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ダンテ神曲ものがたり その2


 5.旅の、そしてそこに含まれる哀れみの:巡礼者の哀れみのテーマは「地獄編」の主なモチーフであり、巡礼者の教育にとって特に重要なものである。これは「神曲」の中での哀れみについての初めての記述である。

(森にわけ入るダンテとベエルギリウス)垂れ下がる迷妄の枝を両手で押し上げ押し上げ,ダンテを力づけて進む詩聖の足取りに怖れはない。はげまされてダンテもすでに左足を踏み出した。詩聖はまた,ブレイク(挿絵)の芸術の酵母というべき詩霊,すなわち創造力の象徴でもある。左手に見える二本の巨木はオークであろう。ブレイクはいつもこの木を,古代ケルト民族の宗教・ドルイド教の象徴に使った。迷妄の森の奥は深く,木の葉のざわめきが聞こえてくるようだ。未完成の絵であるが,ブレイクの意図は十分にくみとれる。(寿岳文章訳より)

           ドルイド僧

 7-9.おお詩神たちよ! おお優れた天分の持ち主よ! さあ私を助けよ!:ダンテは彼の詩をムーサたちに呼びかけることで古代の叙事詩の伝統に結びつけている。[「天分の持ち主」は原語では"ingégno"で天賦の才、才知、才覚、才能であり、またそれを持っている天分の持ち主、天才、才人を意味する。26章注解19-24参照]

 ムーサ(詩神、Musa)たち:学問、芸術をつかさどる9人の女神。カリオペー(Calliope、叙事詩)、クレイオー(Clio、歴史)、エラトー(Erato、独吟叙事詩)、エウテルペー(Euterpe、叙情詩)、メルポメネー(Melpomene、悲劇)、ポリュヒュムニアー(Polyhymnia、賛歌)、テルプシコレー(Terpsichore、舞踊)、タレイア(Thalia、喜劇)、ウーラニアー(Urania、天文)で、ゼウス Zeus とムネーモシュネー (Mnemosyne、記憶) との間に生まれ、パルナッソス山に住んだ。

 (ヴェルギリウスの使命)この挿絵でブレイクはダンテの原文を離れ,かれ自身の地獄観を展開する。ブレイクの思想体系では,地獄とは,迷妄に陥っている人間の現実の世界にほかならず,ダンテはその現実界の象徴であるが,ブレイク神話の主要人物アルビオンと同様,ダンテにも現実の虚妄性を克服する霊的な半面があり,それがヴェルギリウスの姿をとる。絵の最上部に,巨大な恐ろしい両手をひろげているのは,「この世界の怒れる神」エホバで,ブレイクはこれにユリゼンの名を与え,非生産的な不毛の否定精神・理性の象徴とする。右足は人間だが,左足は動物の蹄をもつ。この偽りの神の下にあって,忠誠を捧げる若い人物は,武器にほかならぬ冠が示すように,ローマ帝国の象徴であり,右手の香炉は帝国主義と合体した虚偽の宗教の象徴。下方両端に,欲望の焔に包まれている老人と若者は,帝国主義の奴隷となった人間性をあらわす。生命の根元・葡萄のの柵の下で救済の派機織る手をしばし休め,はるか下方,すでに地獄の門を潜ってこちら向きに立つ詩聖にうながされ,三獣を制しながら今しも踏み入ろうとするダンテに,やさしいまなざしを向けているのはベアトリーチェ。空を自由に飛ぶ3女性は,左から順にラケル,ルチーア,聖母マリアであろう。(寿岳文章訳)

 第1章が「神曲」全体の序論であるように、ダンテが第2章を「地獄編」自体の始まりと願いを込めたことは適切である。この経過はムーサたちへの同様な呼びかけによって「煉獄篇」と「天国篇」の始まりに均衡がとれている。

 「おお気高き精霊たちよ」の言い回しはダンテ自身のまたはベルギリウスの(または両方の)詩的才能[詩的霊感:ベアトリーチェはダンテに詩的霊感を呼び起こした人と言われている]に帰するかもしれない。

