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京都霊山護国神社-その6

 

「駆逐艦長波慰霊碑」。
 
「昭和十九年十一月十一日レイテ島オルモック湾に於て戦没乗組員二百四十七柱」と「駆逐艦長波の航跡 長
 
波は一九四二年六月三十日大阪藤田造船所で竣工、同年八月北方キスカ島へ船団護衛、九月南方トラック島
 
へ向う、第二水雷戦隊の一艦としてショートランド基地としてガダルカナル島の陸軍部隊を支援、十数回にわた
 
る輸送を遂行、同年十月南太平洋海域、十一月にはルンガ沖夜戦に二水戦旗艦として参加、一九四三年再度
 
北方艦隊に編入、アッツ島支援及びキスカ島の撤収作戦に従事す。この作戦で船体を損傷し、修理のため母港
 
舞鶴に帰港、修理後九月に南下、ラバウルを基地としてブゲンビル島沖海戦その他の各海戦に参加。十一月十
 
一日ラバウル港における対空戦斗で被弾し航行不能となり、巡洋艦夕張及び長良の両艦に延々五千海里を洩
 
航され呉軍港に入港修理後、翌年七月連合艦隊と共にシンガポールに入港、十月ブルネイ港を経由、レイテ島
 
沖海戦に参加、十一月マニラとレイテ島間の物資輸送護ヱ作戦行動中オルモック湾において米空母艦隊機三
 
百五十余機と交戦、激烈な対空戦斗の末ついにオルモック湾に戦没する」
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
「満州開拓青年義勇隊碑」。
 
「この碑は京都府から送出された二千名の満州開拓義勇隊(内地では満蒙開拓青少年義勇軍と呼ぶ)の事蹟を
 
顕彰し殉難隊員慰霊のため建立するものである。我が国の生命線と言われた満州の開拓は日本民族発展の重
 
要国策として推進され、その中核となったのがこの義勇隊である。隊員は歳ようやく十四,五才にして家郷を離
 
れ辺境に新しい村づくりを志し、大陸に鍬を振い銃を執って食糧増産と北辺鎮護にに挺身したのである。しかる
 
に昭和二十年八月敗戦によって建設の夢破れ、戦乱の大陸を砲火に追われ飢えと病の死の避難行となり五百
 
名の隊員は夏草の下、凍土の上に斃れて未だ帰らず戦後二十五年を経たのである。かつて大陸開拓に寝食を
 
共にした同志拓友相はかり各方面の協力を得て、靖国の神となり護国神社に合祀をされた霊山の聖地を選び
 
拓魂安らかに鎮まり、永遠に祖国の平和と繁栄を守り給えと祈るものである 昭和四十五年三月建立」
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
「軍神乃木将軍母堂慰霊顕彰碑」。
 
乃木希典の母親のための慰霊顕彰碑。日本民主同志会により1968(昭和43)年3月建立された。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
「大東亜戦争従軍記念之碑」。
 
1997(平成9)年1月建立。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
「昭和の社」。
 
昭和の杜には友の会があり趣意書がその性格をよく表している。趣意書には「昨今 大東亜戦争に関し戦争を
 
知らない世代が勝手な判断をもって国家そのものを犯罪視するような世論が構成されつつあり、特に教科書に
 
於てはある現象の一面だけをとらえて非人道的行為が国家ぐるみで行われた如きは黙視できない。私達戦争体
 
験者も老境にあるが次代の子孫の為に歴史の真実を伝え、半世紀前に先人達が青春を、そして生命までかけ
 
て戦った純粋な愛国の至情が正しく理解されることを願い、又後の世に二度とあの惨劇を繰り返さないことを願
 
い平和をテーマとした「昭和の杜」を造園し、大東亜戦争従軍記念の碑を建立した。又各々の戦友会が建立した
 
部隊の慰霊碑も今後の維持祭祀のことを考える時、幾多の困難が予想される。本会は各部隊の慰霊碑の祭祀
 
の継続と「昭和の杜」の維持を賛助する方途として、「昭和の杜友の会」を組織して大東亜戦争を風化させること
 
なく、又戦没者と戦友物故者の顕彰と慰霊の事業を確立したい。各位の絶大なる御賛同をお願いする次第で
 
す。」
 
 
 
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