスー君は信じる~ 新たな時がめ~ぐる~
凛として旅立つ 一朶の雲を目~指し~~


もうそろそろご飯の時間だな~。この子たちの腹時計は驚くほどせいかくだ。

きのうは外が雨だったのでお家の中から見張り。怪しい人影はいたのかな?

マー君とスー君は小さい頃よりご主人から人間の世界の醜さのお話を聞いているのでちょっとのことでは驚かないのです。イトマン事件?ちーちぇー,ちーちぇー,と。いつから石川五右衛門になったつもりなんでしょうね(笑)ご主人はよく言ってたっけ,安サラリーマンの娘とは結婚するなと。小さな小さな父親しか見ていないからだと。むしろ金持ちの娘の方はいいとも言っていたっけ。一円落ちていても金持ちは拾うとも。丸ビルオーナーの吉本晴彦さんの大日本どけち教の話も聞いているしね。吉本さんちの豪邸では電気代がもったいないので懐中電灯を使っているらしい。大日本どけち教の話を聞いてマー君とスー君はうなずいた。

シブチンは、人に迷惑をかけます。ケチは、お金や物や命を粗末にせず大切に扱おう、という考え方です。

ケチな人は、死に金を使わず、生きた金の使い方をします。ケチは、経知と書き、経済面において知恵を絞ることなのです。

さて、この宗教には、お経もあります。

「もったいない、もったいない、もったいない」
と3回唱えれば、ご利益があります。

1976年、梅田に大阪マルビルが完成します。吉本さんの夢がかなった一瞬です。
この円形の高層ビルには、第一ホテルなどがテナントとして入居しています。


 (1)絵画取引への磯田一郎長女の関与

http://www.rondan.co.jp/html/dokusho/itoman/no10.html

 住銀元会長磯田一郎には男、女二人の子供がいる。その長女は園子といい、磯田は「園子、園子!」と目の中へ入れても痛くないほど猫可愛いがりに可愛いがってきた。この「園子可愛いがり」は三井不動産のドン江戸英雄の長女ピアニストの京子とならんで知る人ぞ知る財界では有名な話だった。

 園子は長ずるに及び、同志社女子大学(英文科)に入学したが、中退のうえ、昭和四十五年住友金属工業の大物元会長の仲人によって、住友系の大手金属会社の元会長の御曹子と結婚したが、昭和五十五年に一人娘を引き取って離婚している。その後現在の主人とレナウンの元会長が媒酌人となり再婚した。一説には駆け落ちまでしたともいわれている。

 めぐまれた環境で育ち、両親の寵愛を一身に受け、蝶よ花よと育てられたのであろう。この園子の生活についてイトマン社長河村は、次のように述べている。

 「園子さんの悪口をいう人もおりますよ。実際、ちょっと浪費癖があるようですね。以前磯田さんと西さん(当時の住銀副頭取)がブツブツ文句いうとりましたよ。あの夫妻はクレジットカードでパーッと買い物をして、それを落とすカネがなくて困っているとね。ただダンナよりは余程しっかりしてますよ。お転婆ですけどね」(「週刊現代」の記者のインタービューに答えて、同誌平成三年四月二十七日号)

 イトマン社長河村が平成元年十一月ころ、東京出張中、首都高速を走る社長車の自動車電話のベルが鳴った。何か本社からの緊急用件かと思い受話器をとると、

 「園子です。河村さん、先般は何かとご配慮をいただきましてありがとうございました。早速ですが、実は「ピサ」が買い付けを予定しているロートレック・コレクションの絵画類があるんです。イトマンさんで買っていただけませんでしょうか。あるいはどなたか適当な買い手をさがしていただければ……」

 この園子からの電話だった。河村は「磯田一家の番頭格なり」と自任していたので、園子夫妻とも親しくつき合い、また親父の依頼もうけて、何かと娘夫妻を公私にわたり面倒をみてきた。園子からの前記の電話の冒頭にお礼があったのはこのことで、その内容については後に詳しく述べることとしたい。

 「ピサ」(東京・千代田区)はセゾングループ系の高級美術品・宝飾品販売会社でかつて島津貴子さん(故昭和天皇の子女)がアドバイザー役だったことで有名だった。当時は堤清二が会長に就任、社長は西武百貨店常務が兼務していたが、園子の主人と同じく学習院大学卒だった。

 園子は昭和五十七年五月から美術品担当の契約嘱託社員として入社していた。父親の磯田や住銀グループのルートを利用して営業していたようだ。今回の事件が表沙汰になったためか、平成三年四月には退社してしまった。磯田一郎から直接堤清二に紹介されて「ピサ」へ入社したといわれる。

 当時のセゾングループは、老舗の高島屋や三越等に比較すると後発の新参者で、強引な商法にでているとの業界での評判もあったようである。

 さて、園子からのたっての依頼をうけた河村は「是非ご要望に副えるよう前向きに検討させていただきます」と丁重に電話を切った。後日園子の主人の黒川洋(婦人服販売会社「ジャパンスコープ」(東京都渋谷区)の代表取締役)からも再度河村に対し電話による要請があった。「ジャパンスコープ」なる会社については後述する。

 河村としては磯田並びに黒川夫妻への義理立てはもちろんあったが、たまたま絵画事業への関心を強め、新規事業として考えてもよいと思い始めていた時期でもあった。タイムリーな園子からの電話でもあった。

 これには次のようなバックグラウンドがあった。これについて以下解説したいと思う。

 第十二章(1)で詳しく述べるが、河村が平成元年十月中ごろアイチ会長森下安道と伊藤寿永光が同席のうえ、立川(株)の経営権譲渡をめぐる秘密協定書調印のため面談した際、森下から絵画取引の収益性の高いことについて相当煽られたようだ。

 森下会長のアイチの本業は金融業で、その傘下には「ファクタリング・アイチ」「ナフコファイナンス」「サンライフ」等の関連会社をもち、その総資産は五,四〇〇億円を越える発展ぶりである。しかも森下は昭和六十三年十一月東京・青山に「アスカ・インターナショナル」という画廊を開設し、絵画ビジネスに大々的に進出していった。国内のみならず、海外でも平成元年夏、英国の美術競売会社で世界的に有名なクリスティーズの株式七.三%を約七十六億円で買収し、一躍第二位の株主に躍り出た。同国のデーリー・テレグラフ紙、インデペンデント紙もこれを報道したぐらいニュース・バリューがあったようだ。(日経新聞平成元年十月二十六日夕刊)

 森下は若い時分から絵画が好きだったようで、写楽の版画を一時払の金がないので、月賦にしてもらってやっと買ったというエピソードを雑誌かなにかで読んだ記憶がある。個人に絵画に対する趣味と審美眼がないと、やはり絵画事業の展開は無理ではないかと思われる。森下個人もルノワール、モネ、ロートレック等印象派中心のコレクションを相当数保有しているようだ。

 さて、話を元へ戻して森下は前記会食の席上河村に対し、「絵画部門の『アスカインターナショナル』ではつねに三〇〇億円~五〇〇億円くらいの在庫をもち、年間三十億円くらい儲けている。立川(株)でも絵画取引をやれば、年間十億円~二十億円の利益が出る。不動産に金を注ぎ込むより、絵画の方に金を回した方がよほど儲かる」と絵画取引事業が儲かるものであると吹き込んだ。河村にとっては、公表済の利益計画をいかにして達成し、毎期の増益路線を継続していくか、その対策に日夜苦慮していた時期だったので、二十億円~三十億円の利益はまさに喉から手の出るほど欲しい事業だったのだ。しかし、アイチ森下の絵画に対する吹聴はバブル経済の全盛期時代の話だったのだ。

 また、伊藤寿永光のもち込んだプロジェクトの中に、銀座一等地の土地案件があったが、この地にビルを建設して、一階に画廊を設けて、絵画ビジネスへ進出の一環としてはどうかという話がかつて伊藤との間に出たことも、河村の脳裡に深く残っていた。

