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もう一度自分の中に毒を持て

自分の中に毒を持て

自分の中に毒をもて

http://web.archive.org/web/20170502035844/http://angel.ap.teacup.com/gamenotatsujin/1155.html

「自分の中に毒を持て 」  

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商品の説明

自分の中に毒を持て あなたは“常識人間”を捨てられるか
著者が1993年に出した文庫本の新装版。亡くなる3年前に書き残した。

 今を生きる人々を叱咤激励している。自分の人生を振り返って、この世に生まれ出た瞬間から(覚えているわけではないだろうが)、小学校時代、パリ留学時代、今日に至るまでを「決められた枠にはまらずに、自分の思いを爆発させ続けてきた連続だ」と言う。

 著者の主張は明快だ。「集団に馴染むために個性を殺すな。1人ひとりが本気で考え、自分の思いを爆発させなければ、世界はつまらなくなる」。

 何かを生み出すためには、自分を追い込むことが必要だ、という言葉は芸術家として生き抜いた著者の叫びだ。

 数々の前衛的な芸術作品に込められた熱く厳しいメッセージが伝わってきて、勇気づけられる。

内容(「BOOK」データベースより)

あたりまえの人間なんて屁の役にも立ちゃしない。いつも興奮と喜びに満ちた自分になる。

みんなどうしても、安全な道の方を採りたがるものだけれど、それがだめなんだ。人間、自分を大切にして、安全を望むんだったら、何も出来なくなってしまう。計算づくでない人生を体験することだ。誰もが計算づくで、自分の人生を生きている。たとえば美術家でいえば、美術家というのは、人に好かれる絵を描かなければならない。時代に合わした絵で認められないと、食ってはいけない。生活ができない。だけど、ぼくはまったく逆のことをやって生きてきた。ほんとうに自分を貫くために、人に好かれない絵を描き、発言し続けてきた。1度でいいから思い切って、ぼくと同じにだめになる方、マイナスの方の道を選ぼう、と決意してみるといい。そうすれば、必ず自分自身がワァーッともり上がってくるにちがいない。それが生きるパッションなんだ

岡本/太郎
1911年、東京生まれ。洋画家。パリ大学卒業。在学中、ピカソの作品に衝撃を受け、抽象芸術運動に参加。帰国後、前衛的な作品を次々に発表、国内はもとより国際的にも高い評価を受ける。大阪万国博の「太陽の塔」の創作、「芸術は爆発だ!」の言葉はあまりにも有名。1996年の没後も、独創的な作品は、幅広い世代の支持を受けている。その超個性派の生き方や遺された言葉は、いまも人々の心の中に生きつづけている(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです) --このテキストは、単行本版に関連付けられています。

ところでどこかで書いてありましたね~藤原正彦お茶の水大教授は『真のエリートが1万人いれば日本は救われる」と主張している。真のエリートの条件は2つあって、ひとつは芸術や文学など幅広い教養を身に付けて大局観で物事を判断することができる。もうひとつは、いざというときに祖国のために命をささげる覚悟があること』と言っている........エリートになるためには学歴とは対極にある教養を身に着けることです。そのために絶えず自分を振り返り自分を修正していく~これが教養です。またそれは「常識人間を捨てられるか」にかかっています。今回は岡本太郎の本に書かれた内容を連載でお伝えします。

「藤原氏のように“日本は欧米に比べて優れている”などの類の相対的プライド(それも自分本人でない過去の方々の業績!)を誇示しようとのケツの穴の小さい発言はせず、太郎氏は、“自分がほんとうに生きている手ごたえをもつことが、プライドなんだ”、更に、“大切なのは、他に対してプライドをもつことでなく、自分自身に対してプライドをもつことなんだ”との見解です。

以下は国家と個人の品格より

http://angel.ap.teacup.com/gamenotatsujin/1030.html
 
国家の品格あらすじ
 
https://book-kanso.jp/7/0069.html

国家の品格/藤原正彦のあらすじと読書感想文

2013年1月31日 竹内みちまろ

 2005年に発刊され、ベストセラーになった「国家の品格」。著者は、作家の新田次郎さんと、藤原ていさんの次男・藤原正彦さんです。正彦さんは欧米の大学でも教鞭をとった数学者で、満州からの引き揚げの様子を描いたていさんの「流れる星は生きている」の中では、父親から特に愛され、ていさんに抱かれて朝鮮半島の38度線を越えた3歳の少年として登場します。あらすじと読書感想文をまとめてみたいと思います。

