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風の王国

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風の王国 その1 - gooブログはじめました!

風の王国 その1 - gooブログはじめました!

風の王国で検索すると2件出てきます。http://angel.ap.teacup.com/applet/gamenotatsujin/msgsearch?0str=%82%A0&skey=%95%97%82%CC%89%A4%8D%91&x=0&y=0&i...

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サンカの掟(ハタムラ)

サンカを考えるから..........

http://www.kumanolife.com/History/kenshi1.html

サンカの社会は、彼等独自のもので、アユタチと呼ばれる大親分(おおやぞう)を頂点に、クズシリ、クズコ、ムレコの各親分(やぞう)が、(管理人注:あるいは頭領の補佐としてミスカシ(透破)ツキサシ(突破)の三羽カラスとして) 各地のセブリを取り仕切り、その生活は、彼等が理想とする誇り高き社会を守るために、独自の掟(ハタムラ)によって厳しく規定されていたと言われています。 結婚により彼等は親兄弟と離別し、独立のセブリで独立の生業(なりわい)をすることを決められています。 そして掟(ハタムラ)では、ひとたび関係のできた男女は夫婦(ツルミ)とならねばならぬ し、 ツルミとなった以上は、如何なる不正な関係も断じて許されないということです。映画「瀬降り物語」ではそう語られていますが、本当のところは分かりません。ただサンカの人達の夫婦の結びつきは強く、病身の妻を最後まで夫が甲斐甲斐しく看病した話しや、男尊女卑的な考えはあまり無かったようです。神示などの教えには「神界の乱れ、イロからじゃと申してあろう。男女関係が世の乱れであるぞ。お互いに魂のやりとりであるぞ。」との言葉がありますが、かなり自由に生きていたと思われるサンカの人々ですが、人間として守らねばならぬ 掟に対しては厳格であったのかも知れません。」(サンカ(山窩)を考える)から引用

管理人注:サンカの世界は男尊女卑の反対で女尊男卑(笑)

セブリとは?

http://cocorofeel.blog119.fc2.com/blog-entry-7047.html

 セブリとは背振り・瀬振りであり、古代日本の「山の民」は、ユサバリと呼ばれる簡易テントを河原や空地に張って移動生活をしたそうです。
 ユサバリとは、よく見かける切妻型の屋根のような形のテント小屋で、棒を2本X型に2つ立てて、その上に横棒を乗せてシートを掛けると出来上がります。

二つのアヤタチ........乱破と怪立

http://2006530.blog69.fc2.com/blog-entry-572.html

 ●疑 史(第35回) アヤタチとサンカ(1)

 オリエント由来の多神教を奉じるイスラエル支族の1部が大洋を航海し(アマベとモノノベ)、あるいは内陸を移って(秦氏)日本に渡来した。彼らはその後どうなったか。アマベの勢力は早くから減退したようだが、これは天孫軍に反抗したことが根本的原因であろう。

 【上田伝承】は、次のように伝える。

「朝鮮カラ追ハレタル 騎馬族ガ 日本ヲ襲ヒ 海人ラハ 朝鮮カラ来タル 応神天皇ナドニヨッテ 海ヅタヒニ ヘキ地ヘト 追ハレタノガ 海人トノコト」(『吉薗周蔵手記・別紙記載』)。

 朝鮮半島南端に駐屯していた辰王は、南下してきた同族に追われて日本に渡来し、宇佐でイスラエル支族・秦氏の女婿となった。辰王と宇佐氏との間にできた応神天皇が東征し、アマベらの古王国に侵攻するが、モノノベ氏の祖ニギハヤヒと縄文族ナガスネヒコの連立政権大和王国もその1つだった。

 アマベが東征軍に抵抗したとの上田伝承は、『日本書紀』応神紀の「3年11月、処々の海人ざわめきて命に従わず。即ち安曇連の祖の大濱宿禰を遣わして平らげせしめ海人の宰となす」とあるのに対応する。思わぬ所に古伝承の裏打ちが見つかるのである。

 応神3年の反乱(実は防衛)の主体は海民というより、海民支配者のアマベだったから、各地の弥生稲作集落イセも反抗の拠点となった。近江守山の伊勢集落が突然廃墟となったのも、この時の兵火によるものであろう。応神軍に味方してアマベの騒擾を平定したのは、海人族の1派の大濱宿禰で、安曇連の祖となった。筑前国儺県(ナノアガタ)を本拠とする安曇氏は海神ワタツミの後裔を称し、住吉三神を奉じるから、ホアカリを祖神とするアマベとは同じ家系ではないが、ワタツミがホアカリの岳父というから、極めて近い縁戚関係にあった。大濱宿禰の天孫族への加勢は、宇佐の秦氏の工作とみるべきか。

