古稀を過ぎた主夫の独り言日記

主夫の独り言
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アフリカの想い出

しゅうきょう

2024-01-25 11:46:10 | 主夫のつぶやき
あなたの宗教は何ですか?
そう聞かれたとき『仏教』と答える。
私は毎朝毎夕、仏壇でお参りする。
お務めと呼んでいる。
食事を供え、お経を上げたり平和を祈る。
最近は妻の病気回復、能登の復興、ウクライナとガザの平和を。
清めの意味だろうか、線香を上げる。
心落ち着くひとときである。
『仏教』は宗教だろうか?
時々考える。
私は予予、「仏教は哲学」と言っている。
人はどう生きるべきかを説くからだ。
若気の至りは数多い。
後悔の数も両手両足では足りない。
時々、昔の事を思い出しては声を発する。
すまなかったという思い。
恥ずかしい思い。
判断ミスだったとの思い。
交々である。
七十余年を生きてきてなおこれだ。
人は一生反省をして生きるのか。
時々そんなことも考える。
しかし、確実に私は善い人に変わっている。
『仏教』は自分自身を見つめさせるから。
さて、それ以外の宗教である。
旧約聖書も新約聖書も何度か読んだ。
小学生高学年からだ。
コーランは読んでいないが、解説書を読んだ。
これは数年前から2度。
神道は親戚の神主や有名な神社の禰宜から一端を聞いたことがある。
アフリカでは地域に根ざす密教に触れた。
宗教番組は好んで観ることがある。
仏教以外の宗教に触れる時、違うものを感じる。
特にユダヤ教を基盤とするキリスト教、イスラム教は絶対神である。
信じるのであり、考えるのではない。
だから異教徒を受け容れない。
教えに、受け容れる素地がないから。
同じルートでありながら、互いに背反する。
教育を受けたものは悩みながら受け容れる。
受けないものは闇雲に信じる。
違和感を感じて改宗する人も出る。
しかし、イスラム教に至っては改宗さえ認めない。
神道は自然に対する畏怖と尊崇である。
これは尊崇する対象が広いので救われている。
寛容さがあるのだ。
私が接した密教も自然への畏怖が導いたと感じた。
森の中から動物とも怪物とも判らない生き物が住民を追い回した。
そして、見たことを話してはならないとの教えがある。
その怪物と交信出来る人がいる。
所謂シャーマンだ。
これも寛容さがある。
もともとの考え方は多少の差異はあれ自然への畏怖から生じたものが宗教に繋がったのだろう。
キリスト教やイスラム教も。
ところがそこに権威主義や商業主義が蔓延り強固な垢が宗教を頑なにした。
私の心配は、そうした頑な宗教が世界を制覇しそうな勢いがあることだ。
これに対抗すべきは自然科学教育に他ならない。
宗教色を排した教育が必要だ。
かつて、中国はあらゆる宗教が拡がった。
そして近代の共産党支配になってからは無宗教が拡がった。
ところが今は新宗教に蹂躙されようとしている。
それは、習近平教。
新たな排他的宗教が拡がろうとしている。
してみると、今後大切なのはインドである。
ヒンドゥー教は寛容さがある。
インドは世界を救うだろうか。


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