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地方の知られざる歴史 -後南朝の滅亡と津山藩森家の取潰し ...
http://pasocon-salon.floppy.jp/akihisa01.html
徳川家康に取りたてられ慶長8年(1603年)18万6千5百石の美作国国主として津山 藩 に封ぜられた。 ... これにより長子相続のしきたりが崩れることになったが、このこと は 天皇家の勢力を二分し、その権威を弱める幕府の深謀からであったとする見方 がある。
岡山県と美作
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地方の知られざる歴史
-後南朝の滅亡と津山藩森家の取潰し-
まえがき
暦応2年(1339年)8月16日後醍醐天皇が吉野で死し、以降約60年にわたり南北朝の間で権力闘争が続いたが、明徳3年(1392年)南朝は北朝に吸収される形で滅んだ。 しかし、その後も旧南朝勢力は抵抗勢力として吉野、美作等に存在した。末裔の中には美作の国植月に御所を置き、独自の天皇を建て美作後南朝として中央 復帰を図った。 しかし、その夢かなうことなく宝永6年(1709年)九代の良懐親 王で滅亡に至ったがこの事実は正史で認められることはない。
一方、明智光秀の謀反で起きた日本史上最大のクーデターといわれる本能寺の変で、信長側にいた森蘭丸の兄弟のうち3人が本能寺で戦死し、幼かった末弟忠政は後、徳川家康に取りたてられ慶長8年(1603年)18万6千5百石の美作国国主として津山藩に封ぜられた。その当時、美作東部には美作後南朝御所が過酷な運命にさらされながらも史実として存在し続けていた。
幕府が京の北朝系朝廷を支持しているにもかかわらず津山の森藩は美作入封に際し受けた植月御所の恩義に対し、その後も美作の朝廷を支援し忠誠を尽くした。
このことが幕府の忌諱に触れ、また、将軍綱吉の外様大名弱体化政策とあいまって外様大藩である森家は元禄10年(1697年)8月2日に廃絶の憂き目に遭った。 おもてむきには若くして急逝した藩主長成に嗣子がなかったことによる。
森家は慶長8年(1603年)津山藩に封じられ元禄10年(1697年)の改易迄僅か4代95年の短い歴史であった。 森藩弱体化の具体策として幕府は各地の城の修復等莫大な出費を伴う数々の過酷な賦役を課したが、特に中野村(現在の東京都中野区)に30万坪におよぶ犬小屋の造営を命じられたことは藩財政にとって致命的であった。その総工費は現在価格にして50億円にも達し藩は財政難となった。
本文は決して歴史の表に出ることのない美作の国に実在したとされる後南朝と津山藩森家の悲劇についてその概要を纏めた。
1.南北朝の興り
第88代後嵯峨天皇には二人の皇子があり長子久仁親王は温和な性格なのに反し、弟恒仁親王は活発果敢な性格で父天皇に深く愛された。後嵯峨天皇は1242年長子に皇位を譲り第89代後深草天皇としたが後深草天皇を早く退位させ1259年に溺愛する次弟を第90代亀山天皇として即位させた。
のち、後深草天皇と亀山天皇が約束し、それぞれの子孫を交互に皇位につけることとした。これにより長子相続のしきたりが崩れることになったが、このことは天皇家の勢力を二分し、その権威を弱める幕府の深謀からであったとする見方がある。 このような約束があるにもかかわらず第91代天皇には亀山天皇の皇子の後宇多が天皇の座に就いたので後深草は幕府に抗議し、自分の子を皇太子(92代伏見天皇)とし交互迭立の途を開いた。
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このようにして皇統は後深草天皇の持明院統と亀山天皇の大覚寺統の二流に分かれた。これが南北朝の興りである。
注:- (1)持明院
藤原基家(1132~1214)の邸宅でその後、後深草天皇系の上皇が代々ここを住居としたことから、その皇統を持明院統という。
(2)大覚寺
大覚寺は今から約1200年前京都に都を定めた桓武天皇の皇子嵯峨が造営した離宮で、後876年大覚寺と呼ばれることとなった真言宗本山で、代々南朝系天皇の住居として用いられた。
2.南朝の興亡
