温泉逍遥

思いつきで巡った各地の温泉(主に日帰り温泉)を写真と共に紹介します。取り上げるのは原則的に源泉掛け流しの温泉です。

豊富温泉 ホテル豊富

2016年04月30日 | 北海道
 
引き続き豊富温泉をめぐります。前回記事の「ニュー温泉閣ホテル」はアットホームな雰囲気でしたが、今回取り上げる「ホテル豊富」は小さな温泉街の集落からちょっと離れたところにあり、当温泉地では最も大きな宿泊施設です。日帰り入浴も受け付けているので、立ち寄ってみることにしました。


 
現在全面改築中の「川島旅館」は和洋の両面を取り込んだモダンデザインのお宿に生まれ変わるようですが、少なくとも現時点で、豊富温泉において洋風のホテルを希望するなら、こちらを選択することになるかと思います。エントランスを入ると、館内は瀟洒で明るい雰囲気に満ちており、女性客もきっと満足できるはずです。フロントで日帰り入浴をお願いしますと、快く受け入れてくださいました。


 
フロントからお土産コーナーを通り抜けた奥が浴場入口です。
脱衣室にはロッカーなどひと通りの備品が用意されており、清掃も行き届いていました。


 
浴室はカタツムリの殻のような丸い形状をしており、高い天井を数本の太い柱が支え、外側に広がる大きな局面ガラス窓によって、開放的な入浴環境となっていました。私が訪れたのは夜間でしたが、日中はさぞ明るいことでしょう。男湯の場合、浴室入口にサウナがあり、中央には岩のオブジェが埋め込まれた腰掛けが設けられ、右手に洗い場が配置されていました。洗い場にはシャワー付きカランが9基並んでいます。



すっかり陽が暮れた後に訪れたため、窓の外を眺めても、室内照明に照らされた雪と、目の前の枯れ木程度しか目に入ってきませんでしたが、けだし日中は良い景色が眺められるのでしょうね。


 
曲線のガラス窓に沿って円弧状に3つの浴槽が並んでいます。手前側の2つは水風呂と真湯槽で、特に青いタイルの真湯槽はかなり大きく、その存在感ゆえ浴室内で最も目立っています。また、所々に石を配することによって、タイルのお風呂にありがちな短調で実用的な雰囲気を排し、温泉浴場らしい非日常的な風情を醸成しようとしていました。なお館内表示によれば、真湯槽で張られているお湯は「殺菌し放流と循環を併用」とのこと。


 
奥でオリーブグリーンの濁り湯を湛えている浴槽は温泉槽。真湯槽の半分ほどの大きさで、足を伸ばして湯槽に入った場合で考えますと、そのキャパは9~10人サイズといったところでしょうか。湯船のお湯は後述する湯口より供給され、窓下の溝へと溢れ出ていました。館内表示によれば、温泉槽のお湯は加温しているものの、放流式の湯つかいとのこと。


 
小さな石の段々になっている湯口から注がれるお湯はR11号井という源泉。投入量は決して多くないのですが、やや過多気味に加温することにより、湯船ではちょうど良い加減の湯温となるよう、調整されていました。公式サイトによれば「当ホテルの大浴場に注ぐ湯は、専用の源泉から油分をろ過して引いている」とのことで、たしかに豊富温泉の他のお風呂と比べると、石油感がかなりマイルドに抑えられており、油のギラつきも少ないのですが、それでも室内には石油臭がふんわりと充満しており、匂いだけでも豊富温泉のお湯であることを実感できます。

強い石油臭を放つ湯口のお湯を口に含んでみますと、とっても塩辛く、苦味もはっきりと感じられ、湯船に入るとヌルヌルを伴うツルスベの滑らか浴感が肌に伝わりました。前回記事の「ニュー温泉閣ホテル」で使われているR4号井・R1A号井混合と比べますと、陽イオンに関しては圧倒的にナトリウムイオンの比率が高い一方で他の陽イオンがかなり少なく、陰イオンに関しては塩化物イオンの他、炭酸水素イオンもそこそこ含まれており、それゆえ、R4号井・R1A号井混合泉の泉質名はナトリウム-塩化物泉(食塩泉)でしたが、こちらのR11号井ではナトリウム-塩化物・炭酸水素塩泉(含重曹・食塩泉)というように重曹の存在感も前面に出ていました。重曹の多さに起因するのか、ツルスベ感はR4号井・R1A号井混合よりこちらの源泉の方が若干強いように思われます。一口に豊富温泉といっても、源泉によって個性が微妙に異なるんですね。

当温泉地の他のお湯と比べると、ややマイルドな感を受けますが、それでもパワフルであることには変わらず、大して長湯しなかったにもかかわらず、しばらくは体が強烈に火照って汗が止まりませんでした。さすが豊富の湯はすごいですね。


R11号井
ナトリウム-塩化物・炭酸水素塩温泉 28.0℃ pH8.0 溶存物質13.99g/kg 成分総計13.99g/kg
Na+:4690mg(98.99mval%), NH4+:13.5mg, Mg++:5.5mg, Ca++:7.5mg,
Cl-:4988mg(68.39mval%), HCO3-:3942mg(31.40mval%), CO3--:12.0mg,
H2SiO3:48.2mg, HBO2:258.6mg,
(平成21年3月25日)
加温あり(入浴に適した温度に保つため)