 このような極めて甘いバックグラウンドを背負って、河村は黒川園子から依頼をうけたロートレックについて伊藤に話をしてみた。その結果について河村の言を借りれば、「伊藤君がすぐに飛びついてきました。『私の知り合いには絵画に詳しい人もいますし、百貨店にも知人がいます。是非とも私にやらして下さい』と二つ返事で引き受け、やりだしました」という。(河村良彦「文芸春秋」手記)

 これは伊藤独得の吹聴だったし、彼なりの魂胆があったのだ。絵画ビジネス参入による利益の確保に盲目的となっていた河村は、ここらへんのことは知る由もなかった。

 河村から一任をうけた伊藤は、当時東京で常宿にしていた帝国ホテルの一室で黒川園子及びピサの美術事業部長に会い、イトマンの仕入れについて交渉を行った。その際上記事業部長からピサからの納入価格は十六億円だが、六十億円から七十億円で転売が可能だ。約五十億円の差益が出るという常識では考えられないような話がでたという。

 結局イトマン河村は黒川園子から依頼をうけたロートレックコレクション七,一四二点を、平成元年十一月三十日に十六億七〇〇万円で契約した。これに続いて同じくピサから「アンドリュー・ワイエス・コレクション」を約九十五億円で、更に約七億円のロートレック・コレクションの追加分の仕入を四回にわたって立て続けに行った。その購入合計は約一一八億円という巨額に達していた。

 このロートレック・コレクションは米国のコレクターのハーバード・シンメル(当時63)が四十年かけて収集したもので、「散逸させたくないので美術館などに展示して欲しい。商売としては売らないで下さい」との条件つきで手放したという。東京のある画廊が仲介し(十二億円で購入)ピサへは十四億円で、イトマンへは十六億円余で渡されたようだ。日本国内へ輸入されてから、なんと四億円が上乗せされたことになる。

 ピサの美術事業部長(東京芸大卒、当時五十一才)はロートレック・コレクションについて、資産評価価格は四十八億円、国内販売価格六十四億円という「評価書」を作成し、伊藤に手渡している。そもそもこの業界では「評価書」というものは商慣習として存在しないと聞いているが、それにしても評価額が納入価格の四倍~五倍とは購入者を小バカにした、常識では解せない取引である。ピサの上記部長が伊藤からの特別の要請をうけて作成したかどうかは、今ひとつ明確ではないが、その可能性は充分あると私はみている。河村を信用させるための証拠書類を伊藤が欲しかったのだと思う。

 後に述べる許永中→イトマンルートの絵画についても同じセゾングループの西武百貨店つかしん店(兵庫県・尼崎市)の家庭外商三課長が作成した偽造の「鑑定評価書」の存在が検察の捜査によって明白になり、同人は私文書偽造罪で起訴された。しかし事件が表沙汰になると海外へ逃亡し、国際手配されているのだが、丸四年経過するも今だにようとしてその行方はわからない。またピサの上記美術部長は平成三年五月突然心不全で五十一才の若さで他界してしまった。絵画取引に関する重要参考人二名の死であり行方不明である。

 ピサと西武百貨店とは別の法人だが、当時は堤清二が率いる同じセゾングループの企業だった。西武百貨店の関西事業部(つかしん店も含む)を担当する取締役は、許永中(許は当時の同店の美術品・貴金属の売上げの約八〇%を占める大口の上得意先となっていた)とも度々会い会食もしていた。外商課長一人に任し切りにしていなかった。

 セゾングループ上層部の指示、関与は果してなかったのか。西武百貨店もピサも首脳部の関与を当時全面的に否定していたが、「セゾングループぐるみ」の疑念は私の頭の中にいまだに残っている。背後にはセゾングループの総帥で絵画や美術工芸品にも極めて造詣の深い堤清二の存在がある。一方では住銀元会長磯田一郎もいる。この二つのルートのイトマンに対する絵画取引の透き間からキナ臭い匂がプンプンしてくるのだが……。素人の門外漢の思いすごしであろうか。

 さて、再度話を元へ戻すが、伊藤寿永光はピサとの交渉終了後間もなく、平成元年十一月下旬ころ、東京での同じ常宿の帝国ホテルで許永中に会い、イトマン購入のロートレックコレクションの転売話を持ち込んだ。許はこの話にすぐに乗ってきた。許が大阪市内に建設計画中の美術館が完成した際に、イトマンの購入原価に約三.三倍の五十二億円もの巨額を上乗せした約六十八億円で購入することで、話がすぐさまその場でまとまった。

   写真は許永中

 巨額の取引内容であるにもかかわらず、商社の契約としては珍らしく契約書等の書類の作成は全くなされず、後に、特別背任罪で起訴された二者間の口約束だけだった。ここらに基本的問題点が内包されていた。

 伊藤はこれで約五十億円の利益をイトマン河村へ献上することができ、御大河村の一層の信用も勝ちとって、自分の持ち込み案件に対するイトマンからの融資も、思いのままかつ容易に引き出せるし、コレクションの転売で相当額の仲介手数料も手に入れることができると、ひそかにほくそ笑んでいた。

 伊藤・許のロートレック・コレクションの六十八億円での転売、五十億円の利益のおいしい話は結局というか、案の定実現しなかった。ワイエスコレクションとあわせ、ピサの絵画は一点も売却できずイトマンの在庫となり、約一二〇億円の購入資金が固定化してしまった。

 許永中も伊藤と同様に当時資金繰りが逼迫、日々の資金手当に奔走していた状況だった。伊藤がとり入り、更にフトコロの奥深く食らいつこうとしていたイトマン河村は、許にとってまるで「貯金箱」のように映っていた。私は伊藤・許会談でのロートレック・コレクションの転売話は、河村に対する二人が仕組んだ──魚釣りで例えるならば「撒き餌」だったと思っている。

 さて、伊藤は早速河村の関心を買うべく、五十億円の利益を上乗せして許に転売可能になったと誇らしげに報告した。この伊藤の吉報を受けた河村は、この一件の取引だけで五十億円もの利益のでることに驚きの声を発し、なるほどアイチの森下の言った通り絵画事業とは儲かるものだとの観念をますます強くし、絵画ビジネスへの本格的進出への意欲を強くそそられていった。同時に伊藤の才覚あふれた敏腕に一層惚れ込んだ。そしてこの河村の一途な思い入れが伊藤のイトマンへの正式入社(筆頭常務に就任)。新規の許永中ルートの大量の絵画購入へと進展していくのである。

 まさに伊藤・許の二人が秘かに描いたシナリオ通りに、河村はつくられた罠にものの見事にはまり込んだことになる。

 イトマンではかつて絵画取引きについては全く行っておらず無経験だった。イトマンの元会長伊藤寛は個人の趣味として絵画や美術工芸品には造詣深く、美術館や百貨店の展覧会にはしばしば足を歩び美術の世界に浸り、一時の心の安らぎを得ていた。かつて社長の時代に鬼才画家・岡本太郎や小説家の故今東光とも対談したことがあるほどだった。一方、河村の方は仕事、儲け一途で、芸術の世界には関心も縁もなく、審美眼も持ち合わせていなかった。

 ある経済ジャーナリストは、銀座の有力画廊によると河村は萩須高徳(フランス・パリの風景画で有名、昭和六十一年没)の日本有数のコレクターだと紹介しているが、これは全くの誤報である。

 当然のことであるが、会社としては絵画事業に長けた人材も、ノウハウの蓄積も全くなかった。儲るときけば、人材の手配、事前の周到な準備等には手はつけず、前後の見境もなく「ダボハゼ」のように食らいついていくのが河村商法の真骨頂だった。この強引、無暴な商法で過去何度も失敗、蹉跌を繰り返えしてきたのだが……。

 伊藤寿永光プロジェクトに本格的にのめり込み、巨額の資金が流出していったこの事件が進展をみせる前に、ロートレック・コレクション購入だけを見ても、イトマン代表取締役河村良彦は正常な経営感覚を失っていたと言わざるをえない。