2.1 第96代後醍醐天皇
日本は聖徳太子以来仏教支配の国であったが中世平安時代の後半から次第に武力支配が台頭し、源平合戦を経て武家政権の実現を見、公家政権と対立した。 その後、公家政権の衰亡に反し武家政権が力を得るにおよんだ。
1)院政の廃止と正中の変
正応元年(1288年)後宇多天皇の第2子として誕生した後醍醐天皇は文保2年(1318年)31才で即位したが政務は後宇多法王の院政によった。 しかし、後醍醐天皇は理想政治を確立すべく強い意志を持って臨み、元享元年(1321年)には院政を廃し天皇の親政に移行した。
そして、正中元年(1324年)後醍醐天皇37才のとき日野資朝、日野俊基、土岐 頼貞、多治見国長を集め武家政権の奪取を計画したが、その討幕計画(正中の変)は多治見国長の妻から妻の父・斎藤利行を通じ幕府六波羅探題の知ることとなった。
六波羅軍勢に急襲され土岐頼貞、多治見国長は自害し、日野資明、日野俊基は捉えられ俊基は放免され資朝は佐渡へ流され、一方、幕府は天皇の罪は問わなかった。この様にして討幕計画は不成功に終わったものの天皇の討幕への意思は変らな
かった。
注:- 六波羅探題
六波羅探題(ろくはらたんだい)は鎌倉幕府の職名の一つで1221年承久の乱の後、幕府が京都六波羅の北と南に設置した出先機関で、それぞれ六波羅探題北方・六波羅探題南方と呼ぶ。
2)元弘の変
北条政権は後醍醐天皇に退位を迫ったが、執権北条氏の信望が地に落ちていることを知ていた後醍醐天皇はなお討幕計画を推進した。 一方北条氏は幕府に都合のよい皇仁親王をたてた。 これを知った後醍醐天皇は元徳3年(1331年)再び討幕計画(元弘の変)を推めたが天皇側側近の大納言・吉田貞房の密告により幕府の知るところとなり、一味六波羅探題に捉えられ日野俊基は鎌倉
に護送され葛原岡出処刑された。 後醍醐天皇は京都の笠置山にこもったが幕府に攻撃され、
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脱出したものの山城国で捉えられ翌年隠岐に流される。 しかし、討幕計画は天皇の皇子である護良親王(大塔の宮)の号令により全国の討幕勢力を奮起させた。 一方、政府軍は千早城の楠正成によって悩まされた。
大正 4年 従四位 有元佐弘、有元佐光
従五位 有元佐吉
大正 8年 従五位 植月重吉、鷹取種佐
大正13年 従五位 原田佐秀、福光佐長
3)鎌倉幕府の滅亡と建武の新政
元弘3年(1333年)隠岐を脱出した後醍醐天皇は船上山を拠点として六波羅で幕府軍を攻撃し幕府軍は壊滅した。
一方、鎌倉では大塔の宮の命を受けた新田貞義の攻撃に抗しきれず、執権北条高時は自害し鎌倉幕府は滅亡するに至った。
後醍醐天皇は京都に還り再び建武の新政と云われる朝廷政治を復活した。 天皇が目指した新政は幕府も院政も摂政・関白も否定し天皇の理想を実現することことであった。後醍醐天皇は朱子学を信奉し中国風の専制政治を目論見、真言密教で幕府滅亡を祈願するなど奇特でエネルギッシュな天皇であった。また天皇は従来の農民を中心とした定住民社会から山の民、海の民など非定住民社会に軌道を修正し流通経済化をもくろんだ。
4)建武政権の失政
後醍醐天皇は新政の手始めに武家階級の象徴的首長の地位である征夷大将軍の地位を天皇家に取り戻し護良親王に与えた。また政治機関である記録所を復活し、記録所を通じ理想の高い政治を行おうとしたものの時代に逆行するものが多く、新たな施策を行う度に混乱を増し人心も
離れた。 ひそかに幕府再建を目指していた足利尊氏は光明天皇を立て後醍醐天皇に譲位を迫った。
その結果、後醍醐天皇の執念で実現した建武新政も建武3年(1336年)僅か3年で崩壊し天皇は再び吉野に逃れ、後に南朝と言われる朝廷を創設した。 かくして、吉野の後醍醐天皇の南朝と、京都の光明天皇の北朝とが並立することとなった。
5)南北朝の動乱
後醍醐天皇は吉野において正統な皇位は自分であると主張した結果、南朝と北朝がそれぞれ異なった年号を用い、その後元中9年、明徳3年(1392年)までの約60年間にわたり両立し、日本史上稀に見る全国規模の動乱に明け暮れた。 南北朝廷両立後の南朝は形勢不利だったが抗戦を続けた。その間、後醍醐天皇は廷元4年(1339年)吉野で、
