デブと某医の「ひょっこりポンポン山」

術後7年クリアー「腎がんのメモリー」、トルコ・バルト三国・イタリア旅行記、 吾輩も猫である、人生の棚卸しなど

あのとき10歳だったあなたの子どもは…

2019-05-05 17:34:00 | 新聞・TV・映画・舞台・書籍etc.
 すでにリタイアした身に十連休は他人事・・・とは言え 僅か一日ながら滅多に休めない愚息一家が訪ねてきましたから、それなりに恩恵に与ったかな。怪我したり 何かとあった春、まだ少し寒さが残りますけど 日は和らぎ長くなり・・・ひねもすのたりのたりかな。


                庭のモッコウパラ・・・あっ!という間にもう終わりかけです。

 のたりのたりしつつ何気に視たTV・・・一昨日放送されたBS1スペシャル「戦争孤児~埋もれてきた”戦後史”を追う」。敗戦時、食べるものもろくにない厳しい時代にまるで野良犬のように放り出された孤児の数は12万人超・・・その歩みと証言の記録でした。



 小倉勇さん(86歳)。空襲で両親を亡くし親戚に預けられます。『それまで優しく親しく接してくれた親戚が急に自分を厄介者にする。食べものが少ないのは我慢できるが、なんでオマエの面倒をみなきゃならんのか!と言われることほど辛いことはなかった』。

 小倉さんが墓参りする光景に胸が塞がりました。は小倉さんの家のお墓です。右の大きな墓はたぶん親戚のお墓でしょう。小倉さんのご両親は前の地べたに置かれた大小の石の下に眠っています。何度も何度も水をかけながら『あついやろ、あついやろう』と。




 金子トミさん(88歳)。両親を亡くし弟妹と三人で「大きな駅に行けばなんとかなる」と上野駅へ。一日に一本のさつま芋を、それでも他の子に隠れるように三人で分けて食べるのがやっと!の日々。死んで行く子に申し訳なくて・・・と当時を思い涙を拭いました。

 上野の駅で生きてきたことは、おつれあいが亡くなられるまで生涯一言も話したことはなかった、話せなかったのは、『あんな怖いところにいた女を俺はもらったのか、と夫に思われるのが辛くて』。金子さん、今ようやく当時のことを語れるようになりました。



                           敗戦後の上野駅構内の光景。

 内藤修一さん(85歳)。20年6月5日、神戸大空襲で3千人余が亡くなりました。当時12歳だった内藤さんは、父親を亡くし母親と三宮駅に向かいました。食べるものがなく母親が残飯を漁り食べられそうなものだけ内藤さんに与え、自らは餓死された由。

 『お母ちゃん!と何度も呼んだけど、だんだん手が冷たくなりました』。その後、施設に預けられそこから学校へ。級友には「戦災乞食」といじめられ、黒板に「ウジ虫」と。三宮駅には『亡くなった母を思い出すのが辛くて一度も行ったことがありません』。



    当時の新聞でさえ「末恐しい浮浪児」などと報ずるレベル、一般の国民の認識が窺われます。


           少年院ではありません。脱走防止に鉄格子のある養育施設もありました。

 八巻春夫さん(85歳)。戦争中に父親が戦死、英霊の子として称えられました。同じ境遇の子らが靖国神社に集められ「社頭の対面」に臨み、代表の子が謝辞を読み上げます。
 『天皇陛下の御為に一身を捧げたことを父は深く満足に思っていることでしょう』。



         昭和16年内閣情報局「写真週報」に載った社頭の対面に臨む八巻さん。

 山田清一郎さん(83歳)。駅舎から棒で叩きだされる冷たい仕打ちにめげることなく戦後を懸命に生き、高校教師となり定年退職しました。当時を語る小さな講演会で、母親がよく歌っていた子守唄をハモニカで演奏した後、「母への手紙」を朗読されました。



 「母への手紙」 山田清一郎  
 お母さん。あのとき十歳だったあなたの子どもは 今、
 お母さんが亡くなった年をはるかにこえて生きています。
 戦災孤児となった私は、同じ浮浪児仲間と、戦後の荒れ果てた町で、
 周囲の人から棒をもって野良犬のように追われ、ばい菌の塊と呼ばれ、水をかけられ
 ただ生きるためだけに生きてきました。
 なんども死を考えながら それでもとことん生きてやるという思いにさせたのは
 あなたの無念な思いに対して、
 お母さん、ここまで生きてきたよと、自分が生きた証しを残したかったからです。
 ありがとう お母さん。
 あなたの子どもは ここまで生きてきましたよ