国家の品格のあらすじ

 「国家の品格」は、アメリカ式の市場経済原理が席巻する日本の行く末を案じ、戦後の占領政策で品格が失墜した日本に警笛を鳴らす書です。

 著者は、人種のるつぼと言われるアメリカでは、論理の応酬だけで物事を決めるほか術がなく、アメリカ式のマネーゲームには、敗者への配慮や敬意は存在しないといいます。著者は30代のころ、アメリカの大学で教え、40代では、伝統や、誠実さや、ユーモアが重んじられるイギリスの大学で暮らすことがありました。イギリスから帰国後、著者の中で論理の地位が低下し、「情緒」や「形」というものの地位が向上します。「情緒」とは、喜怒哀楽のような感情ではなく、「懐かしさとかもののあわれといった、教育によって培われるもの」で、「形」とは、「主に、武士道精神からくる行動基準」といいます。アメリカ化が浸透した日本人は、財力にまかせた法律違反すれすれのメディア買収を、卑怯とも、下品とも思わなくなりました。進行中のグローバル化とは、世界を野卑な論理で均一化することであり、日本は「情緒」と「形」を取り戻し、グローバル化に抵抗し、世界の中で「孤高の日本」を貫かねばならないと主張します。

 現在、すべての先進国が荒廃しています。歴史的に、論理が通っていれば、いかに非道なことでも、人間はなぜかそれを受け入れてきました。ヒトラーのナチ党は、民主的な選挙で選ばれ、アメリカ国民は、アメリカの外でアメリカ兵の血は一滴も流さないと公約しておきながら第2次世界大戦に参戦したルーズベルトを支持しました。

 一方で、第1次世界大戦で、アジアで唯一の戦勝国となった日本が、大戦後にパリ講和会議で、本気で提案した「人種平等条約」は否決されます。「自由」「平等」「民主主義」をうたう近代合理精神とは、一見すると論理が通っているように見えますが、その論理が、そもそも仮説から始まっています。従って、どの論理を(どの仮説を)選ぶのかは、主に選択者の「情緒」によります。「情緒」とは、論理以前のその人の「総合力」。情緒力がないのに論理的な人は最悪で、出発点に選んだ仮説が間違っていると(例えば、未開な人間たちに変わって先祖伝来の国を統治してやることはその人たちのためにもなる、など)、その後の論理には完璧に筋が通っているだけに、どこまでも暴走します。

 また、「民主主義」「主権在民」には、「国民が成熟した判断をすることができる」という大前提があります。アメリカは、ひたすら戦争を続け、国民がひたすら戦争を許容、支持、熱望し続けています。また、司法ですら国民感情に配慮する現状では、民主主義=世論であり、世論はマスコミによってつくられるので、実質的に、マスコミが司法の上に立っています。歴史的に、ヒトラーをはじめとする独裁者や、軍国主義は、マスコミを利用して台頭しました。

 人間にとって最も重要なことの多くは論理的に説明できないといいます。論理的にいうなら、「人を殺してはいけない理由」も「人を殺していい理由(死刑制度など)」もいくつでも挙げることができます。しかし、理屈ではありません。人を殺してはならないのは、「駄目だから駄目」です。「以上、終わり」。「もっとも明らかのように見えることですら、論理には説明出来ないのです」とのこと。

 「自由」という言葉は、日本の中世では、しばしば「身勝手」の意味として使われていました。江戸時代、明治のころまでは、日本の教育水準は高く、日本にもエリートがいました。真のエリートは、文学、哲学、歴史、芸術、科学といった「何の役にも立たないような教養をたっぷりつ身につけ」、庶民とは比較にならないような圧倒的な大局観や総合判断力を持ち、いざとなれば、国家のため、国民のために喜んで命を捨てる気概と、俗世に拘泥しない精神性が求められるといいます。現在でも、イギリスやフランスは真のエリートを育てており、それらの国では、女性スキャンダルはありますが、わいろや汚職はほとんどありません。国民に奉仕する気概のある人間は国民を欺くようなことをしないからとのこと。