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「たとえ自らの骨は吉野の苔の下に埋もれても、魂はあくまで京都への帰還をのぞみ続けて止まぬであろう」(太平記)との言葉をのこして亡くなったとされている。
後醍醐天皇のこの執念は1392年の南北朝統一後も長い間日本全国を動乱に巻き込んだ原因の一つと考えられている。
一方、北朝側では足利尊氏が軍務、弟の直義が政務を担当し幕府は順調に滑り出したが双方を支持するそれぞれの勢力の間で幕政運営を巡り対立が生じ、観応元年(1350年)内部分裂し地方を巻き込んだ騒乱(観応の騒乱)に突入した。
管理人注:観応の騒乱
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A6%B3%E5%BF%9C%E3%81%AE%E6%93%BE%E4%B9%B1
6)南北朝合一
永く続いた南北朝の動乱も足利義満が南朝側に和平を呼びかけ、元中9年( 1392 年)南朝の後亀山天皇は下記の4つの約束を交換条件に天皇の皇位の象 徴である三種の神器を北朝の後小松天皇に譲り渡すことで約60年にわたる内乱に終止符を打ち南北朝の合一が実現した。(明徳条約)
南北朝合一の条件
ア)後亀山山天皇(南朝)から後小松天皇(北朝)に譲位の儀式(三種の神器委譲)
イ)以降の皇位は持明院統・大覚寺統で交互に迭立
ウ)諸国国衛領は全て大覚寺統の管領
エ)長講堂領は諸国分全て持明院統の管領
注:-
(1)国衛領(こくがりょう)
律令制下の諸国に中央から派遣された国司が統治する地域のこと。
(2)長講堂領
長講堂は法華経を長期にわたり講義するために後白河法皇が建立し
た法華長講弥陀三昧堂のことである。 後白河法皇は建久2年
(1191)に自分の所領・荘園42か国89か所を寄進して長講堂の経
済基盤を確定したがこれら領地を長講堂領という。
2.2後南朝
三種の神器を得、第100代後小松天皇を建て揺るぎなき基盤を確立した足利幕府は衰退に向かう南朝を顧みることなく、明徳条約を反故にするだけでなく元中9年(1392)の南北朝統一の4条件のうち4)以外は実行せず、後亀山上皇をはじめ南朝関係者を厳しい監視下に置き行動の自由まで制限した。しかし、後亀山上皇最大の関心事である皇太子人事で幕府が南朝系の皇子を推
挙してくれるのではとの僅かな期待があったので後亀山上皇は合一後暫らく恭順の態度を保ち続けた。
1)後亀山上皇吉野へ出奔
応永15年(1408)足利義満の死を機に幕府は南朝皇子成仁(後村上天皇の孫)を仏門に入れ皇位継承権を剥奪し、後小松天皇に代え同天皇の第一皇子の躬仁を即位させようと計画した。
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このような企てを察知した後亀山上皇は幕府に皇位継承問題を質し、躬仁の即位阻止と南北朝合一条件の履行を迫る目的で足利義持を訪ねたがその目的は達せられなかった。
応永17年(1410)後亀山上皇は幕府に対する抗議行動として嵯峨を出奔し吉野に入リ後南朝(合一後の旧南朝の意)を建て再度北朝に対立した。その後も皇子たちが反幕府勢力のシンボルとなって蜂起が続いた。
2)小倉宮の出奔と南朝後胤の断絶策
後亀山天皇の孫、小倉宮聖承は皇位への不満から正長元年(1416)嵯峨から姿を晦まし北畠満雅を頼り伊勢に赴いた。 後亀山上皇、小倉宮の京都出奔は室町幕府の皇位問題が克服されていないことを物語っており、このような不安定要素を取り除くため足利義教は永享6年(1434)南朝後胤の断絶策を打ち出した。これに対する南朝勢力もいきおい粗暴化し嘉吉3年(1443)には大
挙して宮中を襲い三種の神器の一つである神爾を奪い去った(禁闕の変)
管理人注:神爾= 八尺瓊勾玉
箕作阮甫(みずくりげんぽ)の成果
https://blog.goo.ne.jp/0345525onodera/e/a58227472cc1173d28074f3f4552a407
小野寺直(なおし)日了天皇に関しては以下の拙稿「支配層と血縁」参照ください
支配層と血縁