補遺】番組をYou tube.でもご覧になれます(torerikoさんにご教示頂きました)。
        ※「広告」(とりわけ後半)に少し忍耐を要します。
 
  前半 ・・・ https://www.dailymotion.com/video/x6zg28x
  後半 ・・・ https://www.dailymotion.com/video/x6zgn3v


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 【 お知らせ
  拙ブログ「ひとり朽ちる・・・がんに生きる」でご紹介した なかにし礼(80歳)さん。
      https://blog.goo.ne.jp/00003193/e/756231fa8d9fcca0c0ad3bdde87fdde0
  NHK Eテレ 5月10日(金) 午後8時~
  あしたも晴れ!人生レシピ「死が”命”を輝かす」でがんとの闘病を語られます。
                       

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12 コメント

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デ某さまへ (くりまんじゅう)
2019-05-05 21:39:14
戦争孤児・・その番組を私も観ました。戦争で両親を亡くし
天涯孤独になり それでも生きていくため 当時10歳の
彼・彼女たちの懸命に送った数年間を 今80歳を超えた
当人たちの何人かが語ってくれました。

あついやろと言いつつ 石ころだけの両親のお墓に水を掛ける小倉さんは
孤児時代に患った目の病気で 今はほとんど見えなくなっており
鍼灸師になり生計を立ててきました。孤児時代に
夜中に苦しむ小倉さんの背中を 撫で続けてくれた友は
山手線に飛び込み自ら死を選びました。
希望が見えず なにもかもに悲観したからでしょう。

ハモニカを演奏する山田さんも印象に残りましたがもう一人
米国へ渡り教育を受け 教師になった男性がいましたね。
今は退職し 日本語学校で教鞭をとっている画も流れました。

年端もゆかぬ子どもが 捨て犬のように食べるものをあさり
その日のねぐらも自分で探し 必死で生きてきた数年間は
本人たちが重い口から語ってくれねば 私達は知ることができません。
戦争孤児の父や兄たちが 命を懸けて今の平和を作ってくれました。
戦後の幸せな時代に生まれ 恵まれた国で教育を受け 大した苦労もなく
今日まで生きてきた私たちは 戦争で散った英霊や
不幸な少年少女時代を送った 戦争孤児のことを忘れてはならず
いい番組だったと 終わった後もしみじみしました。
Re : くりまんじゅうさん (デ某)
2019-05-06 08:24:10

くりまんじゅうさん
早速に丁寧なコメントをくださりありがとうございました

番組には戦災孤児の方々がたくさん登場されましたが、長くなり過ぎても...と割愛しました。
そうした方々についてフォローしてくださり心からお礼申し上げます。

> その番組を私も観ました。
> 戦争で両親を亡くし懸命に送った数年間を 今80歳を超えた...何人かが語ってくれました。

12万人を超える戦災孤児 お一人お一人の口惜しさ、苦闘の日々とともに
亡くなられた父や母たちの無念は如何ほどか...。
この番組を視て、こうして語りあえることを幸いに思います。

> あついやろと言いつつ 石ころだけの両親のお墓に水をかける小倉さん...

この場面、涙があふれとまりませんでしたね。
「徹底的に社会に逆らって生きてやる」と思うに至る小倉さんの口惜しさ、やるせなさ・・・
その無念が「あついやろ、あついやろう」の言葉にこめられていたように感じました。
非常!時における非情! そこに至る前に為すべきことを為さねば!と つくづく思いました。

> 孤児時代に夜中に苦しむ小倉さんの背中を 撫で続けてくれた友は山手線に飛び込み自ら死を...