JR宗谷本線・豊富駅もしくは幌延駅から沿岸バスの豊富留萌線で「豊富温泉」下車
北海道天塩郡豊富町字上サロベツ1510-2  地図
0162-82-1055
ホームページ

日帰り入浴11:00~21:30
500円
ロッカー・シャンプー類・ドライヤーあり

私の好み:★★
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

豊富温泉 ニュー温泉閣ホテル

2016年04月28日 | 北海道
演歌の世界で歌われる日本人の心に従えば、失恋した人間は北へ向かうもの。
昨年末のこと。不惑を目前にしてハートブレイクした私は、しばらくの間、日々の生活ですら迷わんばかりに心が千々に乱れていたのですが、ある日その演歌の法則に則って行動することを決意し、どうせなら北へ向かうなら最北端の宗谷岬へ行ってやれと、思いつきで飛行機に乗り、極寒の稚内へ向かいました。
 羽田発の 全日空機 降りた時から
 宗谷の街は 雪の中・・・ 

 
まずは稚内空港から稚内駅へ行き、駅前から浜頓別行きの路線バスに乗って・・・


 
寒風吹きすさぶ宗谷岬の日本最北端モニュメントで記念撮影。
実は私、ここを訪れるのは初めてではなく、今回で3度目。しかも、全て失恋と関係しているんですから、自分でも嗤っちゃうほど始末に負えません。なにやってんだ、俺…。
でも、ここから宗谷海峡の対岸に広がる樺太(サハリン)の地が肉眼で見られたのは初めて。島国に住む人間にとって、肉眼で異国を眺める機会なんて滅多にありませんから、海峡の向こうに広がる白い山々の姿にすっかり感動し、恋に破れた心もこの景色を見てすっかり癒されました。



さて、絶景に感動し、そのおかげで哀しい想い出を海峡に流し棄て終えた私は、稚内駅へ戻った後にこの日の宿へ向かうべく…


 
「最北端の線路」の上で停車中の特急「スーパー宗谷」に乗り…


 
2つ目の停車駅である豊富駅で下車しました。


 
氷に包まれた極寒の街、豊富。人っ子一人歩いていない駅前ロータリの上で、ご当地の観光地名を掲げた大きなゲートが、照明で煌々と照らされています。その光にどこか虚しいものを感じつつ、ゲートを眺めながら駅前でしばらく待っていると、ツルッツルのアイスバーンの道を路線バスがやってきました。このバスに乗って向かったのは…


 
豊富温泉です。このブログをご覧の方でしたら、豊富という地名が出てきた時点で、もう既にお気付きですよね。この日お世話になったのは「ニュー温泉閣ホテル」です。お宿の外観は翌朝撮影しました。ホテルと名乗っていますが、実質的にはお手頃価格の温泉旅館であり、ロビーをはじめとした館内に気取った空気は無く、どこかアットホームな佇まいが感じられました。お宿のスタッフさんもみな明るく親切に対応してくださいます。そんな雰囲気のお宿だからか、私が宿泊した日には、工事関係者の利用が多く見られました。


 
今回は2食付きの割安プランでお願いしました。通された客室は8畳の和室。トイレや洗面台などの水回りは共用ですが、冷蔵庫・テレビ・Wifiなどひと通りの設備は備わっており、冷蔵庫の中には冷水がストックされていました。この冷水は、豊富温泉で湯浴みする上で、とっても重要なのです。その理由は後ほど。


 
通常の料金設定より安いプランでお願いしたにもかかわらず、夕食は部屋出しで提供してくれました。温泉旅館によくある豪華な食事が苦手な私は、程々のボリュームで抑えられているこの晩のメニューにほっと安心。程々とはいえ、お刺身・西京漬・風呂吹き大根、そして味噌仕立てのキムチ鍋など、家庭的で十分な量と心温まる味付けに満足し、おかげさまでビールも大変おいしく飲み干すことができました。


 
ちなみにこちらは朝食の様子。朝は会場で他の宿泊客のみなさんといただきます。


 
お食事のお話を済ませたところで、本題のお風呂へと参りましょう。
浴室はフロントから奥へ進んだところにあり、男女別の内湯が一室ずつ用意されています。平成24年に行われた改修工事のおかげで脱衣室内は綺麗にまとめられており、使い勝手も良好でした。


 
浴室も全面タイル張りで実用的ですが、お手入れがしっかりしているのか、綺麗で快適な入浴環境が保たれています。男湯の場合は正面奥に逆さにしたL字型の大きな浴槽がひとつ据えられ、その手前の左右両側に洗い場が配置されています。なお洗い場に設置されているシャワー付きカランの数は計10基で、カランから出てくるお湯は真湯です。



逆さL字型の浴槽は最大寸法で奥行き6m、幅2m弱といったところ。湯船に張られたモスグリーンを帯びたラクダ色のお湯は、底が見えないほど強く濁っています。また浴槽の縁は温泉成分の付着によってデコボコになっており、お湯の濃さがビジュアルからもよく伝わってきます。そして、湯船の湯面を見ますと、ところどころで油膜が浮いていました。


