生きる力になれば

ペンネーム良寛地蔵。70代のブログです。言葉で生きる力になればと綴って15年が過ぎました。

夢は永遠に

2018-11-19 22:53:34 | 日々の暮らし
英文に
what is your goal in
life?

あなたの人生における
ゴールは何ですか?

という言葉があります。



「人生のゴール」ですから、

オリンピックで金メダルやノーベル賞をとることではない。

そのあとも生き続けるのだから。

第二の人生もあるし。


また、ゴールとは

終わりがあるが、

人生にゴールはない。


死が終わりではない。

人生の目的(purpose)か
継続(keep on)

に代えて使えば

分かりやすくなる。

人生を「魂」に

変えるとさらに

分かりやすくなる。

「あなたの魂の


目的や継続は


何ですか?」


そうです、死んでも


続けるものなんです。


カトリックに


レクイエムという

ミサがあります。

死者への鎮魂歌や

安らぎの祈りです。


私はレクイエムには


もう一つの意味が


あると思っています。


死者からの叫び声を聞くことです。


死者がいまも続けているのは何ですか?

とお聞きするのです。

それに、答えてくれて

いるのです。

やはり、そうなのかも

知れません。

それを聞くのも

安らぎになるのです。


聞いてやって下さい。



人を愛すことだよ。


いつまでもあれを


続けているよ。

旅をしているよ。

恋をしているよ。

聴こえてきませんか?

あなたの夢は永遠に

続いているのです。

気づきになれば。

合掌


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この世は火の車

2018-11-19 04:02:40 | 日々の暮らし
今日は古典や仏教から来た、言葉を紹介したいと思います。

『ひとりぼっち』

平安時代、御白河天皇が「意のごとくならざるもの」の代表として

「山法師」をあげています。

当時の法師には乱暴狼藉ものが多かったようです。

この「法師」がなまったものが

「ぼっち」で、ひとりぼっちは

「孤独法師(ひとりぼっち)」のことだといわれています。

また、僧侶のように頭を丸めている男の子が、乱暴もので、手に負えないことから

母親に叱られて、


ションボリ沈んでいるさまを

「ひとりぼっち」と呼ぶようになったといいます。

『日なたぼっこ』

古代では「日なたぼこり」

と呼ばれていました。
平安時代の今昔物語に

『春の節になりて、

日うららかにて、


日なたぼこりもせむ』

とあります。

日なたは「日向」と書きひのあたる方向、場所を表す言葉です。

ぼこりは「誇り」のことですが、当時は心が浮き浮きする、心が晴れ晴れする時にも使われていました。

日が当たる場所で、心が晴れ晴れした時に


「日なたぼっこ」と使われたようです。

お年寄りにも

日なたぼっこ

させてあげましょう。

『皮肉(ひにく)』

遠回しの非難、他のことにかこつけて、あてこすりすることをいいます。

中国の禅僧の達磨大師(だるまたいし)が弟子の意見に対して、

考えが浅い時には、
「お前が得たものは皮だ」

とか「お前が得たものは肉だ」

と手厳しく批評したことから、

皮肉が出来たといわれています。

また、よい意見の時には
「骨を得た」と評したそうです。


今でも使っていますね。

『火の車』

これは仏教用語です。

地獄にある火が燃え盛っている車を火の車と呼んでいました。

地獄の番人は、罪深き亡者(もうじゃ)たちをこの車に乗せて苦しめたといいます。

「この世は常に苦悩に満ち、燃え盛っている家屋のようなもの」

との仏教思想から、

単に経済事情が苦しいことを表すようになったといいます。


古典を読んでいると、
そうなんだと気づかされ、発見して喜んでいます。


日々を夢に向かっているような導きのような使命のような声を感じて歩んでいます。

皆様も佳き日をお迎え下さい。

合掌






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