殆どの方が自死を考えたと仰っていました。
戦争で肉親を奪われ、戦後は社会から存在を否定される...
自死と苦難の生はいつも紙一重に存在していたことと思います。

> 米国へ渡り教育を受け 教師になった男性がいましたね。

伊東幸男さん。銀座で靴磨きをして生きのび 十代で米国にわたり苦学して大学を出られました。
帰国して就職をしようとしましたが、
親をなくし孤児として生きたことを日本の社会は認めてくれないときき
米国籍をとって高校のスペイン語教員となり定年までつとめられました。
今はなんと毎月一週間余、米国から日本に来て 銀座などかつて生きた!街に行かれる由。
『戦災孤児がいた、そんな時代があったことを今の人たちに脳裏にとどめてほしい』と。

> 子どもが 捨て犬のように食べるものをあさり...必死で生きてきた数年間、
> 本人たちが重い口から語ってくれねば 私達は知ることができません。

「いのちのことば」を聴く思いで番組を視ました。
そのことばに もっと多くの方が耳を傾けてくだされば!と思いました。
そしてその一方に、「本年中に改憲を」と述べる偉いお方のことばが新聞報道されていました。

> いい番組だったと 終わった後もしみじみしました。

いい番組であり 日本の今!にこころ痛む番組であり よくぞ発掘・記録・放送されたと思いました。
再放送されればいいのですが...。
Unknown (ムベ)
2019-05-06 19:47:01
戦災孤児という種類の人間はいないのです。
普通の家庭で両親に愛され、きちんと布団に寝て
お母さんの、温かく美味しい食事をしていたのです。

ある日、そのすべてを取り上げられて、なぜか虫けらのような
扱いを受けるのです。
まるで、それが自己責任のように責められ虐められるのは、

たまたま自分の身に起こらなかった人たちの、想像力の欠如です。
たまたまの幸運を、偉いことかのように思っているのです。
だから、そのような不幸せが無くなることはありません。

戦争は直接被害を受けなくても、その国の心がズタズタに
引き裂かれて行きます。
恐ろしい無感覚が支配するようになります。
人を殺すことが奨励されるのが戦争ですから・・。

でも、謙遜や忍耐や寛容がない所にじわりじわりと、
忍び寄るのが戦争の足音です。
二度と繰り返し欲しくない戦争孤児。自分の家族に重ねる
想像力を、願ってやみません。
ムベ様のコメント一字一句 おっしゃるとおりですね (お母ちゃんの徒然)
2019-05-06 21:00:08
デ某様 このスペシャルはNHK総合でかなり前に視た記憶がございます

視 終わって命の哀しさを引きづりました
それは電車に飛び込んだ男の子がいつまでも消えませんでした
育ちの良い 言葉も柔らかい優しい子だったとの証言でした
戦争とは男の子の幸せな居場所を一瞬にして駅の子にしてしまったのです
元気がなく 言葉数が少なくなって ある日 電車へと飛び込んだ哀しさ

姉妹が生き延びるには おつれあいにも言えない辛さがあったのでしょう
ワタクシが駅の子でしたら生きるために同じ運命だったかもしれません
電車へ飛び込んでいたでしょうか・・・・・ 

ハーモニカの音は寂しく哀しい音に聴こえます


Re : ムベさん (デ某)
2019-05-06 21:35:42

ムベさん
コメントありがとうございます

こうしたブログを書きますと、あまり快く思われません。
愉しい話ではないうえ、「上から目線」「平和信仰」etc.
でも 書いてしまうんですよねぇ、つい...。

> 戦災孤児という種類の人間はいないのです。
> 両親に愛され、きちんと布団に寝て お母さんの、温かく美味しい食事をしていたのです。

はい。みんな母親のお腹から裸で生まれてきますから。
世界中どこでも いつの時代でも いつまでも 変わりありますまい。

> ある日、そのすべてを取り上げられて、なぜか虫けらのような扱いを受けるのです。

その「ある日」は 誰が決める日でしょう。
「総てを取り上げる」権限は 誰が与えるのでしょう。
「なぜか虫けらのように」の「なぜ」は、いつどのように誰によって解明されるのでしょう。

> まるで、それが自己責任のように責められ虐められるのは、
> たまたま自分の身に起こらなかった人たちの、想像力の欠如です。

「たまたま」自分の身に起こらなかったことは、
きっといつか 自分 or 身近な者に起こると想像することの なんという難しさ...。
誰であれ! 誰もが! 自分も!「想像力を欠く」人間の一人になるだということを
想像力を左程!問われないときに、十分知っておかなければばなりますまい。

