ケアマネなんかやってられっか!

現役ケアマネが介護や福祉の現場で気づいたこと、腹の立つこと、疑問に思うことなどをごく個人的な思いで語ります。

敬老の日に考えたこと

2009-09-23 | Weblog
 9月21日は敬老の日でした。65歳以上の人が男性が5人に1人、女性は4人に1人だそうですが、凄い数字ですね。ケアマネという仕事をしていて今さらこんな感想を漏らすのも、当たり前すぎますが。ほんとにこのまま少子高齢化が進めば日本という国は無くなってしまうと不安を感じます。

 ロボットを使っての介護をできないか国は考えているようですが、まず無理でしょう。ロボットスーツを使って人間の負担を減らす方法もあるようですが、これも実用化の面では難しいのではないでしょうか。装着に時間がかかるし、自由な動きも制限されるので決まった用途にしか使えないのでは、あまり意味がないと思います。どうしても人を増やすしか方法はないでしょう。そのためにも人が集まる魅力的な職場にしなければなりません。民主党が介護職の待遇をどのくらい上げられるのか。お金だけではないでしょうが、たとえば地位や名誉ややりがいといったものが介護と言う仕事でどれだけ得られるのか、もしそれらのものが得られたとしても正直食べていけなかったら人は集まらないでしょう。

 やはり「たかが金、されど金」です。

 そういえば新聞記事によれば高齢化が進むと同時に家計の苦しさも数字にでているとのことでした。65歳以上で無職の所帯の1ヶ月の平均支出は206000円で所得は164000円、42000円足りない分は預貯金の取り崩しでまかなわれているそうです。
 お金がないので介護保険のサービスを減らすという人も利用者の中にはいます。むしろそのような利用者を一人も受け持っていないケアマネはいないのではないでしょうか。高齢者の経済問題はそれだけ深刻で身近な問題だと思います。
 もし私がこのまま65歳以上になって働けなかったら、年金だけでは食べていけません。預貯金も10年持つか持たないかでしょう。子供の世話にはなりたくないし、なれないでしょう。その上介護が必要になったら、生活保護になるしかありません。生活保護になることに抵抗はありませんが、問題はその生活保護費を誰が出すかということです。もちろん税金ですが、少子高齢化では税収もあがらず、国の財政が逼迫することは目に見えています。今でもすでに日本は国債という借金で首が回らない状態に近いと思います。

 これから誰がどうやって国を支えていくのでしょう。




今日のキーワード 「敬老の日」「国債」


 

私の「悩む」心?

2009-09-13 | Weblog
  高校生のときに自転車で20日間ほど一人旅をしたことがあります。夏休みの前半にバイトをしてお金をためて後半に出かけました。ぎりぎりのお金なので宿には泊まれずほとんど野宿をしました。バス停や神社の軒下、無人駅のホームとかです。名所旧跡を訪ねるとか友達を訪ねるとかそんなことは一切無くただただ走り続けました。朝5時とか6時に起きてひたすら走り、暗くなったら寝る。そんな感じです。旅の間に1度か2度銭湯に入ったでしょうか、あとは公園の水で顔を洗うとか、今考えるとほとんどホームレスの状態に近いですね。もう数十年も前のことですが、いまでもはっきりと記憶に残っている場面、場面があります。
 そんな旅でしたが、今思うとその時から自分というもの、いわゆる「自我」に目覚めたような気がします。今、その自我が確立してしっかりとした「大人」になっていればよいのでしょうが、この自我というやつはなかなかに厄介なものです。去年の暮れから今年の頭にかけてどうにも心と身体が弱ったときに自分を投げ出したい、無くしたい衝動に駆られました。そんなときには自我とか考えられず、ただ自分の身体と存在が疎ましい、厄介に感じていました。それが最近は大分元気になったのですが、ときどき変な衝動にかられ、突発的な怒りを感じたり、やっぱり生きるのは面倒くさいとか考えます。家族とか仕事とか投げ出してまた同じように一人旅をしたいと思うのです。逃避だと思うのですが、このままではいつか破滅的な行動をするのではないかと自分自身が恐いと思うことがあるのです。いったい人はどうやって精神のバランスを取っているのか疑問に思ったり、うらやましく思ったりします。
 こうして訳のわからないことで悩んでいます。そんな自分が人様の支援なんかできるのかとこれも疑問に思い、申し訳なく思い仕事をしています。私は真面目なのではなく弱いのではないかと思いますが…。
 「男は強くなければ生きていけない、優しくなければ生きていく資格がない」レイモンド・チャンドラーの有名な言葉ですが、最近しみじみと感じる言葉です。

 
 今日はまたつれづれなるままに。