 応神紀に「5年秋、諸国に令して海人及び山守部を定む」とある通り、古来アマベの支配下にあった全国の海民は、この時に初めて部曲に指定され、安曇氏がその宰(ミコトモチ=支配者)を拝した。私的部民の安曇部を有していた安曇氏は、以後海人の宰をも兼ねる。

 天孫族の襲来に当たり、海人族は安曇とアマベに分かれて親天孫・反天孫の両側にヘッジしたらしい。戦国時代の真田家を連想するが、真田の本家たる信濃の海野・滋野氏も根源は安曇氏であろう。イスラエル族の特色たるヘッシ策を採ったことを見ても、海人族の民族性の見当は自ずからつく。

 天孫に反抗したアマベはどうなったか。『古事記』の応神条に「海部、山部、山守部、伊勢部を定めた」とある。伊勢部は伊勢神宮に海産物の御贄を奉る小規模な海人集団であるが、今も残る伊勢部柿本神社の祭神は海神系でなく、天照大神などのホアカリ系である。伊勢部の名からしても、この宰たり得る者はイセの社にホアカリを祀ったアマベ以外にはあり得ない。アマベの1部は伊勢部の宰となった筈である。

 海人部の宰となった安曇連(宿禰)は、海直(アマノアタエ)と改称し、この結果アマベとアマが併存して紛らわしくなった。山守部の宰の山部氏が延暦4年に山氏と改姓した例と似るが、安曇連の場合は自ら海直と改称することで、敵方に回っていたアマベの遊民を吸収し、海人族の再統合を図ったものだろう

 しかしアマベの1部は海辺に行かず、山岳に入ってアヤタチとなった。上田伝承が「アヤタチ トハ 怪立 ト書ヒタル由。ツマリ アヤタチハ 追ハレル者ノ中カラ 選リスグッタル者ノ 集団デアル由。ヘキ地ノ海二行カヅ 山中ニ 入ッタノデアル由」と語るように、海人の中から選抜された者が山中に入り、伝統の錬金術を修めて天孫族に対抗し、アヤタチと称した。怪しく(本性を晦まして)立つ(生き抜く)ことを原則としたので、これを漢字にすれば「怪立」となる。

 上田伝承のアヤタチ説により、図らずも明らかになったのが謎の民サンカの由来である。サンカ研究家で知られた三角寛は「サンカは出雲族で、純粋の大和民族を自負する。頭領アヤタチ(乱破)は丹波山中で一族の統率と子弟の教育に当たり、補佐にミスカシ(透破)とツキサシ(突破)がいる」と指摘して、「世間はサンカと呼ぶが、彼ら自身はそれを嫌いミヅクリ(管理人注:箕作のことか)と自称する」と述べた。同じく研究家の後藤興善も、サンカは他称と述べたが、三角と異なり「彼らの自称はショケンシである」とした。自著の中で彼らをサンカと呼んだ三角は、彼らの自称をミヅクリ(箕作)と断じたが、ショケンシなる語の存在すら触れなかった。三角寛のサンカ研究には、何かを隠そうとする偽史臭が漂う。

  九州の山地に住み山子(ヤマンゴウ)と呼ばれた山民も、ショケンシと同族と思われるのだが、彼らの自称についても未詳である。山子は素より、ショケンシも正統的な名称とは思いにくいが、「世間師」の字を当てて、広く世間に通用している。種田山頭火の日記や宮本常一伝『旅する巨人』、さらに小佐野賢治伝『梟商』にも出てくるから、ショケンシの方が用語としては正しいと思うので、当分この語を用いることにする(因みに伝記著者は、宮本も小佐野も父は世間師と述べる)。

 ショケンシは弥生期に渡来したらしい。天性農耕を好まず土地に定着しなかったが、古来その職掌は、竹細工や川漁・果樹園の番・用水池の見張り・薬草の採取・芸能など農業周辺の作業で、それから見ても、雲南以来ずっと倭人に随伴してきた周辺種族と思われる。長い歴史の間に、ショケンシの中から外部に流出した民がいて当然で、或いは倭人との混血により農民に転化していった人口も数知れず、あくまでも固有の生活様式を守ってきたものが純粋のショケンシとして残ったのではあるまいか。

 日本に渡来したアマベは、海民のために沿岸適地に海部郷を設け、稲作民のために各地にイセ集落を建設した。東征軍に反抗したためイセ集落を焼かれ、アマベの多くは僻地の海辺に逃れたが、1部は丹波山中に入ってアヤタチと称え、ショケンシの子弟を訓練して諜者とし、同族の勢力維持と天孫族への対応を図った。上田伝承は、モノノベもウサ(秦氏)もアヤタチの基となったと言うが、同種族とはいえ、東征軍と戦い降伏したモノノベや天孫族に味方した秦氏が、直ちにアヤタチ活動に加わったとは考えにくく、これは年を経て、アヤタチの地位が変化した時と思う(後述)。