10-48

第2章の始めの主な進展では、巡礼者ダンテがベルギリウスの提案した旅についての恐れを表現している。なぜなら彼は、以前に「永遠の地」を訪れることを許されていた二人、すなわちアイネイアースとパウロに比べて自身を全く価値の無い者と見なしているのである。巡礼者ダンテとアイネイアースそしてパウロとの比較には意義深いものがある。ベルギリウスにとって、アイネイアースの旅は一つの帰結すなわち帝国しか持たなかった。しかし、ダンテにとって、それは帝国と全ての法皇が居住し君臨する「神の街」である神聖ローマ教会の設立の両方を意味した。教会と国家、それらの政治体制、それらの戦いと内部問題の基本的な概念はダンテにとって大変重要であり、「神曲」の中心的なテーマを形成している。巡礼者とアイネイアースが二人のそれぞれの時代の基準、すなわち、異教文化での一般的な道徳、キリスト文化での精神的包括主義にそって完全を求めているのはまた真実である。巡礼者ダンテと使徒パウロとの比較もまた意義深い。すなわち、(アイネイアースの場合にされているように)直喩を拡大することで、読者は巡礼者を、聖パウロすわち一人の「選ばれし人」のように見なすかもしれないし、また彼の旅のことで十分な恩寵を認めた人は、(「神曲」を著すことによって)その旅を通した人類の誠実さを強調するかも知れない。

 13-21.若きシルヴィウスの父:シルヴィウスSilvio, Sylviusはアイネイアースの第二の妻でラティーヌスLatinusの娘となったラーウィーニアLaviniaがもうけた息子であった。

 「アイネーイス」の中でベルギリウスはローマの創設の歴史を物語っている。トロイアの崩落の後、その叙事詩の伝説的な英雄であるアイネイアースは超人的に鼓舞された旅に乗り出し、その旅は彼をイタリアの海岸へと導き、そこで彼は自身の街と国を建設したのであった。しかしながら、そのラヴィニア海岸に辿り着く前に、彼は地獄へ堕ちることを余儀なくされ、その時彼の父アンキーセースはあるべきローマの誉れを黙示したのであった。第1章(73-75)、26章(58-60)参照。

28-30.選ばれし人パウロ:これは、「コリント人への第二の手紙」(XII,2-4)の中での、使徒パウロの第三天への奇跡的な昇高とそこで述べられた神秘的な伝言をほのめかしている:

「私はキリストにある一人の人を知っている。この人は、14年前に第三天にまで上げられた――肉体とともにかどうか、肉体を離れてかどうか、私はしらない、神が知っておられる――。私がこの人について知っていることは――肉体とともにかどうか、肉体を離れてかどうか、私は知らない、神が知っておられる――。この人は天国に上げられて、人に話してはならない、いい表せないことばを聞いた」(ドン・ボスコ社版聖書)

 中世の「聖パウロ見聞録」(Visio Sancti Pauli)は死の王国を通った彼の旅を物語っている。パウロの洞察力はキリストの信仰すなわち、巡礼者の(そして広く全ての人の)救済(「救済の道への第一段階」、すなわち、巡礼者が第1章における「暗い森」から戻った時に得たもの)の根底となる同一の信仰を強めるのに役立った。

 37-42.自分が決意したことを意志で決められない人が、……変え:ダンテの魅力的な詩的な仕掛けの一つはその「行為」を文体的に模倣することにある。ここでは巡礼者の心の混乱した状態(彼の恐れであり信念の不足である)がこの行の包含された構文によって再現されているのである。

49-142

第2章の第二の重要な進展は、巡礼者の元にやって来たベルギリウスの説明と、続いて起こる巡礼者の勇気の回復を含んでいる。ベルギリウスによると、聖母マリアは、キリスト思想における伝統的な慈悲と哀れみを象徴しているが、巡礼者の苦境に哀れみを持ち、神の恩寵の施しを働きかけたのである。聖ルチーアLuciaは、その名は「光」を意味するが、聖処女によって送られた照らされる恩恵を意味していて、神の恩寵なしでは巡礼者は道に迷うしかないのであろう。ベアトリーチェBeatriceは、その名は至福または救済を意味しているが、彼に神の意志を導くためにベルギリウスの前に現れるのであり、彼女は神の恩寵の究極の授与者なのである。これら3人の天国の淑女は第1章での3匹の獣と平衡を保つ。すなわち、獣が人の罪を意味するように、彼女たちは人の恩寵を通しての罪からの救済を意味している。それから巡礼者の旅は、誉れある聖母マリアが彼に哀れみをかけた時天国にまさに始まるのである。このように、「神曲」の行為はある意味で天国で始まる一つの連環(サークル)であり、そしてここに至っては、最終章での巡礼者の神の視点をもって天国の中で最終的に終わるのであろう。