 日本には、情緒と形を生む条件がすべて整っています。繊細な感受性を育む豊かな自然は、「すべては変わりゆく」というドライな達観から派生し、弱者へのいたわりや、敗者への涙という無常観、さらには、抽象化された「もののあわれ」という情緒になりました。欧米にも「もののあわれ」はありますが、日本では誰でも当たり前に持っているこの情緒は、欧米では選ばれた詩人だけが持っているといいます。また、「家族愛」「郷土愛」「祖国愛」「人類愛」を生む「懐かしさ」の情緒もあります。

 もともと、鎌倉時代の戦いの掟だった「武士道」は、「武士道精神」として浸透し、儒教的な家族の絆とともに、培われました。「卑怯を憎む心」や、「親を泣かせる」「先祖の顔に泥を塗る」という考えを生みます。誰も見ていなければ万引きをする(=法律で罰せられないから万引きをする)ような人間はいませんでした。万引きは法律違反だからいけないのではなく、「お天道様が見ている」からしてはならないのです。

 美的感受性や、武士道精神に培われた弱者への「惻隠の情」などを身に付ければ、人間の器が多きくなります。外国語を学ぶよりもまず、読書で日本の文学に触れ、日本人が「情緒」と「形」を取り戻すことが、世界平和にもつながります。

国家の品格の読書感想文

 『国家の品格』を読み終えて、すっきりしたことがあります。それは、ダメなものはダメということでした。会津藩の武士道でいえば、ならぬものはならぬのです、というやつです。なぜ人を殺してはならないのかは、ダメだからダメ、それでで終わり、なんともすっきりしました。

 思えば、例えば、なぜ人を殺してはならないのかという命題(仮説)に対して、権利がどうだ、法律がどうだ、道徳がどうだと論理を重ねて議論することは、もちろん、必要だと思います。でも、子どものころに、「なんで」と問いかけをしたことに、「問答無用にダメだからダメ」と答えてもらった経験は、残念ながら、すぐに思い浮かびませんでした。同様に、自分が大人になってから、「なんで」と問われたとき、無条件に、「ダメなものはダメだから」と答えたこともありませんでした。

 著者は、日本でもアメリカ化が進んでいるといいます。確かに、「ブラック企業」という言葉が生まれたように、法制度の網目をぬって何でもやる会社もあるように思えます。いわゆる「ブラック」な職場でなくても、そう決まっているから…、誰々がそう言ったから…、自分は何も言われていないから…、自分は担当者ではないから…、などという論理で、場の空気も、組織の利益も、相手の立場も考えずに、自分に都合のいい論理だけを振りかざす人は多いと思います。自分の考えや思惑を捨て、決まりごとだけに忠実に(=内実は自分の保身だけを考えて)いればいちばん楽だし、波風も立ちません。しかし、心の中に沸いた、それは違うんじゃないか…、どうもおかしいぞ…、という声(著者によると「情緒」や「形」から生まれる行動基準)を無理していると、いつか、自分が持っていたはずの、論理にして説明することはできない「情緒」や「形」までも失ってしまうのかもしれません。企業は、コンプライアンスという論理すらを声高に叫ばなければならないところまで来ていますが、一人一人が、しっかりとしていれば、そもそも、コンプライアンスという言葉を叫ぶ必要はないのではないかとすら思えました。

 何が良くて、どうするべきかは簡単に言えることではありませんが、まずは、心を殺して金のためだけに働くのではなく、金はさておくとしても自分がすべてを捧げるに値する仕事を見つけ、それを手にすることができたら、目の前の仕事に全力を傾けることが大切なのではと思いました。すべてを捧げるに値しないような仕事だったら、やはりどこかに無理が出て、悪いと思っていてもみんなやっているからだとか、黙っていればいいやだとか、見なかったことにすればいいやという気持ちも生まれてしまうのかもしれません。自分自身の尊厳を保ち、恥を知り、夢中になって、全力投球できることを見つけることが、自分自身の品格を保つ早道であり、国家の品格を向上させることにもつながるのではと思いました。

