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銀行業務発祥の地の碑について

2015-12-19 13:37:06 | 日記
 大桟橋通りを海に向って歩いて行と、山下公園通りがあり、これを港が見える丘公園方向に歩いていくと右側に銀行業務発祥の地の碑があったので、「在日外国銀行史」著者 立脇和夫 発行者 栗原哲也に、次のような記述がありました。
 安政条約時代に日本へ進出した外国銀行は23行あり、それらが開設した支店は21ケ店、代理店42ケ店にのぼっていた。条約には、開港場に設けられた外国人居留地内における外国人には治外法権を認めていたので、彼らに対する日本当局(幕府あるいは政府)の監督権限は及ばなかった。
 外国銀行は営業活動に関して、日本当局の免許を得る必要はなく、業務に関する報告書の提出義務もなく、加えて、当局による銀行検査もなかった。要するに外国銀行の業務活動に関して、日本の当局の規制はまったくなかったのである。このような事情から日本側に史科が残っていないのはむしろ当然であろう。
 この条約には、領事裁判の容認、関税自主権の放棄など治外法権を認めた、いわゆる不平等条約であった。特に、通貨に関しては、外国貨幣(洋銀)の国内流通及び金銀の自由な輸出入を認めていたため、通貨をめぐる日本の対応は困難を極めた。しかしながら、外国貨幣の国内流通と金銀の自由な輸出入を認める条項は外圧によってではなく、日本側が自発的に提唱した点に注目する必要があろう。そして開国と同時に幕府が発行した新二朱銀(安政二朱銀)が失敗した後を受けて、維新後には、新政府が貿易一円銀(円銀)を発行して洋銀の駆逐を図ることとなった。
 幕末期には、わが国の通貨制度が混乱を極めていたこともあり、外国人は、これに対して苦情を申し立てたり、あるいは改革案を具申した。新政府はもとより、これを考慮したが、決して外国人のいいなりになっていた訳ではない。
 維新後の通貨制度及び銀行制度に関しては、オリエンタル・バンクの監査役カーギルや横浜支店長ロバートソンらの反対にも関わらず、新政府は、大蔵少輔「伊藤博文」の建言を入れて、金本位制を採用し、アメリカの「1864年全国通貨法」を範とする国立銀行条例「明治5年大政官布告第349号」を制定したのであった。
 当時、日本へ進出した外国銀行の多くは、イギリス系の銀行であった。英国BANKが、わが国に於いて「銀行」に転化していくフロセスを分析した。換言すれば「銀行」のルーツの追求であり、わが国へ入ってきたル-トの解明でもある。
 また、少数ながらもフランス、ドイツ、ロシア系等の銀行も含まれおり、それぞれに特権をもっていて興味深いが、特に、ロシア系の銀行は、後発ながらその戦略は極めて積極的であった点が印象的である。など記述があったので、投稿いたします。

 
(銀行業務発祥の地の碑)

(碑付近の背景)

(山下公園通り)

 追録 日本の銀行発足については、「横浜正金銀行 著者 土方、発行者 高森圭介」によれば、 明治4年(1871)12月27日、明治維新後発行した4種の政府紙幣(大政官札すなわち金札4800万両、民部省札750万両、大蔵省兌換証券680万円、開拓使兌換証券250万円)の紙幣統一とさらに旧藩札約3千満両の回収のため、ドイツで印刷した政府新紙幣に引き替えることを布告、翌5年3月より実施した。この政府不換紙幣の消却と金融の円滑を目的とする一石二鳥の効果を期待して、国立銀行制度が出発したのである。
 この国立銀行、実は国法に準拠して設立された民間の銀行、資本金の6割に当たる金額の政府紙幣を政府に納めて6分利付き金札引換公債証書の下付をうけ、さらにこれを発行銀行券の抵当として政府に預託して、銀行紙幣の下付けをうけて銀行紙幣を発行し、資本金の4割を「正金」すなわち銀貨で準備して銀行紙幣の兌換にあてる制度である。
 しかし、「正金兌換が支障となり、当初の国立銀行は第一、第二、第四、第五(第三は開業前解散)の4行にすぎなかったので、明治9年、国立銀行条例が改正された。改正条例には、資本金の8割は4分利以上の国債を実価で政府に供託することによって、これと同額の銀行紙幣の発行ができ、資本金の2割は引換準備として通貨すなわち政府紙幣をあて、正貨準備を要しないこととなった。
 この改正により、金禄公債、秩禄公債、金札引換公債等約2億円の公債の大部分が資本金に使用できるよういになり、また発行銀行紙幣は正貨兌換できなくなったので、国立銀行は有利となった。以後国立銀行が激増し、明治12年の第153銀行を以って政府は国立銀行の許可を打ち切った。
 また、明治9年の条例改正で、銀行紙幣発行特権のない私立銀行の称号が使用可能となり、三井、安田等、明治13年には39行に達した。横浜正金銀行が明治13年2月(1880)に設立されたのはこのような時代であった。と記述がありましたので、併せて投稿いたします。

(旧横浜正金銀行 現在資料館)