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ダンテ神曲ものがたり その20

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1-3.さて私は新奇な苦痛を詩に変えねばならぬ:この章の出だしは地獄編の全ての章の内で最も散文的である。そして二度目の部分(61-99)はマントバの成り立ちに関する散文的な描写を含んでいる。おそらくこの劇的でない章は、手の込むことを優先してきた詩的な出だしを持つ事件に満ちた章(また続いていくであろう章)から読者のために休憩を提供する意味合いがある。また、この章の散文的な性格は、事実と真実の強調と共に、読者の不信感を一時見合わせ、来るべき突拍子も無い(風変わりな)章――そこではダンテがフィクションの「真実らしい」性格を力説するのに常に骨を折っている――の真実を受け入れるように読者を誘う仕掛けとなっているかも知れない[この章は他の章と比べて、地図を広げて地名を楽しむようにして読んでみたくなり、またその場所の描写があればさらに楽しいと思われる。Durlingはその注で、『第19章の出だしとの類似に注意せよ;聖職売買simony〔神聖な精神の賜物が、その一つが(神意を伝える)預言prophecyだが、売られ得ると(偽って)主張する〕と占い(預言)soothsayingとの間に密接な関係がある』と述べ、マーレボルジアにおける章には頻繁に自意識過剰な出だしがあるとし、『ここでダンテはこの詩では初めてその一部分のことを詩篇(cantiche)と章(cantos)という区分けした言葉を用いて記している』と注記している。また、「新奇な」は原文では”nova”(novitaの形容詞形)であるが、”strange”と”new”の両方の意味を持つと注記しているが、そのとおりなので「新奇な」と和訳した。これは壽岳も採用し、平川は「前代未聞の」と訳している]。

9.連祷:[(宗教的な)行列。連祷(れんとう)letana, litanyは司式者が唱える祈願に対して、会衆が短い応答を繰り返す祈祷形式である]

15.なぜなら彼等は彼等の前方にあるものを決して見ることができなかったのですから:処罰にふさわしいこの本質に注意のこと。すなわち、卜占者達が、生存中は、未来を見ているが、ここ地獄にあってはいかなる前方の視点をも否定されているのである。38-39行参照。

27. それにしても汝は未だ他の愚か者と同様であるのか?:[山川が、ベルギリウスの意は同情を受けるに値しない罪人をあわれむのは神の審判を非議するのに等しいので許されなく、真に同情を寄せるべき罪人に対しては自身が憐れみのため色を変じ(『地獄編』第4章19-21)、ダンテのフランチェスカや、チャッコおよびヤーコ・ルスチクッチなどに対する同情を責めている、と注釈している]

28.この場所においては、哀れみが死ぬ時敬神が生きるのである:原文においては言葉のある種の遊びである。"pietà"は「敬神」"piety"と「哀れみ」"pity"の両方を意味する[野上が注でうまく説明している。『ダンテの文章にしばしば見られる言葉の遊戯でもあって、地獄では憐憫をかけないのが真の憐憫だと考えられているとの意』。「神の意志を己に従わせる」は原文では「神の受苦の裁断を裁判する」意味である]。
 巡礼者が罪人たちの苦痛にもう一度哀れみを感じているので、ベルギリウスは少しいら立って厳しく叱っている。この叱りは巡礼者の哀れみに関する重要なテーマの頂点である。第5章138-42、6章58-59他と比較のこと。

34-36.アムピアラーオスよ。何故に汝は闘いを止めたのか?:アムピアラーオスAmphirausは予言者”seer”であり、テーバイへ遠征した7人の長(おさ)の一人である(16章68-69参照)。彼は自身が包囲されて死ぬであろうと予知し、自身の死を回避するために闘わねばならなくならないように隠れたのであった。しかし彼の妻であるエリピューレーEripyleが彼の隠れていることをポリュネイケースPorynicesに暴露し、そこでアムピアラーオスは闘いに行くことを余儀なくされたのである。彼は地球が裂けて彼を飲み込んだときに死と出遭った[ゼウスが雷霆を投じて地を開き、そこに飲み込まれて地獄に落ちた。人々がどこへ落ちるのかと叫んでいるうちにどんどん穴の中に落ちてしまい、ミーノースに達して捕らえられたのである]。ダンテの原典はスタティウスStatiusの「テーバイス」Thebaid Ⅶ,Ⅷである。

40-45.テイレシアースを眺めよ、其の者容貌を変えた:テイレシアースTiresiasはオウィディウスOvid(「変身物語」Ⅲ,316-38)によって引き合いに出されたテーバイの有名な占い師soothsayerである。オウィディウスによれば、テイレシアースが昔彼の杖rodで交尾している二匹の大蛇を引き離した、その結果彼は女に変形させられたのである。7年後同一の二匹の蛇を見つけ、再びそれらを打った、するともう一度男になったのである。後になってユーピテル[ゼウス]とユーノー[ヘーラー]がテイレシアースに、両性に属する経験を持っていたので、どちらの性が性愛をよく満足するかと訪ねた。テイレシアースが「女です」と答えたとき、ユーノーは彼を打って盲いにした。しかし、ユーピテルは、代償として、彼に預言prophecyの能力を与えたという。【資料20-1参照】