著者・あらすじ

藤原正彦

1943年生まれ。お茶の水女子大学理学部教授。数学者。作家・新田次郎と藤原ていの次男。

あらすじ

古き良き国柄を忘れた日本人が、今取り戻すべき「品格」について、大学教授が提言します。「なぜ日本が歪んでしまったのか?」「自由と平等による弊害」「武士道精神復活」など、日本人が今、必要な心構えがまとめられています。

1. 日本人に必要なもの

経済大国となりえた日本ですが、それに伴って大事なものを忘れてしまいました。それが「情緒と形」です。「情緒と形」とは、富士山や桜を見て美しいと思える「自然に対する感受性」。茶道、華道、書道、俳句などの「日本特有の芸術」のことです。著者は日本人に、外国にはない、この「情緒と形」を取り戻してほしいと述べています。

特に「自然に対する感受性」というのは、現代日本にとって必要なものです。「桜」が美しいのは3日ほどですが、その一瞬のために何十年もかけて育てています。現代日本の効率化とは対極にある考え方です。

2. 日本人が取り戻すべきもの

著者が20年以上前から提唱している考え方があります。それが「武士道精神」です。武士道精神とは、鎌倉時代以降、日本人の行動指針、道徳基準として機能してきた精神論で、具体的には、慈愛、誠実、忍耐、正義、勇気、惻隠、名誉などです。

この武士道精神は「戦いの掟」が起源で、どんな相手でもフェアプレイを重んじることです。卑怯な行為、自己中心的な行為、相手の事を考えない行為を厳しく律する行為です。成果主義、実力主義などの弊害で失われてしまった「相手を想う心」を復活させるべきといいます。

3. 日本人が今やるべきこと

日本人が品格を取り戻すべき具体的な方法として、①独立不羈 ②高い道徳 ③美しい田園 ④天才の輩出 の4つ行動指針をあげています。

① 独立不羈とは、誇りと自信のことです。戦後、アメリカの植民地化された日本が忘れてしまった、自らの意志に従って行動する心構えのことです。

② 高い道徳とは、日本人が生まれながらに持っている優雅さ、温厚さのことです。相手を敬う心がベースになっています。

③ 美しい田園とは、美しい田園があるということは、金銭至上主義に染まっていない証拠といいます。金銭至上主義のしわ寄せは、最終的に「農民」に来るからです。

④ 天才の輩出は、文字通り、「天才が生まれているか?」ということです。天才が生まれるためには、精神性や美を重んじること、謙虚な心が必要です。市場原理主義は、これらを破壊するといいます。

まとめ

私たち日本人が忘れかけていた「心」に気づくことができました。しかし、ポイントは「昔に戻ればいい」ということではありません。経済史上、市場原理という論理を持ちつつ、品格をも持ちわせるのです。その資質と精神力を持つ日本人は、これを達成する義務があるといっても過言ではありません。


擦り切れるほど読み返した僕の座右の銘

http://www.fukulow.info/book-okamototaro/

まずは冒頭から.......

自分の大間違い

人生は積み重ねだと誰でも思っているようだ。ぼくは逆に、積みへらすべきだと思う。財産も知識も、蓄えれば蓄えるほど、かえって人間は自在さを失ってしまう。

過去の蓄積にこだわると、いつの間にか堆積物に埋もれて身動きができなくなる。

 人生に挑み、本当に生きるには、瞬間瞬間に新しく生まれかわって運命をひらくのだ。それには心身とも無一物、無条件でなければならない。捨てれば捨てるほど、いのちは分厚く、純粋にふくらんでくる。

 今までの自分なんか、蹴トバシてやる。そのつもりで、ちょうどいい。

 ふつう自分に忠実だなんていう人に限って、自分を大事にして、自分を破ろうとしない。社会的な状況や世間体を考えて自分を守ろうとする。

 それでは駄目だ。社会的状況や世間体とも闘う。アンチである、と同時に自分に対しても闘わなければならない。これはむずかしい。きつい。社会では否定されるだろう。だが、そういうほんとうの生き方を生きることが人生の筋だ。