 大阪地検はその冒陳でここらへんの事情を「場当り的、かつ変則的な事業展開となる要素を当初から胚胎していた」ときびしく指摘し、さらに「伊藤被告の以降の専権を許す結果も招いた。なぜならば美術品業界特有の取引慣行や複雑な流通経路があって、業界通の専門業者が業界での取引きの主流を占めている。特に美術品特有の真贋の問題とか、価格評価等高度の知識熟練を要する分野であるため、業界への新参入のためには相当入念な調査と準備を行い、成算のある事業計画を立てる等体制を整えることが必要である。イトマンでは何らこれといった調査及び準備もなく、加えて古物営業法による公安委員会からの古物商の許可すら得ていなかった」と河村商法をきびしく糾弾している。

 朝日新聞大阪社会部記者も「絵画取引きについてはすべてが泥縄であり、どうみても『上場企業の営業活動と呼べる代物』ではなかった」と論評している(朝日新聞社刊「深層」)

 先にこのロートレック・コレクションの購入時に、すでに河村の正常な経営感覚は失われていたと述べたが、大阪地検からは上記のような峻烈な糾弾をうけ、朝日新聞のイトマン事件取材班には「上場企業としての体を成していない」とまで酷評された河村は、後述する許ルートの絵画仕入れと考えあわすとこの時点ですでに一部上場企業の社長としての資格は無くなり、かつその命運は尽きていたとあえて断定したいと思う。

 せめてこの時点でイトマンプロパー役員による河村の代表取締役社長の解任という勇断なり、主力銀行たる住銀の積極的な指導、介入があったならば……と全く詮ないことではあるが、今さらの如く悔まれてはならない。

 さて、許永中は資金不足をカバーするため、イトマンからの調達について伊藤に対し執拗にひざ詰め談判で要請していたが、伊藤は遂にイトマンの名古屋支店長を紹介した。許と面談した支店長はすぐさま河村に対し、許との間で絵画ビジネスの共同事業の話がもち上っていることも合わせ報告した。許をビジネス上「利用価値のある男」だと踏んでいた河村は「許にも儲けさせてあげよ」と即座に許ルートの絵画の大量仕入れに盲目的に突入していくこととなる。

 「ピサ」ルートのコレクション仕入れについては、イトマンサイドの取引き受入れ体制の全般にわたる不備が問題になったが、今回の許ルートは朝日新聞社刊の「深層」の表現を借りれば、「すべてが異常づくめだった。そもそも売買契約書がなかった。絵画の現品の納入より先に代金が支払われるケースもたびたびだった。許の資金繰りの都合に合わせて取引きされた結果だった」ということになる。

 許・伊藤にとって、イトマンは暗証番号のダイヤルも鍵もなく、自由に思いのまま必要とする資金をいつでも引き出せる金庫と化していた。この稿を書いている私自身なんと表現してよいのか、開いた口が塞がらないというか、まさに呆然自失の状況である。

 社内管理システムが整備している一部上場企業でこんなことが発生してよいのだろうか。イトマンプロパー並びに住銀から送り込まれた幹部連中は全く手を拱いて他社事のように傍観者の立場をとっていたのであろう。いくらボヤいても仕方がないが、全く情け無い話である。


 河村は平成二年一月末からわずか七ヵ月間に、許グループ企業の関西新聞社、関西コミュニティ、富国産業の三社から計二一一点、総額五五七億円にも達する巨額の仕入れを行った。主要な絵画には西武百貨店の偽造の鑑定評価書が添付されてはいるが、その納入価格は実勢の価格をはるかに上まわる法外な高値だった。利益を上乗せして転売できるような代物ではなかった。買い手は全くつかなかった。許ルートには百貨店や画廊だけにとどまらず、右翼や山口組系暴力団組長から購入したものも含まれるという異常さだった。 許の資金の手当ては、アイチ、丸益産業、キョート・ファイナンスなどのいわゆる金融業者及び府民信組等が挙げられるが、絵画取引の売買代金の入金で許の資金繰りは潤沢となって、アイチ等々からの借入れは大巾に減少した。彼ら金融業者は回収不能を免れたことになる。

 伊藤も同志ともいうべき許を積極的に後押しした。二人はまさに雅叙園観光の乱発手形のサルベージをめぐっての運命共同体、一連托生の仲で、お互いに金銭消費貸借契約書の締結もなく、夫々のグループ企業には正式の帖簿らしきものもなく、口約束だけで巨額の資金の融通が二者間で行われていた。まさに丼勘定による貸し借りだった。

 一例を挙げれば許へ支払われた絵画代金の中から、伊藤側へ約二四二億円の資金が流れ、このうち二一九億円が許のもとへ還流していた。一般経済界の常識では考えられないような桁の違う奇怪な簿外といってよい資金の流れだった。

 平成二年九月初旬だったが、絵画代金の最終分約一四九億七千万円余について、当時のイトマンの資金繰りは極度に逼迫していたのと、支払額があまりにも巨額であり、早急な資金調達が困難だったため、とりあえずうち十億円は現金による振込み送金したものの、残額の約一三九億七千万円余については、九十日或いは一二〇日先の支払期日の約束手形二十一通で支払われた。この手形が後後大変な問題を惹起することとなるのである。

 美術品業界での決済が長期の手形で行われるということは商慣習として皆無なのだが、異例中の異例の手形決済の手形のコピーが一部、よりによっていわゆる街金融筋へ流れるというハプニングが発生した。このコピーをどこがマスコミへリークしたのかは不明だが、マスコミは大々的にこれを報じ、手形コピーの写真が各紙の第一面や社会面、TVの映像に大きく報道され、世間が騒然となってきた。河村の演じた強引、無暴な絵画ビジネス劇が、とかくの噂の絶えなかったイトマンの信用不安を更に増幅していき、いわゆる『絵画疑惑』がクローズアップされ、マスコミがさらに取材攻勢をかけるという副産物を生んだことになる。

 以上やや長文になり過ぎたが、イトマンの絵画取引のきっかけ、その内容、極めて杜撰な河村ら首脳陣の対策等について述べてきた。

 古くから、

 「這えば立て、立てば歩めの親心」

 「親馬鹿ちゃんりん、そばやの風鈴」

という故事成語がある。子を持つ親として、わが子が可愛いくて仕方がない。これは人情というものだろう。住銀のドンといわれた磯田一郎も例外ではなかった。この磯田の「親の情」極端な「親馬鹿」がイトマンの絵画疑惑なり、ひいてはいわゆる住銀・イトマン事件の出発点だったといってもよいだろう。

 この「親の情」が次の疑惑、事件へと発展し、磯田一郎の突然の辞任というハプニングの直接原因となっていく。その詳細は次頁で述べるので期待していただきたいと思う。ただし、次頁へ入る前に、例の河村手記の一部を是非紹介しておきたい。

 「絵画事業を始めたとはいえ、絵のことが全くわからないこともあって、一切タッチせず、任せ切りにしていました。関西新聞社に絵画代金の一四〇億円の手形が振り出されたことを聞いた時には耳を疑いました。ピサ以外のところから絵画を購入しているとは夢にも思いませんでした。私が知る六ヵ月前以上も前から許氏関係の取引きが始まっていたのです」(文芸春秋刊、河村良彦手記)

 今まで毎回傍聴してきた河村良彦らの公判における証人の証言の数々、また私の現役時代に身をもって体験してきた河村経営手法の具体的実例から考えて、巨額の絵画の仕入れについて、社長自身の決済もなく、全然報告も受けずに、伊藤や名古屋支店長に任せ切りで、六ヵ月も知らなかったというようなことは「とても、とても」考えられないことだった。

 いずれ近いうちに司直の手によってこの間の事情が明白にされるであろうから、本項ではこの辺でとどめておきたいと思う。

 またこれだけは是非最後に書いておきたい。それは不思議なことに、絵画取引についてはイトマンに重大な巨額の損害を与えた(大阪地検は三四七億五千万円の損害と指摘)にもかかわらず、大阪地検は河村を特別背任罪で起訴していない。
  