https://blog.goo.ne.jp/0345525onodera/e/3b585626a9ce7913df5663b002909139
http://saigaijyouhou.com/blog-entry-227.html
『戊辰戦争は、まず新政府軍 V.S 幕府軍の主導権争いの京都「鳥羽・伏見の戦い」 に始まり、次は「東北戦争」、さらに北上して、旧幕府軍の最後の抵抗となる「箱館戦争」で幕を下ろしました。
当初、京都の戦いでは両軍の兵力は、新政府軍の約5000人に対し、 旧幕府軍が15000人。旧幕府軍側が3倍ほど数で上回っていました。
しかし、朝廷が薩長軍を官軍と認定し、錦の御旗(みはた)の使用許可を与えると形勢が逆転します。この錦の御旗は、下級公家であった岩倉具視が密造したものでしたが、朝廷の許可を得て戦地で掲げると、「天皇には逆らえない」と旧幕府軍の戦意は低下します。慶喜が軍を捨てて京都から江戸に逃走したことも重なり、新政府軍の圧勝に終わります』
500円札と岩倉具視
3種の神器と小野寺直
https://blog.goo.ne.jp/0345525onodera/e/0ce16451b87eff15015f723a1c67e823
禁闕の変
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%81%E9%97%95%E3%81%AE%E5%A4%89
後南朝の遺跡を田訪ねて
http://hmpiano.net/koharu/shuyu/moriwaki/myself/bunsho/kumano.htm
3)赤松満祐の将軍暗殺
将軍足利義教は性格厳しくその施政は過酷を極め、将軍就任以降1434年までに領地没収、遠流、死罪に処せられた公家・神官・僧・女房など総数は80名にのぼった。 播磨国守護の赤松満祐は将軍義教が満祐の同族赤松貞村を寵愛し、満祐を排除しようとする動きをみて身に危険を感じ嘉吉元年(1441)義教を自邸に招き暗殺した。(嘉吉の乱)この事件により赤松満祐は山名宗全等幕府討伐軍に討たれ、赤松氏は一時的に滅亡した。
美作後南朝皇統譜を次表に示すは元記事参照
3.1初代高福天皇
1) 南朝99代後亀山天皇の長子、小倉宮良泰親王は天皇の座を待つこと久しく老齢に近づき側近達は憤懣やるかなく、良泰を奉じてことを興すべくしばしば協議した。 その結果、美作守護職山名修理教清に働きかけ京都を離れた美作に御所を建てそこを南朝御所(植月御所)とすることとした。
2)山名修理教清はこの要請を受け入れ田口左馬介重貞に命じ植月庄北村に御殿を造営し、嘉吉2年(1442)8月、近江国甲賀郡小椋の里に潜伏していた小倉宮良 泰の子、尊義親王と尊秀親王を美作の植月御所に迎えた。
3)権大納言日野有光、美作守護山名教清、丹波・播磨守護山名持豊、楠木正秀、 楠木正元などは第103代後土御門天皇のあとには小倉宮良泰親王(實仁)を天皇にと望んだが、親王は嘉吉3年5月(1443)73才で崩じられた。
日野有光等は北朝が持っている三種の神器の奪還を計画し、嘉吉3年(1443)9月土御門御所を約300名で襲い神器を奪取した。 しかし、神鏡は途中で取り返され、神剣も清水寺辺りで失い、神爾のみ楠木次郎によって比叡山延暦寺で待っていた良泰親王の子、泰仁親王のもとに届けられたが幕府方畠山持国の急襲と僧兵の寝返りにより敗北、泰仁親王達は自害した。 このとき神爾は楠木正元等によって比叡山から密かに持ち出され美作「植月御所」の尊義親王のもとに届けら
れた。(禁闕の変)
小倉宮良泰親王の第四皇子尊義親王は美作後南朝初代天皇として嘉吉3 (1443)10月29日即位、高福天皇となり12月年号を天靖と改元した。
4)高福天皇は1444年、僧籍にあった有義親王を還俗させ征夷大将軍に任じ8月大和方面に出撃させた。 しかし、戦況に利なく有義親王は大和湯浅城で自害、高福天皇は有義親王の死を悲しみ退位を決意、有義親王の6才の皇子尊雅親王に譲位し、その後、康正1年(1455)45才で亡くなった。
3.2 第2代興福天皇
宝徳3年(1451) 尊雅親王は第2代興福天皇として即位、改元大明となった。しかし、天皇が幼く執政は高福太上天皇にあった。