 三角がアヤタチ(乱破)はサンカの頭領と説くのに対し、上田伝承は「アヤタチ(怪立)とはアマベらが錬金術を修業する時の名前」と伝える。両者のアヤタチの観念は同じでないが、統一的な解釈も可能で、その根底には次の考え方がある。
(1)雲南の水稲農民が長江を下り、江南の海岸で越の海民と混淆して農耕漁労民となった、これが倭人。
(2)江南の海辺に流移したアマベは、ここで倭人の指導者となり、倭人を率いて日本に渡来した。
(3)ショケンシは雲南以来、倭人の周辺で倭人と共生してきた山岳民族である。

 上田伝承では、正しい発音はサンカァで、サンワとも言う由である。サンカなる呼称が文献に登場するのは意外と遅く明治初期らしいが、新造語ではなく戦国時代の「乱破」「突破」に通ずる古語らしい。隠語性からして少数派を指すもので、人口の多数を占める倭人側から呼んだ語と見るべきである。なお、山窩は当て字らしいが、山中で錬金術を修する行者の隠語ならば山窩の当て字は却って相応しいと思う。

 山窩とは誰を指したのか、その答えは既に出ている。丹波穴太村の上田家の血を引く外科医・渡辺政雄は「ウチラはアヤタチの家柄」と言い、同じく上田の血を引くと称する月海黄樹は著書『秀吉の正体』において、自ら山窩の血筋と明言している。これからして、山窩とは本来アヤタチを指したことは明らかである。ところが、山窩(アヤタチ)がショケンシを統率する様を外部から見た者が、これを一体視し、その結果山窩の観念が拡張し、世は山窩といえばむしろショケンシを意味するに至ったものと思える。

 仄聞するに、山高には「地山窩」と「上田山窩」の別があるようで、両者は対立観念と見たい。前者の正確な意味は分からないが、後者はアヤタチの血筋がアマベから秦氏(上田姓)に交替したことを意味するのではないかと思う。

 蓋し、応神政権は列島統治のスタッフとして、朝鮮半島から多数の秦氏集団を招聘した。これは秦氏(実は呂氏だと思うが)が率いた交易・技術民で、その構成員は秦人と称する雑多な人種であった。同族でもアマベと異なり、秦氏が天孫族と親和したのは、半島時代すでに民族的共生関係にあり、交易・生産に携わる秦氏の用心棒を天孫族の辰王が勤める関係が成立していたからであろう。天孫族と秦氏は日本でも共生し、前者は政権を確立し、後者は商権を握った。

 天孫族と組んで経済権力を確立した秦氏は、やがて同族のアマベとモノノベを併呑、吸収していく。その際アヤタチがアマベから秦氏に交代したものと考えるが、理由はアヤタチが上田姓を名乗ることである。そもそも上田姓は信州上田の地に因むもので、養蚕・機織に関連した苗字であり、真の出自は秦氏と思う。秦氏は宇佐から東遷して西京・太秦(うずまさ)を拠点にしたが、分派は更に東行して相模の秦野を経由し、信濃の上田に至る。この地こそ秦氏が開いたシルクロードの東端で、明治時代に唯一の高等蚕糸学校を置いた所以である。秦氏の1派は上田の地で反転、西帰して丹波穴太村に移り、アマベの家系に入ってアヤタチとなった。その際、姓として故地に因む上田を称したと見れば、上田山窩とは「本来のアマベ系ではない上田系の山窩」を意味をすることになる。

 時代が変わり権力が天孫族から諸豪族に移るにつれて、アヤタチ活動も成果を生んだ。秦氏(上田氏)がアヤタチに就いた時には山窩も権力側の一端を占めていたが、アヤタチ上田氏が独自の経済能力で、その地位と力を更に高めたものではなかろうか。傍証として酒造業のことがある。『吉薗周蔵手記』には「江戸時代の酒造業は、サンカの名主級の特権として許された」との伝聞を記すが、ここでサンカとは本来の語義たるアヤタチを意味する。酒造業といえば松尾大社を祀る秦氏が代表で、酒造特権を有するサンカの観念はアマベ・モノノベではなく、特に秦氏と結びつくことになる。それに加え、酒造特権を江戸幕府から得たこと自体が、当時山窩が到達した地位と権威を自ずから物語っているのである。

風の王国 その2

 


http://2006530.blog69.fc2.com/blog-entry-573.html

主旨を要約すると、渡来人・応神の東征軍に対して、海人支配者のイスラエル支族・アマベが抵抗したが、同じ海人系の安曇族が応神に協力し、乱を治めて新しい海人の頭となった。アマベの1部は、抵抗を続けるために山中に入り錬金術に励んだ。後日、同族モノノベ氏および同じく同族ながら応神側に就いた秦氏(宇佐氏)も、この活動に参加した。この集団が本来の山窩(第1種)で、棟梁がアヤタチを名乗り、錬金術の傍ら剽悍な山岳民族ショケンシを訓練して諜者とした。やがて、ショケンシの活動に注目した世間は、事情を知らぬまま山窩とショケンシとを同一視し、また両者の混血種も増えてきたので、ショケンシや混血種を誤って山窩(第2種)と呼ぶようになった。