 (2)磯田一族へのイトマンの支援と腐敗

 「河村君、園子をせいぜい使ってやってくれよな」

 「西さん(住銀副頭取(当時)が一番番頭になるか、私が二番番頭になるか知りませんが、磯田さん一家のお手伝いは私は全力をあげてやりました」(「週刊文春」の記者の取材に答えて河村自身が語る。同誌平成三年三月七日号)

 住銀会長磯田一郎は、イトマン河村を自宅とか、六本木のカラオケバーに呼び出し、長女園子について冒頭のように繰り返えし依頼してきた。

 河村はこの磯田の依頼に応えて磯田一家のために公私にわたり尽してきたことは、本人自ら語っている通りである。前項では園子の「ピサ」ルートの絵画購入をめぐるくだりを詳しく述べてきた。そこで本項では河村の磯田一家に対する他の忠誠、奉仕ぶりについて具体的事例をあげて解説したいと思う。

 その事例とは、園子の夫黒川洋が代表取締役をしている前出の「ジャパンスコープ」に対する河村の公私の区別のはっきりしないイトマンぐるみ数々の支援についてである。

 なお、本論へ入る前に「伊藤萬株式会社従業員一同名」による内部告発文書のことに触れておきたい。この文書は平成二年五月中旬ころから七月末にかけて大蔵省銀行局長(当時は土田正顕)宛、計五通にわけ届けられた。

 銀行局長に対しイトマングループの乱脈不動産投融資、経営の実態計数について暴露し、早急な調査、大蔵省としての善処と、イトマンがこれ以上地獄の底に落ちる前に救済してほしいと前後五回にわたり繰り返えし訴えたものである。

 用紙は ITOMAN & CO. LTD. と英文で印刷された社用用箋と封筒を使用していた。マスコミにもコピーが送りつけられ、全文を掲載し大々的に報道した。今回の複雑、錯綜した事件に見られる特色の一つだった。

 ここでさらに余談になり、わき道へ逸れることをお許しいただきたい。是非とも書き残しておきたいので……。

 昔から「権力者は一方では疑い深く小心者でもある」とよく言われるが、この告発文書を知った河村は驚愕し、内部の者でなければ知り得ない具体的な計数まで記載されていたこともあって、犯人捜しに躍起になった。猜疑心の強い河村は、伊藤寿永光に命じて、住銀OBの役員に興信所の尾行調査までつけるという周章狼狽ぶりだったという。当時のナンバー2の副社長もこれに動員された模様で「犯人捜しが大変でした」と法廷で証言した。住銀サイドの首脳陣も同様の狼狽ぶりであったという。

 犯人捜しに平行して河村は総務部担当役員に対し「こんご各種の用箋、封筒((注)国内・外で使用するこれらの種類は極めて多岐多種にわたっていた)にはすべて一連No.を印刷し、引渡し時に使用部署名と該当No.を記録しておくよう」厳命を下した。こんな小手先の対策で事件の再発が防止できると考えていたとすれば、子供じみた話だと思う。天皇とまでいわれ独裁政権の座に長期にわたり居据っていた河村も、政権の座を揺がすような情報管理については小心翼翼(ナーバス)だったこと、権力者にもこういう面があるということを読者各位にも理解していただければと思い、あえてエピソードについて書いた次第である。

 さて、話を早く本論へ戻さなければと気があせるが、この五枚の怪文書に続いてナンバー6ともいうべき別冊が郵送された。今回は大蔵省宛ではなく、住銀会長磯田一郎宛親展扱の文書である。私の手許には苦労して入手した全文があるが、コピーが度度繰り返えされたためか、判読し難い箇所が相当あるのだが、磯田個人及び娘婿の黒川夫妻の腐敗というか、スキャンダルについてこれまたA4サイズのイトマンの社用箋で、上五通と同じく伊藤萬従業員一同名で二頁半にわたり記述してある。他の五通には日付はなかったが、これには平成二年八月十九日付の日付が入っている。

 この親展文書は次のような書き出しで始まっているのだが、本項の「枕」として引用させてもらうこととしたい。

 「住銀が『河村体制』を盲目的に支持し、その中心に貴殿がいるのです。世間では、皆一様に『住銀は磯田会長と河村社長の関係を考えて、伊藤萬に手が出せないでいる』と思っています。また河村社長も常々『自分と磯田会長は一身同体だ』と公言しています。その中で、私共は貴殿と河村社長との間をとりもっている人物の存在を知るに至りました。貴殿もご承知の黒川洋氏です。黒川氏は当社と貴行との関係については何ら関与すべき立場にいないにもかかわらず、貴殿と当社の河村社長、伊藤常務((注)伊藤寿永光のこと)との連絡役を勤め、あまつさえ貴行の経営方針を左右するような言辞を弄しています。この黒川氏を中継点とした『磯田─河村密着体制』が、当社をこのような泥沼に追い込んだ元凶と言っても過言ではないでしょう」

 さて、黒川洋は昭和十七年三月生、学習院大学を卒業後、東京12チャンネル(現テレビ東京)、東レを経て東レの子会社の(株)インターモードに出向し、営業担当の常務の役職に就いていた。この頃、娘婿の将来について何かと心配していた磯田は、かねがね同社の社長に早くしたいものだと考えていた。娘可愛いさのあまり、その主人の「社長職」と娘の「社長夫人」を夢見ていたのだ。親分のこのたっての意向をきいた忠臣河村は、自分の力でなんとか実現させてあげることができればと思案し、イトマンとも長年にわたり取引のあった親会社の東レの首脳へ工作をしたようだ。他社の人事について口出しするのはいかがなものか、非常識極まる行為だと思うのだが、相手側からは当然のことながら頭から拒否されてしまった。

 これらの経緯は当の本人、河村がはっきり自ら認めている。本人の口から語ってもらおう。

 「インターモードの社長になるか、独立するかということで、私も内々動いたんですが、ザックバランに言うと、東レでハネられましてね」と。(前出「週刊文春」、平成三年三月七日号)

 社長就任の悲願を絶たれた黒川は、岳父や河村とも相談し、園子との再婚時の媒酌人でもあり、磯田とも親密なレナウンの元会長(レナウンの創設者)を三人で訪問し、独立することを説明し全幅の協力を要請した。かくして黒川は昭和六十三年一月に新会社「ジャパンスコープ」を設立し自らが代表取締役に、妻園子が取締役に夫々就任した。

 この新会社の発足に当り、河村は人的、資金的他イトマンの会社ぐるみで、支援体制をとり全面的にバックアップした。この辺のくだりは再び河村本人の口から経緯を語ってもらうことにしよう。

 「私と磯田さんの関係は長くそして深いものでしたから、黒川夫妻とも以前からつき合いがありました。黒川君がアパレル事業の会社「ジャパンスコープ」を設立する時など、払い込みに必要な金以外、手続きはすべてイトマンで面倒をみたのです。そのうえ経理担当者として東京本社の経理課長を無給で出向させるほどでした。「ジャパンスコープ」が赤字の時などイトマンから融資もしたのです」(「文芸春秋」河村良彦手記)

 河村手記では融資の実額ははばかるのか記述していないし、他の支援策については全く触れていないので、これを私の入手したデーターにもとづいて付記しておきたい。

 イトマンからの資金援助は昭和六十三年の会社設立直後には四億円余に達していた。イトマンが直接出資していないある提携会社をダミーに利用してイトマンが出金するという念の入れようだった。金利については全く徴求していないのか、銀行借入金利よりも低利率を適用していたのか、四億円の担保関連の債権保全策はどうなっていたのかは、残念ながら私の許では定かではない。

 また、ジャパンスコープ取扱商品については、イトマンが他社に比し破格の好条件で年間約十五億円ほどの納入を行っていた。同社が自社ブランド「NISHI STYLES」を売出したが、在ニューヨークのデザイナー西秀直とイトマンが独占契約を結び、ジャパンスコープへ預けたものだった。またその店鋪については、東京・南青山の表参道至近の南青山ビルを、イトマン直系のアパレル会社から「又借り」の格安の条件で賃借するという特別の厚遇を受けていた。

