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電信創業の碑等について

2015-12-05 08:51:06 | 日記
 日本大道理を海に向って歩いていくと地方検察庁の前に電信創業のひがありましたので、
「横浜もものはじめ考」により調べて見れば、元治元年(1864)3月12付け「ヘラルド」紙に、グラスゴーの造船会社、ランドルフ・エルダー商会の代理人ロビンソンが、浮きドック建設計画を携えて来浜したことが報告されている。
 このロビンソンが、英公使オールコックを通じて、幕府に「伝信機線一片」「伝信機線説論」等を提供している。また、慶応2年(1867)3月の「万国新聞紙」2集には、「伝信機械も取り寄せ組立指上可申候間、御注文奉願上候」というウィットフィールドの広告が出ている。
 慶応2年(1867)6月に来日したフランスの経済使節は、鉄道と電信の建設を勧めるエラールの書簡を携えていた。この年の9月プロシャから電信機が贈呈されている。暮れにはアメリカからも電信架設を勧める書簡が寄せられた。
 翌慶応3年(1868)には、榎本釜次郎(武揚)等、幕府がヨーロッパへ派遣した留学生たちも、電信機や電線を購入して、伝習を受けたりしている。さらに注目されることは、この年の暮れに横浜の貞次郎と江戸の栄蔵なる商人が、江戸・横浜間の電信架設を出願して許可されていることである。しかし、明治維新による政権交代のため、実現されることなく終わった。幕末期にすでに熟していたのであった。
 さて、明治元年(1868)9月神奈川県知事兼外国官判事、寺島陶蔵(宗則)が京浜間の電信架設を建議した。この年11月19日に予定されていた「東京市」開に備えようとしたものである。12月政府は灯台の管轄下に官営で架設することを決定、同寮技師長ブラントを通じて、イギリスからギルバートを招くことになった。スコットランドの鉄道会社で電信技師をしていた人物である。
 明治2年(1870)横浜灯明台役所に事務所が設けられ、8月には、横浜裁判所との間に電信線を架設して試験を行ない、9日から管用通信を始めた。9月9日には、横浜裁判所内に伝信機役所が設けられたが、この日を陽歴に直した10月23日が、電信電話記念日とされている。
 同年12月上旬には京浜間に架設を終了し、6日に試験通信成功、25日から公衆電報を受け付けた。飛脚より早いので、開業後3カ月で約3000通の申し込みがあったと云う。
 明治3年(1871)5月から欧文電報の取り扱いも開始した。当初はブリゲ式装置を使用し、2年後、モールス式に変わった。この事業は神奈川県の費用で行われたものであり、県から工部省に移管されたのは、明治4年(1872)4月のことであった。
 明治3年(1871)8月、大北部電信会社との間で海底線敷設の契約が結ばれ、翌年中には、長崎・ウラジオストック間、長崎・上海間が開通した。東京・長崎間は、機械購入と技師雇用をオリエンタル銀行に委託し、4年(1872)8月から工事開始、神奈川鉄道橋(現在青木橋)前に、第1号の柱が建てられた。長崎までの工事完成したのは、6年(1874)10月のことであった。
 一方、電話は、「マイウェー」財団法人はまぎん産業文化振興財団 発行人小川堤 編集清水照雄には、明治9年(1877)にグラハム・ベルにより電話が発明されると翌年、工部省が横浜のバヴィエル商会を通じて電話機を2台購入し、電信線を利用して通話実験を行いました。京浜間での電話交換業務が開始されたのは、明治23年(1891)12月16日のことである。となっていました。なお、「電話交換創始の」地は県庁所在の大桟橋通りに建立されているので、申し添えます。

(電信創業の地碑)

(碑の説明板)

(地方検察庁左下に注目)

(電話交換創始の碑)