46-51.この者の胸に後ずさりして来るのはアルンスである:アルンスArunsは、ローマ市民戦争とその結果(ポンペイでのカエサルの勝利[ルカヌスRucan「ファルサリア]PharsaliaⅠ,584-638)を予想したforecastエトルリアEtruscanの占い師divinerで、「ルーニの丘にて」(47)住まいを作った。その地域は現在ではカラーラとして知られ白大理石で名高い。

52-60.してあの者、髪を束ねておらぬ故、その流れが:マントーMantoは、父テイレシアースTiresiasの死後、テーバイThebes(「バッコスBacchusの聖なる街」59、[テーバイへの7将の闘いの後、この街がテーセウスの指揮の元アテーナイ人によって征服された(Thebaid, 12)])と暴君クレオーンCreonから逃れた。彼女は最後にはイタリアに辿り着き、ベルギリウスの生誕地であるマントバMantuaの街を建設した。
 
61-99
ベルギリウスのマントバの建設についての説明は、見たところは論争の的になる問題点に関して、真実の見解を与えようと差し出されてきているように思われる。第19章において巡礼者は聖職売買Simonyの本性を示されてきた。そして「叩き潰す」に対する最初の言及を含む第20行が「これをして人類の真実の絵となすべきや」という言葉によって随われている。さて、第20章においては、ベルギリウスがマントバ建設の「真実」の物語を(「魔法に頼ること」93)なしに告げ、占いの「真実の」性質を示している(暴露している)のである。すなわち、それがある詐欺的な策略(習慣的行為)a fraudulent practiceであり、「誤った物語をして真実を穢れさせんように」(99)と付け加えている。(おそらくベルギリウスは、ここでは、含蓄をもって、彼の中世的な魔術師としての評判から自身を擁護しているのである)。このように、19および20章はそれぞれの罪の本性に関するこれらの相関的な調査と解明によって関連付けられているのである。

 62. アラマン地方を取り囲んだ高地の麓:[東アルプス地方。アラマンAlemanneはゲルマン語で「全ての人間」の意味で、ドイツのこと]以下78.まで【資料20-2参照】

63.ティロールに面した湖、その名をベナーコ湖と言う:ベナーコ湖は現在はガルダ湖で、イタリア北部にあって、トレント、ブレーシャ、ヴェローナの都市によって形成された三角形の中心に位置する(68)。

64-66.幾千もの流れによって、われ思うに、アルプスの山々が:ここでは、この「アルプスの山々」Penninoはガルダ湖の西にあるカモニカ渓谷と、この湖の東海岸にあるガルダという都市の間の区域を意味し、それが多くの流れによって水を引かれ(川となり)、ついにはガルダ湖へ流れるのである[原文の"l' Alpe"(62):"alpe"は高山を意味し、大文字単数では高い山の呼称に用い、大文字複数の"Le Alpi"はふつうアルプス山脈を指す。"Pennino"(65)は"Alpi Pennine"で「イタリアとスイスの国境にある山脈」を指す。しかし、原文では、ガルダとカモニカ渓谷とアルプス山脈に囲まれた地域である:"tra Garda e Val Camonica e Pennino"、Musa以外は原文どおり訳している]。

67-69.その中央にとある場所在り、そこでは:ガルダ(ベナーコ)湖にある「とある島」でトレントとブレッシャ、ヴェローナの教区の境界が出会っていて、そのため三人の司教達すべてが礼拝しまたは「ミサを授ける」ことを可能にしている。ダンテが、「もしいつかそこに訪れたならば」(69)という言い回しで、不在の聖職者が下層民から金を取るという習慣的行為(慣行、策略)を批判するつもりであることは実際にありそうである[現実にはガルダ湖の中央に島はない]。

70-72.ペスキエーラ在り、堂々として頑丈な要塞にて:ペスキエーラの要塞と同一名の町はガルダ湖の南東海岸にある。

78.コヴェルノールに至れば、ポー川に流れ込むのである:コヴェルノールCovernolは、現在はコヴェルノーロCovernoloと呼ばれているが、マントバから東へ15km離れていてミンキオ川Mincioとポー川Poの合流点に位置する。

81. 夏には堪えがたきにものになり得る:[沼地なので夏には伝染病がはやる]

82.その残酷な乙女:マントーのこと。

93.魔術に頼ることはしなかった:新しく建設される都市の名前が魔術を通して得られるというのは古代の人々の慣習が物語っている。このようなことはマントバには当てはまらない。

95-96.愚かなカサローディの/ピナモンテの詐欺的な忠告に耳を貸すまでだが:1272年アルベルト・ダ・カサローディは、ブレーシャのゲルフ党伯爵の一人だが、マントバの領主であった。公的な対立に遭遇して、彼はギベリン党員のピナモンテ・デ・ボナッコルシによって、ただ単に貴族達を追放することで力づくで残れることができると考えるように騙された。ピナモンテの誤った助言を誠実に信じて、彼は自身の支持者と護衛者から自身を奪い去った。その結果としてピナモンテが指揮権をとることができるようになった;彼はゲルフ党を追放し、1291年まで支配したのである。

