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ダンテ神曲ものがたり その22

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1-12.私は騎馬軍団が撤営し:軍隊の描写を続けることで、ダンテは第21章の締めくくりで与えられた下品な合図(「奇妙な吹奏」11)の効果に関して擬似叙事詩的形式に精密に仕上げている。アレッツォ市民(4)への言及はフィレンツェとルッカの軍隊の手に落ちたカンパルディーノの戦い(1289年)でのその市民の敗北にダンテが立ち会ったことを想起させている。

14-15.けれども、教会には聖人:この言い回しのことわざで表現された本質は第21章および22章を通して見られる軽薄な語りの手法の特性を示し、さらに、全参加者(巡礼者、ベルギリウス、悪魔達、罪人達)が対等の行為者として同一場面で動いているような劇的な雰囲気を醸し出しているのである。

19.多くはイルカの如く、あたかも:ダンテの動物描写使用はこの章の劇的で奇妙な本質と一致している。収賄者が、イルカに、カエルに(25-33)、カワウソに(36)、野生のカモに(130)、そしてタカに(139)うまく(首尾よく)なぞらえられているのである。これらの動物の全てが奇妙な姿で描写され遊戯(遊んでいる競技)として描写されている。

39.彼等の其々がその名前に合うように唱えていたのです:[原文の"si li notai quando fuorono eletti"をどう訳すかで悪魔の名前の扱いが根本的に違ってくると思われる。"notare"は小学館の辞書では、「1.印を付ける、2.メモを取る、3.注目する、留意する、4.強調する、5.唱和する」と訳されている。日本語訳では例えば「鬼たちが選ばれた時によく気をつけていたし」(平川)と訳されている。しかし逐次訳をすると、「彼等はそれらを選ばれた時に強調していた」となろうから、「名前の特異さを強調していた」と解するべきだと思う。決して「わたしが気をつけた」のではないのである。Durlingは"they made such an impression on me when they were chosen"と訳している。これらを考えると、巡礼者ダンテは、悪魔の名前を聞いたときに、その名前の印象から彼等の形姿または行動を想像し得たのである。Musaが前章の注解(118-23)で「名前の多くは翻訳できるが彼等のグロテスクな出現の多くを失ってしまう」と述べたが、やはり、名前を聞いたときにそれと分かるようにそれぞれの国の言葉で訳出すべきであろう]

48-54.我はナバーラの王国で生まれかつ育てられた:初期の注釈者は、スペインの貴族に仕えた後、テバルドTebaldo, Thibault(チボー)二世の宮廷に仕えたこのナバーラ生まれの者に対してチャンポーロCiampoloないしはジャンポーロGiampoloという名を与えている。彼が託された宮廷の職務を食い物にして、彼は[所有者の同意を得ずに所有者に損害をあたえるような]不正行為(訴訟教唆barratry)にふけったのであった。ある注釈者が指摘しているが、チャンポーロの名前がこの者にふさわしいとすることは言い伝えのためだとすべきではないし、誰かが彼を、テバルド不在時のナバーラの政府を受け継いだ家老のゴッフレード・ディ・ベアウモントGoffredo di Beaumontと同一視するかもしれない。

52.良き王テバルド:テバルド(チボー)二世は、フランスのルイLouis九世の義理の息子で、13世紀中期にシャンパーニュChampagneの廷臣を経てのナバーラの王であった。

58.ネズミは悪魔の猫の餌食になってしまいましたが:この描写は、カエルへの(25-33)および悪の爪一族(マーレブランケ)とチャンポーロの「競技」への言及とともに、第23章(4-6)を始めるイソップ物語Aesop's fableへの言及を予知している。

81-87.「ゴミータである」とその者、「ガルーラより来た修道士である」:修道士ゴミータFra Gomitaは、サルデーニアの修道士で、ピサの統治者でダンテが煉獄(煉獄編第8章53行)においたニーノ・ヴィスコンチNino Viscontiの大臣であった。1275年から1296年にかけてニーノ・ヴィスコンチは、13世紀にピサの領地のサルデーニアが分割された4つの地域の一つであるガルーラの裁判官であった。その地位と自分にたてついた不服申立て人(訴追人)に耳を貸すのを拒絶したニーノ・ヴィスコンチの信を得て、修道士ゴミータは公職の売買にふけったのである。しかしながらニーノが、彼が囚人を逃そうとわいろを受け取ってきていたと知ったとき、彼は即座に彼を絞首刑にした。

