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人間が登りつく最高の行為
https://youtu.be/m5_q1i5ntTY?t=1995
《gooブログはじめました!》 2023-02-11
バラバかイエスか
イエスかバラバか?
ピラトから「バラバか、イエスか」と問われて
民衆はためらうことなくバラバを選んでしまった。
正義の人、あれほど民のためを思い、つくした人を
民衆はあっさり見捨てて、なんと極悪人である
バラバの釈放を求めてしまった。
分厚い聖書の中でもこのシーンほど
キリスト教というものの本質を示し
ている部分はないだろう。
もし、このときにピラトが民衆のひとりひとりに
個別に同じことを聞いたら彼らはなんといっただろうか。
おそらくは皆が「釈放されるべきはイエスである」
と言ったことであろう。
民衆一人一人はおそらく善良であり
またイエスの善行を良く知っていたと思われる。
だから少しでも冷静に考えれば
この「イエスかバラバか」という選択肢自体が
無意味なものであり、イエスのような人が磔刑に処せら
れるはずがないのである。
私は聖書のこの場面を読むたびに
第一次世界大戦のことを考える。
第一次大戦が、なぜあんな世界規模の戦争に
なってしまったのか、ということについては
いまだに定説がないらしい。
要するに誰もわからないのだ。
ただ言えることは誰もがあの戦争があんな世界中を
巻き込む大戦争になるとは思っていなかった
ということだ。
あの戦争が世界大戦となった原因の一つは
当時網の目のように張り巡らされていた
諸国間の同盟関係である。
ではなぜ同盟というものがあったのかといえば
それは自国の安全保障のためであろう。
国家間の安全弁としての諸同盟が逆に大戦争の
原因を作っていたのである。
岸田総理 NATO首脳会議へ出席で調整
日本の総理大臣として初(2022年5月18日)
《外務省》公式HP 令和4年6月29日
多くの人が犠牲になる世界大戦など
望む者はいないだろう。
誰も望む者がいない大戦争を
結果的に人類は選んでしまった。
第一次大戦はまさに20世紀のバラバである。
人類は「バラバを!」と叫んだ民衆の時代から
少しも進歩してはいないのである。
第二次世界大戦に関しては
第一次世界大戦の戦後処理の必然の結果だと言われている。
ヴェルサイユ条約であれだけ過酷な戦後賠償を
ドイツに求めれば…窮鼠ネコを噛む
ドイツ人は生きるためには何をするかわからない
ということは当時の識者の一部では理解されていた。
(J.M.ケインズなどがその代表)
しかし、この時点でも
人類はバラバを選んでしまったのである。
ヴェルサイユ条約もまた
人類にとってのバラバであったのである。
【ヴェルサイユ条約】wiki
日本の歴史でいえばバラバとなったのは
あの悪名高き、日独伊三国軍事同盟であろう。
現在から振り返ればあの条約を推進した
松岡洋右などは悪の権現のように言われているが
彼にしてみればあの条約こそが
日本の安全保障に必須と考えていた訳である。
松岡洋右を擁護するわけではないが
彼は外相という立場にあって、必死になって
日米戦争回避の道をさぐっていたのである。
結果的にはあの軍事同盟が日米関係の命取りとなり
日本は太平洋戦争に突入してしまった。
アメリカとの戦争を本気で考えていた日本人は
当時でもほとんどいなかったと思う。
陸軍とてあくまでも仮想敵国はソ連であり
それもできればソ連との直接対決は国力から考えて
避けたい、と考えていたのである。
日本人はあの時代、まさにバラバを!と叫ぶ
民衆と同じだったのである。少しでも冷静に考えれば
アメリカやソ連などと戦争などして勝てるわけがない
ということはわかるはずだ。
(日露戦争はニコライ王朝末期で共産党革命が進ん
でいたロシアという特殊条件のもとで
かろうじてひろった勝利であったのである)
さて、太平洋戦争後の日本はバラバを選ばずに
うまくやってきたのであろうか。確かに
この50年以上、日本人は戦争とは無縁で生きてきた。
その間に経済大国ともなった。
しかし、小さなバラバはやはり無数に存在し
常にバラバを!と叫んでいる状態にあるのは
戦前と変わらないと思う。
戦争という一点に集中しないだけで
さまざまな局面で私達はバラバをつい選んで
しまっているような気がする。
たとえばレンアイ(恋愛)などをする時
ある女にとってイエスとなるような存在のオトコと
バラバのようなオトコがいて
それぞれから求愛されたとすると
結局多くの女は、バラバたるオトコを
選んでいるような気がする。
かつて私は公務員をしていた。
そこには労働組合があった。
みんな組合のやっていることは
何かおかしいんじゃないか、と思いつつ
仲間はずれになるのを怖がり
表面的な人間関係を保つために
適当に組合活動をやっていた。
当時私は「ははあ、組合というのはバラバだな」
と思っていた。まわりがバラバ、バラバ、と
叫んでいる状況では自分も保身のためにバラバを!
と言ってしまうのだ。
あの本物のバラバの釈放を要求した民衆たちもまた
内心はこんなんでいいんだろうか、と思いつつ
つい勢いにのって「バラバを!」と叫んでしまった
のではないだろうか。
キリスト教はまさに人間の
このような弱さを前面に押し出して考える思想である。
人類はつねにイエスを十字架につけ
バラバを釈放してしまう特性を持っている。
現代でも無数にいるバラバを前に、私達は
どのように生きていったらよいのであろうか。