 
温泉成分の影響でベージュ色に濃く染まった湯口からは、加温されたお湯が注がれており、浴槽を満たしたお湯は、壁際の溝へと流れ落ちていました。排湯が流れるその溝は赤茶色に染まっています。お湯の投入量は決して多くないのですが、やや過度に加温されているためか、湯面で適度に冷めることによって湯船ではちょうどよい湯加減になっていました。なお湯使いは放流式のようです。
温泉ファンならご存知の方も多いかと思いますが、豊富温泉は油田の試掘中に湧出した温泉であり、現在のお湯も強い石油臭を発しています。実際に浴室内には鼻をツーンと刺激する石油臭、そしてハロゲン系の臭いやアンモニア臭が漂っており、特に湯口に鼻を近づけると、思わず噎せそうになるほど強い匂いを嗅ぎ取ることができました。お湯を口に含むと大変塩辛く、すぐに真水で口を濯ぎたくなるほどです。湯船に浸かってみますと、ヌルヌルを伴うツルスベ浴感がはっきり肌を覆うほか、若干の引っ掛かりもあり、濃厚なお湯ならではの、一言では表現できない複雑なフィーリングが得られました。また塩辛いお湯ゆえ、湯上がりは強烈に火照り、極寒な時期にもかかわらず、しばらくは発汗が止まりませんでした。上述の客室に関する箇所で、客室の冷蔵庫に用意されている冷水が重要な役目を果たすと申しましたが、湯上がりは強く発汗するので水分補給が欠かせないんですね。さすが豊富のお湯はパワフルです。

お手軽な料金で豊富温泉の濃厚なお湯を楽しめる、アットホームで居心地のよいお宿でした。


R4号井・R1A号井混合
ナトリウム-塩化物温泉 31.5℃ pH7.9 溶存物質12.05g/kg 成分総計12.07g/kg
Na+:4023mg(95.06mval%), NH4+:31.6mg, Mg++:30.3mg, Ca++:80.0mg, Fe++:2.1mg,
Cl-:5438mg(83.05mval%), HCO3-:1866mg(16.73mval%), CO3--:11.3mg,
H2SiO3:38.6mg, HBO2:473.9mg,
(平成21年3月25日)
加温あり(入浴に適した温度に保つため)

JR宗谷本線・豊富駅もしくは幌延駅から沿岸バスの豊富留萌線で「豊富温泉」下車
北海道天塩郡豊富町字豊富温泉  地図
0162-82-1243
ホームページ
 
日帰り入浴11:00~21:00
500円
ロッカー・シャンプー類・ドライヤーあり

私の好み:★★★
コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

虎尾眷村 神風特攻隊と中国国民党の歴史が交錯する廃墟

2016年04月26日 | 台湾
※今回の記事に温泉は登場しません。あしからず。温泉は次回記事までお待ち下さい。

前回記事の続編です。

以前、戦時中の特攻隊に関する書籍を読んでいた時、知覧、万世、健軍など、特攻隊の出撃基地として知られている日本南部の飛行場の他、沖縄から近い台湾の部隊からも出撃が行われていたことを知りました。しかもその基地があった場所のひとつが虎尾。台湾最後の現役サトウキビ列車を見学しに虎尾へ行こうと思いついた時、この虎尾と特攻が関係していることを同時に思い出しました。
そんな折も折、台湾の「自由時報」で「虎尾神風特攻隊軍舍 翻轉新生命/在地青年發起保存運動 獲教部補助」という記事が取り上げられていたのを目にしました。なんと、虎尾で特攻隊として出撃していった兵士たちの兵舎が未だに残っており、しかも現地の方々の手によって保存されようとしているのです。そこで、虎尾に残っている兵舎跡がどうなっているのか、サトウキビ列車の活躍を見学するついでに、現地へ立ち寄ってみることにしました。


●建国一村
 
虎尾の市街地からサトウキビを運ぶトロッコの線路を辿ってゆくと、やがて周囲に菜の花畑が広がり、「建国一村」と呼ばれるエリアに行き着きます。どうやらこの辺りにかつて旧日本軍の兵営があったらしいのですが、そんな場所と「建国」という地名には、一体どんな関係があるのでしょうか。

第二次大戦における日本の敗戦後、日本人は台湾から追い出されましたが、日本人がこれまで暮らしていた民家、ビジネスしていた商店や工場、そして軍が駐留していた兵営などはそのまま残されて、台湾の人々が活用するようになります。第二次大戦が終結した後、中国では国民党と共産党の内戦が激化し、結局、蒋介石率いる国民党の軍隊(国府軍)は敗走を重ねて台湾へと逃げてくるわけですが、九州程度の大きさしかない台湾に、国府軍の兵士やその家族、つまり外省人たちが百万以上の単位で一斉に大陸から大挙してやってくるのですから、台湾側としてはその受け入れに苦慮してしまいます。そこで目をつけたのが、多くの空き家があった旧日本人居住エリア。各都市に存在していた旧日本人居住区に、大陸から逃げてきた外省人たちを住まわせ、居住問題を解決しようとしたのでした。このようにして形成された外省人居住区を台湾では「眷村」と呼んでおり、都市部や軍事施設周辺などを中心に、以前は900近い「眷村」が存在していたんだそうです(旧日本人居住区以外にも「眷村」はつくられました)。でも、その多くは古いままの住宅密集地であり、台湾が急激に経済成長したにもかかわらず、住環境が改善されないまま時代の波に取り残されてします。更には外省人一世の高齢化などの事情もあり、徐々に各地の「眷村」から人々が離れてゆき、マンションに建て替えられたり、あるいは集落そのものが放棄されたりして、現在残っている「眷村」は10ヶ所もないんだそうです。