 自分に忠実に生きたいなんて考えるのは、むしろいけない。そんな生き方は安易で、甘えがある。ほんとうに生きていくためには自分自身と闘わなければだめだ。

 自分らしくある必要はない。むしろ、??人間らしく″生きる道を考えてほしい。

??忠実?≠ニいう言葉の意味を考えたことがあるだろうか。忠実の??忠″とは(まめやか、まごころを尽くす)ということだ。自分に対してまごころを尽くすというのは、自分にきびしく、残酷に挑むことだ。

 ところが、とにかく忠君愛国の忠のように、主君はたとえ間違っていても主君である以上それに殉ずるとか、義理だの、仇討ちだの、狭い、盲目的な忠誠心ととられることが多い。

 だからぼくは、忠実なんて言葉はあまり使ってもらいたくない。

??実″にしたって、なにが実であるか、なんてことは抽象的で誰にもわかるもんじゃない。意識する??実″はほんとうの意味での??実″じゃない。

??実″というのはそういう型にはめた意識を超えて、運命に己を賭けることなんだ。

 自分に忠実と称して狭い枠のなかに自分を守って、カッコよく生きようとするのは自分自身に甘えているにすぎない。

 それは人生に甘えることでもある。もしそんなふうにカッコウにとらわれそうになったら、自分を叩きつぶしてやる。そうすれば逆に自分が猛烈にひらけ、モリモリ生きていける。

 つまり自分自身の最大の敵は他人ではなく自分自身というわけだ。自分をとりまく状況に甘えて自分をごまかしてしまう、そういう誘惑はしょっちゅうある。だから自分をつっぱなして自分と闘えば、逆にほんとうの意味での生き方ができる。

 誰だって、つい周囲の状況に甘えて生きていくほうが楽だから、きびしさを避けて楽なほうの生き方をしようとする。

 ほんとうの人生を歩むかどうかの境目はこのときなのだ。

 安易な生き方をしたいときは、そんな自分を敵だと思って闘うんだ。

 たとえ、結果が思うようにいかなくたっていい。結果が悪くても、自分は筋をつらぬいたんだと思えば、これほど爽やかなことはない。

 人生というのはそういうきびしさをもって生きるからこそ面白いんだ。

そうは言っても,人はいつでも迷うものだ。あれか,これか.....。こうやったら,駄目になっちゃうんじゃないか。俗に人生の十字路というが,それは正確ではない。人間は本当は,いつでも二つの道の分岐点に立たされているのだ。この道をとるべきか,あの方か。どちらかを選ばなければならない。迷う。
一方はいわばすでに馴れた,見通しのついた道だ。安全だ。一方は何か危険を感じる、もしその方に行けば,自分は一体どうなってしまうのか。不安なのだ。しかし惹かれる。本当はそちらの方が情熱を覚える本当の道なのだが,迷う。まことに悲劇の岐路。

こんな風にいうと,大げさに思われるかもしれないが,人間本来,自分では気づかずに,毎日ささやかであってもこの分かれ道のポイントに立たされているはずなんだ。何でもない1日のうちに,あれかこれかの決定的瞬間は絶え間なく待ち構えている。朝,目をさましてから,夜寝るまで。瞬間瞬間に......そしてみんな,必ずといってよいほど,安全な,間違いない道をとってしまう。それは保身の道だから,その方がモラルだと思っている。僕は,本当にうんざりする。人々は運命に対して惰性的であることに安心している。これは昔からの慣習でもあるようだ。無難な道をとり,皆と同じような動作をすること,つまり世間知に従って,この世の中に抵抗なく生きながらえていくことが,あたかも美徳であるように思われているのだ。徳川三百年,封建時代の伝統だろうか。ぼくはこれを「村人根性」といっているが,信念をもって,人とは違った言動をし,あえて筋を通すというような生き方は,その人にとって単に危険というよりも,まるで悪徳であり,また他に対して不作法なものをつきつけるとみなされる。

これは今でも一般的な心情だ。ぼくはいつもあたりを見回して,その煮え切らない,惰性的な人々の生き方に憤りを感じ続けている。ぼくが危険な道を運命として選び,賭ける決意をはっきり自覚したのは25歳の時だった。パリで生活していた頃だ。それまで,ぼくでもやっぱり迷いつづけていた、自分はいったい何なのか。生きるということはどういうことか。その時分,成功することが人生の目的であり、メリットであるように誰でもが思っていたし,そう教育された。だが、そんなことに少しも価値があるとは思わない。といって失敗は当然また己を失う。