 河村の黒川カンパニーに対する支援は、これにとどまらずさらにエスカレートしていった。黒川は平成二年二月にハンドバック等の皮革製品取扱いの新会社(株)ファーラウト(東京・渋谷、岳父磯田と親しい歌手千昌夫所有のビルに入居、資本金二千万円、代表取締役 黒川洋、取締役 妻園子)を設立したが、実質的にはイトマンが日本に於ける販売権をある女性デザイナーから買収して設立した会社であって、イトマンは二〇%出資していたようだ。

 さらに、イトマンのイタリアのミラノ事務所が、現地での仕入業務等を代行し担当していた。まさにイトマン本体のプロジェクトと何ら変らなかった。

 イトマンサイドの黒川カンパニーとの取引窓口となった各営業本部は、融資、商品供給その他で、使用資金が膨張したり、本来得べかりし利益が目減りする等の被害を被ったが、河村なり担当役員に改善、苦情を申し入れるようなことはとてもできない状況下にあった。

 次に、磯田、河村、黒川本人から協力、支援要請をうけたレナウン元会長も、伊藤忠商事等との共同出資の「レリアン」(二十才~三十才台向けアパレル販売会社、秋篠宮紀子妃殿下がかつて愛用しヤングの間で流行したブランド。東京・世田谷)がジャパンスコープ社へ三五%出資、同社への商品供給面についても格別の支援をしていたようだ。磯田周辺あげての黒川カンパニーの支援体制だった。

 さらに、平成三年三月一日の読売新聞夕刊の第一面のスクープ記事をみて「アッ!」と思わず声をあげ驚いた事実があるのでつけ加えておきたい。往年流行したギャグで表現するならば、「アット驚ク為五郎」だった。

 平成二年七月に「ジャパンスコープ」に対し、絵画取引に関連して五千万円の仲介手数料(謝礼)が振込み送金されていたのだ。絵画はピサ勤務の黒川園子からの要請をうけてイトマンが購入したものでありながら、絵画取引ルートには全く関係のないジャパンスコープにわざわざ謝礼が支払われているのは極めて不自然である。イトマンとの間で斡旋に関する契約書は交されているのだが、名目的、形式的なものにすぎなかった。イトマンの「絵画疑惑」が表面化し、岳父の磯田が突然会長の辞任表明(十月七日)の十日後に、黒川はこの仲介手数料名目の金はイトマンへ返金し、契約書も解約している。やはり黒川にとっては全く役務の提供を伴わない不労所得であり、彼にとっては後ろめたさがあったのであろう。いずれにしても不透明極まる取引であった。実質的には河村からの黒川夫妻(親分磯田)に対する献上金だった。

 さらにもう一件。黒川の会社設立後の間もない時期に、黒川自身が自由に使える機密費として二百数十万円が極秘裡に渡されている。イトマンから直接出金では問題が多いので、これもダミー会社経由だったという。イトマン事件報道の花やかなりしころにも、マスコミ報道ではついぞ見かけなかった極秘情報である。

 これらの会社ぐるみの黒川夫妻に対する支援、援助はすべて河村方針の指示にもとづくものであり、まさに至れり尽くせりであった。この支援の背後にはドン磯田一郎の存在があったことは明白である。この磯田からイトマン社長の退陣を迫られた河村は「磯田さんに裏切られた」と心のたけを吐露した。

 次に絵画問題とは別の磯田一郎個人のスキャンダルについて述べたいと思う。

 これについては前記の伊藤萬従業員一同名による磯田宛告発文書にも書いてあるし、当時新聞、雑誌が大きくとりあげたので記憶されている読者も多いことと思う。 磯田が東京・世田谷の超高級マンション「経堂オリエントコート」(地上三階、地下一階)の三階三〇一号室(一四七m2)をめぐる二つの疑惑についてである。磯田の部屋の真下の二〇一号室は例のジャパンスコープ名義の黒川洋、園子夫妻の部屋になっている。会社の社宅扱にしていたものと思われる。

 磯田は大阪の豊中に豪邸があり、東京では頭取、会長用の社宅(学習院大学教授の故小泉信三邸だった由)に住んでいたのだが、現役第一線を引退した時には、可愛いい一人娘と同じマンションで老後の悠悠自適の生活を送ろうと考えていたのであろう。

 この三〇一号室の登記簿謄本によれば、平成元年十二月に同じ住友グループの住友不動産販売から所有権が移転しているが、抵当権の設定がなされていない。一方娘夫妻の二〇一号室には一年前の昭和六十三年十二月、世田谷の超高級マンションと言われるだけあって、三億三千万円という庶民生活とは縁遠い巨額の抵当権の設定がなされている。

 「キャッシュで購入されたのですか?」との「週刊テーミス」の記者の問いに対し、磯田本人は自宅前の立ち話で「あれは住信(住友信託銀行)から(金を)借りて買ったものだ。何もやましいところはありません。(抵当権が設定されていないのは)僕らのクラスではよくある。借入証明書だってあるんだ」(同誌、平成三年四月二十四日号)世間でいう「信用貸し」なのであろうが、無担保同然と言わざるをえない。

 第一の疑惑は、親展告発文書が注目すべき指摘を行っている点である。「磯田と購入先住友不動産との間に、イトマン系列のビル管理会社((注)イトマン副社長が非常勤役員として名を連ねていた)が中間省略で介在しているのです。売買価格の操作があったと思われても仕方がない状態です」と。

 このビル管理会社の社長は第十一章三項で述べているが、河村にとり入り、盆・暮に計三,〇〇〇万円の献上をした社外の側近の一人であった。

 疑惑の其の二は、空室で未使用の磯田マンションを同じくビル管理会社が社宅として法外な家賃で借りあげていたという事実である。

 こういう事例は、世間でよくあることで珍らしいことではないと思うが、問題は主力銀行の首脳が、取引先へ工作したことと、その賃貸料の額である。当時このクラスの高級マンションの東京での相場は月額四十万円程度だといわれていた。しかしこの管理会社によって平成二年三月から一〇二万円という相場の約二倍半という家賃で借り上げられていた。長者番付の上位にランクされている売れっ子の芸能人、あるいはよく儲けている不動産業のオーナーであっても恐らく百万円の家賃を出して、約四十五坪程度のマンションを借りる人はないであろうと思われる政治的色彩の加わった法外の家賃だった。磯田はこの家賃収入を住信からのローン返済に充てていたものと思われる。住友グループの重鎮、住銀の天皇とまで言われた財界大物としては、実に姑息というか、みみっちい根性まるだしの手段をとったものだ。呆返るばかりである。いずれにしてもイトマングループ総帥河村の配慮にもとづく磯田個人に対する便宜供与であった。この見返えりにイトマン系のビル管理会社、若しくはイトマンに対し特別の便宜がはかられていたとすれば、背任罪に問われて然るべきと思う。

 「ピサ」からの約一二三億円にも及ぶ絵画の購入と「ジャパンスコープ」に対するイトマンの支援は、もちろん河村主導によるものだった。上記の磯田マンションをめぐる対イトマンへの工作を担当したのは、河村とともに磯田に対する忠勤を励んで、副頭取というノンキャリア組としては望外の最高位にまでのぼりつめ、河村と磯田の一番番頭を争い、住銀の木下藤吉郎といわれた西副頭取(当時)だったという説が多い。まさに職権の乱用と断言していいだろう。

 五通にわたる告発文書は、イトマンの不動産の過大投融資等によるイトマンの経営危機を中心に訴えたものだったが、ナンバー6は磯田個人のいわば他人に触れられたくない、かつ極秘の「恥部」を見事にえぐり出したものだった。極秘と書いたが、ごく限定された関係者しか知らない事実を暴露されたこと、娘婿の黒川洋の過去の職歴とその存在、彼の果した役割にまで言及していること、さらに書かれていることはほぼ真実であること等については、いかな磯田も驚き、心臓に合口を突きさされたようで相当こたえたようだ。この文書が各方面へばら撒かれたら……という危機感をもつに至った。