52.私は仮死状態の死人たちの中にあった:「地獄篇」の中でベルギリウスは古聖所(リンボ、Limbo、天国と地獄の中間界)に(場所を)定められている。古聖所とは、有徳の亡霊たちがキリスト来臨以前に住み、ないしはキリスト来臨後に不信心の状態で残ったために天国に選ばれない者たちの居所である(第4章、注解34参照)。

61.わたくしの友は、運命の女神の擁護者ではなく:注解76-78参照。

 74.わたしはしばしあなたの誉れを主に謳いましょう:実際にはベアトリーチェがベルギリウスの誉れを主に謳うことが善きこととなるであろうことはあまり明確でなく、以来古聖所に割り当てられたそれら亡霊たちはもはや逃れる機会を持たないのである(第4章、41-42参照)。

 76-78. おお恩寵の婦人よ、ただあなたのために人類が:ベルギリウスはベアトリーチェを全人類のための目的を持っていると認めている。彼の異教の魂に対して、彼女は、アリストテレスAristotleにとって完全な幸福であり、それによって人間だけが人間の地平を越えることができる一種の熟考をはっきり提示しているのである。彼女の世界は月の天体(「最も小さな回転を為す天体」)の上にあり、そしてその永遠と幸福の世界へと我々が熟考を通して上るのかもしれない。月の「天体に含まれる」のは(すなわち地球上では)未来の世界であり、変化と堕落の領域である。それから、ベルギリウスは、異教の思考にそって、彼自身の(正しい)見方でベアトリーチェを認める。そして彼女は、彼への言葉で、巡礼者を「運命の女神の擁護者ではない」ものといい及ぶ時、彼の視点を妨げないのである。

 ダンテの時代には天文学のプトレマイオス体系(Ptolemaic system、天動説)は習わしであった。全ての天文学上の計算は地球が宇宙の不動の中心であることを基本になされていた。惑星の諸天体は、一群の透明な同心の球体または「天球」の中で、地球の周囲を駆動させられているいると考えられていた。それから、地球は七個の天球に囲まれている、すなわち地球は、月球、水星球、金星球、それから太陽、火星、木星そして土星の球体に囲まれている。これを越えてその全てを囲んで定置された星々があり、それらは順番に第十天または第一番に動くもの(原動力)によって囲まれている。九個の天体を越えた所に至高天、または第十天がある。すなわちそれが神の真の居所であり、動きまたは時間の継続を持たず、大きさにおいて果てしがなく時間において無限である。

 94.一人の慈悲深い淑女が天におられ:聖処女マリア。

 102.古のラケルの側に座り:ダンテの天国においてラケル(Rachel)はベアトリーチェの側に座らされている。すなわち彼女は瞑想にふける人生を演じているのである。

 107. 汝は海が克服できないであろうその川に沿った:川とは第1章における森および道と同種の実在性(reality)である――すなわち三つ全てが私たちの人生の舞台にあり、空間よりもむしろ時間の中で実存在がある(したがって川は海によって決して征服されないであろう)。この川は全ての人の心(第1章20と比較せよ)を通して流れておりアウグスティヌスSaint Augustineの貪欲な川(人の心の中に流れるこの世の貪欲の流れ、concupiscentiae fluctus)と同様な考えかもしれない。

 119-26.佇む獣から汝を自由にした:巡礼者の山に上るための最初の恐れ(雌狼ルーパの出現による、1章、49-60)と続いて起こる絶望の状態がここの行で呼び起こされる。しかしながら、ベルギリウスにより危難から今解放され、「三人の慈悲深き淑女」によって成功の確約を受け、彼は恐れといかなるためらいによっても彼の旅からもはや邪魔されないであろう。ベルギリウスは巡礼者を動かさねばならない。そして彼は最初の2章の出来事により設立された純粋に分別のある議論を通してこれを成し遂げそしてこのこの部分に要約して繰り返したのである。
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