話は戦時中にさかのぼります。当時の日本では、太平洋戦争の戦況悪化に伴って航空要員を大量に養成する必要性が生まれたため、予科練の卒業生に初歩的な飛行訓練を行う部隊として、昭和19年、虎尾に日本海軍の「虎尾海軍航空隊」が設置されました。虎尾は日本統治時代に砂糖の街として栄えたのですが、実は海軍の街でもあったんですね。はじめのうちは、畑の中につくられた滑走路を、九三式中間練習機、通称「赤とんぼ」が飛んでいたのですが、サイパン陥落をはじめとして南洋の島々が次々にアメリカの手に落ち、沖縄戦に突入すると、いよいよ日本は特攻という最後の手段に打って出ます。虎尾でも訓練飛行なんてしている場合ではなくなり、昭和20年の冬に「虎尾海軍航空隊」は解散され、兵士たちや諸々の設備等は他部隊へ移されることになったのですが、虎尾で訓練して新竹など台湾の他部隊へ移った兵士の一部は、実際に特攻へ動員されることになりました。しかもその当時、既にまともな戦闘機は残っていなかったため、特攻に使われた飛行機は旧式の心細い練習機である「赤とんぼ」。サトウキビ畑が広がる長閑な虎尾の空を飛んでいた「赤とんぼ」に爆薬を積んで、敵艦隊へ突っ込んでいったのです。

戦後に中国国民党が台湾を支配するようになると、虎尾には空軍基地が設けられます。当然ながら大陸から逃げてきた大勢の外省人たちを受け入れる住宅を確保しなければなりませんが、この虎尾においては、残されていた旧日本海軍の虎尾航空隊兵営へ住まわせることになりました。こうして虎尾における外省人居住区「眷村」が形成されていきました。空軍基地のそばという立地ゆえ、この「眷村」に住んだ外省人の多くは国府軍の兵士や軍属、そしてその家族であり、どうしても地区全体に国民党の軍事的なイデオロギーが強くなります。臥薪嘗胆の心境で大陸への反転攻勢を狙っていたわけですから、「眷村」の名前に「建国」という語句を採用したのも、そうした事情によるのでしょう。
それにしても、共産党との戦いに負けて台湾へ逃げてきた国民党の人間は、つい数年前まで日中戦争時に憎き敵として戦った日本軍の兵舎で暮らすことになるのですから、歴史は実に皮肉なものです。戦後、いくら蒋介石が「以徳報怨」と言ったところで、外省人たちが日本人の残り香漂う兵舎に足を踏み入れた時には、忸怩たる思いをしたに相違ありません。

こうした虎尾における旧日本海軍兵舎の歴史を考えた場合、兵士たちや飛行機は、虎尾の兵舎および飛行場から直接特攻へ向かったわけではなく、一旦別の部隊へ移った上で特攻へ飛び立っているのですが、虎尾で訓練を重ねたことは事実ですから、それゆえ虎尾の「眷村」は特攻隊の兵舎でもあったと表現しても、大過は無いんだろうと思われます。

さて、前置きが異常に長くなってしまいましたが、この「建国一村」の中に入ってみましょう。


 
「建国一村」は保存・修繕工事がスタートしたばかり。ゲートには工事車両用の鉄板が敷かれ、ゲート自体もペイントが塗り直されていました。
そのゲートの表側には「齊家報国」「精誠団結」といったイデオロギー的な文言が、内側には「節約儲蓄」「安和楽利」といった生活面の心がけを喚起する文言が、それぞれ記されていました。


 
ゲートから真っ直ぐ伸びる通りは、一見すると美しい街路樹が立ち並んでいるように見えますが、その両側に立ち並ぶ家屋はみんな廃墟となっており、すっかり藪に飲み込まれていました。どの家でも、もう人は住んでいないようです。「建国一村」から北へちょっと行ったところには、90年代まで空軍基地がありましたから、その当時までは空軍関係者が住んでいたのかもしれませんが、基地が廃止されてからもう20年以上も経っていますから、この「眷村」も存在意義を失ってしまったのでしょう。なお、虎尾の空軍基地跡に新設されたのが、高鉄(台湾新幹線)の雲林駅です。


 
 
通りをさらに進んでゆくと、真っ赤な横断幕が掲げられた建物に行き当たりました。ここがネットニュースの記事で紹介されていた再建協会の本部なのでしょう。門には診療所と書かれているので、かつてこの建物はクリニックとして使われていたのでしょう。「服務軍眷」「擁護政府」と大きく朱書きされた外壁には、まだ「眷村」で人々の生活が営まれていた頃の写真が数枚掲示されていました。


 
メインストリートだけでなく、いくつかの路地にも入ってみました。手入れされずに放置されたままの路地は深い藪に覆われつつあり、早くも自然に帰ろうとしています。


 
どの建物も藪に飲み込まれており、どれが日本統治時代の建物なのか、どれが戦後の建物なのか、判然としません。
でも特攻隊として出撃していった兵士たちは、きっとこのエリアのどこかで日々を過ごしながら訓練を積んだのでしょう。



見えにくい画像で申し訳ないのですが、居住区跡の随所で、上画像に写っている亀の甲羅みたいに盛り上がったコンクリの構造物が見られました。これはおそらく防空壕なのでしょうね。


 
 