 磯田は上記の告発文書が引金になって、イトマン問題で住銀行内に混乱を起こした責任をとるとして八月下旬には辞任の腹を固めていたようだ。本人並びに家族のスキャンダルが致命傷だった。辞任記者会見での磯田が口にした辞任理由は全くの嘘っぱちだった。「磯田イズム」はかくして崩壊した。

 この告発文書の一年後に前出の衆議院特別委員会に参考人として招致された住銀頭取巽外夫(当時)は本件についての委員の質問に答えて「主取引銀行の立場を考えると前会長の家族がいろいろイトマンに相談していたことは軽卒だった」とチラリ磯田批判の証言をした。

 権力の座に十三年半の長きにわたり居すわりその権力にしがみつき、家族の便宜をはかり、加えて自らの私腹も肥やすという公私混同を犯し、まさに彼の晩節は泥まみれになってしまった。告発文書は「ここに書いたことは、『ほんの氷山の一角です』」と指摘していることを付け加えておきたい。

 イギリスの政治家カズレー(一七六九 ― 一八二二)は次のような名言を残している。本項の締めくくりの言葉としてあえて掲載しておきたいと思う。

 『金は底のない海である。この中に名誉も良心もまた真理もみんな投げ込まれる』

 さらにもう一言。磯田一郎本人の談話を付け加えておこう。

 「私心があってはいかん。周りが納得しませんよ。卑しい人はトップになる資格はない」

 評論家佐高信の質問にこう答えている。佐高は老害の最大の特徴は「自分は別」、あるいは「自分は特別」と考えることであると結んでいる。(雑誌「プレジデント」、平成元年十二月号)
  
 (3)「出来レース」の不正融資の実態

 すでに第九章(3)の「雅叙園観光の怪」で、第三者割当増資のイトマングループの引受け(一〇七億円)について、これは実質的には伊藤寿永光に対する金利なしの融資だった。(もちろん株式配当はなし)うち八十六億円はイトマンからの伊藤の借入金の返済に充当されていたと指摘した。

 さらに河村と伊藤とが事前に打ち合せした「出来レースの資金の融通」だった、一部上場企業としては、モラールを喪失した想像すらできない形骸化された増資だったとも記述した。

 本項ではイトマンから伊藤寿永光、許永中の持ち込み案件に対する融資の実態について解説を試みたいと思う。冒頭に先に結論を述べてしまうのはいかがなものと思うが、雅叙園観光の増資と同様の要素を内包した「出来レースの融資」だった。

 許永中のもち込み案件で鹿児島の「さつま観光ゴルフ場開発プロジェクト」に対する融資というのがある。

 ここで、事件の伊藤寿永光と並ぶもう一人の主役許永中なる人物像について少しばかり触れておきたいと思う。伊藤寿永光のプロフィールについてはすでに第九章(1)で相当の紙面を割いていろいろの角度から詳しく述べた。

 許は昭和二十二年大阪の大淀区中津浜通りで五人兄弟の真ん中で生れた。家業は朝鮮半島から移ってきた父親が漢方医をしていたが、生活は窮乏し、母親が家の土間先で自家醸造のドブロク(濁酒)を売って生計を立てていたといわれる。本人が雑誌で公表したところによると、府立東淀川高校卒業後、自信満々で大阪府立大学を受験したが夢破れ、本人としては不本意ながら大阪工業大学へ入学した。

 高校一年生の時ぐらいから番長格を務め、腕っぷしが強くけんかの強さについては定評があり、腕力だけではなく交渉事にも優れた才能をもっていて、長じてこれが天性のいわゆる「オルガナイザー機能」を発揮するようになっていった。「頭がよく面倒みのいい親分肌の子」というのが少年時代からの周辺の人達の評判だった。

 大阪工大時代から三十名~四十名の配下をもち用心棒をつとめたりして、本人の言を借りれば「不良とホンチャン(やくざのこと)の狭間におるような毎日」だったという。(月刊Asahi、平成三年三月号)大阪工大は結局中退し、二十六才の時建設会社を設立し、事業を着々と拡大していった。

 彼の歩んできた波乱万丈の足跡については、本項の本旨ではないので省略したいと思うが、彼の主宰する事業は建設、金融、不動産、海運、マスメディア等へと拡大されていった。平成三年現在で彼のグループ企業は、営業活動を実施していないペーパーカンパニーを含め約七十社の多きに達していた。彼はイトマンに絵画を納入したが、すでに述べた彼が過去歩んできたキャリアからみると想像もできないのだが、意外にも絵画について相当造詣が深く、グループ法人資産ではあるが時価で二千億円ぐらい保有しており、裸婦コレクションについては日本一ということである。彼が計画している大阪市の韓国文化センターに展示したいという。いずれにしても彼はただものではなかった。

 許と会った人間で、彼のことを徹底的に悪く言う人はそう多くないようだ。検察関係者も「取り調べをした検事や事務官はみんな許のファンになってしまう」といって苦笑したという。伊藤寿永光についてイトマンの社長河村が「ペテン師ですよ。(住銀の)磯田さんなんかイチコロですよ」と語ったことは先に述べたが、この許永中については「ワルはワルでもしっかりしている。(私は)悪い感情は持っていない」とその印象を語ったという。(朝日新聞社刊「深層」)

 さて、ここらで許永中のプロフィールは終っていよいよ本論に入りたいが、許永中の評価を高めた日本レース事件というのがある。イトマンとも深い関係があるので、是非触れておきたいと思うので寛容をいただきたい。 イトマンは平成二年四月、レースの京都名門企業日本レース(大正十五年の設立。資本

金一〇億一千万円、一部上場)の株二五〇万株を相対取引きでグループ四社で取得した。取得価格一,四〇〇円、総額三十五億円、取得株は一二.五%に達した。六月には早速イトマンの常務(安宅産業出身)を社長として派遣した。

 この社の業績は主力のレースの国内外における売上不振もあって近年低迷を続けていたし、同年二月~四月下旬にかけての株価は不審な動きを示していた。このような状況から、イトマンの経営参画については首をかしげる関係者が多かった。イトマンの株式取得後に、同社の株価は暴落し巨額の評価損をかかえることになる。河村は日本レースの株価保全の役割を担わされ、甘い汁は許が吸いとってしまった。河村はまさにピエロだった。

 河村の株取得の約一年後の平成三年二月には千円の大台が割れ、十四日には九八一円の安値をつけた。

 時計の針を少し戻したいが、石油や魚のころがしや、池田保次(コスモポリタン)の以前の雅叙園観光株の買い占めなどで知られる仕手グループの三洋興産が昭和五十八年に日本レース株を大量に買い占めた。当時の社長(ヤマノビューティーメイト山野愛子の子息)はこの対応策について知人の「生命保険業界における異端児」と称せられる東邦生命社長に相談したところ、たまたま許永中を紹介されたという。

 当時日本レースの営業支配人の肩書きをもっていた許は、一ヵ月足らずの間に九十五億円にのぼる巨額のいわゆる乱発手形を発行した。

 許の作戦はこの乱発手形によって、三洋興産に対して「借金過大で将来性のない魅力のない会社」として印象づけ手を引かせていくという奇策だった。狙った企業に入りこみ、手形を乱発する仕掛人を「エース」と呼ぶそうだが、彼の得意とする手形の乱発だった。池田保次の雅叙園観光の手形乱発もこの部類に入るのであろう。

 同年十一月八日突然日本レースは三洋興産と和解し、ヤマノビューティーメイトが二〇〇万株、三洋興産が一五〇万株を夫々放出し、東邦生命が一七〇万株を引きうけると発表した。

 この事件をめぐる背景、経緯は私の手許にある資料では今ひとつ判然としないし、許の乱発手形のドロドロした部分については、捜査当局も関心をもちながら、結局のところは手をつけず仕舞いで真相は解明されず、やぶの中のままで終結した。

 日本レースはこの株買い占め騒動、乱発手形事件で企業のイメージはすっかり傷つけられ、本業の不振と相まって業績不振に苦悩していた。雅叙園観光と同様、仕手グループに株を買い占められたといういわく因縁つきのうさん臭い企業を二月末の雅叙園観光に引き続いて、またぞろイトマンの河村が四月末に引き受けることになった。

