両雄ならび立たず・・・という格言がある。
カープでは衣笠と山本浩二。
巨人では王と長嶋など、選手時代は互いにしのぎを削り、時にはアドバイスもした仲であるが、引退すると不思議なもので、互いに手を合わせ指揮することはない。
さて、衣笠と山本浩二の現役時代の話。
当時の古葉監督が、この二人を呼び将来指導者(監督)になった前提で、ある戦略を問い質したことがあったようだ。(これは報道されたと記憶する)
その時の質問は記憶にないが、古葉監督は両者の野球観を聞き、当時の松田オーナーに「監督にするなら衣笠がいい」と伝えた。
いまあの時のことを思い出そうとしているのだが、確か細かな戦術だったと記憶する。
衣笠は京都の平安高校から入団し、最初は強肩強打の捕手として期待された。
そのことは入団時の背番号28番からも窺える。(山本浩二は法大卒ドラ1で地元の大きな期待を受けながらも、最初の背番号は27番だった)
捕手として入団した衣笠も、最初のキャンプで洗礼を受けた。
当時の投手の球が満足に捕球できない。
今の時代のように悠長な時代でなく、すぐに捕手烙印を押され内野にコンバートされる。
しかしこの衣笠・・・当時は破天荒な少年でもあった。
18歳で免許を取得すると、当時では主力選手も乗らない高級外車を購入し、周囲を唖然とさせた。
また当時の二軍スタッフが厳しく監視しても、あざ笑うかのように合宿所から抜け出し、実績もないのに毎晩豪遊もしていた。
しかしクビにならなかったのは、それだけのセンスの持ち主だったのであろう。
この衣笠を根気よく見つめながら厳しく指導し、野球の世界へ没頭させたのは関根潤三コーチ。(後にヤクルトや横浜の監督を歴任)
有名な逸話は、深夜に酔っ払い合宿所に戻った衣笠を関根コーチはバットを持ち待ち構えていた。そして「お疲れさん。いい気持ちみたいなので、ついでに素振りも行いますか・・・衣笠くん」と、数時間にわたり延々とバットを振らせた。
その時の回想を数年前に関根氏は、「そんなこともありましたね」とニコヤカに振り返っていたが、衣笠は違ったようである。「バットを振りながら、目は回る。気分は悪くなる。そんな状況で、いつストップをかけてくれるのかと思ったが、甘かった。その気配はまったくなく、そのとき、この人を怒らせたら大変なことになると思わされた」
その後、多くのライバルが毎年入団し、衣笠の甘い気持ちも完全になくなり、昭和49年までカープの看板選手となった。
昭和50年、オールスターでの甲子園。
衣笠と山本浩二の両者は共に2打席連続ホームランを放ち、赤ヘル軍団という言葉が使われ始めた。
そしてまさしくこの瞬間から、カープの看板打者は衣笠から山本浩二に変わっていったものである。
つづく