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音楽大好き男の徒然なる日記

「吉田町の唄」(1992)吉田拓郎

2021-12-01 | 音楽
(ブログ初出:2018年12月 1日付)


吉田町の唄


歌詞:Uta-Net 動画+
https://www.uta-net.com/movie/6669/





同名アルバム、タイトル曲。
TOTO、ジョージ・ベンソン、スティーリー・ダンなどを手掛けたアメリカのエンジニア、
アル・シュミットによるリミックスバージョンは、ベストアルバム『LIFE』に収録。(現在廃盤)



1991年4月、新潟県吉田町の当時の有志団体が企画した「吉田町サミット」のテーマ曲執筆依頼されたのをきっかけに
拓郎氏が書き上げた“アイデンティティー・ソング”。

自分の父親が何故、自分に“拓郎”という名前をつけたのか。
幼年時代の家族の光景は、どういうものだったのか。
父がいて母がいて、兄と姉と、祖母とに囲まれて過ごした団らんの記憶。

それも、拓郎が生まれて小学校3年生までのことだ。
それ以降、母親は子供を連れて広島の実家に帰り、父親は鹿児島に残った。
農業のかたわら、「鹿児島県民史」「県民百年史」の編さんにあたっていた。
父親が倒れたのは、図書館の中でだった。



「吉田町の唄」を作った後、映画「フィールド・オブ・ドリームス」(アメリカ、1989)を観たんだ。
最後のところで涙が止まらなくなってね。
僕にとって親父は、やな奴の代表だったわけで、最大の敵だったんだよね。
でも、そのとき、親父の言いぶんっていうのもあったのかもしれないって初めて思ったんだ。


レコーディングを終えた彼は、休暇のために滞在した沖縄から、夫婦で鹿児島に渡った。
自分が「吉田町の唄」で歌った家族の名残りと、
父親の「言い残したこと」を聞き取れるかもしれない、という旅だった。

結局、何も聞こえなかったけどね(笑)。
それにしても、年齢というのは、おもしろいことをさせるよね。」


ぴあMusic Collection 4「吉田拓郎 HISTORY 1970-1993」(ぴあ株式会社)より抜粋




多くの父親は子供に「自分を越えてゆけ」と願うのだろうか。
自分の名前にもそんな思いがこもっていたのだろう。

ならば、どんな状況であろうと、今日より明日を良くしようとしなければ。
常に上を向いていなければ。
それが、父への恩返しなんだと思う。


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2017年12月12日付訪問者数:131名様
お付き合いいただきありがとうございました。



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