 許永中はこの日本レース事件でフイクサーというか、仕事師としての名声を確固たるものにしたようだ。かくして「関西アングラ界のフイクサー」「裏ネットワークのキーマン」「山口組系古川組をバックとする仕事師」と称せられるようになった。大阪地検の冒陳は「許被告はかねてより暴力団山口組系古川組組長と親密な関係にあるなど、暴力団関係者と広く交際している」と伊藤寿永光と同様暴力団との黒い交際を指摘している。

 今回の事件で起訴された伊藤寿永光、許永中、小早川茂こと崔茂珍(柳川組と交際あり)の三名はいずれも暴力団幹部と交際があり、うち二名はたまたま在日韓国人だった。

 私の悪いくせでついつい筆の運びが脇道へそれてしまったが、ここらでいよいよ本論へ戻そう。

 イトマン河村はこの許永中と、絵画の共同事業と称するプロジェクトと融資について取り組んでいくことになる。

 しかし河村と許の出会いは今回の事件が最初ではなかった。実は昭和六十二年に、許保有の新井組(一部上場・兵庫県西宮市)の買取り依頼の件で面談している。その際は契約は成立しなかったが、早くから許はイトマンを鴨として狙っていたという説が多い。

 河村は冒頭に記述した許の「さつま観光案件」について、ゴルフ場開発資金融資という名目で、二〇〇億円という巨額の融資を平成二年四月に三回、五月に一回計四回に分割して実行した。この分割融資については、丁度イトマンの資金ぐりが逼迫し、日々綱当り的資金の工面をしていた時期だったからで、もともと許サイドの要求は三月中の実行だった。本件融資は通知預金の解約、当座借越及び短期借入により苦労して調達したものだった。

 そもそもこの融資の経緯は次の通りである。平成二年三月期のイトマンの決算が伊藤プロジェクトからの企画料他の営業収入の計上によって支えられていたという事実は、第十一章(2)で詳しく述べているのだが、自分の欲と二人連れで河村の決算対策に全面協力をしてきた伊藤も自己のプロジェクトだけでは限界を感じ、名古屋支店長とともに許プロジェクトも利用することを企み、許とも内々相談した。

 たまたま同年三月ころ、日本蓄産振興(株)(茨城県)の代表取締役は、かねてから大証二部上場の野田産業(現コムソン香川県・高松市)株の過半数の八三〇万株を保有していたが、資金繰りの都合上手放す意向をもっていた。この話を伝え聞いた許は、同社株を取得できれば、同社の経営を支配することはもちろんのこと、かねてから計画中のリゾート開発の受皿会社としても利用できると考え、当時の時価一,〇〇〇円前後を大巾に上まわる一,五〇〇円という思い切った買値をだし交渉した。ところが許としては買取り資金一二四億円という巨額の資金の手当が必要となってきた。そこで許は先に伊藤と共謀して絵画取引事業によってイトマンから多額の資金の引き出しに成功していたので、再び伊藤に資金使途(株式購入)を明確にした上で一四〇億円(金利加算)の融資の交渉を依頼した。

 この要請をうけた伊藤は、イトマン名古屋支店長とも相談し、この際思い切って許の必要とする金額を上回る二〇〇億円を融資し、その中から企画料として三十億円、前受利息として一九億円の合計四十九億円をイトマンの決算対策用利益として計上しようと悪巧みをはかった。

 連絡をうけた許サイドも「渡りに舟」とばかり諸手を挙げ賛同、了承した。しかし許サイドの資金借入れの受皿会社が必要だし、イトマンの決算対策上の企画料収入のための融資対象会社が必要ということになり、許の「さつま観光」を利用することが好都合だとの結論に、許、伊藤及び名古屋支店長が協議のうえ達した。

 本件について上申をうけた河村も、公表利益計画の達成、増収増益路線の毎期連続の維持のため、融資の実行についてはもちろん異議のあろうはずがなく了承した。

 ここで「さつま観光」なる会社について説明を加えておかねばなるまい。鹿児島市の迫田正男、正高親子はゴルフ場の経営を計画し、昭和六十一年五月「さつま観光」を設立し、同六十三年三月に開発許可を得た。しかし迫田親子は鹿島建設による工事着工後に資金繰りに窮し、許系列のケー・ビー・エスびわ湖教育センターへゴルフ場用地を含め、「さつま観光」を会社ぐるみ売却してしまった。

 こんな経緯で許は「さつま観光」を手に入れたのだが、イトマンが融資に当り徴求した担保関係は、一三一億円の先順位の根抵当権が設定されているゴルフ場用地に、第四順位の根抵当権(極度額二三〇億円)を設定したが、すでに担保余力は全くなかった。次に許傘下の企業三社が連帯保証人となったが、赤字又は稼動していないペーパー・カンパニーでいずれも二〇〇億円もの融資を保証する能力は全くなかった。さらに「さつま観光」の株式を入担する約束であったが、全く差し入れられておらず、担保としての徴求がなされていないという状況だった。

 また、許系企業が新らしく保有した野田産業株八三〇万株が平成二年四月~五月にかけ、担保として差し入れられたが、同年十月伊藤は許及び名古屋支店長と協議の上、許に返還してしまった。イトマン社内における返還の手続きは全くなされていなかった。

 「さつま観光」に対する二〇〇億円の融資は前述の通り、イトマン側の資金繰りの都合から四回に分割され実行されたが、以下この資金の振込送金先について記述しておこう。

 うち一二四億円は三回にわたり前記の野田産業株保有の会社代表者の茨城県・取手市の取引銀行口座へ、ゴルフ場開発資金であるにもかかわらずイトマンから直接さつま観光名義で振込送金されるという異常な手続きだった。さらに五十億円については、イトマン東京本社で、伊藤から名古屋支店長立会のもと、許の代理人に対し三十億円(企画料相当部分)、一九億円(一年分の前受利息)、一億円(消費税相当部分)の三通の自己宛小切手を一旦受渡しの上、その場で直ちにイトマン側へ返却を受けるという驚くべき資金の即時還流方式が採られた。

 残余の二十六億円は「さつま観光」の口座(東京・目黒にわざわざ口座が開設されていた)へ送金されたものの、直ちに引き出され、許系企業の絵画と株の購入代金の決済及び運転資金に流用された。融資先の「さつま観光」にゴルフ場開業資金として残された資金は皆無といってよいほどだった。

 この融資の第一回分については、河村の最終決裁がなされる前に実行されたものであり、本件融資案件がいわゆる伊藤プロジェクトの一環であることを知り、河村が当然事前に承認しているものとして経理責任者が出金手続きをとったものである。社長、窓口の専務(名古屋支店長)は自己の地位維持と利益確保のため正常な経営感覚がマヒしていたとしか考えられないが、経理担当責任者までが狂い出していたとは、全く二の句が継げない。

 かつてプロ野球の名物だった大物アンパイヤーがある監督の抗議に対し「俺がルール・ブックだ。文句があるか」との後世に残る名セリフを吐いたことがあるが、イトマンのルール・ブックを俺がルール・ブックだといわんばかりに恣意的に、気ままに変更してもらっては困る。そのような権限は全く与えられていないはずだ。

 さらに驚き、腰を抜かすような窓口の専務自らのルール破りがある。イトマンの整備された社内規程中の「職務権限規程」を繙くと、十億円以上の社外貸付金は取締役会への付議案件となっている。本件融資は一件二〇〇億円という巨額であるにもかかわらず、事前に付議されていない。融資窓口責任者の名古屋支店長は、なんと六ヵ月後の十月三十一日に至って他の案件と一括して提出され、取締役会の形式的な事後承認を得て辻つま合せをし、社長自身も黙認するという首脳陣自らの腐敗ぶりだった。私の現役時代からすれば、到底考えもできないような、何んと表現してよいのかその単語をさがすのに詰まるほどの醜態を演じた。

 大阪地検はこの「さつま観光」に対するゴルフ場開発資金の二〇〇億円の融資が不正に流用され会社に損害を与えたとして、河村、伊藤、許の三名を商法の特別背任罪で起訴した。法廷における次の二人の注目すべき重大な証言があるので紹介しておこう。

