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能見堂跡の石碑について

2015-05-23 09:03:02 | 日記
 今日は、金沢自然公園の散策路を通り抜けて、鎌倉天園交わし鎌倉建長寺などに通ずるハイキングコースがありますが、なかなか行く機会がありませんでした。今回、京浜急行文庫駅に下車して、国道16号線を杉田・横浜方向に歩き、始めての踏切を西側に渡り、谷津町の家並みを通り抜ける六国峠ハイキングコースの道標に従い500ほど斜面を上ると、そこは新緑の木々の枝を揺すり駆け巡るオゾン一杯の風を全身に受け、清々しい気分で右の小高い丘の上を見ると、能見堂跡の石碑がありました。その他にも、金沢八景根元地碑、武蔵国金澤碑、一方句碑、江耆桜美山句碑、など5個もありました。
 今回は、能見堂跡について投稿いたします。能見堂についての図書として、「金沢ところどころ」発行 沢区制周年記念事業実行委員会には、寛文(1661~72年)頃、地頭久世大和守広之が、江戸増上寺から地蔵院をここに移して、擲筆山地蔵院と称し、また元禄(1688~1703)のころ水戸祇園寺の開山、心越弾師が、ここから見た金沢の八カ所の勝景を詩に詠じたのが八景の始めだという。
 その後、八景見物の観光客や旅人のために茶店などもできて賑わい、多くの文人墨客がここで詠んだ金澤八景の詩歌もたくさん残っています。とありました。
 一方、「金沢区諸家文書」発行 横浜開港資料館には、能見堂とは寛文年間(1661~1672)に当時廃絶していたものを領主「久世大和守弘之」が再興した擲筆山地蔵院のことで、東海道保土ヶ谷宿から横浜金沢の町屋に至る幹線道路に沿ってあった。最も栄えたのは、天明年間(1781~1788年)からのようである。とありました。
 また、明治2年正月の火災によって焼失してその幕を閉じ,現在跡地には嘗て門があったと思われる位置に「金澤八景根元地」と小さく「享和3年発刻2月」の文字が、下の台石に「能見堂」と刻まれた石碑がヒッソリと立つのみである。
 名勝金沢も内海ばかりか、東京湾に面した海岸線も埋め立てが進み、その上に宅地開発も重なって、当時の面影は今や偲ぶ縁もない。と結ばれていました。
 確かに、開発が進んでいなかった明治の初めの写真が、現地に掲げられていましたので、併せて、投稿いたします。
 また、能見堂焼失に伴う廃絶から、その後は、前述の能見堂跡の石碑、金沢八景根元地碑、武蔵国金澤碑、一方句碑および江耆桜美山句碑などは、富岡宮の前の鹿島邸の樹木に囲まれた斜面などに移設され、それを、2009年2月に現在の地に、再移設されたと能見堂跡地再生プロジェクト活動報告書に記載されていたことを申し添えます。


(能見堂への入り口) 

(散策路)

(能見堂跡地)

(能見堂跡地)

(井戸跡)

(能見堂跡)