 アマベがアヤタチとなったのは応神天皇の世である。千年後の室町時代までには、アヤタチ家系にも変遷があった。アヤタチは何時のころか丹波国亀岡穴太村を本拠として上田姓を称し、経済力を高めて室町時代には京でも名高い豪商となった。とくに紡績・織布・染色などにおける活躍が著しく、信州上田にまで勢力圏を伸ばしたと聞くと、どうしてもそこに秦氏の匂いを感じる。血統が交替したのであろう。また江戸時代の酒造業は米の需給調節を目的とした幕府直轄事業と位置づけられたが、醸造そのものは民間に任され「山窩」の名主クラスだけに許可が与えられたという。これはむろん第1種の山窩である。

 外科医・渡辺政雄は、アマベ系を誇るアヤタチ上田家の外孫として、上田家の古伝承を周蔵に説いたが、モノノベもウサ(宇佐)もアヤタチの元と解説した。これは、早くから衰退したアマベに代わって、同族で古代の大姓となったモノノベがアマベと混血してアヤタチの地位を継いだこと、さらにその後、経済面に特化して常に時の権勢家と結んだ宇佐氏(秦氏のこと)がアヤタチ家系に侵入した(混じった)ことを意味するもので、アヤタチの血筋が、同族間にせよ徴妙に変移したものと思う。アヤタチ家系に変移があったのに合わせて山窩(第1種・第2種)にも変遷があった(後述)。

 明治維新の真相は、各所で階級の顚覆をもたらした歴とした社会革命である。維新以前すでに幕藩体制が歪みを生じていたのは、身分と所得のギャップが累積したからで、支配層たる武士の俸禄は相対的に減少し、士分外の者が制度外の利権・財源を確保して財源を強化した。所得の相対的増減は、階級制度の外観を変えずに、武士階層の中身を入れ換えた。オリエント伝来の錬金術と諜報戦略によって営々と地歩を築いてきた山窩(第1種)は、この機会を捉え、幕末・明治期に大きく変身し、明治社会の各所に重要な地位を占めるに至った。維新の功臣は素より成功者に、その類が多かった。

 例えば、明和元年(1764)に藩主三浦氏が三河国西尾から移封されてきた美作国・勝山藩は、幕末に至り2万3千石の藩財政がもたなくなり、財政権を士分外の者すなわち「山ノ者」「川ノ者」に委ねた。その目的は彼らの保持する山野利権を財源に組み込むためで、これを機に「山ノ者」「川ノ者」が士分に取り立てられて藩の重臣になり、彼らの特殊な経済力により、以後の藩財政を支援したと言われている。寒村を領する小藩だけでなく、将軍お膝元でさえ旗本・御家人がこの伝であったことは、勝海舟の祖父・小谷検校の事跡に明らかである。士分外の者が経済力により士分に取り立てられあるいは武士の株を買い(養子となって)〔俄武士〕となったので、維新前のいわゆる下級武士にはこの伝が多かった。

 御一新後の階級変動はさらに急激で、農村社会でも豪・中農クラスの農家では実質的な階級変動が生じた。例えば、下男が突然主人から家督を乗っ取って、主婦や子女を見下すことも多かった。かかる現象は、革命史観が普及した今日ならば歴史上必然の社会変動と見ることもできようが、当時の人士はこれを「末世ならではのあさましき事」と感じた。階級上昇の当事者さえ疾しさを感じたのは、成り上がり者の心理といえばそれまでだが、当時の社会通念に屈したのである。四民平等が強調されても封建心理は一掃されず、「革命の成果」は表面化しなかった。農村の社会的構造は変化せず、ただ各家の内部において秘かな革命が生じていたのである。

 明治社会の実権を新たに握った下級武士と士分外の衆には第1種の出身が多かった。山県閥が内務省を支配したのは、世の視線が第1種に向かないように努めるためで、維新の功臣ことに★長州出身者にその種が多かったからである。階級上昇を率直に喜べない彼らは、第1種たる出自を隠すために、四民の他に「卒族」なる偽階級を創ろうとして失敗するが、傍ら山窩の名をショケンシに押しつけ、その陰に隠れた。つまり「山窩とはショケンシ(第2種)の別名である」との虚説を広めようとしたのである。