> たまたまの幸運を、偉いことかのように思っているのです。
> だから、そのような不幸せが無くなることはありません。

仰るとおりだと思います。
学校でいつまでもなくならないイジメ、会社はじめ様々な組織にはびこるイジメ。
たまたまの幸運、たまたま標的にならなかった幸運は、
果たして本当に幸運なのか?と 自信に問いかけたことが、私自身、どれほどあったことか...。
忸怩たる思いではあります。

> 戦争は...その国の心がズタズタに引き裂かれ..恐ろしい無感覚が支配するようになります。
> 人を殺すことが奨励されるのが戦争ですから...。

武器は、「自己を護る」ためにあるのか、それとも「他者を殺戮する」ためにあるのか...。
軍隊は、「自国民の生命財産を護る」ためなら、「他国民を殺戮する」ことを厭わぬ組織か...。
いつの時代も 勝者が責められることはなく、敗者に英雄(正義)は存在し得ません。

> 謙遜や忍耐や寛容がない所にじわりじわりと忍び寄るのが戦争の足音です。
> 二度と繰り返して欲しくない戦争孤児。
> 自分の家族に重ねる想像力を、願ってやみません。

あの戦争!を...体験した人々はまだ生きています。
体験しないまでも その残滓を見聞きしてきた人々は 私も含めてもっと多く生きています。
そんな大昔のことではありません。
しかし もう半世紀もしないうちに 体験した人も残滓を見聞きした人も みんないなくなります。
いなくなるだけなら 良し!としましょう。
新しく体験する人々が出ないことを何よりも!祈りたいと存じます。

ムベさん。
考える機会となるコメントをくださり本当にありがとうございました


Re : お母ちゃんの徒然さん「ムベさ様のコメント一字一句・・・」 (デ某)
2019-05-06 22:20:52

おかあちゃんの徒然さん
コメントありがとうございました
ムベさんのコメントに呼応してコメントくださったこと、とても嬉しく存じます

> このスペシャルはNHK総合でかなり前に視た記憶がございます

自分の心を問いかけられる...そんな厳しさを覚える番組でした。
さらに再々放送していただきたい番組です。

> 視 終わって命の哀しさを引きづりました
> 電車に飛び込んだ男の子がいつまでも消えませんでした
> 元気がなく 言葉数が少なくなって ある日 電車へと飛び込んだ哀しさ...

烈しい頭痛に唸る小倉さんの背中を優しくさすりながら案じてくれた少年。
その時の小倉さんにとって 少年は 母親であり父親であり神様であったことと思います。
列車に飛び込む前、少年の脳裏をよぎったのは何だったのでしょう。
少年が生きた証しは、小倉さんの記憶とこの番組だけだとすれば、
私は、この番組で語られた少年を、私の記憶の底にとどめたいと存じます。

> 姉妹が生き延びるには おつれあいにも言えない辛さがあったのでしょう
> ワタクシが駅の子でしたら生きるために同じ運命だったかもしれません
> 電車へ飛び込んでいたでしょうか・・・

金子トミさんとその弟妹ですね。
おつれあいに打ち明けられれば おつれあいはきっと彼女を抱きしめられたことと思います。
それはしかし 彼女には 「あの時代のあの場所に還る」 に等しい怖さだったのかもしれません。

> ハーモニカの音は寂しく哀しい音に聴こえます

山田清一郎さんのハモニカと「母への手紙」。
私のブログのタイトルはこの手紙の一節をお借りしました。
山田さんのお母様の写真が番組で紹介されました。
凛とした優しい笑顔の女性でいらっしゃいました。
山田さんは語っていらっしゃいませんでしたが、
私はその一枚の写真こそ山田さんの生きる最大の力になったにちがいないと思いました。
お母さまは、それだけ底知れぬ力を(愛情を)遺されたのだと思いました。

コメントほんとうに有難く拝読しました
ありがとうございました
ありがとうございます (ムベ)
2019-05-06 23:41:32
おかあちゃんの徒然さん、ありがとうございます。
戦争については、つい思いの丈をぶつけるような言葉が、
溢れてしまいます。
ちゃんと受けてくださって嬉しいです。ありがとうございます。