即位から7年後の長録2年(1458)7月、興福天皇は植月御所内で幼帝の相談相手であった小寺藤兵衛に突然斬られ、翌日13才で死亡。 (長録の変)小寺藤兵衛は赤松家再興のため植月御所にあった三種の神器を奪取するため名を僧侶性説と偽り単身で植月御所に潜入していたものである。神爾を手にした小寺藤兵衛は京都で大事成功を報告。
赤松家は再興が許されて赤松政則が相続人と認められ、加賀、出雲、備前の一部が与えられた。
現在、これら神器争奪・天皇殺害事件等の舞台は全て大和の吉野地方でのこととして知られているが、当時の幕府が美作に南朝の一派があることを隠蔽する意図があったものと考えられる。 なを、後世の研究者を混乱させる一因として京都、吉野、美作の地名の類似によるところも
大きい。
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美作と京都・奈良類似地名は元記事参照
注: 植月御所は北方(きたがた)にあり、仙洞御所、鳥羽野の見政庵があった
また、よく知られた説のなかでは赤松家再興を企てる残党により長禄元年(1457) 奥吉野の川上郷において南朝側の一宮・二宮の殺害、およびその翌年には尊雅親王の殺害と神爾の奪還(長禄の変)が実行されたとされている。 この企てには幕府・朝廷の赤松家再興の約束が取り付けてあった。
ここで殺害された南朝側の一宮とは尊秀親王、二宮とは忠義親王とする説があり、その場所も現在の奈良県吉野郡川上村・上北山村とされ通説となっているがそれを裏付ける確かな史料は発見されていない。
第3代忠義親王
初代高福天皇の第2子忠義親王は直ちに即位、年号を明応と改めた。
文正2年(1467)に起こった応仁の乱において美作の守護であった西軍の山名宗全は忠義天皇を京に乞い、錦旗聖旨を戴き細川勝元の東軍を国賊として将兵を鼓舞しようとした。 一方、忠義天皇も長年願望である京への進出の機会到来とばかり尊朝、森久の二児をつれて植月御所から上洛した。
しかし、文明5年(1973)、両軍の将山名宗全、細川勝元が相次で亡くなったが、戦いは全国に拡大し4年間も続いた。その後ようやく休戦の機運が高まり、文明9年(1477)両軍の和議が成立した。
この11年間続いた応仁の乱が勝者のないまま収束したことより忠義天皇の願望は達せられず、京を引き揚げ植月御所に帰還した。 挫折した忠義天皇は12才の尊朝親王に世を譲り禅定法王として隠居、文明12年(1480)35才で崩じた。
3.4 第4代尊朝親王
応仁の乱後の幕府は権威を失墜し、地方の豪族達が互いに領地を争う戦国時代に突入した。 文明9年(1477)父忠義天皇の跡を継いだ尊朝親王は八郎丸と名乗り、日の丸を旗印に西から親王領に迫る毛利勢力に備えた。親王は天文15年(1546)81才で崩じた。
3.5 第5代尊光親王
天文15年(1546)父 尊朝親王の跡を継ぎ父と同じく八郎丸を名乗り、皇位の回復、親王領の防衛に努める等、戦国の世を乗りきったが領地は減少した。 永禄11年(1568)76才で崩じた。
3.6 第6代尊通親王
永禄11年(1568)父尊光親王の跡を継ぎ八郎丸を名乗り、安東一族や美作の土豪の協力を得て勢力拡大に努めた結果、天正6年には領地は8万5千石にも及んだ。
しかし、天正10年になると南から手をのばしてきた宇喜田直家に領地を5千石にまで狭められた。 尊通親王は播磨の守護赤松晴政に援助を依頼したが、その懇請も実らないまま慶長2年(1597)71才で崩じた。
3.7 第7代尊純親王
慶長2年(1597)父尊通親王の跡を継ぎ、明正15年(1638)には京都青蓮寺法主、天台座主となり、承応2年(1653)86才崩じた。
3.8 第8代高仁天皇
天皇が勅許により京都の僧に与えた紫衣や上人号を幕府が取り消したこと等、幕府の横暴に立腹された第108代後水尾天皇は退位を決意した。度重なる幕府の無礼と弾圧に怒りと絶望を詩に詠み、幕府に相談なく寛永3年(1632) 10月20日植月御所におられた美作南朝の9才の高仁親王に譲位され上皇の身となった。
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慶長18年(1613)6月公家衆諸法度施行
元和元年(1615)7月紫衣法度、禁中並公家諸法度施行
後水尾天皇の詩