 その偽史作業を引き受けたのが、★柳田国男と三角寛であった。柳田の当初の論文はサンカ(第2種)を客観的に捉えていたが、やがて民族学を避けて民俗学者と称し、あのまま研究を続けたならば到達した筈の第1種には終に行き着かず、現実離れした常民説に移った。内務閥に迎合し、官位を以て買収されたものと思う。昭和初期に大人気を博した三角寛の小説は第2種の生態を描写し、当初ほとんど犯罪小説の趣があったが、これも第2種に世間の目を引きつける内務省の政策に迎合したのである。自らの山窩小説により、山窩の名をショケンシ(三角はミヅクリと呼ぶ)に負わせた三角は、晩年に学位論文『サンカの社会』を著し、ショケンシの生態の客観的観察報告書の体裁で、過去に唱えたサンカ=無法者観を修正したが、その学問的外観のために、却って山窩=ショケンシの説を補強してしまった。両人の努力で、山窩といえば第2種との誤解が浸透し、今に至っている。

  山窩には、右の2種とは別に、朝鮮山窩と呼ばれる第3種があると聞く。それは朝鮮半島経由で渡来した騎馬民族で、日本社会の要所を握るに至ったという。つまり、アヤタチになった秦氏(上田氏)の家系に侵入することで、その地位と権力に乗って第1種に潜入した。確かに応神天皇以来千数百年の山窩の歴史である。民族の興亡を反映して、その中身に変移があったとしても不自然ではない。

 ユーラシア大陸の中心部を押さえる騎馬民・トルコ族は古来世界史の動因であった。西に赴くやゲルマンの大移動を引き起し、東に往くや五胡十六国の乱を生じた。トルコ族は生来の軍人で政治支配に長け、商業民を重用し農耕民を搾取して各地に軍事政権を建てた。シナの北朝から始まり隋・唐の大帝国を建てたのはトルコ族の北狄である。その1部が朝鮮半島を経由して日本に渡来し、軍権を握った可能性は否定すべくもない。それが武田氏・足利氏である。

 武田騎馬隊で知られる武田氏は、多田満仲の孫・源頼義の三男・新羅三郎義光に始まるが、義光の次男・義清が乱暴を以て流された甲斐国で、故郷の常陸・武田庄に因んで武田冠者を称したのが武田姓の始まりである。義光の長兄は八幡太郎義家、次兄は高麗次郎義綱を称した。八幡は文字通り八流の旗で、清朝も満洲軍の象徴とした。そもそも「八」は★北狄の聖数で族長たちは八角の天幕に会して重要事項を議した。★聖徳太子の夢殿もその1種だが、師匠の高句麗憎の教えによるものであろう。清朝奉天故宮の大政殿も八角の楼閣で、天幕を石造に変えたものである。

 多田満仲は本来大伴氏で、『南紀徳川史』に太田満仲と記すようにオホタと呼び、オホタタネコを祀る。多田鉱山の財力を以て清和天皇の孫の源経基(961薨去)の養子に入った満仲は、養父経基より4歳年長だったが、ともかくも清和天皇の末裔を称し得る立場となった。その家系に潜入した前述の3人は実の兄弟でなく、名乗りの八幡すなわち八流の旗は満洲トルコ族の象徴である。高麗・新羅も字の通りだが、今日の韓族・朝鮮族ではなく、半島の歴史的支配層であったトルコ族の支流で、要するに3人は北狭に属する3部族の各族長であった。

 ★源平藤橘四姓の制度と家系偽僣は日本史最大の謎で、経緯は分からないが、兵馬弓箭に長けた武力を以て荘園の用心棒となった騎馬族は、平安貴族の荘園を護ることで日本社会に溶けこみ、四姓を偽僣することを許され、やがて封建制を創設して政治実権を握る。ここでいわゆる「朝鮮山窩」に彼らを擬すのは、朝鮮と謂い山窩と呼ぶのはそれに対応する実体があったからで、その実体とは、

1 朝鮮半島を経由して渡来した事実、
2 第1種山窩の家系に混じり、乃至は入れ替わって山窩・アヤタチとなった事実である。わが歴史上で上の2つを満たすのは畢竟、北狭の系統しかありえまい。

 朝鮮山窩の名にはそぐわないが、山窩集団に潜入したと想像される渡来人は他にもいる。蓋し、多神教世界にユダヤ教・キリスト教・回教の一神教思想が浸透していくのが人類史の大勢である。つまり一神教の侵出は、歴史的必然性が生んだ自然現象ではなく、ワンワールド勢力の世界戦略の流れに沿った人工的現象なのである。ワンワールド勢力が日本列島を見逃す訳もないから、その勢力がいつしか日本に潜入していたとしても、ちっとも不自然ではない。

 ディアスポラにより東方に流移したユダ支族のセファルダム。鎌倉時代に世界に拡散したカサール系ユダヤ教徒のアシュケナジム。室町時代に奴隷商人・武器商人として盛んに来日したセファルダム系のポルトガル人と支那人とが混血したマカイエンサ。江戸時代に長崎から数多く潜入したプロテスタントで血統不明のオランダ人。外観を偽装して日本に渡来した彼らは、隠れ家として最適な山窩(第1種)を選び、その家系に潜入したと思われる。その根拠はまたも上田伝承で、『周蔵手記』に「吉松はこれもただの百姓とは訳が違い、ましてこの上田なる家柄は早くからオランダ取引をするような、商売も毛唐好みのことをして、その家の血も毛頭が入って居る由。何でも曾祖父ぐらいが円山応挙という画師でもあった由」とあるのが、それを証拠立てている。

