残月剣 -秘抄- 水本爽涼
《残月剣①》第二十二回
慌てて樋口は庭先より通用門の方へと歩みだした。
「先生のこと、宜しくお願いします!」
左馬介は樋口の後ろ姿に、どうとも取れる言葉を掛けていた。小さく、「おっ!」とだけ、声が返った。
左馬介が稽古場へ戻ると、案の定、鴨下は問い掛けてきた。長谷川は場にいなかった。
「樋口さん、何だったんですか?」
「いやあ…、野暮用を頼んでおいたんですよ。水無月の娘のことが気になっていたもので、調べておいて欲しいと言伝(ことづて)していたんです」
「へえー、左馬介さんがねえ。ははは…、少し色づきましたか? 水無月と云やあ、物集(もずめ)街道沿いの腰掛け茶屋ですよね?」
「はい、そうですが…」
自分でも驚いたことに、スラスラと出鱈目の筋書きが浮かんできて、即答出来た左馬介であった。水無月へ立ち寄った折りの記憶が、心の片隅に残像を留めていたのである。確かに以前、水無月へ寄った時、娘の名を訊ねられなかったという蟠(わだかま)りが左馬介の心中にあった。兎も角、長谷川がこの場に居合わせなかったことも幸いして、スラスラ即答出来た因ではある。