「思うことなきだにいとふ世の中にあわれ捨てても惜しからぬ身を」
「葦原よしげらばしげれおのがまま、とても道ある世にあらばこそ」
高仁親王は践祚の式をして高仁天皇となり、寛永4年正月、年号を天晴と改めた。 即位式は後水尾上皇の御所が完成してから京都で挙行の予定であったがこれは行われなかった。 しかし、徳川幕府はこの譲位を快しとせず直系の興子内親王を天子とするよう強要した。後水尾上皇は幕府の恫喝に屈したため「寛永6年11月8日譲位」と発表され、7才の興子内親王が明正天皇として即位した。 これを機に幕府は南朝の弾圧を増々露にした。
寛永11年6月失意の高仁天皇は後水尾上皇との約束の履行を正すなどの交渉をさせるため津山藩初代藩主森忠政に上洛させたが忠政は毒殺され、幕府は高仁天皇を廃帝とした。
高仁天皇は貞享2年(1685)67才で崩じた。
3.9 第9代良懐親王
寛文6年(1666)6月生れで武技に優れ剛力無双の偉丈夫であった。
明暦3年(1657)徳川光圀は大日本史の編纂を始めたが、元禄10年(1697)美作の植月御所に使者をおくり南朝史料の調査を願い出た。 良懐親王は弟良明 親王を水戸に派遣、光圀に事情を確かめさせた。 光圀から国史編纂の目的などの説明を受けた。
この報告を受けた良懐親王は「南朝正系を世に訴える良い機会」と侍臣に美作後南朝の皇統譜、皇系図、古記録等を持たせ水戸に送り出した。 その頃、光 圀は健康を損ない良懐親王から届いた資料等を目にすることも出来なかった。
しかし、これら貴重な資料は再び植月御所に返ることはなかった。その後、光圀は元禄13年(1700)73才で亡くなっている。
一方、元禄10年(1697)8月、幕府は津山藩森家を改易し、12月5日には幕府は使者大目付、水谷勝信に命じ200余の兵を植月御所に派遣し、第9代良懐親王に対し次ぎの通り通告した。
* 宮家の親王号を剥奪し臣下に格下げする
* 津山藩より受領の5千石の扶持米は召し上げる
* 植月御所の領分地の全てを没収する
* 御所への居住は当代限りとする
平民となった良懐親王は屈辱に耐え「我王」を名乗り武術に、相撲にそして百姓に励んだ。 そして、宝永6年(1709)年1月、西大寺に向け吉井川を高瀬舟で下る途中、
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備前鴻の瀬で突然船が転覆し従者ともども水死し、親王は柵原町飯岡に埋葬されている。 このとき親王は44才であった。 この頃、幕府から南朝系の者を抹殺するよう指令が出ていたことから良懐親王の死も暗殺であったとされて いる。
美作において嘉吉3年(1443)から宝永6年(1709)までの254年間続いた美作後南朝は正史に認知されることもなく9代にして終焉を迎えた。
4.津山藩森家の悲劇
天正10年(1582)6月織田信長と共に本能寺で戦い戦死した森蘭丸、坊丸、力丸の末弟美濃金山城主森忠政は慶長5年の関ヶ原の合戦で関ヶ原に向かう徳川秀忠の軍が上田城主真田昌幸に阻止され苦戦しているのを助けた功績で慶長5年、徳川家康に信州川中島13万7千500石の城主に封じられた。のち慶長8年(1603)、美作18万6千500石の津山藩主に封じられ森家初代藩主となった。それ以降、森家は断絶の元禄10年(1697)までの95年間外様藩主として美作を統治した。
しかし、 徳川幕府の基盤を一層強固なものにするための有力外様大名の取り潰し政策と、美作に存在した後南朝断絶を計るため森家は幕府により取り潰された。
ありし日の津山城
http://www.e-tsuyama.com/report/2016/02/post-1042.html
管理人注:以上の南北朝の歴史を考えると孝明天皇が京都に残る何らかの密約があったのではないか?そして千種任子との間にできた子が第二代裏天皇としての堀川辰吉郎ではなかったのではないかと思います。エドモンド・ロスチャイルドと千種任子との間の子が堀川辰吉郎の線も否定はできませんが......。
0345525onodera さんが 2022年10月19日 に書かれた記事をお届けします。 | ||||
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おまけ~