フリードマンの考えは、「修正ケインズ主義」のようなものであり、短期的な経済政策としては、ケインズの考え方を肯定している。
但し、長いスパンで見ると、ケインズ経済学を用いた経済政策には矛盾が生じるため、ケインズが否定した、「貨幣数量説」を重視すべきであると説いている。
対して、竹中平蔵の考え方は「サプライサイド経済学」と言われ、ケインズが「全否定」した、セイの法則(=供給は、それに見合った需要を生み出す)を重視したものだ。また、竹中は、サプライサイド経済学の第一人者である、グレン・ハバードの経済学に推薦の言葉を寄せている。
では、なぜ、フリードマンと竹中が「似ているように見える」のか、それは、基本的に2人とも、「トリクルダウン」を容認しているからだろう。
フリードマンの考え方のもとになった、フリードリヒ・ハイエクがその先駆者と言ってもいいが、竹中の身上である、「構造改革」も、基本的には、トリクルダウン(=規制を緩和して供給量を増やす)理論である。
しかし、今の時代、特にスマートフォン業界を含めた、家電業界が顕著だが、「
ドミナント戦略」というものが主流となり、トリクルダウンが来る前に、供給量は飽和状態になってしまうのだ。
日本の家電業界が、21世紀に入って、ことごとく敗れ去ったのは、トリクルダウン戦略に固執するあまり、ドミナント戦略に対応できなかったことによるところが大きい。
よって、下記の話に出てくる、「(フリードマンと竹中の理論は)周回遅れの市場原理主義」という説は『正しい』ということがいえる。
フリードマン・ケケナカ思想犯 周回遅れの市場原理主義 (世相を斬る あいば達也) 赤かぶ
2018年07月16日 世相を斬る あいば達也
失われた20年、いや、失われた時代は、今も続いているのが現実だ。安倍政権は、「選択と集中」というイデオロギー(安倍が理解しているかどうか不明)を、市場原理主義を導入することで、絵に描いた餅を、メクラ滅法な方法で、強権的に推し進めている。このようなイデオロギーによる国家運営は、国民の利益も「選択と集中」の中に取り込まれるので、その枠から外れた地域は、原則、法的保護を受けにくい地域ということになる。
つまり、“強きを助け、弱きを見捨てる”と云うのが、原理原則なイデオロギーで我が国は進み、世界が実証的に、市場原理主義は空理空論で、生きている人間社会を運営するには不適切な思想だと云う事が証明されていると云うのに、“走りだしたら止まらない”国家的性癖を理性的に制御することが出来ず、大失敗のアベノミクスを、大成功だと自画自賛している。一部、安倍政権の経済政策で潤う“点”はあるが、一般国民のレベルでは“面”において、マイナスの利益を押しつけるようになっている。
フリードマン・ケケナカ(竹中)らの考えでいけば、このような答えは当然で、仮に、成長のエンジンを失った経済圏で、この市場原理主義を強行すれば、「選択と集中」は加速化するわけで、問題はない。個別の住民感情に惑わされてはいけない。“強い者、強い地域を強くし、弱い者、弱い地域を切り捨てる”そうやって生き残るしかないのだ。自由主義でもあるのだあら、切り捨て地域に住むのが嫌なら、自助努力で、強い地域に移り住めば済むことである。或る意味で、強制的淘汰の論理だ。
この強い者、元気な者だけが生き残る世界は、弱い者や老いた者達を切り捨てることになり、いずれ市場から追放されるので、国家は、強いものと元気な者だけの世界になる。まぁ現実は、強者の世界でも、ふるい落としがが発生するので、今日の強者は、明日の弱者でもある。しかし、そこまで考えの至らない、若年層には好意を持って受けとめられるイデオロギーなので、安倍政権の強さの源にもなるのだろう。
宇沢弘文氏の薫陶にあずかった筆者にとっては、“それじゃ社会は成り立たたんでしょう”と言わざるを得ない。そりゃ、現状の生活レベルには、それなりの自己努力はつきものだが、自己努力、自己研さんといっても、その過程において、多くの公共財や人々に助けられて、今の現在があるわけだから、今と云う時期を切り取って、自分の人生だと主張する気にはなれない。考えてみれば、戦時の徴兵にしても、地方の次男三男が初めに狙われ戦場に刈りだされた。戦後の経済復興時においても、地方の次男三男が工場地帯の労働力として刈りだされたのだ。
その結果、地方の共同体は脆弱になり、衰弱の方向に向かっている。地方がこのような窮地に陥った原因は、歴史的に見れば、明治維新後の産業革命時点まで遡るわけだが、明治以降、中央は地方の犠牲の上に成り立つのが、資本主義の宿痾だと言ってもいいのだろう。それでも、一定の共同体意識があった時代においては、地方への配慮を行う行政がなされたが、小泉政権以降、安倍政権に至って、市場原理主義は容赦なく地方切り捨ての方向に走りだしている。
結局、日本の経済が総体的に疲弊して、地方への配慮などはしてはいられないので、一定の中核都市をコンパクトシティーに位置づけ、その部分に資源を集中させ、生き残り戦術を画策しているのが現状だ。大都会や中核都市に住む人々には、今までのような公共サービスを提供出来るが、そこから漏れた地域の公共サービスは途絶えることを意味している。公共サービスを受けたいのなら、自力でコンパクトシティーの域内に住む努力を国民に強制する仕組みだ。
このような考え方は、極めて身勝手だがイデオロギーの一種なので、全否定は難しい。しかし、人の営みには、経済学が領域としていない多くのものが混在してはじめて人間社会が成り立つているのだから、数値化出来るものだけとは思えない。経済学者の考える国家は、結果的に損得価値観の国家であり、世界全体を一国となぞらえた場合、その国は、総体的に「地方」に位置づけられるだろう。現実に、世界は、この市場原理主義を否定する方向に動いていると云うのに、我が国の行政は方向の転換が出来ないままだ。あの敗戦の教訓はいまだに生かされていないようだ。
首都大学東京教授の山下祐介氏は、安倍政治の政策を真っ向から受けとめて、批判しているが、カエルの面に小便だろう。人口減少は、テクニカルに移民にシフトすれば済むことで、特に問題はない。兎に角、「選択と集中」で限りある資源を使わなければならない。そう云う考えが、安倍政権にあるのは確実。ただ、キャッチコピー政治だから、無党派層は勘違いしてしまうし、弱者になる連中までが、言葉に浮かれて強者になったような気分にさせる。軍国少年のような老若男女がいるのも困ったものだ。