 アヤタチ・上田家はオランダ取引する家柄で、出口鬼三郎の祖父・吉松の高祖父にあたる円山応挙(上田主水)にはオランダ人の血が入っていた。これを要するに、イスラエル支族アマベから始まる山窩(第1種)には朝鮮山窩をはじめ諸民族(多くは一神教系)が潜入した結果、重畳的に層をなして今日に至ったと見るのが至当ではないか。

風の王国 その3

 


現在日本で争われている本質は古代日本を築いたヘブライ人とロスチャイルドを中心とする機会主義者たちヒッタイトの末裔の自称ユダヤ人との戦いなのである。下鴨神社で大嘗祭が行われ伊勢神宮はかやの外の理由はそこにある。八咫鏡のオリジナルは伊勢神宮にあり天皇家にはレプリカしかない。サンカを成り上がらせ賎民資本主義をサンカに任せたのはサンカそのものが古代ヒッタイトの祖先であるヘテ人であるからである。ロスチャイルド家が古代神代文字に異常な関心を寄せている理由でもある。

サンカについて

http://www63.tok2.com/home2/ahonokouji/sub1-23.html

http://2006530.blog69.fc2.com/blog-entry-576.html

 謎の民族といわれる山窩(サンカ)と、その頭領とされるアヤタチについて、前月号まで述べてきた。アヤタチを称する丹波桑田郡穴太村上田家の伝承を、1族の外科医・渡辺政雄から吉薗周蔵が聴き取った記録から、私が組み立てた仮説であるが、何しろ従来の歴史観念を大きく塗り替えるもので、さだめし当惑しておられるであろう読者のご理解のために、わが仮説の梗概を以下の一文にまとめてみた。

 サンカは本来、イスラエル十支族の末裔で本邦に渡来したアマベ氏を核とした特定の人的集団のことで、その「他称」と思われる。多神教を奉じた十支族は、ユダ族一神教徒の専横を憤って袂を別つが、独立したイスラエル王国は前734年、アッシリアに滅ぼされた。隷囚の身の十支族は身を以て逃れ東方に流移するが、主たる経路はインド洋治岸沿いの海上の道と、大陸内部を貫くシルク・ロードであった。

 インド洋沿岸を周回したアマベ氏は、越海岸にたどり着いて逗留、そこで親和した倭人を率いて丹後半島に上陸、同族の日本渡来の先駆けをなした。時期は紀元前数世紀で、先住縄文人とは倭人と同様に融和し、沿岸に海人居住地として〈海部郷〉を設け、内陸部には水田稲作を営む農業集落〈イセ〉を築いた。結局それで縄文時代が終わり、今日では弥生式集落、弥生文化と呼ばれている時代に移った。

 同族ながら、西域経由で大陸内部を東遷した呂氏一族は、始皇帝を擁立して秦帝国を建て、支那大陸を統一するが、漢に敗れる。1部は朝鮮半島に逃れ、族称を秦帝国に因む秦氏と改め、交易拠点を百済・任那の境界の地に営み秦韓と号したが、防衛面を隣接する騎馬王権辰韓に頼り、これを傭兵として共生した。北九州に渡来して交易拠点を設けた秦氏の1部は、イシュクル(宗像3女神)を祀る縄文民と混交し、首長・宇佐君の血筋と入れ替わった。任那の地で楽韓と共生していた辰韓が、南下した騎馬民族に追われて北九州に逃げ込むと、秦氏宇佐君は辰王を迎えて女婿とし、天孫二二ギと称してスメラギ(王)に擁立した。二二ギ(辰王)と秦氏宇佐君の間にできた応神は、秦韓に僑居していた多数の秦人に呼びかけて渡来せしめるが、その中の融通王が秦氏の首長となり秦君と称した。これを応神の立場から観て、王朝運営の人材を確保したと見るのは単純過ぎる皇国史観で、応神が秦氏の厚遇に報いたとの見方も可憐な感傷にすぎない。正解は、秦氏の深謀で、1族を挙げて本邦に渡来し、安住繁栄を図るために騎馬民族の軍事・統治力を利用したのである。

 同族のモノノベ氏も、ニギハヤヒに率いられ、天磐樟船(アメノイワフネ)に乗じて大和地方に渡来した。朝鮮半島を足掛かりにしたと思われるが、東遷経路は未詳である。縄文族の首長ナガスネヒコと同盟し、共生したニギハヤヒは、天孫軍を率いた応神が大和を攻めるや、忽ち降伏し、以後はヤマト朝廷の下で祭事・兵事を以て奉仕することとなる。