歩けども歩けども廃墟ばかり。たまに日本家屋っぽい建物を見かけますが、果たして戦前から残っているものであるか否かは不明。
さらに路地を進もうとすると、奥の方からこちらに向かって犬が吠えはじめたので、一旦居住区跡から離れて、畑が広がる方へ進行方向を変えました。



「建国一村」の南側に広がる畑。
この畑のさらに南側には虎尾糖廠へサトウキビを運ぶトロッコの線路が敷かれています。


 
「建国一村」の南に広がる畑のど真ん中。トロッコの線路脇に、コンクリとレンガで造られた高い塔が聳えていました。これは日本統治時代に建てられたものらしく、戦前は砲台として使われていたという説明もあれば、給水塔であったという解説もあります。どうやら実際のところ、塔の内部は3階層になっており、最上層は給水塔として使われ、2階部分は警戒用の櫓のような使われ方をしたようです。たしかに塔の中ほどに大きな穴があけられていますが、これは銃口だったようです。
その一方、塔の上部にはたくさんの細かな凹みがありますよね。これは戦時中に受けた米軍による機銃掃射の跡なんだとか。かつて砂糖工場や海軍飛行場があった虎尾は、昭和20年の終戦間際に米軍の空襲を受けていたんですね。


 
塔の内部はこんな感じ。今では何も使われておらず、ガランとしています。


 
畑の所々には築山と思しき小さな丘が点在しているのですが、そのいずれにも古いコンクリの構造物が付帯していました。防空壕にしては大きいので、おそらく掩体壕、つまり飛行機を隠すためのものだったのでしょう。


●建国二村
 
トロッコの線路をさらに西へたどってゆくと、トロッコの線路と高鐡の高架が交差します。そのちょっと手前には遮断機の無い踏切があり、そこから南へちょっと下ると「建国二村」と呼ばれる「眷村」が広がっています。


 
トロッコの踏切から「建国二村」へ入ってみましょう。このエリアの正門はここではなく、雲林県の県道側に設けられているらしく、私が入ったこのゲートはどうやら裏口みたいです。カメラのレンズが汚れていたため、画像に変な光が紛れ込んでしまい、ごめんなさい。


 
ゲートには歩哨の詰所が建てられており、ゲート門柱の裏側には「教親睦隣」と記されていました。


 
こちらもやはり悉く廃墟と化しており、多数の廃家屋のほか、妻面だけを残して崩壊した大きな建物など、無残な姿と化した建築物が、藪に飲み込まれていました。また私が当地へ足を踏み入れた時、この大きな建物の前に消防車が止まっており、焦げた臭いが辺りに漂っていました。ひと気が無いのにボヤ騒ぎが起きるということは、放火でもされたのでしょうか?
こうした廃墟を再建しようとする活動には、単に史跡を保存するという文化的な意味合いのみならず、治安の維持という現実的な重要目的もあるのですね。


 
こちらも廃墟だらけ。人は住んでいないようです。主を失った人家では、植物が思い思いに枝葉を伸ばしていました。


 
完全に緑に飲み込まれた廃墟。この廃屋は日本家屋のように見えるのですが、果たして戦前から残っているものなのでしょうか。
住宅を囲むコンクリの壁には「実践総裁」と大きく書かれています。ということは、この後には「遺訓」という言葉が続くのかな(実践総裁遺訓。つまり孫文が唱えた三民主義を実践しようということ)。


 

通りを歩いていると、やがて広場にたどり着きました。広場には子供用の遊具やバスケットボールのゴールが放置されていました。ということは、ここには学校に準じた施設でもあったのでしょうか。「健身強国」という語句なんて、まさに青少年向きのスローガンですね。


 
広場のそばには、「建国一村」の南側の畑で見られた塔とほとんど同じ構造をしている塔がそびえていました。また亀の甲羅のような形をした防空壕もはっきりとした形で残っていました。

こうした虎尾の眷村である「建国◯村」は一村から四村まであるのですが、いずれも現在では住民が立ち去り、四村に至っては現在刑務所の敷地の一部になっています。
かつて日本海軍の兵士が練習機「赤とんぼ」で訓練を重ねた虎尾航空隊。その兵士たちは、練習機で特攻へと向かっていきました。
そして戦後、大陸から逃げてきた国民党の外省人たちは、虎尾においては、数年前まで敵として戦っていた日本軍の虎尾航空隊跡地に住むことになりました。それだけではありません。虎尾の「眷村」では、1947年の二二八事件においても、本省人と外省人が激しく対立する血腥い事件が発生したんだそうです。
虎尾の「眷村」には、1945年を軸にしたその前後数年にまつわる台湾の近代史が凝縮しており、特攻隊と外省人国民党、それぞれの歴史と悲哀が複雑に交錯しているように感じられました。現在、虎尾の「眷村」は廃墟となって荒れに荒れていますが、地元の方々の手により少しずつ改修・修復が行われはじめましたので、そうした有志の方々の努力が結実し、いずれは歴史を追体験できるような姿が蘇ることを期待しています。


.
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

台湾最後の現役サトウキビ列車 虎尾糖廠のトロッコ 番外編 虎尾駅跡・虎尾鉄橋

2016年04月25日 | 台湾
※今回と次回記事に温泉は登場しません。あしからず。

記事内容が日本と台湾を行ったり来たりして申し訳ございません。
2016年4月20日付拙ブログ記事「台湾最後の現役サトウキビ列車 虎尾糖廠のトロッコ その5・工場へ向かって走るトロッコ」の続編です。その5では台湾最後のサトウキビ列車が街へ戻ってゆく姿を紹介しましたが、今回はその番外編として、虎尾の鉄道が旅客営業していた頃の名残を追いかけます。