18歳でパリに来て,画家としての夢を描いた。そして芸術運動の最前衛のグループに飛び込んだ。そこに情熱も張もあった。闘った。しかしやがて一方,人間の本当の生き方はタブローという枠の中で美を追求することだけではないのではないか。もっとひろく,もっとぎりぎりの,自分という人間の全存在,生命それ自体が完全燃焼するような生に賭けるべきなのではないか。そういう自分自身への問いに全身でぶつからずにはいられなかった。絵描きは絵の技術だけ,腕をみがけばいいという一般的な考え方には,ぼくはどうしても納得できなかったのだ。しかしそれは極めて危険な問いだ。芸術ばかりではない。他の部門のあらゆる専門家,さまざまの企業内の社員でもみんなそうだと思うのだが,この道一筋,ただ自分の職能だけに精進すれば尊敬もされる,報われもする。

それを根本的に疑ったり,捨ててしまえば生きてはいけない。食ってもいけないということになる。与えられた枠からはみ出して,いわば無目的的に自分をひろげていくとしたら,その先は真暗な未知,最も危険な状況に落ち込むことを覚悟しなければならない。それは極端にいえば死を意味する。しかし,社会の分業化された狭いシステムの中に自分をとじ込め,安全に,間違いない生き方をすることが本当であるのかどうか,若いぼくの心につきつけられた強烈な疑問だった。残酷な思いで,迷った。ぼくはごまかすことができないたちだから。そして..........今でもはっきりと思い出す。ある夕方,ぼくはキャフェのテラスにいた。一人で座って,絶望的な気持ちで街路を見つめていた。うすい夕陽が斜めにさし込んでいた。「安全な道をとるか,危険な道をとるか,だ」あれか,これか。どうしてその時そんなことを考えたのか,いまはもう覚えていない。

ただ,この時にこそ己に決断を下すのだ。戦慄が身体の中を通り抜ける。この瞬間に,自分自身になるのだ,なるべきだ。ぐっと総身に力を入れた。

「危険な道をとる」

いのちを投げ出す気持ちで,自らに誓った。死に対面する以外の生はないのだ。その他の空しい条件は切り捨てよう。そして,運命を爆発させるのだ。戦後の日本でぼくの果たした役割,ポジションはその決意の実践だった。ぼくは1940年,ドイツ軍がパリを占領する直前にヨーロッパを去り,太平洋戦争突入前夜の日本に帰ってきた。パリでの体験を経て、それをポジティブに生かすため,ぼくは日本という自分と直接いのちのつながりのある場で人生を闘うべきだと考えたのである。それは日本の現実に自分をぶっつけること,慢性的な精神風土と対決し,ノーと叫び,挑むためであった。先年,アンドレ・マルローと対談したが,その時も,ぼくが日本に帰ったのは,「アンチ日本人」になるためだ,と言った.....。実際,あの頃の日本の状況は絶望的だった。

本のレビューから

5つ星のうち 5.0
自分を殺しつづけることで、己の殻を破り、成長する投稿者 ryo 投稿日 2012/7/27
形式: 文庫
「芸術は爆発だ」「絵なんてきれいじゃくていいんだ」というような、世間の一般的な芸術の価値観に対峙した思想を、生涯を通して貫いた著者の姿勢にとても感動した。

とかく人間(特に日本人)は、人にどうすれば認められるか、どうすれば好かれるかということに終始悩まされつづけ、ありのままの純朴な自分を見失いがちになる時がある。そして、良かれと思って個性を削り他人に合わせた結果、他人に振り回され、そして裏切られ更にドツボにはまる。だから、なるべく傷がつかないないように中庸を取る。自分も含め大抵の人間はこの繰り返しの日々である。

本書を見ると、他人の評価で相対的に自分を評価しすぎたり、世の中の矛盾を避け、人生に妥協する態度をとることで、唯一無二の自分の運命を真剣に見据えることができなくなってしまうことが理解できる。。