 ホアカリを奉じイセ集落と海部郡を支配していたアマベ氏では、天孫族への服従を嫌う1部が山中深く逃れ、アヤタチと称して中東由来の採鉱技術(錬金術)に拠る生活圏を建設した。アヤタチの下にはアマベだけでなく1部倭人や、倭人と同源で華南から同行した山岳民族も従った。このロビンフッド的な抵抗集団をサンカと呼ぶのは他称のようだが、山窩の字を振ったのは、言いえて妙である。

 アヤタチは本来アマベ氏だが、やがて、ヤマト朝廷と融和して勢力を築いたモノノベ氏を引き入れて、氏族統合したので、ホアカリとニギハヤヒを同体と見做す伝承が生まれ、今や固定化しつつある。アヤタチは、モノノベ氏が蘇我氏に敗れると今度は秦氏宇佐君を引き入れたので、以後急速に秦色が強まり、事業も鉱山経営ばかりでなく、銅産業・酒造業・商業で大いに発展した。山窩の概念はここに拡張・変容したが、以後も時代とともに拡張してゆくのである。

 大陸では北方民族の抗争が活発し、弾き出されたトルコ系騎馬民がツングース族を伴い、朝鮮半島経由で陸続として渡来した。亡命騎馬族をアヤタチが暖かく迎え、同族なみに待遇したのは、秦氏宇佐君が辰王を迎え、天孫として擁立したのと同じ伝である。つまり、始皇帝擁立以前からすでに呂氏(秦氏)の家伝であった武族懐柔・傭兵利用策である。秦氏と同根の客家華僑も同じ思考を持ち、阿片戦争を仕掛けてきて上海を奪った英人を指し、「なあに便利な番兵を雇ったまでだ」と嘯(うそぶ)いていた。殷鑑遠きに非ず、横田幕府を奉り駐留米軍の傘の下で経済路線に特化した自民党政治もその一斑である。しかしながら、2千年来の秦氏的平和思想に影響されて、国民多数の心情がすっかり倭人根性に泥んでしまった今日、憲法平和条項の改正を多数決を以てするのは、存外容易なことではあるまいと、国情を憂いつつ私は思う。

 それはさて、本邦に亡命したトルコ系騎馬族は、大伴氏・物部氏ら弥生系武族に混入し、平安貴族からサムライ(奉仕者)と呼ばれて、私領荘園の守衛・管理に使役されながら、武士という新階級を日本社会に形成し、封建時代を開く。騎馬族についてきたツングースは、非耕作民の故に稲作社会で〈化外の民〉とされ、行商・芸能に従事する非定住民として中世を生き抜くが、江戸時代の都市の発達とともに、都市住民化して商人の基となった。巷間「朝鮮山窩」と呼ばれる種族の実態は未詳だが、呼称からして山窩概念に含まれること疑いない。因って、例のトルコ系渡来人と考えるが、拡張概念としては、右の非定住民を含めて呼ぶ場合もあるのであろう。

 大航海時代を先駆けたポルトガル人も、航海者の多くは、実はフェリペ2世によってスペインを追われたセファルダムであった。つまり宣教師を装い、奴隷貿易を目的に東南アジアに来たり、マカオに拠点を置いて現地女に混血族マカイエンサを生ませた冒険商人には、改宗徒コンベルソや偽教徒マラノが多かった。日明間の貿易が(密輸を除いて)専ら彼らの仲介によったのは、倭寇を恐れた明帝国が海禁政策を採ったからである。日本からの輸出品は銀地金、男女奴隷を主として、日本刀・美術品などであった。輸入品は白糸(絹糸)が主で、ほかには香料、後に鉄砲・煙硝が加わった。


綺麗なセーマン(五芒星)になっている。平安とはシャロームのこと。

 山窩の原郷・丹波を本拠としたアヤタチは、1族を秦氏の都・平安京に送り、機織・酒造・木材業を営ませていた。絹織物の原料の白糸買い付けのため、泉州堺に手代を派遣して直接商談をさせたが、例のアヤタチ的混血主義により1族女性がポルトガル人に接触して混血児を生む。牛神バアル(スサノヲ)・女神イシュタル(弁天・観音)・太陽神ミトラ(弥勒)を奉じるアヤタチ家系とポルトガル宣教師との間に生まれた混血児も山窩の1成員だが、いわば日本版マカイエンサで、多くは父に従い一神教徒となったものか。

 南蛮渡来の薬物の1つに罌粟(ケシ)があり、津軽地方に初めて伝わったことから「津軽」と呼んだ。中東由来の錬金術を本業とするアヤタチは、古来アヘンにも通じており、到来の新種の罌粟(ケシ)に着目せぬ道理はない。アヤタチは、丹波で手塩に掛けた乱破・透波(管理人注:アヤタチ・ミスカシ)を、各地大名に諜者として売り込み、戦国の世に収入を得ていたが、これら忍者はアヤタチの指導により阿片を使用した。用途は、主として自白剤・鎮痛剤で、催眠術にも用いたが、単純な快楽には用いなかったようである。