101. わたしにとって真実です、わたしの信頼をひたすら得ております:[ベルギリウス自身の『アイネーイス』では、マントバの町はオクヌスの母の名をとってマントバとしたとあり、ダンテはそれに異説を唱えたことになる]

106-112.あの者は、其の者の顎鬚ほおより垂れ:トロイア戦争当時(「闘いがギリシアから全ての男たちを奪い」108)エウリュピュロスEurypylusは、ダンテがギリシアの卜占官augurだと考えたが(「カールカスCalchasと共に」110)、ギリシアの艦隊がアウリスAulisで港から発進させるための最も好都合な時を予想するように頼まれたのである(「アウリスにて最初の船の描索を切り離す時を告げた」111)。

113.かように、わが高貴なる悲劇のどこかしこで:この「高貴なる悲劇」は、もちろん、「アイネーイス」Aeneid(第2巻114-19)である。この作品では、しかし、エウリュピュロスEurypylusは預言者an augurではないが、トロイアから帆を揚げる最良の時に関してアポロンのお告げ(預言prediction)を見つけるために神託所the oracleへと派遣された兵士であった。

116-17.ミカエル・スコットである:パレルモPalermoでフェデリーコFecedico 2世に仕えたスコットランドの哲学者で(10章119参照)、アリストテレスAristotleの作品をその研究家であるアビケンナAvicennaのアラビア語から翻訳した。世評では彼は魔術師magicianであり予言者augurであった。ボッカチオ「十日物語」Decameron Ⅷ,9と比較せよ。

118-20.そこのグイード・ボナッティを見よ:フォルリForlì生まれの人であるグイード・ボナッティGuido Bonattiは多くの領主(フェデリーコ2世Fededico、アッツォリーノAzzolino(12章110)、グイード・ダ・モンテフェルトロGuid da Montefeltro(27章))に仕えた有名な占星術師astrologerであり易者divinerであった。
 ベンヴェヌートBenvenuto(ないしはアスデンテAsdente、「歯denteなし」の意味)はパルマ出身の靴直し職人ciabattino(《蔑称辞》:スリッパ屋、《比喩的》ろくでなし)で、推測するになんらかの魔力magical powerを持っていた。ダンテによれば、「靴作りにさらに専念したしと今もって/望みおる」(119-20)ように事業がうまくいっていたのであろう[「またパルマの長靴工アスデンテは、かれの同胞市民達の最も高貴な石であるであろう」(『饗宴』Ⅳ,16,6:中山昌樹訳)]

124-26.さて寄り添いたまえ。とげを持ったカインが:ある不可思議な力を用いてベルギリウスは地獄の底で時刻を数えることができるのである。月(「とげを持ったカイン」(124)と称されているが、中世イタリア人の日本人の「月のウサギ」に対するものである)は今まさしく北(陸)および南(海)半球の境界線上にあり、西方向の水平線(「セビーリャの波間」126)に沈みつつある。その時刻はおおよそ午前6時である。

128-29.さらば汝かの暗き森に迷った時/かの女の汝を助けたことよく思い起こすべきである:第1章2行参照。この行の文字どおりの意味は説明しにくく、地獄編の始まり以来ずっと、巡礼者の「暗い森」での徘徊を描写しているが、月についての記載はなにもないのである。多くの注釈者が意図された寓意的意味を見るだろうが、彼等の解釈はさまざまでありMusaはそれらを確信するなにをも見つけられていない[壽岳は注で、「ダンテの意味不明とされる個所。暗い森を行く旅人にとって満月の光は助けとなるにしても、やがてそれに代わる太陽の光と比ぶべくもない。ここは、暗黒の森をさまよったダンテの、満月に対する素直な感謝の表明と解すべきか」と述べている]。

130. そのようにわたしに語られ、そしてその間にもわたしたちは動き出していました:[原文は、"Si mi parlava, e andavamo introcque."であるが、Musaは、"And we were moving all the time he spoke."と訳している。そして日本語訳のほとんどもMusaに近い訳をしている。しかし、ベルギリウスが話している時、巡礼者ダンテは「険しい岩の突起にもたれかけて」(27)いるのであり、どう考えても歩きながら聞いていたとは考えられない。これは、ダンテの語"introcque"によるものである。これは、Durlingによればラテン語の"inter hoc"から派生したもので、「悲劇の」ないしは高度な様式に値しないフィレンツェの方言としてダンテが「俗語論」Di vulgari eloquentia, 1.13.1に引き合いに出しているために、話題を呼んできたという。現代のイタリア語では。"intanto"であるが、その意味の第一義は「そうしている間に、その間に」であるが、第二義は「いまのところは」であり、"meanwhile"="meantime"が「その間に」と「一方では」の二義をもつところから、「話している間」=「話が終わらないうちにすぐ」と解釈すべきである。Durlingは、"So he spoke to me, and we walked meanwhile."と訳している]
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