人生で大事なのは、自分を殺し、自分と戦うことで社会の矛盾に立ち向かう勇気を身につけることである。

そのためには運命を賭けて、瞬間瞬間に腰を据えて、何かに情熱を注ぎつづける必要がある。

5つ星のうち 5.0
”今日の芸術”と並び岡本太郎の力強いメッセージが込められた本 投稿者 ギタリスト 投稿日 2012/6/19
形式: 文庫
この本は”今日の芸術”と並び岡本太郎の力強いメッセージが込められた素晴らしい本です。
私はこの本をなぜかいつも旅先で読みたくなってついついと買ってしまうので数冊たまってしまいました。

日本ではヨーロッパと比較して本当の文化社会は確立されていないと感じる。日本では世界で類がない程に毎日、世界レベルでの展覧会が開催され、音楽会が行われているが、こんな国は日本くらいのものだ。
しかし、それらの機会を私達は自分の生活に密着したものとして、必要なものとして生かしてはいないのである。限られた時間の中で流れ作業のように見る展覧会で何を感じられるだろうか。企業の宣伝として開催されるものも多いし、多くの人はファッションとして見て聴いているのだ。

今から40年ほど前、中学生だった時、学校の授業で大卒と高卒の生涯収入の違いをテーマにした授業があった。日本の教育に関して大いに疑問を感じた瞬間だった。
中学も高校も教育内容は低次元でおよそつまらないものだった。おそらく、そんな教育スタイルは今でも変わらず継続されているのだろう。

そんな時、岡本太郎の

”日本の教育は暗記するだけのもので本当の教育ではない、記憶力なんて自己存在をなくしたものにあるのだ、真に瞬間瞬間に生きている者は記憶力なんかどうでもいいのだ。”



という言葉はこころの深くに突き刺さってきた。涙を流しながら全くそのとおりだと思った。
結局、わたしはこの授業に反発し、大学にはいかず、その4年間を先のことも考えず好きなことをする時間にあてた。

作曲家、武満徹さんはこの日本の姿を次のような言葉で表現をしている。

「これから幾年、私は国家が強いるところに屈服して生きるのであろうか。現在の日本は、戦後、偽政者がかざしたところの文化国家のイメージとはおよそかけ離れた姿である。」

「私たちは、いま、個々の想像力が自発的に活動することが出来にくいような生活環境の中に置かれている。眼や耳は、生き生きと機能せず、このまま退化へ向かってしまうのではないか、という危惧すら感じる。」

今、日本の価値観は大きく変わろうとしてるが、政治家は相変わらず経済成長を第一としているし、原発問題にしても都合を優先した判断をしているのだ。
この本に岡本太郎が書いた価値観はこれからの社会の中でおおいに意味をもってくることなのだ。これこそが岡本太郎が残した遺産だと思うのだ。

さて、昔、岡本太郎がNHKでピカソをテーマした番組に出演した時、アナウンサがピカソを富士山の頂上とすると岡本太郎は何合目まで来ているか・・・と質問をしたことがある。
太郎が”わたしは、ピカソを超えたー!!。”と真顔で言った時には、さすがにテレビの前で耳を疑った。この人はNHK出演禁止になると思ったし、美術界を追放されるのではとも思った。
しかし、今は岡本太郎は確かにピカソを超えたと思えるのだ。それは圧倒的なピカソの芸術を目の当たりにしても、それに媚をうるのではなく(作風をマネをするのではなく)、
正々堂々と岡本太郎の芸術を、生き様をピカソに対してさえ貫き通したからだ。太郎はピカソに対しても”俺の作品を見てみろ”と堂々としていたことだろう。
ピカソもそのような岡本太郎を認めたのである。
普通なら年齢も上の巨匠ピカソに対して”先生、何かご意見を・・・”と言ったところだろう。太郎が言いたかったのはそういうことだと思う。
その時のアナウンサーは呆れ顔で笑っていたけれど、その言葉の意味を理解はできなかったことだろう。

太郎は昔バラエティー番組によく出ていた。そして目をギラギラさせながら”爆発だー!!”と言っていた。子供の頃、”この人はなんだか変わった芸能おじさんだな”と思っていた。
しかし後に太郎の本を読むにつれ、あの時、岡本太郎はテレビで変なことをやりながら(でも、本人はいたって真面目)、客から笑われながら、
逆に笑っている人間を、世間を冷静に観察していたのだと思う。私達は岡本太郎に隅々まで見られていたのだ。