デ某さん、言葉が少し反れてすみません。ときどき暴走しても、
丁寧に受けてくださってありがとうございます。

今夜は平和の中で・・おやすみなさい。
Re : ムベさん「ありがとうございました」 (デ某)
2019-05-07 09:09:38

ムベさん
お早うございます。再コメントありがとうございました
平和の中で眠りに就かれ 平和の中でお目覚めされたことと存じます。

お母ちゃんの徒然さんはじめ
ここでこうしたことについて語り合えたことが嬉しく
こうして語り合えることを今後も願っています。
ムベさん、ありがとうございました
焼き場に立つ少年 (花木柳太)
2019-05-08 11:13:52
昨年の夏にこの番組を観ました。
それとは別に西日本新聞に「焼き場に立つ少年」という一枚の写真が載りました。
亡き幼い弟を背負い、直立不動で火葬の順番を待つ少年。
長崎のたぶん原爆の後でしょうか、その写真が強く印象に残り
このNHKの番組と合わせて新聞に投稿した記憶があります。

先の大戦を美化する人もネット上にいます。所謂、アジアを白人の植民地から解放したのは日本人だった。
そういう一面があったのを後から云うのはたやすいでしょう。

わたしの父も南方戦線に駆り出されて行きました。
戦死していればこの世に私は居なかったお思うと不思議な感じがします。
広島長崎で34万人、戦争孤児が12万人、如何に先の大戦が大きいものだったかが分かります。
 
親を亡くした少年がどんなに過酷な環境で育ったかは本人でなければ分からないでしょう。
先の「焼き場に立つ少年」の写真は従軍カメラマンの
ジョー・オダネルという人が写し、この少年を探して来日されています。
この少年も父母を亡くしたのは明らかです。

子供の頃、ご飯と一緒にサツマイモを混ぜて母は焚きました。
子供心にそれが嫌でのけて食べても母は何も言いませんでした。
>サツマイモ一本を三人で分けて食べて・・生死が掛かってたのでしょうか。
小倉勇さんの墓は無念でしたでしょうが守る人がいなくては致し方ないのでしょう。
育てる親の居ない子。それを支えることができない社会の混乱。
紛争や、戦争は何時も弱い子供が犠牲になります。
辛うじて戦争を知らない世代ですが戦争に行った者は多くを語りません。
父もそうでしたが語れないのかも知れません。

令和の時代も紛争のない時代になって欲しいものです。


Re : 花木柳太さん「焼き場に立つ少年」 (デ某)
2019-05-08 15:40:16

花木柳太柳太さん
ご自身の体験をまじえてのコメントありがとうございました

> 昨年の夏にこの番組を観ました。

私は実は「再放送」とは知らずに視ました。
改元を祝う気持ちを持ちつつも「殆ど一色」に染まる報道に戸惑っていたとき
あの腰だめ!のNHKが 今このとき よくぞこの番組を作り放送した、と思いつつ視ました。

> それとは別に西日本新聞に「焼き場に立つ少年」という一枚の写真が載りました。

この写真に花木さんが注目され 新聞に投稿されたことに 心から敬意を表します。
私もこの写真を見るたびに心を衝たれ 心が騒ぎ ブログ※①②でも触れました。

> 子供の頃、ご飯と一緒にサツマイモを混ぜて母は焚きました。
> それが嫌で のけて食べても 母は何も言いませんでした。

今は「健康のため」に麦飯、芋・粟・稗など混ぜたご飯をいただきます。
花木柳太さん同様、私もまた子どもの頃、
しばしば麦などを混ぜたご飯をいただきました。
「不味いし 貧乏くさくて 厭だ」と思いながら...。

私は、小中を通じて「給食」を経験していません。みんな弁当持参でした。
麦飯に梅干しはまだマシで、コッペパン一個、稀に弁当ナシの子もいました。
子どもたちの弁当は 当時の格差と差別を余すところなく映していました。
そんな時代があったことをぎりぎり リアルに知っている世代ではあります。

当時の小学校の友に思いを巡らせ 一句を詠めば...
「靴はなし 弁当はなし 親もなし」

※①「敗戦記念日によせて」2017.8.15
https://blog.goo.ne.jp/00003193/e/810c9be3d77876de6f179d9564685702
※②「ローマ法王の配ったカード」2018.1.3
https://blog.goo.ne.jp/00003193/e/44f265019a37514781deb4d8b28e9d8e

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