 江戸幕府は、英人・三浦按針から旧教の植民地主義について教わり、キリスト教徒を追放し、旧教徒南蛮人の渡来を禁じて新教徒紅毛人にのみ通商を許した。やがて英国商人が撤退し、オランダ人だけが日欧間の交易を担うと、南蛮貿易に替わるオランダ取引を重視したアヤタチは、長崎に手代を派遣するが、例の混血主義により日蘭の混血児が生まれた。当然プロテスタントもでたが彼らも素より山窩の1員で、かくして多神教のアヤタチ家系の1部は、一神教に染まり始めた。

 東北アジアの地では、4世紀からトルコ系騎馬民族の勃興期に入り、五胡十六国の乱(304~409)に始まり、魏晋南北朝、五代十国(907~960)にかけて、数世紀にわたり部族間の軍事抗争を重ね、敗れた部族は南下するのが歴史の法則で、三々五々渡来してきた騎馬族を、アヤタチは同族待遇で山窩に迎え入れたから、山窩の概念は時代とともに変化してきた。段階的拡張を続けてきた山窩観念を分別すると、次の6つになる。
①イスラエル十支族の末裔で本邦に渡来したアマベ氏。
②アマベと同族のモノノベ氏。
③本来縄文系の宇佐氏の血統に潜入した秦氏。
④満洲から朝鮮半島経由で渡来したトルコ系騎馬族。
⑤実質的セファルダムのポルトガル冒険商人とアヤタチ系の混血、
⑥実質セファルダムのオランダ人とアヤタチ系の混血、これである。

 以上が本来の山窩(第1種)とその拡張観念であるが、周辺には別種の山窩がいた。すなわち、

⑦アマベ氏が華南海岸から引率した倭人に随伴してきた山岳民族。
⑧トルコ系騎馬族の渡来に際し、満洲からついてきたツングース系の非耕作民、これである。彼らはアヤタチの配下として第1種と混在していたため、世人から第1種山窩と同一視されて、山窩と呼ばれるようになったもので、第2種である。

 三角寛をはじめとし、柳田国男・後藤興善ほか従来のサンカ研究者はみな、第2種の生活形態を甚だ奇として、これを論ずるに止まったため、第1種の存在は、これまで世間にまったく知られなかった。尤も、生態観察などに囚われていては第1種の存在に気が付く筈もなく、内部から情報公開があって初めて分かるものであろう。ところが第1種が自らの存在の露呈を極力避けてきたことは、現に上田家の出自で日本史を稼業にしながら、アヤタチについてまったく触れようとしない学者を見れば明白である。それだけではない。著名なサンカ研究者の中に、第1種の請託を受けて世人の眼を第2種に誘導した者の存在は、その気で著作を読み直せばすぐに気が付く筈だ。ここまで隠すのはあらゆる組織に共通する癖で、〈企業秘密〉を守るためと思えるが、アヤタチ家に出た近代の鬼才・上田鬼三郎すなわち出口王仁三郎が、大本の御筆先に、「イスラエルの12の流れを元の1つに戻すぞよ」と叫んだ意味を、史家は考えたことがあるのだろうか。本稿は 『疑史』と題する以上、これを見逃すわけには行かず、ここに5回の連載となったが、私が典拠とした『吉薗周蔵手記』は、上田家の外孫・渡辺政雄から周蔵が直接聴いて記録したもので、第1種そのものを焦点にしている。巷間では、自らサンカと称える月海黄樹だけが第1種に触れている。ペーパーバックではあるが、むしろこういう所に真相が潜んでいる好例であろう。


管理人よりのお知らせ......ひょっとしてひょっとするかも



ロシアの隕石落下は米国の最新鋭兵器「神の杖」

http://japanese.ruvr.ru/2013_02_15/104906389/



USSエンタープライズ偽旗作戦を使ってイランのせいにしてイスラエルの攻撃のFirst Bloodの口実に使う可能性は否定できない。パール・ハーバーもそうであったように。

ベトナム戦争のきっかけはこんなこと。そういう事実を教科書に載せたら?という声もありますが.......検定不合格!!

もう核兵器なんて古いんですよ。恐らくHaarpのある京大の施設はプラズマ兵器の研究所も兼ねていると思います。これはピンポイントで狙い撃ちができますから神の杖と併用すれば鬼に金棒でしょう。

イランはいつでもホルムズ海峡を閉鎖する準備が出来ている。そうなれば石油は1リットル500~1000円は覚悟しておいた方がいいだろう。そうすれば世界中でハイパーインフレを引き起こし新ドル発行へつながるからだ。
管理人注:偽旗作戦がいよいよ始まるか
今の円安は人災
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