そしてもう一つ、この頃のテレビは最高の権力だった。(今はインターネットにその地位をうばわれているが)
その最高の権力であるテレビに対しての挑戦として出演していたのだと感じている。

5つ星のうち 5.0
この人、本当に日本人ですか(笑)?投稿者 NAGATA トップ1000レビュアー 投稿日 2013/7/1
形式: 文庫
実に痛快なエッセイです。冒頭の一行目からして非凡です。「人生は積み重ねだと誰でも思っているようだ。僕は逆に、積み減らすべきだと思う。財産も知識も、蓄えれば蓄えるほど、かえって人間は自在さを失ってしまう」。最後まで、この「勢い」は止まりません。

筆者のような自由な精神の持ち主の文章を読んでいると、清々しい「飛翔感」すら感じます。実際に彼の生き方を真似る人はほとんどいないでしょう。だってそんなことをしたら、大抵の場合は社会のアウトサイダーになってしまうのですから。しかし著者にはそんなセコい打算はありません。本当に、言葉通りに生きたのです。しかも保守的な日本という国で。これは本当に驚異的なことだと思います。

以下は私の心にぐっときた部分です(原文を簡素化しています)。

・売らないという前提で絵を描き、あらゆる面で権威主義にたてつき、いわば常識を超えて、人の言わないことをあえて言い、挑んだ。(p20)
・失敗したっていいじゃないか。人間にとって成功とは何だ。結局、夢に向かってどれだけ挑み努力したかではないか。(p26-27)
・他と比較して自分を決めることはしない。自分の信じていること、正しいと思うことに突き進むだけだ。(p56)
・自分の家族が幸せでも、となりの家の人は苦しんでいるかもしれない。ニブイ人間だけが「しあわせ」なんだ。僕は幸福という言葉が大嫌いだ。(p74)
・ぼくは子どもをもつ必要がない。ぼくはぼくの息子であり、孫であり、父親であるから(p170)

私は本書を読んで、筆者から元気をもらった気持ちになれました。それと同時に、いかに自分が様々な「常識」や「思い込み」でがんじがらめになって不自由に生きているかということを痛いほど認識させられました。

著者は、つねに「どう死ぬか」から人生を考えていたのではないかと私には思えます。筆者は1996年に亡くなられましたが、おそらく亡くなられる際、人生に対する後悔は微塵もなかったのではないかと私は思います。対照的に、高齢化社会が本格化している今日(2013年現在)でも、死に臨んで「まだ死にたくない」とぼやく方が多いそうです。

本書は、二十一世紀を生きる私達に対してさえ「キミは、人生をいかに生きるべきだと思うんだい?」と挑戦状をつきつけているようにすら私には感じられます。本当に、すごい本です。

5つ星のうち 5.0
かっこいい友人 投稿者 tomotomo111 投稿日 2005/6/14
形式: 文庫
価値観が違うとはよく使われる言葉であるが、タイトルからすれば岡本太郎は私とはずいぶん価値観の違う人のように思えた。
人と意見を異にするとき、普通はこうでしょう、常識でしょう、という言い方には逃げがあると思う。だけど私は常識とは他人同士が気持ちよく暮らしていくためのルールだと思ってきた。だから、あるとき常識って何?と問われたとき偶然この本を手にとった。
人は言葉だけではなかなか真意を伝えることができない。
またその人を知ろうとしないうちには魅力も見えてこないことがある。
岡本太郎は生前自分がエキセントリックな芸術家というイメージだけで見ていたのとはまったく違う人間的で情熱的でわがままでとても魅力的な男だったんだと感じた。自分の価値観を気持ちよく広げられる、すごいかっこいい友人に出会えたような素敵な本である。
 
 死にたいままで生きてます
 
http://web.archive.org/web/20170501231144/http://angel.ap.teacup.com/gamenotatsujin/1012.html

管理人注:岡本太郎はゴーギャンとは違っていた

http://web.archive.org/web/20071220103449/http://angel.ap.teacup.com/gamenotatsujin/26.html

フォービズムの洗礼を受けた佐伯祐三はパリで発狂した

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