88-89.その者ロゴドーロのミケーレ・ザンケ様と:ミケーレ・ザンケの名前を挙げた書物は無いが、彼はロゴロード(フデデリック2世Frederickの息子で戦争に従事したサルデーニアのエンツォ王の時代に4つに分割された一つ)の統治者だったと信じられている。エンツォ王が捕らえられ女王から続いて離縁された後、ミケーレは彼女と結婚しサルデーニア州の政治を受け継いだ。1275年頃彼は、義理の息子で、その亡霊を巡礼者ダンテが地獄の最下層で見ることになる(33章134-47)オーリア家のブランカBranca d'Oriaによって殺害された。

97-132

第21~22章の2番目の詐欺は悪の爪一族(マーレブランケ)の爪から逃れるためのキアンポーロの仕掛けである。それは、もしも悪魔が隠れるならば、彼は口笛を吹き彼自身が中へ入るよりも彼の友人に悪い揉め事を起こすためにそのピッチ(瀝青)の下から罪人をこのようにして呼び出すであろう、というものである。このように彼は悪魔に彼が友人にうそをつこう(口笛を吹くことで岸が開いていると彼等に知らしめる)と告げるのであるが、しかし実際には彼は悪魔にうそをついているのである。彼等は怪しいと思うがしかし彼等は隠れることに同意し、競技を演じ、チャンポーロが逃れるのである。チャンポーロに、この地獄編では始めてだが、我々は実際に罪を成し遂げる罪人を見るのである。チャンポーロが彼のうそ(詐欺)を(ベルギリウスとダンテを利用して)組み立て、彼の『彼が「策略」だ(110)』とする自白(承認)ならびに、ピッチへの頃合を計った飛び込みという賢い方法(手段)として、すべてが行動における詐欺(不正手段)の罪を表している。ちょうど悪の尾野郎(マラコーダ)が彼のうそを橋が壊れてからの時間のほんの数分の信頼できる描写に結びつけるように(21章112-14)、そのようにチャンポーロが自分の人生の主要な事実を明確にかつ信頼できるように申し立てることで(48-54)徐々に彼のうそに導くのである。この明確な真実と虚偽の混合は、両方の場合において、究極的にはいんちきであると異議を唱えられない真実の雰囲気を与え、その手段もまた、当然のことに、詐欺の罪での経験における知識から来ている。21章109-11、および23章注解140-41参照のこと。
 おそらく第三の、この章に内在するうそがあり、この場合は悪魔によって再び働かされる。野良犬野郎(カニャッツォ)は開始からチャンポーロの提案に疑念を示しているが、しかし翼曲り野郎(アリキーノ)がその挑戦に耐え切れられなくなると、野良犬野郎(カニャッツォ)は最初に戻る者となり隠れるのである(「最初に戻る者が/その開始からその競技に反対する残忍な者であったのだ」119-20)。ダンテはこれを「不思議な競技」(118)と呼んでいるが、実際そうである。なぜならば、この悪魔のそれぞれが、彼等が見とめなければならないものはチャンポーロの側にある詐欺であると同意することで、その兄弟に黙って「うそをついている」のである。チャンポーロの提案に対する彼等の迅速な受諾は、もちろん、彼が逃れたときに彼等が責任を負うべき悪魔――翼曲り野郎(アリキーノ)に「戦いをふっかける」ことができることである。すなわち現実に霜踏み野郎(カルカブリーナ)が、「激怒して、/其れもまた飛び立ち、その亡霊をものにせんと望んで、/そのため其奴は連れに戦いをふっかけられた」(133-35)時に起こったのである。この「競技」に含まれる策略(詐欺)が巡礼者に「不思議な」ものと印象付けるのである。しかし我々は、それが、悪魔と罪人との間に自由な役割分担があるこのボルジアにおける標準的な日常の献立を演じており、また絶え間ない活動はすなわち奇妙に(グロテスクに)喜劇なのだと推定しなければなるまい。
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