●虎尾駅跡
 
かつて台湾糖業鉄道が網の目のような路線網を有し、サトウキビのみならず旅客も運んでいた頃には、この虎尾の街にもトロッコによる旅客列車が運転されており、斗六や田中などで台鉄の路線と接続していたんだそうです。製糖工場の城下町として発展した虎尾の街に線路が敷設されたのは、当地に製糖工場が建設された日本統治時代。製糖産業の発展とともに虎尾は交通拠点としての役割も果たすようになり、虎尾駅には複数の路線が乗り入れていたんだそうですが、1970年代に旅客営業は廃止されてしまいました。
さて、虎尾市街の中心部にある製糖工場西縁に沿って中山路という通りが南北に伸びているのですが、この通りに面して建つ瓦葺のいかにも古そうな木造建築は、虎尾駅が旅客営業していたころの駅舎跡。旅客営業廃止後は陋屋然としていたんだそうですが、駅舎の歴史的意義が見直されて「歴史建築」に指定され、数年前に綺麗な姿となってリニューアルされたんだそうです。ちなみに台湾文化部文化資産局のサイトによれば、この駅舎は明治時代に建築されたものなんだとか。本当なの?

駅舎入口には「虎尾驛」と書かれたプレートが掲げられていますが、これはリニューアルに際にして新たに取り付けられたものかと思われます。台湾で駅は「站」と表記しますから、敢えて「驛」という字を用いることによって、日本統治時代の面影を再現しようとしているのでしょう。


 
現在の駅舎は観光案内所として活用されているほか、お土産品の物販や喫茶コーナーなどが設けられ、レンタルサイクルなどのサービスも行われています。製糖工場やトロッコを観光の目玉にしようとしている虎尾の街の意気込みが伝わってきます。ちなみに駅舎(つまり観光案内所)のオープンは朝9時です。
駅舎内には旅客営業が行われていた当時の様子を再現すべく、記念撮影用の出札窓口が設けられていました。


 
出札窓口の上には、西螺・北港方面や斗六方面へ向かう列車の時刻表、そして・・・


 
斗六・西螺・北斗・田中など各方面へ接続することを示す路線図や料金表が掲示されていました。


 
駅舎の真裏は現役の製糖工場。広大なトロッコ用のヤードが広がり、何本もの線路が輻輳しています。タイミングが良ければ、サトウキビをたくさん積んだトロッコがこのヤードを走り抜く光景を目にすることができるでしょう。


 

駅舎の裏手、かつてはホームがあったと思しき線路の上には、トロッコ用の小さなSLが静態保存されていました。蒸気ドームに大きく浮かび上がる「車」のエンブレムからもわかるように、このSLは日本車輌(※)で製造されたものなんですね。
(※)日本車輌製造株式会社:日本の鉄道車両メーカーで、今ではJR東海の連結子会社。東海道新幹線の車両をはじめ、小田急のロマンスカーや台鐡のプユマ号などもつくっています。現在は愛知県に工場を有していますが、昭和40年代までは埼玉県の蕨にも生産拠点がありました。

ネットで得られた情報によれば、このSLは1937年(昭和12年)に製造されて虎尾の工場で活躍した後、現役を退いてからは一旦同じ雲林県の斗六へ移され、2010年に再び虎尾に戻り、現在のような形で静態保存されているんだそうです。製造時期から考えると、このSLが製造された場所は埼玉県の蕨工場かもしれません。


●虎尾鉄橋
 
虎尾駅跡を出て中山路を南下し、工場ゲートの前を過ぎて川の方へと歩いてゆきます。工場の敷地に沿って使われなくなった線路が残っており、「鳴」、つまり「警笛鳴らせ」という意味の鉄道標識も立ったままでした。ここでの線路は3本のびていますが、これは線路幅762mmのトロッコと、線路幅1067mmの台鉄の車両を一緒に走らせるためのものです。
線路の先には鉄橋が見えますね。あそこへ行ってみましょう。


 
虎尾に数ある観光名所のひとつであり、且つ雲林県指定の史跡でもある「虎尾鉄橋」に到着です。日本統治時代に架橋されたもので、かつては鉄道専用の鉄橋でしたが、鉄道が廃止されている現在では、線路敷のまま遊歩道として転用されています。また現存する台湾唯一の三線軌条の鉄橋でもあります。


 
一旦鉄橋から離れて全景を捉えてみました。川を渡る一本の橋を対岸までよく観察してみますと、工場に近い手前側から順に、ワーレントラス(大きな三角)、背の低いポニートラス(小さな三角)、それとほぼ同じ高さのプラットトラス(逆ハの字型)、そしてプレートガーダーと、4種類の橋梁が連続していることがわかります。しかも対岸側で連続しているガーダー橋に関しては、貫禄を感じさせるいかにも古そうな部分と、明らかに新しい部分に分かれていることにも気付きます。
橋詰に設置されている解説によれば、イギリスのWestwood, Baillie and Companyによる設計で、大阪の汽車会社が橋梁を製作し、同じく日本企業の黒板組が施工したんだそうです。ちなみに、中央部の背が低いトラス橋は、開業したばかりの東海道本線京都~大阪間で用いられていた橋を移設したものらしく、日本の鉄道史にとっても非常に重要な物件なのであります。