 イトマン元社長芳村昌一は、河村良彦らの公判、第十五回(平成四年九月八日)で弁護人側の二回目の反対尋問に答え、本件融資に関し次のように証言した。

 「河村と伊藤は毎日のように伊藤・許プロジェクト或いは融資案件について協議を重ね、詳しく内容を吟味していたので、「さつま観光」に対する融資については真実の資金使途について事前に承知していたのではないか。その可能性は高かったと思っている」

 この証言を聞いていた河村主任弁護人からは、反論と鋭い突っ込みがあり、

 「今の証言は芳村の判断であり、確たる事実にもとづくものではなく、あくまでも推測の域を出ていない」との証言を引き出した。いずれ「さつま観光」融資案件の個別問題の審理時に法廷の場で明確にされるであろう。

 次に野田産業株を許系企業に売却した日本蓄産振興の代表者が茨城県からわざわざ来阪の上出廷して、次のような重要な証言を行った。(河村良彦ら公判、第四十回、平成五年十一月九日)

 「野田産業株の最初の取引で許系の東京事務所へ株式を持参したが、イトマン名古屋支店長と伊藤寿永光らがいた。二回目以降の取引にも名古屋支店長が立ち会っていた。許側から『株券はイトマンの金庫に保管される』と説明をうけた」

 この注目すべき証言について翌朝の朝日新聞は「経営陣も流用承知?」の見出しで「河村元社長らは特別背任罪の犯意は否認しているが、イトマン(当時の)経営陣が当初から融資金の流用を知っていた可能性が出てきた」と社会面でこの証言について報じた。

 なお、この野田産業株を許に売却した代表者は、売却益約三十四億円を得たが申告しなかったので、関東信越国税局は所得税法違反(脱税)の疑いで水戸地検へ告発している。追徴税額は約九億円(含重加算税)に達するものと思われる。なお個人の所得隠し額としては過去三番目といわれる。

 「類は友を呼ぶ」「物各その類に従う」という成語があるが、今回の事件の主役と脇役にはどうもアウトローが多いように思う。

 さらに、融資と同時点に「企画料」(融資額の一五%という高率)として融資小切手がそのままイトマンへ逆流したことは前述した。企画料についてであるが、商社では例えばゴルフ場の建設について、設計から工事の施工管理、会員権の販売まで一貫して全部を請負うことがある。こうした役務の提供に対する対価として収入に計上されるケースがある。しかも役務の提供が完了した時点であり、具体的内容について記した請負契約書の締結も当然ながら必要である。

 しかしこの「さつま観光」への融資については、融資目的以外の使途にすべて不正に流用されたわけで、企画料に類する役務の提供は全くなかった。いわば融資側と被融資側との共同謀議による融資目的以外の融資であり、イトマンサイドは全く架空と断定してよい利益を計上したことになる。イトマンでは決算監査に備えて、昭和六十三年三月三十一日付けで「開発事業包括業務委託契約書」を約二年前にバックデイトして作成し偽装していた。

 今後、河村ら三被告の弁護団が検察の起訴、立証に対しどういう反論、立証をしていくか注視していきたいと思う。

 他の起訴対象になっている不正融資の詳細内容については、紙面の都合で省略したいが、小早川茂こと崔茂珍に対する箱根霊園開発名目の十億円の融資は、京都の暴力団会津小鉄会会長息子からの借金の返済に五億円余、山口組系宅見組企業舎弟の知人に三億五千万円を貸しつけ、柳川組初代組長の妻からの借入金の金利の返済に四八〇万円充当した。このように融資金の約九〇%が暴力団関係者へ流れ、残額の一億円余が崔の経営する会社の資金繰り等に充当され、箱根霊園開発用の資金というのは余く名目に過ぎなかった。

 もう一件、伊藤の瑞浪ウイングゴルフクラブに対する融資二三四億円(金利四億円を含む)という案件がある。平成二年四月二日付の「瑞浪」口座への入金は即日伊藤の経営する「協和」へ振替られ、さらに即時東京の芙蓉総合リースへ振込み送金された。伊藤は東京・銀座一丁目の地上げ資金として同社から二三〇億円の借入れをしていたが、返済を迫まられていたので、この返済に全額が充当された。今回の融資についても融資実行前の三月二十九日に見返えりとして一〇億三千万円が融資斡旋手数料、企画料として別途入金されている。

 伊藤・許二主役に対する融資を総括するに、まことに残念ながら、河村も名古屋支店長にとっても、決算対策上の利益の捻出が最優先の課題であり、貸付金の使途が何であろうと問題視せず、また融資案件や事業の成否とかその採算性及び担保確保による債権の保全とか、貸付金の回収計画などは二の次となり真剣に検討されないまま、水道コックの調節バルブが全く作動せず、先にも述べたが極端な表現をすれば湯水のごとくイトマン金庫から資金が流出していった。

 一方融資をうける伊藤はもとより許サイドも、自己の資金繰り上げ必要とする巨額の資金をイトマンから引き出すことさえなんとか名目をつけてできれば、返済は全くこの次で念頭になかったと言ってもよく、それで目的達成という考え方であった。

 いわば両者の思惑が一致し、次から次へと融資が実現していった。本項を締めるに当り、私のペン先は憤りと情け無さで心なしか小刻みに震えている。心の中では男泣きに泣いているのだ。往年の手堅い石橋をたたいて渡っていたイトマンはどこへ消え失せてしまったのであろうか。嗚呼!!

 許永中自身イトマンの企画料と金利の先取りについて「イトマンはごついことをやる」と後日言ったという。(元記事はここから

以下は日刊ゲンダイより

小沢強制起訴“黒幕”は最高裁事務総局
【政治・経済】
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2012年1月18日 掲載
日本の司法を牛耳るエリート集団
 小沢強制起訴を主導したのは、検察ではなく最高裁だった――? 本当ならば仰天する話だが、ブログを中心に検察審査会のデタラメを追及してきた匿名ジャーナリストの「一市民 T」氏がこう告発する。
「最高裁の中に事務総局という組織があります。ほとんど表に出てくることがなく、秘密のベールに包まれた組織ですが、実はここが小沢元代表をめぐる一連の裁判の“司令塔”なのです」
 事務総局に配属されるのは、将来を約束されたエリート裁判官ばかりだという。トップの事務総長は、ほぼ例外なく最高裁判事になり、「三権の長」の一角をなす最高裁長官にも、これまで6人が就任。現在の竹崎博允長官も事務総長経験者だ。T氏が続ける。
「私はこれまで何度も検察審の事務局に足を運んで情報開示を求めてきましたが、最高裁事務総局からの通達で情報は公開できないという。そもそも、検察審の規定を作ったのも事務総局だし、検察審の人事や予算の管理、使用機材の選定なども事務総局が行っている。要するに、全国に165ある検察審は手足にすぎず、頭脳は事務総局なのです」
 岩波新書の「司法官僚~裁判所の権力者たち」(新藤宗幸著)には、こんな記述がある。
〈日本の司法は、最高裁判所の内部に、巨大な権限を実質的に持つ司法行政機構=最高裁事務総局を整備してきた。そして一般の職業裁判官とは別に、一部のエリート職業裁判官を選別し司法行政に当たらせてきた〉
 戦後日本の司法行政を牛耳ってきたのが、事務総局のエリート集団だというのである。最高裁(広報課)はこう説明する。
「確かに事務総局で検察審査会などの組織管理や、裁判所の人事管理は行っておりますが、エリート集団といわれても……。部署によっての優劣はありません」
 小沢公判は誰が見たって無罪確実の不毛裁判だが、最高裁が当初から関わっているとなると、話は別だ。
「陸山会裁判で“ミスター推認”こと登石裁判官を裁判長に指名したのも事務総局だし、もちろん、小沢氏本人の公判判事も事務総局の差配です」(司法関係者)
 最高裁と検察が結託すれば、どんな人間でも塀の中に落とせてしまう。
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