 
では鉄橋の上を歩いてみましょう。もともとは線路ですから、橋には線路と枕木が架かっているばかりなのですが、さすがにそれだけでは隙間だらけで歩道として使えませんから、各枕木の間にグレーチングが敷かれて安全に歩けるようになっていました。
鉄橋が跨ぐこの川の名前は虎尾渓。穏やかな陽気だったこの日は川の流れもゆるやかでしたが、台風で増水すると暴れ川へと変貌しちゃうらしく、この橋はいままで何度も濁流に呑まれて流出する被害に遭っているんだとか。つい4年前の2012年にも台風による水害が発生し、大規模に崩壊して相当部分の橋梁が流出してしまいました。


 
リベットの鋲がたくさん並んでいるいかにも古そうな橋の端(ダジャレになってごめんなさい)には、大きく凹んだ跡が見受けられました。水害の際にひん曲がってしまったのでしょう。鉄橋にリベットでとめられている銘板に注目! 「汽車製造株式会社 大阪 大正二年製造」と記されているではありませんか!
そう、この鉄橋は、大正2年に大阪の汽車製造(またの名を汽車会社)でつくられたんですね。なお汽車製造という会社はその名の通りSLをはじめとした鉄道車両を製造していたメーカーで、つい3~4年前までは東京の地下鉄千代田線でも「汽車会社」のプレートをつけた車両が走っていましたが、会社としては昭和40年代に解散しており、川崎重工に吸収されております。


参考までに、上画像は2007年に、赤坂辺りを走る千代田線車内(東京メトロ6000系)で撮った「汽車会社」の銘板です。「東京」と記されていますが、汽車会社は会社が解散する昭和40年代まで東京・江東区の南砂町にも工場がありました。


 
2012年に発生した水害で鉄橋の一部が流出し、大被害を受けたことは上述した通りですが、鉄橋の歴史的価値を重要視した台湾の方々は元の姿に戻したいと強く願い、2年後の2014年には修復工事がはじめられ、翌年の2015年、修復工事は見事に竣工と相成りました。私が鉄橋の上を歩けたのも修復工事のおかげです。
この工事に際しては行政院の文化部から幾許かのお金が出されたのですが、大半の資金を拠出したのは台湾の大手電炉メーカー東和鋼鉄のCEOである侯王淑さん。文化部が出した予算は200万元ですが、東和鉄鋼が工事のために寄付した額は、なんとその9倍にあたる1800万元(約6500万円)。それだけの価値がこの鉄橋にはあるんだとお考えになったのでしょう。その篤志には大いに感心させられます。鉄橋の手すりに掲示されている東和鉄鋼の銘板は、陽光を受けて燦然と輝いていました。


 
トラス橋上にも橋の歴史や修復工事に関する解説プレートが設置されていました。


 
橋を渡りきった対岸から歩いてきた橋を振り返ると、トラスの向こうに製糖工場の煙突がそびえ立っており、鉄道現役時代は、虎尾鉄橋と製糖工場は切っても切り離せない関係であったことが、一目ですぐに理解できました。鉄橋そのものにも歴史的価値がありますが、砂糖も20世紀の台湾を支えた重要な産業であり、鉄橋の対岸から望めたこの景色は、台湾の近代史そのものを端的に物語っているようでした。

.
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

新湯温泉 くりこま荘

2016年04月23日 | 宮城県
 
前回記事で「駒の湯温泉」の今季オープンに関して紹介しましたので、今回はそのご近所である新湯温泉「くりこま荘」を取り上げます。「駒の湯温泉」へ向かう途中にあり、右手に見える赤い大きな屋根が目印です。宿泊や食事のほか、日帰り入浴も可能です。ちなみに温泉名の新湯は言うまでもなく新しいお湯という意味ですが、新に対する旧あるいは元に相当する存在は、言わずもがな「駒の湯温泉」であります。



玄関ではクマの剥製がお出迎え。お宿を切り盛りしている若夫婦に料金を支払い、廊下を右に折れてどんどん進んでゆくと、その突き当たりに浴室があります。オーナーさんは源義経が大好きなんだそうでして、館内の至る所で義経や判官にまつわる物品やネーミングが見られるのですが、浴室も義経関係の名前になっており、男湯は「義経の湯」、女湯は「静乃湯」と名付けられていました。


 
なお浴室手前のスペースには共用洗面台が設けられており、ドライヤーも用意されています。またこの洗面台の奥には貸切風呂(要別途料金)もあります。


●内湯(男湯)
 
木造の浴室「義経の湯」は日中でも明るさが抑えられ、落ち着いた雰囲気です。室内には湯気と共に温泉の匂いがフンワリと篭っていました。
洗い場にはシャワー付きカランが2基並んでおり、ボイラーの沸し湯が吐出されます。


 
総木造の浴槽は4~5人サイズで、手前側の角が曲線を描いており、ビジュアル的に柔らかな印象を与えてくれます。白い結晶がこびりついた箱状の樋から、加温された温泉が注がれている他、その隣には「冷泉」と書かれたコックも突き出ており、任意でその「冷泉」を投入することもできます。私が訪れた時(2015年)の湯船のお湯は底が見えないほど白濁しており、湯口のお湯からは軟式テニスボールのような硫化水素臭と、ゴムっぽい味が感じられました。


●露天風呂(男湯)
 
男湯の露天風呂「クロベ乃湯」。クロベとは義経関係のワードではなく、栗駒山中に自生する日本一太いクロベ(黒檜・別名ネズコ)の大樹にちなんだネーミングなんだとか。
山の木立ちの中に設けたウッドデッキ上に、小さな四角い総木造の湯船が据え付けられています。標高が高い場所ですからとても爽やかな環境で、私の湯浴み中も四方から小鳥のさえずりが頻りに聞こえてきました。


 
 
露天の浴槽はコンパクトな2人サイズ。木の樋から加温された温泉が注がれている他、冷泉のコックが取り付けられている点も内湯と同様です。またお湯の特徴も内湯と同様です。源泉温度が低いため、内湯・露天ともお湯は加温されていますが、循環や消毒などの無い放流式の湯使いです。弱いながらもゴムのテニスボールみたいな硫黄感を有している他、石膏感もあり、湯船に浸かるとスルスベと引っかかりが混在する浴感が得られました。


●内湯(女湯)
 
先日(2016年4月)の夜、ちょっとした事情があって、特別に女湯「静乃湯」を貸切で使わせていただく機会を得ました。
浴室は男湯とシンメトリーの造りであり、洗い場に取り付けられたシャワーの数も同じです。


 
湯船の造りも男湯と同じで、完全なシンメトリーであり、白い結晶がこびりついた木の樋から加温されたお湯がチョロチョロと注がれている点、そしてその横に「冷泉」のコックが突き出ているのも同じです。

でも前回訪問時と明らかに違うのがお湯の濁り方です。男湯を利用した時、お湯は内湯・露天ともしっかりと白濁していましたが、今回はボンヤリと霞が掛かっている程度で、湯船の底がはっきりと目視できるほどの透明度があります。お湯からはゴムテニスボールのような匂いと石膏のような味が感じられましたが、匂い・味ともに以前よりもマイルドになっているようでした。硫黄泉の濁りはその時々のお湯のコンディションによって異なりますが、単なる状況による相違だけではここまで違いは生じないはずだと思って、帰宅後、前回訪問時に記録した分析書と、今回記録した分析書を見比べたところ、なんと前回訪問時の源泉は1号泉であるのに対し、今回の女湯では3号泉になっていたのでした。しかも3号泉の分析書は2015年11月の分析という新しいもの。ということは使用源泉が変わったのかな。詳しい事情はわかりませんが、図らずも「くりこま荘」で2つの異なる源泉に入ることができたのでした。
なお、男湯同様に女湯にも露天風呂(アズサ乃湯)もありますが、この日は悪天候のためクローズされていました。


●名物「岩魚丼」
 
「くりこま荘」は岩魚料理のお宿でもあります。先日訪問時にはお宿ご自慢の「岩魚丼」をいただきました。宿のすぐ裏に生簀があり、そこから採ったばかりの岩魚をさばいて揚げ、自家製のタレをかけた上で提供されます。イワナは川魚とは思えないほど肉厚で臭みなど全くなく、しかも骨までいただけて実に美味でした。主役の丼のほか、春の彩りを添える山菜の小鉢もおいしかったですよ。このほか「岩魚定食」や「岩魚定食」などもあるんだとか。詳しくは公式サイト(当ページの下部にリンクあり)をご覧ください。

「駒の湯温泉」でひとっ風呂浴びた後は、こちらにも立ち寄ってみてはいかがでしょうか。


1号泉
含硫黄-カルシウム-硫酸塩泉(硫化水素型) 31.6℃ pH5.6 溶存物質1454.0mg/kg 蒸発残留物1546mg/kg 成分総計1554.3mg/kg
Na+:21.0mg(4.38mval%), Mg++:20.0mg(7.93mval%), Ca++:360.8mg(86.54mval%),
Cl-:8.5mg, HS-:0.2mg, S2O3--:<0.1mg, SO4--:943.0mg(97.18mval%), HCO3-:18.3mg,
H2SiO3:72.4mg, CO2:93.9mg, H2S:6.4mg,
(分析:平成18年5月30日、浴用許可:平成18年8月30日)
加水あり(源泉が減少したため)
加温あり(源泉が低温のため常時加温)、循環・消毒なし

3号泉
含硫黄-カルシウム-硫酸塩泉(硫化水素型) 28.6℃ pH5.9 溶存物質1190.1mg/kg 蒸発残留物1205mg/kg 成分総計1251.9mg/kg
Na+:19.2mg(5.16mval%), Mg++:17.4mg(8.79mval%), Ca++:277.4mg(85.06mval%),
Cl-:7.2mg, HS-:0.6mg, S2O3--:0.8mg, SO4--:781.1mg(95.53mval%), HCO3-:30.0mg,
H2SiO3:48.6mg, CO2:52.2mg, H2S:9.6mg,
(分析:平成27年6月27日、浴用許可:平成28年1月8日)
加温あり(源泉が低温のため常時加温)、加水・循環・消毒なし

宮城県栗原市栗駒沼倉耕英東95-2
0228-46-2036
<a href="http://kurikomaso.jp">ホームページ
ホームページ

日帰り入浴10:00~15:00
500円
ロッカー・シャンプー類・ドライヤーあり

私の好み:★★★
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする