kirekoの末路

すこし気をぬくと、すぐ更新をおこたるブロガーたちにおくる

文章修行家さんに40の短文描写お題

2009年01月05日 23時26分09秒 | 短編
てんかす君ところから引っ張ってきた@kirekoです。

>文章修行家さんに40の短文描写お題

http://cistus.blog4.fc2.com/

いわゆる創作お題系。
利用規約はアドレス貼り付けと、設問内容変更無しということ。
字数制限は全て65文字以内(少しはみだしてもOKらしい)。
その他制限は、モノローグや台詞よりも、具体的な描写重視?らしい。
この説明がまずよくわからんが、ようするにお題に沿って、読み手に想像させりゃ良いってことじゃないの?
まー、そんなものは読む人の判断によると思うが、描写重視をとると、65字で語るには難しいので、おそらく縛り内容はブチ破ると思う。
いくら修行だって、自分が出せなきゃ意味がない。
じゃ、やるかい。
(お題目のところに丁寧に行頭一字空けしてるのが、やや気になるが)


==========はじめ===========


 00. お名前とサイト名をどうぞ。また、よろしければなにか一言。

 kirekoの末路。
 おもに物件始末業を営んでおります。

 01. 告白

 言い放ち、眼を閉じた男の期待は、脆くも彼女の一言に崩れた。
 思いやりと拒絶、蜜と毒が交じり合った空白の後、男は泣いた。

(58文字)

 02. 嘘

 ただ逃げて、逃げて、逃げて、逃げて。
 重なり、塗り固めてしまった多くの違う自分は、気付けば大事なものを失っていた。

(56文字)

 03. 卒業

 講堂に集まったものの、どれも青ざめた顔を浮かべる講師たち。
 卒業式に集まった生徒の手には、金属バットと火炎瓶が握られていた。

(61文字)

 04. 旅

 少し左に曲がったレールの上を走る鉄道の窓を見ると、そこには海岸線が見えていた。
 頬を過ぎる冬の乾いた海風と独特の匂いが、旅情への期待を煽る。

(70文字)

 05. 学ぶ

 A4の大学ノートと良く削られて先の尖った鉛筆が、机の上から音をたててこぼれた。
 誰かが言った。
 寝るということは、学ぶ事だと。

(60文字)

 06. 電車

 東京博多間を繋ぐ新幹線のグリーン車には、たまにおかしな客が乗ってくる。
 今日は、一升の米の入った五目釜飯を抱えた大柄の男が乗ってきた。
 ……もう九州場所のシーズンか。

(83文字)

 07. ペット

 服を着ている犬を見ると悲しくなる。
 しかも、飼い主より立派な服を着ているから、なお悲しい。

(44文字)

 08. 癖

 つまらない映画だと人は言う。
 だが、そんな映画こそ見てしまう癖が、僕にはある。
 なぜならそれは、快適な眠りを促すからだ。

(62文字)

 09. おとな

 唇にあたる熱い感触は、少女の体に大人を感じさせた。
 初めての味はレモンではなく、煙草と酒の匂いだった。

(52文字)

 10. 食事

 「食べるという事は、生きる事だ」
 父が新聞紙を抱えながら、母に耳をつままれて言った。

(43文字)

 11. 本

 ペンは剣よりも強い。
 分厚い和英辞書を頭にぶつけた僕は、そう思った。

(36文字)

 12. 夢

 象に追いかけられて、踏み潰される夢を見た。
 半ばうなされたまま目覚めると、掛け布団の下にある、自分の腰から腹にかけて重みを感じた。
 見れば、数十匹の猫が暖をとっていた。

(87文字)

 13. 女と女

 買物途中に出会った、それほど親しくもない隣人を相手にして、どうしてお喋りがとまらないのか。
 女同士とは不思議なものだ。

(61文字)

 14. 手紙

 送り名つきの不幸の手紙を貰った。
 珍しいと思ったので返信したら、不思議な文通が始まった。

(47文字)

 15. 信仰

 牧師が、今日も迷える子羊を相手に、信じる神への信仰を口にした。
 だが、牧師がこの世で本当に信じているのは、自分だけだ。

(66文字)

 16. 遊び

 ボーリングの楽しさとは、スコアを競い合う試合的な楽しさもあるが、実はストライクをとったり、ガーターをとったりした時の、周りの反応こそが醍醐味なのだ。

(77文字、文字かぞえんのめんどくさくなったので以下割愛)

 17. 初体験

 初体験というのは、非常に貴重な体験だ。
 生も死も、一度しか体験できないからこそ、貴重なのだ。

 18. 仕事

 プロ選手にインタビューをする機会があってので、不躾な質問とは思いつつ、どうすればプロになれるか聞いてみたところ、その答えは意外なものだった。
「仕事と思わないことですね」

 19. 化粧

 顔が浮いている。
 それまで化粧をしたことのない女が、白無垢と白粉で着飾って言った。
 
 20. 怒り

 青白い血管は浮き出て、眉は釣りあがり、いつもはつつましく閉じている唇は開け放たれ、白い歯がギチギチと音を立てて威嚇をしている。
 どうやら浮気がバレたようだ。

 21. 神秘

 神秘的な存在。
 逆を言えば、近づきがたいということだ。

 22. 噂

 伝言ゲームというのは、他者に伝えていくうちに、情報がだんだん変化してしまう事が多い。
 誰かの言った虚実を含む噂話もまた、同じではないだろうか。

 23. 彼と彼女

 彼は彼女の細身の体を抱きかかえながら、胸と腕と指……触れた全ての感覚器官に残るその温もりに、一つの幸せを噛み締めた。
 だが同時に、失う怖さを覚えてしまった。
 
 24. 悲しみ

 大人は我慢しているのではない。
 たとえ思っていたとしても、どこかで無駄な事だと、割り切ってしまっているのだ。

 25. 生

 科学的な消毒の匂いが蔓延する分娩室で、今日も医師たちの努力が実り、新たな命が誕生する。
 医師は言った、ここで交わされる全ての声は、生の息吹と同じだと。

 26. 死

 燻っては消える焼香の煙と、喪服の袖を泣き濡らす参列者の前に、百合の敷き詰められた棺桶が運ばれ、ついに安らかな死に顔が見えていた小窓が閉じた。
 例えば死が平等であったとしても、その悲しみは平等ではない。
 その時、気丈に振舞っていた喪主のから、薄らと涙がこぼれるのが見えた。

 27. 芝居

 しばらくの休憩時間を挟んで、若い頃と変わらない意気盛んな役者たちが、また舞台に踊り出る。
 現場復帰、再チャレンジとは、良く言ったものだ。

 28. 体

 これでもかと並べられた大きな器たちと、その上に乗る殺人的な量の料理。
 見れば見るほど体の中から、熱いものがこみ上げてくる。

 29. 感謝

 ありがとう、という言葉を口にするのは大して難しくない。
 その裏にある感謝の気持ちが伝わるかどうかが、難しいのだ。

 30. イベント

 すし詰め状態のままイベント会場に入ると、中は灼熱の砂漠か、鬱蒼としたジャングルか、とても普通とは思えない異様な熱気に包まれていた。
 数分後、人気歌手が躍り出てくると、そこは、阿鼻叫喚の地獄と化した。

 31. やわらかさ

 手の平に納まる、ふわりとした感覚。
 突けば少々の弾力が指の運動に反発して残り、グッと触ればやわらかく、官能的な感触とともに、甘い匂いが鼻をくすぐる。
 私は、蒸しパンが好きだ。

 32. 痛み

 歯医者が手馴れた手つきで患者の歯をドリルでこそぐ時、実際神経を通して感じる痛み以上のものがある。
 その要因は、口腔内に流れるあの摩擦音と、舌に薄らと感じる血と鉄の味だと私は思う。

 33. 好き

 一緒に歩く事も、手の平に触れる事も、腕を組んではにかむ事も、瞳を閉じて唇を重ねることも、互いに好きという感情の確認には、まだ足りない。

 34. 今昔(いまむかし)

 昔、募る想いをひた隠しに覗いていた美人が、今、同窓会を経て見る影もないというのは、淡い想いへの悲しい事実であり、伝えなくて良かったという打算的で嬉しい事実でもあるのではないだろうか。

 35. 渇き

 一昔前、砂漠で売られる水の価格は、同じ重さの金塊と同等だったという。
 人の渇きとは、物の価値を吊り上げる効果があることを、大きな金塊を手にしながら、水売りの男は知った。

 36. 浪漫

「皆と一緒にいたい」
 酒の席で、もし明日世界が終わるとして、その最期に何をするかという話をしていたとき、末席に座る、いつも目立たず、こういう席でも余り自分を出さない同僚が、そんな言葉を口にした。

 37. 季節

 春は桜、夏は海、秋は枯れ葉、冬は雪。
 はたして実際そうなのだろうかと言われると、疑問を持つところが多いが、とかくイメージというのは、恐ろしい物である。

 38. 別れ

 たった一つのすれ違いから、互いの心が徐々に見えなくなって、結果、涙目で僕の胸の中に沈む彼女が、涙で濡れた口調で一言、別れたい、と言った。
 その言葉を重みは、それまで固めていた僕の意志を崩壊させた。
 そして感情のまま、そんなの嫌だ、と答えた。

 39. 欲

「誰かの愛が欲しかった」
 地位と名声、この世の権力という権力を欲しいままにした老人が、広い病室のベッドの上で、誰にも看取られず最後を迎えようとした時、彼は叶えられなかった欲を静かに打ち明けた。

 40. 贈り物

 色彩豊かなリボンを体に巻きつけた女が頬を桃色に染めて照れながら、贈りものだ、と言って男の前に出た。
 男は、気持ちは嬉しいが解くのがめんどくせえ、と頭を掻きながら女を強く抱きしめた。


==========終わり============

>雑感

つかれた。
文字制限云々もあるけど、これおそらく修行にならないな。
だって、結局お題やってるのと同じ感覚なんだもの。
きれこ。

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短編:ニメとツバメと、あと一人

2008年12月09日 01時47分53秒 | 短編
『ニメとツバメと、あと一人』


「どうしてニメさんは、あんな事を言ったんだろう」
 二十歳を迎えた近野ツバメは、鼻に微かな彼女の残り香を感じながら、安アパートの一角で、ただ悶々としていた。
 ツバメと歳は同じ、背格好はツバメより小さい、だけど何故か、自分より手慣れた大人を感じさせる、そんな魅力的な女性。思い人、坂下ニメへの抗えない恋愛感情は増すばかり。
(……どうにか、してくれる?)
 誘惑されて理性が飛び、ただ己の熱情に駆られて、ニメとしてしまった初めてのキス。
 そして、その後の『大人の階段』手前の行動を思い出せば、沸騰するほど頬が熱くなり、何とも言えない満たされた気持ちになる。
 だが、そんなツバメにも一つ、疑問があった。
「あの時ハト時計がならなかったら、ニメさんは本当に僕を受け入れてくれたんだろうか。ううん、それより、ニメさんが言った、デートの相手って……」
 あの時。
 大胆なニメの甘い言葉にそそのかされて、ツバメの理性のブレーキは壊れていた。
 ツバメが感情に任せて行動に移ろうとした時、ニメは部屋にあったハト時計の音を聞いて、幾つかの素っ気無い言葉を残し、期待に胸膨らますツバメを置いて、そそくさと部屋を出て行ったのだ。
 ツバメの思い人。他ならぬニメの方から誘ってきたはずなのに、ツバメは彼女の言った「デートの相手」が気になっていた。その時、始まるはずだった、互いの愛欲を確認する行為を前に、肩透かしを食らったような他の男の存在を意味する、「デート」という言葉。
 そしてニメが部屋を出る前に言った、最後の言葉。
「嘘つきだけど、好き。って、どういう事なんだ……」
 ツバメは明らかに混乱していた。
 思い返せば、まだ唇に残る小悪魔のぬくもりと、微かに香る彼女の匂いを頼りに、ツバメはベッドの上に寝転びながら、ありもしない妄想を始めた。

 実はニメは、ああ見えて純潔で、最期までするのが怖くなって、あんな嘘を言ったのでは。
 実はニメは、ああ見えて雰囲気を大事にするタイプで、ハト時計に雰囲気をぶち壊されたのを怒っているのでは。
 実はニメは、ああ見えて純情で、結婚するまでそういう行為は親に禁止されているとかなんじゃ。
 ……実はニメは、ああ見えて性悪で、他の男との約束の前に、俺をからかって面白がっていたんじゃ。 

「考えれば考えるほど嫌な気持ちだ。こんな事なら、あんな事無かった方が良かった」
 ツバメはそう言ったが、脳裏には彼女のぬくもりと匂いが鮮明に焼きついており、消そうと思っても消えない記憶の一部は、眼を閉じれば明確に見えてくる。初めてマジマジと見たニメの顔、直に触れたニメの肌、耳元で聞こえた誘うようなニメの声。ただ上ずった声をあげ、終始オドオドしていたツバメとは違い、ニメのそれはどれも甘美で、刺激的。
 ニメという女性の全てを愛してしまった、ツバメという愚かな男は、彼女へ悶々とした気持ちを覚えながらも、何をして良いのかわからず、今また愚かな行動に及ぶ。
 携帯は無造作にニメの番号……ではなく、一学年上の先輩、カナメにかけられていた。


――――

「お、やっと来たのねツバメ君」
「す、すいません。夜分遅くに呼びつけちゃって」
「良いの良いの。相方がぶっ倒れちゃって、ちょうど暇してたとこなのよ。で、話したいことって何? 前に言ってた好きな子がどうとかって話?」
「ええ、まあ……」
 次の日が休講ということもあり、カナメは今日も自分のエスコート役を連れて、気に入りのショットバーに入店していた。
 どんなに高いアルコール度数を誇る酒も、水のようにケロッと飲むので有名な酒豪、学年一の女傑と謳われるカナメの相手をし、酔いつぶれてしまったエスコート役の男性を尻目に、ツバメはクリーム色のコートを椅子にかけ、カナメの隣に座った。
 そして、今日ニメがとった行動について、今自分が思っている事について、取り留めのない相談をニ、三、繰り返した。
「あー、ニメちゃん? んー、あの子は学年上の男どもの話でも、あんまり良い噂は聞かないわね」
 新たに運ばれてきたモスコミュールを間髪いれずに飲み干すと、カナメは似合いの眼鏡をクイッと持ち上げ、虚ろでぼやけた焦点を隣に座るツバメに向ける。
「で、ツバメ君は恋をしちゃったニメちゃんにお預けくらって、悶々としちゃってるという訳ね。おもに下半身が」
「かっ、下半身って! カナメさんには、僕がそんな男に見えますか!」
 気恥ずかしさからか、ツバメは慌てて椅子から背を離し、カナメに向かって否定の言葉を投げかけた。
 だが、カナメはまるで動じていない。むしろ、運ばれてきた新しいカクテルを手に取り、顔を真っ赤にするツバメを前にして、笑っている。
「はっはっは、見える見える。もう少しでニメちゃんと最期までデキたのに、悔しいって顔に書いてあるよ」
「な、何言ってるんですか! カナメさんは知ってるでしょ。僕が恋愛一つまともにした事がないって、だから僕はニメさんのとった行動について、知りたいですよ! か、下半身とか……そういうのは抜きで!」
「やれやれ、そんな事言われてもね。説得力ないよなぁ」
「何がですか! 僕は純粋にニメさんのことが……」
「だからさ。ニメちゃんに、期待しちゃってるんでしょ。それ」
 少し酒の入ったツバメの語調は、いつになく強かったが、カナメが指でニ回ツバメの下半身のある箇所を指すと、ツバメは何かを隠すように慌てて椅子に座り、恥ずかしさの余りアワアワと口ごもったあげく、そのまま笑顔を浮かべてカクテルを煽るカナメの顔も見ず、押し黙った。
 カナメに話をするうちに、あの時ニメとしたことを思い出して、ある部分が思いがけず『隆起』してしまっていたのだ。
 いくら良く知る先輩のカナメだからと言って、女性に男の生理現象を指摘されるのは、この上もなく恥ずかしい。顔を真っ赤にし恥ずかしさを堪えるツバメ、それをカクテルを煽りながらケタケタと笑うカナメ。
 深い夜に入るショットバーのカウンターで、隣同士の対照比。
 口を先に開いたのは、やはりカナメだった。
「ウブねえ。あの子に……ニメちゃんに、そんなに期待しちゃったわけ?」
「……」
 ツバメは頭の中で、台形の面積の求め方を繰り返し唱えて、下半身の一刻も早い納まりを念じながら、カナメの呟きを耳に入れていく。
「まっ、確かに可愛い子だとは思うけどね。やめといたほうが良いと思うよ」
「……なんでですか」
 ツバメは、呪文を唱えながら質問する。
 カナメは、カクテルグラスの遠くに映る酒瓶を、眼鏡の奥の細目で覗きながら、言い難そうに、こう口ずさんだ。
「そりゃあんた。なんていうか、その……。ツバメ君みたいなウブな子には、不釣合いだよ。あの子は特に」
 その時のカナメの歯切れの悪い言葉を聞いて、ツバメは一つ思い出した。
 そう、部屋を出る時にニメが言った、他の男の存在を感じさせた、デートの事だ。
「も、もしかして……」
 ツバメの怪訝そうな表情を察しながら、まだカクテルグラス越しに、遠くを見つめるカナメ。
「知ってるんですか? ニメさんが……彼女が……付き合ってる人の事」
 カナメはツバメの声を聞く前に、見つめていたカクテルグラスを、己の口の中へと煽った。
 気付けばツバメが来てから、彼女が注文したカクテルも、六杯目を数えていた。
「カナメさん……知ってるんですね。ニメさんが、デートするって言ってた人の事」
「知ってどうすんのさ。ウブなツバメ君には、少し刺激が強すぎる内容なんだよ?」
 口ぶりからして、カナメは確実に知っている風だ。
 だからこそ、ツバメは気になってしまう。
「それに、知ったらツバメ君も私も不幸になる。お互いに損するのなんて、馬鹿らしいじゃない?」
「……」
 ツバメは押し黙りながらも、心は憤慨していた。
 誰だ。
 愛しいニメの心を奪って、僕から遠ざけるのは一体誰だ。
 あの顔を、あの肌を、あの声を、あの心を、自由に奪って弄んで、ただ一人ニメ自身から愛する事を許された、その男は誰だ。
 カナメの煮え切らない言葉を聞けば聞くほど、ツバメの心は、まだ顔をあわせたこともない、ニメを奪った男への憎しみと嫉妬に支配されていく。
「言ってくださいよカナメさん。僕は、覚悟してますから。言ってくださいよ」
 ツバメの口ぶりは、いつになく饒舌で、強い。
 気迫の内から禍々しい殺意さえ感じさせる、冷徹なる意思こそが、今、愛を失いかけたツバメを支えている、何か。
「うーん、私の口からは言い難いんだけどねえ……」
 と、迫るツバメの勢いに負け、カナメが言おうとした、その時であった。

バァン!!

「あっ! カナメお姉さま、こんなとこに居たのね! もう探したんだから!」
 ショットバーの扉を、ぶち破らんがばかりの勢いで入店してきたのは、コートを翻し、マフラーを首に巻きつけ、細い足に力強くブーツを履きこんだ、渦中の人物、坂下ニメ、その人だった。
「に、ニメさん!?」
「ありゃりゃ。見つかっちゃったわ」
「お姉さまっ! 私を寒空の下に置いて、何処か行くなんて、酷いです!」
 まさかのニメの登場にさっきまでの迫力は何処吹く風で驚くツバメ、しまったと頭を抱えるカナメ、そして泣きそうな顔で怒り、カナメの席へと近づいてくるニメ。
「でも、そんなカナメお姉さまの冷たいところも、好きーっ」
 二メの泣き顔は、頭を抱えるカナメの姿を見て一変し、つぶらな眼を閉じて、カナメの背を抱く。
 カナメは、背中に当たる二メの胸板を感じながら、ただ横で呆然とするツバメを見て、バツが悪そうに、こう言った。
「まあ、そういうわけなんだ。ごめんね。ツバメ君」
「えっ!?」
「カナメお姉さまー今度こそデートしてくださいねー!」
「えっ!?」
 ツバメは、それぞれが投げかける言葉の情報量の多さに、何処から突っ込んで良いかわからなくなった。
 目の前には、今まで見たこともない、子どものようにカナメにせっつく二メと、眼鏡の内にクールさを秘めるカナメの、ニメへのニヒルな視線、そこに隠されたこそばゆい笑顔。
 超高速に情報処理を続けていたツバメは、それを見て何かを察した。
 ツバメを誘惑したニメが、出て行く時に言ったデートの相手はカナメで、ツバメはニメに、ニメはカナメに、恋をしていたという事。
 全ての謎が解けて、全ての疑問が消えたその時、ショットバーに、男の奇声があがった。

「ええええっ!? そういうことーーーっ!?」

 近野ツバメ、二十歳。
 彼の苦労は、まだまだまだ続く。



=======================

>後書き

この話の大本は、これ
個人的な感想よりも、返答代わりに短編書いたほうが早い……いや、
仕返しのカウンタージャブ代わりになって調度良い
と、思いまして、ちょっと手早く仕上げた次第でござい。
続編と言いつつも、完全kirekoテイストになっているので、
設定読み間違えとかあったら、教えてくれるとありがたい。

以上。
寝るわよ!


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短編:『手紙の返事』

2008年11月27日 18時13分51秒 | 短編
『手紙の返事』

 手紙、意外と速く届きました。
 ありがとう。って、実際会って言葉にする時は言いやすいんですが、こうやって手紙に書くのは結構恥ずかしいですね。
 伝えたい事を文字にするのがこんなに難しいものだとは思いませんでした。
 なんだか慣れなくて、むず痒くて、気に入りの万年筆が駄々を捏ねてやりにくいですが、せっかくもらった手紙の返事を精一杯頑張ってみます。
 ちなみに、手紙を書きだしてからもう1時間は経ってます。
 書き直していたら、あっという間に屑入れが満杯になりました。
 これは、19枚目の僕の気持ちです。
 あ、笑わないでくださいよ。

 どうやら手紙の内容を見る限り、新しい町の生活に慣れているようで、一安心しました。
 アナタは陽の光りのように温和で、人に好かれる性格だと知っていますし、花のような可憐さを持ったアナタに優しくしない人は居ないと思いますが、やっぱり近くに居ないと心配です。
 自由に空を飛びまわる鳥のような奔放なアナタの姿を思い浮かべると、時々、嫌な事を考えたりします。
 夜空に浮かぶ月が満ちて、欠けて消えてゆく間に、アナタに嫌われてしまうんじゃないかって。
 だから、本当の事を言えば、今すぐに会いたいです。
 アナタに会って、目で見て、声を聞いて、手に触れて、僕の心に閉って随分溜まった言葉を全て受け取って欲しいです。
 アナタが僕を必要とし、僕を光だと言うように、僕もアナタを必要とし、アナタを光だと思っています。
 無くしたらダメなんです。互いは互いを必要としているから。
 もしかしたら僕らは、大きな風が吹けば消えてしまいそうな、寄り添うちっぽけな火の一つなのかもしれません。 
 ごめんなさい。なんか言い方がキザですね。
 でも、キザって言われて、嫌われても別に構いません。
 この19枚目の手紙を書く僕が、今思っている正直な気持ちなんです。

 そうそう。こっちにはまだ、雪は降ってないです。
 でも、肩を通り過ぎる風も、触る水も冷たく感じて、季節は真っ直ぐ冬に向かって、見えない時の流れが、僕の周りを立ち止まることなく流れているような気がします。
 これから寒くなっていきますが、僕がアナタに会えない思いを告げるまで、体に気をつけてください。
 あと、できればクリスマスの日は空けておいて下さい。


【了】




=========ここまで縛りプレイ==========


>はい、というわけで

三面相君が自主的にやってくれた
「10のキーワードで縛りプレイ」した手紙話の設定と縛りに則って
こちらも10のキーワードを使って勢いのまま手紙の返事を書きました。
一応、元記事を読まないでも読める内容になっていると思いますが
やはり手紙で、話を作るというのは、読む人の想像力と、
書き手の表現力が、全てな気がします。
ナルシストが嫌いな人は、たぶん読めない話だと思います。

ちなみに元記事はこちら。
http://blog.goo.ne.jp/kireko1564213/e/f768be5fed480e13219d8733785d8563

※今回使ったキーワード
『雪』『月』『花』『鳥』『風』『無』『光』『水』『火』『時』


手紙があって、その返事であるという部分で、かなり難しい話だと思いますが、
送るほうの気持ちなら、意外と簡単に出来る気がします。

というわけで、縛りプレイ云々は別として、
手紙形式という形で誰か多人数参加型リレーでもやりませんか。


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短編:『アブノーマル』-③

2008年10月18日 00時07分29秒 | 短編
――――

「……またのご来店をお待ちしております」

 フランケンシュタインに見送られながら、僕たちは店を出た。
 時計を見れば、時刻は午後九時三十七分を指していた。
 帰る先は、首都圏にある社宅と、女性一人でも住める防犯意識が行き届いた郊外のマンション。互いに一人暮らししている僕たちの住む場所は、まったくの逆方向なのだが、帰る駅は同じ、使う路線も同じだった。駅まで十分程度の短い道のりを、会話を続けながら僕らは歩く。
 しかし、まだ、僕は彼に「すき」を言えないでいる。

「真央さん、そろそろ駅ですよ」
「あ、ああ」
 気付けば言葉の後に、もうついてしまったか、と付きそうなぐらい自然に残念そうな表情をしていた。
 色々思うところはあったが、結局彼との時間は楽しかったのだ。それだけに、彼の「好き」に「すき」と応えられない自分の不甲斐なさに少し落ち込む。
 でも、まだ日にちはある。今日、「すき」と言えなくても、来週。来週、「すき」と言えなくても、再来週。彼と僕が、恋人であり、普通に生きている限り、言うチャンスは幾らでもある。だから別に、今日言わなくても良いんだ。いつか言えばいい。そうだ、そうなんだ。もしかしたら、彼の言葉一つで、何もこんなに緊張することもなかったのかも知れない。
 そう思うと、いくらか僕の気持ちにも余裕が生まれてくるものだ。
 緊張の解れが、楽しい時間を少しでも楽しもうという素直さを引き出してくれる。
「帰りの電車まで、少し時間があるな。なあ、中島君、その……なんだ……電車一本遅らせてくれないか?」
「別に僕は近いから良いですけど、どうしたんですか?」
「もう少し、落ち着いて君と話をしたいなと思って」
「わかりました。僕も、もうちょっと真央さんと話したいなと思ってたんですよ」
 不思議な距離感のある二人の関係が、やっと同じ位置に戻った感じだ。
 僕たちは人ごみを避け、線路沿いにある駅近くのシャッターの閉まった菓子商店の前で話すことにした。

ゴトン

「このメーカーのミルクティー、真央さん好きでしたよね」
「ああ、そうそう。これのホットが、この秋口には一番だよ」
 僕は彼の手に二本抱えられたプルタブ式のスチール缶に入ったホットミルクティーを、地肌では火傷してしまうからと、スーツの両手の袖を伸ばして、まるで殿様から大層な褒美でも貰うように受け取った。受け取った時、彼は僕を見て笑った。僕の何が面白かったのか、理解はできなかったが、彼の微笑を引き出すに値する事を僕はやったらしい。こういう小さな事に笑っている彼の顔を見るたび、僕は安心してしまう。
 辺りには涼しいというより、少し寒い風がふいていた。彼と僕の口からは、喋るたびに白い息が出ているのが見える。袖で持ったホットミルクティーを体で包むように抱えながら、飲む適温になるまで待っていた僕の隣で、パカンっと缶のプルタブを空ける音がする。
「やっぱり俺には大分甘い味です、これ」
「そうかい?」
 前に聞いた話だが、彼は甘い物は余り得意ではないらしい。随時飲むものはコーヒーだし、洋菓子と一緒にコーヒーを飲むのは邪道だと言い切る、硬派なコーヒー党でもある彼の、ゴクリと喉のなる音を近くで聞きながら、僕もプルタブを空ける。
 袖で器用に缶を傾けて、ゴクッと、一口飲んでみる。
 暖かい液体が、食道を通って胃に染み渡る前に、甘ったるくて、充足を促す匂いが、僕の鼻腔をつつき、立ち昇る暖かい空気が、僕の眼鏡を少し曇らす。
「ふー、落ち着く。最後のティラミスがちょっと苦かったから、僕には丁度良いよ」
「それは良かった。真央さん食事してるとき、なんだか思い詰めてたみたいだから」
「そ、そんなこと」
「またまた。僕にはわかりますよ。真央さん、何かを言おうとして迷ってた」
 ギクりと僕の胸を射す彼の勘の鋭さ。僕の態度がわかりやすかったのかもしれないが、おそらく同姓なら、彼の勘は相当鋭いほうじゃないんだろうか。こんな普通じゃない僕の行動や仕草を、ここまで理解しているのも、凄いことだと思う。
 しかし何故、その鋭さを、僕が食事の時に言った一言に生かせなかったのか。
 僕は、今じゃないだろ、と言いそうになってしまった気持ちを、熱いミルクティーを含んで濁す。
「無理して言わなくてもいいですよ。俺だって、真央さんに隠してる事ありますから」
「いや、だから。君が推測している何かを言おうなんて、僕はしてないよ」
 僕は嘘をつき、突かれた真実の隠蔽に奔走した。
 それまで商店のシャッターを背中に、正面を向きながら喋っていた僕だが、弁解の真実味を増すために、横にいる彼の顔を見て話そうとして振り返ると、なぜか彼はいつになく切ない顔していた。
「そうですか。じゃあ俺の勘違いですね。真央さんに隠し事があったら、俺の隠し事も言おうと思ってたのに」
「僕は君に隠し事をするわけないじゃないか。……でも、気になるな。なんだい、その君の隠し事って」
 嘘で固めた自分の気持ちの隠蔽にばかり気がいってしまっていたが、彼の言う隠し事に興味がわいた僕は、思い切って彼に尋ねる。彼は、缶に入った甘いミルクティーをグイッと飲むと、自販機の横に設置してあるゴミ箱に空になった缶を投入した。
「僕の隠し事。そんなに知りたいですか?」
「あ、ああ。出来るなら知りたいね」
 それまでにこやかだった彼の目じりと眉、そして唇が、妙に強張るのが見えた。
 何を言うつもりなんだろうか。
「俺が何を言っても、後悔しませんね。真央さん」
「あ、ああ」
 僕の前に一歩彼が進むだけで、伝わってくる雰囲気の違い。
 真面目なのは知っているが、この真剣さはなんだ。いつもと違う彼の気迫は、僕の心を動揺させる。
「俺と真央さんが付き合って五ヶ月たちましたよね」
「う、うん」
「俺は真央さんにとって、恋人ですよね」
「ああ、そうだ」
「俺は真央さんにとって、かけがえの無い人ですよね」
「えっ、あ、う、うん。たぶん、そうだと思う」
 言い切れない、たぶんという僕の声を聞いた彼は、何かが吹っ切れたように言う。
「たぶんじゃ駄目だ! たぶんじゃ嫌だ!」
 僕は、その声に驚いた。
 彼がこんなに声を張り上げたのは、付き合って初めてだ。
 子どものように純粋な、理性で感情を抑えることが出来ない声。何かを得ようと、駄々をこねるというわけじゃないが、それに近い思いは、声の強さに伝わって、僕の心と耳を刺激する。
「俺は真央さんの事をかけがえのない人だと思っているから、真央さんも俺のことをかけがえのない人と思ってくれないと、俺は……俺は、心配なんです!」
「お、落ち着いてくれ中島君。冷静に、冷静に」
 なだめようとする僕の声は、すでに彼に届いているのかわからなかった。
 そして彼は、眼鏡の奥の僕の黒い瞳を直視しながら、強く言った。
「……あと三日もすれば、真央さんと会えない、遠くに行っちゃうんですよ、俺は!」

ガッシャァァン!

 僕の背にあった商店のシャッターが大きな音をたてて揺れる。
 その原因は、彼が僕を逃がさないように両手をシャッターに思い切り突き立てたからだ。
 僕を覗く彼の姿に、普段の生真面目で好感の持てる、にこやかな微笑みなどない。あるのは、何かしら必死さを思わせる、焦燥というべき焦りの感情が爆発したものだった。
 しかし、僕には彼が焦りを示す理由、それが何だかわからなかった。
 怒ったような、悲しいような、切ない表情を浮かべる彼にそれを質問するのはどうかと思ったが、こうなっては仕方がない。僕も聞きたいことは、全部聞こう。
「な、中島君。遠くに行くって、どういうこと?」
「食事の時言ったでしょ、俺の配属先が変わったって」
「言ってたけど……」
「直属の上司が馬鹿やらかして、その部下の俺が署内での居所が無くなって、配属先、遠くになっちゃったんですよ」
「ち、ちなみにそこは何処なんだ?」
「北の北です……ここから新幹線で片道三時間。しかも主要駅から交通整備の状況が悪くて、殆ど陸の孤島って場所ですよ……」
「なんだって、それじゃあ」
 僕が言う前より早く、彼のほうが痺れを切らしていた。
「だから真央さんから聞きたいんです! 俺をどう思ってるか、どう思われてるのか! このまま付き合って良いのか、悪いのか! 真央さんの顔で、真央さんの声で、真央さんの素直な心で聞きたいんですよ!」
「そんなこと言われたって……僕は」
 普通の恋愛なんてしたことない僕が、そんな突然に、滑るように愛の言葉を言えるわけないじゃないか。
 僕にもあった、この付かず離れずの不思議な距離感を保つ関係に抱く、確かな不安は、彼にもあったという事実が、僕の心を揺さぶる。しかし、彼の現実は待ってくれない。だから彼も微笑みの裏で、確認するために焦っていたのだ。それが示せる時間が今日だけであり、今この瞬間しかチャンスが無いことが、僕には急すぎて信じられなかった。
「もう待てないんです! 俺はもう真央さんが言うのを、待てないんです!」
「……」
 ここまで言われても、僕は眼をそむけてしまう。
 しかし、もう僕が逃げこめる場所と時間はない。
 彼の真剣さに対して僕が黙ったり、何処かへ逃げ込んだり、誠意もなく曖昧に応えたら、それこそきっと、彼は気を使って僕の手から離れてしまう。実際距離は届くかもしれないが、心の距離は永遠に、永遠に届かなくなる。
 これが、最期なんだ。
 これが、本当に最期なんだ。
 何度も自己暗示をかけて自分を追い込み、彼を目の前にして、たった一言を言い切る勇気をひねり出す。
「真央さん……」
 吐息を潰したような、切ない篭った声が、シャッターに手をつきながら、俯く彼の口から小さく放たれた。
 刻一刻と流れる僕と過ごす夜の時間は、彼にとって焦りを増徴させる止め処ない麻薬のようなもの。
 彼の感情の爆発が引き、僕と彼の心の距離が永遠に開くまで、もう時間は無い。
 物語のシンデレラと同じ、十二時の鐘が鳴れば、僕らの魔法はとけるのだ。
 その鐘を鳴らすのは、誰でもない。
 僕だ。
「すっ……ぃ……」
 それでもまだ、僕の思いは口を伝わってでない。
 僕は不甲斐ない自分を呪った。そして自分の体に鞭を入れるように、自分の心にキツイ言葉を投げつけた。
 洗面台の鏡の前で練習したことなど忘れろ。頬の火照りを感じさせる羞恥心など捨てるんだ。
 音をつめて、そう聞こえるようにした偽物の言葉と、誰かが聞いてると思ってすぼめた感情なんかじゃ、真剣な彼に伝わるはずが無い。
 言うんだ、僕は、彼に。
 たった二つの音で伝えられる、思っている事を。
「すっ……」

「真央さん、すいませんでした。もう、やめます俺。これ以上やったら無理矢理言わせてるのと同じです。真央さんを苦しめたら元も子もない」
 僕が言うよりも早く、俯く彼が乾いた微笑みを僕に当てた。そして、商店のシャッターに突っ張った自分の手をどけると、彼は申し訳なさそうに振り返り、寂しそうに小さくなった背を僕に見せる。
 鐘は鳴ってしまった。魔法は解けた。
 シンデレラは、ガラスの靴も残さず、僕の前から去ろうとしていた。
「はは、じゃあ。今日はこの辺で。真央さん、このごろ寒いですから。風邪なんかひかないでくださいよ」
 彼が行ってしまう。遠くへ。
「ああ、そうそう。僕の送別の時間はメール送りますけど、無理しなくていいですよ」
 嫌だ。行かせるものか。
「じゃあ、さようなら……」
 それまで知らなかった感情を僕に初めて教えてくれた人は、君以外に居ない。
 これからも、居ない気がする。
 いや、居ないんだ!
「えっ?」
 彼を失う寂しさとか、消失感とか、そんな何かを考える前に、体が彼を追いかけていた。
 足早に走る手には、すっかり冷え切ったミルクティーと、彼の手首がガッシリとつかまれていた。
 僕は、もう何処にも逃げない。


「僕は……誰よりも君のことが好きだッ!!」


 彼は僕の言葉に振り返った。
 その顔は二十歳を超えたというのに、年甲斐もなくボロボロと泣いていた。
 線路の奥から電車が猛スピードで過ぎ、爆音めいた音と振動が辺りには鳴り響いた。
 だが、僕の言葉は確実に、彼に伝わった。

――――

「真央さん次の電車が来るまで、後三十分もありますよ」
「今日は新記録続きだな」
「新記録? ああ、退社時間のことですか」
「退社時間と、電車を使って帰る時間、そして君と会っている時間も、新記録だ」
 場所を変え、すっかり閑散となった駅のホームのベンチに座る二人。
 気持ちの告白は、僕の心を魔法のように取り替えた。それまで恥ずかしくていえなかったことも、スラスラ出てくるようになり、やっと二人は、普通の恋人同士になれた気がした。
「良い顔になりましたね。俺の好きな真央さんは、そうであって欲しいです」
「何を言ってるんだ。君だって、相当無理して顔つくってたんだろ」
「へへへ、バレました?」
「当たり前だ。君に僕の動揺がわかってしまうように、僕も君の変なところぐらいわかる」
 聞いてみれば、実は彼も、この不思議な距離感を持つ関係が好きなんだそうだ。
 これには彼の過去の恋愛経験が関係している。彼は、前に劇団員の女優と恋に落ちたことがあり、その女性から真面目な雰囲気が好みと言われて、真面目に徹し、あくまでもプラトニックな付き合いをしていたらしいが、当の彼女は相当なアバズレだったらしく、彼の友人関係も巻き込んで、複雑な恋沙汰が発生したという話しだ。友からの信頼を失い、彼女から裏切りにあい、そのショックから、彼は距離を置く付き合いしか出来なくなったという話だ。
「しかし、切羽詰っていたのはわかるが、なんで転勤の事を最初から言わなかったんだ」
「さっき言ったじゃないですか。聞きたかったんですよ、真央さんの口から。自然に」
「自然に出るものとは、限らないだろう?」
「出ますよ。距離を離して付き合う事が大好きな僕が、ここまで熱心になってしまった真央さんだから」
「そ、そんなこと言われても。……あ、そうか、前はこういう口説き方だったんだな。ふーん、元々は随分口が軽いんだな」
「いや本心ですよ。真央さん」
「ふふ、どうだか」
 微笑は自然に出て、会話は自然に弾んで、高ぶる気持ちにブレーキはなく、話す言葉は全て本当で、二人には、もう偽りの感情はなかった。
 普通じゃない。だからこそ、僕らは付き合っていけたのかもしれない。
 しかし、本当に普通じゃないのは、そこからだった。

「真央さん」
「何だい?」
「結婚しましょう」
「えっ!?」
 まばらだが人の居る駅のホームのベンチを立ち、僕は思わず声をあげてしまった。
 確認のための告白からそれほど時間は経っていないのに、唐突過ぎるプロポーズ。
 彼に対して心を開いた僕も、それには流石に戸惑って、即答できなかった。
 かけた眼鏡が落ちそうになるほど、動揺し、顔は赤面していた僕は、言葉に詰まってどもってしまった。
「な、ななな、中島君! な、何を言ってるんだ。まだ僕らは付き合って五ヶ月なんだぞ!」
「付き合ってる時間なんて関係ないですよ。それに僕は覚悟出来てますから」
 そういうと、彼はスーツの内ポケットから、小さな紫色の箱を取り出した。
 そして、動揺を隠せない僕の前で、その箱を開いて見せた。
「え、あ、こ、これは」
「エンゲージリング。俺がもっと稼ぐような奴なら、もっと高いものも買えたんですが」
 箱の中に入っていたのは、俗に言う結婚指輪だった。
 彼の計画的犯行というか、周到さに驚くばかりの僕だったが、まだそれを受け取れるような心構えができているはずがない。さっきやめたはずの、いつもの悪い癖がでる。
「ぼ、僕は結婚なんて。だ、第一! 僕は君と手を組んで歩いたことも無いんだぞ!」
「じゃあ、しましょうか」
「えっ、あ」
 彼がムクッと立ち上がったのが見えた時には、もう腕をつかまれて、優しく抱き寄せられて手を組んでいた。
 近すぎる接近は、僕の頬の紅潮を最大に上げ、沸騰するように伝わる熱は余波となって口を閉ざさせる。
「他に何か、真央さんが思ってる、結婚にいたる段階なんてありますか?」
 男を感じさせる厚い胸と、スーツの合間から漂ってくる男の匂いが、僕の心を少女のようにたきつける。
 開かれた彼という無垢な心は、ただ、愛という欲望を求め、止め処ないほど、目的の障害を取り除き、したい事をする。
 こういう時、真顔でそういうことをする彼は、世界中で息をしている誰よりもズルイと思う。
 そして、それを知りながら、次の言葉を吐く僕も、ズルイと思う。


「僕らはまだ、き、キスだってしていないし」


 誰かが見ているのなんか、もう考えていなかった。
 言葉を言いきる前に、僕の目は閉じられ、唇は彼の顔へむいていた。
 ミルクティーのような甘い味と、ティラミスのような苦い味が、愛という熱を帯びて体を駆け巡った。
 十二時の鐘は鳴り、魔法は解けたが、シンデレラと王子は、そのまま踊り続けた。
 普通の恋人になれなかった、アブノーマルな二人の横には、自分たちが帰るための最終電車がホームに飛び込んで来ていた。

【了】
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短編:『アブノーマル』-②

2008年10月18日 00時06分20秒 | 短編
――――

「……いらっしゃいませ、お客様。お飲み物は何に致しましょうか」

 僕たちが訪れたのは、三ツ星レストラン……と言うには、余りにも貧相な多国籍料理屋だった。薄暗い照明、妖しげな彫像、曰くありげな壁紙、やけに生気に乏しい店員の顔。雰囲気としては、完璧にホラー映画の世界だ。
 しかも、いわゆるエンターテイメント性に溢れる工夫に満ちたプロデュースによって出来た、面白みのあるスリルレストランの類ではなく、いつそこに霊的なものが居ても、誰もおかしいと思わない完全な『スポット』だ。自分達の愛を説き、自分達の恋を語るような普通のカップルなら、怖いもの見たさの好奇心で入る者は居れど、禍々しい内装と生気の無い店員たちを見て逃げ出し、絶対に来店しようとは思わない店。
 だけど僕らは、ここが気に入っている。
 何故? と聞かれれば、答えは簡単だ。
 自分勝手に騒がしく恋を語り、自分本位に姦しく愛を説く、そういった目障りな客が居ないからだ。
 
「今日は奮発してモンラッシェを頼むよ」
「……かしこまりました。では運び次第、コースを始めさせていただきます」
 いつも通り、生気を失った青ざめた顔と、何処を見ているのかわからない虚ろな眼、高い背が特徴的なフランケンシュタインのようなソムリエ兼ウェイターが、ヨタヨタと厨房にコース料理開始の報告をすると、次は地下にあるワインカーゴのほうへ向かう。

「いつ来ても変な店ですよね。そうは思いませんか?」
「あ、ああ。うん、そうだね」
 付き合いだしてからもう八回は通ってるであろう馴染みの店を、変な店とテーブルについてから言う彼の気持ちはわからないが、僕が気になっているのは別の事だった。
 それは、彼の頼んだワインの事。
 何度も食事を重ねるうちに、僕が赤ワインを嫌いなのを彼が知っていたとしても、まさか白ワインの中でも最高級のモンラッシェを頼むとは思わなかった。ボーナスが出るには時期外れだし、何か特殊な臨時収入でもあったのだろうか。僕は、他人の財布事情の話をするなんて卑しいと思いながら、それでもちょっと心配気味に聞いてみた。
「それにしても、モンラッシェなんて大丈夫なのかい? いくらこの店が良心的な価格で物を出しているとはいえ、最安値でも一本三十万以上するじゃないか。給料日まで日も遠いのに、どうして?」
「そりゃ真央さんの特別な週末のために」
 にこやかに笑みを浮かべながら放たれる彼の言葉は、まるで魔法だ。
「え。そっ、そ、それってどういう」
 こんなにも簡単に僕の心に動揺を与え、こんなにも簡単に僕に恋愛感情の火照りを覚えさせる。
「……なーんて。俺にそんなキザな台詞、似合わないですよね」
 なんだブラフか。と、残念がる僕の心は、それでも格好つけられないところを正直に言える彼の純粋さに惚れていた。彼が何をやっても好意的に思えるほど、僕の心は恋に盲目になっていた。
 そんな僕を尻目に、彼がワインの話を続ける。
「白状すると、モンラッシェにも種類があるんですよ」
「種類?」
「バタール・モンラッシェ。味はなかなかなんですが、価格は本家モンラッシェの十分の一です」
「へえ、そんなワインがあるのかい。知らなかったな」
「真央さん色々と博識なのに、ワインには疎いんですね」
「僕はワイン、余り好きじゃないからね。お酒だって、そこらで売ってる廉価な軽いので事足りたし、会社の付き合いで飲むことも元々得意じゃなかったから」
「何言ってるんですか、俺と飲む時、真央さん結構な量飲んでますよ」
「君と付き合うようになってからだよ。こんな風に誰かと一緒に、楽しく食べて飲むようになったのは……」
「真央さんにそういってもらえると嬉しいです。俺も、真央さんと、こうやって一緒に食事するのは楽しいですよ」
「おっ、お世辞はやめてくれよ。似合わないぞ、そういうの」
「俺がそう思ってることぐらい、素直に受け取ってくださいよ。なんだか俺が真央さんに信頼されてないみたいじゃないですか」
「ごめん。そんなつもりじゃないんだが……」
「というより、真央さん自身はどうなんです?」
「どうって?」
「俺と付き合ってること。どう思ってるか聞きたいと思ってたんですよ」
「えっ、ええっ!?」
 思わず変な声が出る。
 まだ一滴もアルコールは入っていないはずなのに、こんな核心めいた事を聞かれるなんて、僕は思っていなかった。彼は卑怯だ。答えを知っているのに、言わせようとする。しかも、僕はそれを言えない事も知りながら。
「俺は真央さんの事好きだって言ってるのに、真央さんは答えてくれない。本当のところ、どう思ってるんですか。真央さん」
「え、あっ、ええーっと」
 誰か助けてくれ。
 店内の薄暗い照明を追って、何か他の話題はと考える、僕の思惑を置き去りにして、パサつき始めた唇あたりを直視する彼の視線は、僕の口を強張らせて、思考を詰まらせる。

 好きだよ。どうしようもないぐらいに君の事。

 なんて、僕みたいな恋愛初心者が、そんなこと言えるわけないじゃないか。
 生真面目な君の心が裸になったからって、僕の心が裸になれるわけじゃないんだぞ。
 どうしよう、どう答えよう、と思えば思うほど、頬の火照りと焦りばかりが顔に浮かぶ。
 落ち着き払ったような態度を見せる彼が恨めしい。こんな時、空白の時間を潰せる煙草が吸えれば良かったと思う。でも、それは彼も同じだ。だから、僕の答えを待つ、手持ち無沙汰な彼は、ふてぶてしく「早く早く」と催促するようにも感じる。
 それは、素敵な一夜の思い出と、欠けた一足のガラスの靴を頼りに、王子がシンデレラを探し出す時に執着した時の気持ちに似たようなものだろう。
 そんな気持ちを僕が知っていても、僕には彼が望む「好き」の一言が言えない。
 この緊張に強張った薄ピンクの唇に勇気を出して言ってしまえたら、羞恥心という重い心の十二単が脱げたら、彼も僕もいっそ楽なんだろうけど、それは出来ない……どうしても出来ない。
 僕が好きの一言を言ったら、彼も僕も互いに互いを依存し始めてしまって、きっとこの不思議な距離が保てなくなる。二人を隔てる壁を乗り越えた先に見える、小さくて、貧相で、醜くて、そんな本当の自分を晒した時、きっと相手を傷付けてしまう。それが怖い。
 楽しい楽しい、王子様とのダンスをずっと続けたいと思えば思うほど、シンデレラは真夜中の時計を気にするんだ。
 男女の付き合いには、自分に都合の良すぎる言い訳だと思うけど、これが僕という女で、人間なんだ。
 でも、魔女と約束した十二時の鐘のなる前に、僕にかけられた魔法は解けてしまった。

「……お待たせいたしました。クリオ・バタール・モンラッシェ95年物でございます」

 妖しい店内の照明に大きな影をつくるように現れたのは、魔女ではなくフランケンシュタインだった。
 先ほどまで地下のワインカーゴに居たはずのソムリエ兼ウェイターが戻ってきた。彼が運んできた滑車のついた鉄製の配膳台には、いかにもオカルトなドドメ色のテーブルクロスが敷かれ、その上にはラタン(藤)を編んで籠上になったワインバスケット。その中に丁寧に包まれた一本の白ワインのボトルが、品質を壊さないようにある程度の角度をつけて、存在していた。
 背丈や顔は、とても異質なものを感じるものの、ワインを扱うソムリエとしての店員の手際は良く、目の前に座る彼が、僕に今一度催促の口を出す前に、テーブルには二つの幅広なグラスが、そっと置かれていた。
 いつもは気味の悪い奴だと少なからず感じていた、フランケンシュタインのような風貌を持つ店員に、今日ほど感謝した日はないだろう。もしかしたら僕の心の悲鳴が、このオカルトな料理屋の雰囲気に伝わって、フランケンシュタインに伝わったのかもしれない。
 どちらにせよ、危機一髪のところで助けてくれたことは、感謝しなければならないだろう。
 普通のカップルにとっては、チャンスなんだろうけど。

――――


「前に話した直属の上司が転勤で……」
「配属が変わりそうなんですよ……」
「最近こういう歌が流行ってて……」
「あ、何か頼みます?」
「ほら、真央さん。せっかくだから、もっと飲んでくださいよ」
 ぎこちなく乾杯をした後。
 まるで何もなかったような、極々一般的な普通の談笑が続いた。
 彼がタイミングを見計らって喋るたびに、僕も慌てて返答するものの、口を開いて話す内容といえば会社の愚痴や、趣味の話。後は、彼なりの僕への気遣いと気配りぐらい。普通の恋人同士なら、愛や恋について語り合い、二人のこれからを考えたりするのではないかと予想しているが、僕はそんな普通のことも出来ない。だから僕が乗り気じゃない事を察した彼が、もうその話題に触れたくないようにも思えた。
「で、こういう面白い奴が職場にいて……」
「ああ、そうなんだ。うん。うん。」
 彼を傷付けてしまった。と、意識してしまったら、運ばれてくる料理の味も、彼との会話も、殆ど上の空になってしまう。駄目だこれじゃ、二人が恋人同士なんて、絶対に思われない。
 二人の会話が、きっと普通の恋人同士のそれじゃないと気付くと、いつの間にか僕は焦りを感じていた。
 僕が普通でいようとする事を、意識しすぎなんだろうか。
 確かに二人の会話自体は順調に進むのだが、何故だか僕と彼の合間には、恋愛に関しての話題が一切でなくなった。まるでタブー、禁忌の言葉のように、愛について眼に見えない一線のラインが引かれ、進入不可能な壁が出来ていた。
「真央さん、長期休暇がとれたら何処か行きましょうよ」
「あ、ああ。そうだな」
 きっと僕が悪い。
 せっかく彼が「好き」と言える状態をつくってくれたのに、それをYESともNOとも答えず、時間に身を任せて黙って、結果無碍に断ったのと同じだ。
「この季節は、やっぱり山ですかね。京都の山はまだ秋の色が残っているらしいですよ」
「うん、それ、いいかもね」
 口では彼の話に乗っているような素振りをして、僕の心では違う事を考えている。
 僕は何をやっているんだ。
 こうやって話題を変えて、僕の顔色を気にして会話を弾ませようとしてくれる彼に対して、心の奥底に眠る、素直な好きの一言も言えないでいるなんて、僕の事を好きだと言ってくれた彼に対して、誠意の欠片もないじゃないか。こういう時、テレビドラマで、小説で、現実で、男女二人の普通の恋人たちが言う、嘘も実も含んだ意味のない「好き」が、とても羨ましいと思ってしまう。
「真央さん、それでね僕の配属先が」
「……あ、ごめん、ちょっとトイレ」
 にこやかに会話を続けようとする彼に対して、何だか僕はその場所に居たたまれない気持ちになって、その気も無いのにトイレに逃げ出した。


「卑怯で、嫌(や)な奴」
 手洗い場、誰かに聞こえないようにバルブを捻って水を流しながら、鏡の前で自分の顔を見て、一言呟く。
 ゴボゴボと排水管に水が吸い込まれる音を聞きながら、僕は少し勇気を出してみた。
「……う……い」
 このままでは駄目だと、鏡に向かって「好き」と言う練習をし始めた。
 彼が目の前に居ると想像して、自分なりに音を出そうと頑張る。硬直する顔と、震える唇を鏡で覗きながら、口をつぼめる形を作り、歯を上下ぴったりとつけて息を吐く。
「すー」
 練習三回目、案外たやすく、すの音は出た。続けて、そのまま口を広げ、喉に力を入れ
「きぃ……」
 目の前に相手が居ると想像して、緊張しているためか、意識してやってるわけではないのに、漏れる音はやけに色っぽかった。全てが言い終わるまでにかかった時間は三秒間。後はこの間隔を縮めれば良い。そうすれば、それが愛の言霊となるはずだ。
「すっ、きっ」
 言葉じゃないと意識して、音と音をつなげれば良い、簡単なことだ。
「す、き」
 眼鏡を外して視界を曇らせて、練習すること四十七回目。よし、もう少しで出来そうだ。
「すっ……すきっ!」
 出来た。出来るじゃないか。よし、これだ。この間隔なら、十分伝わるだろう。
 これが今の僕の唇から出せる、彼への誠意の答え、最大限の愛情表現だ。
 年甲斐もなく鏡の前で小さくガッツポーズをしながら、手元に置いていた眼鏡をかけなおすと、視界がくっきりと見えてくる。
「すき!」
 もう一度、鏡の前で二つの音を縮めて出す。
 「す」と「き」、その口の形を少し変えるだけで出しやすい連続音を、自分の耳で聞きながら、つくづく日本語を使える日本人でよかったと思った。だって愛を囁くとき、英語なら舌をくねらせて「アイラブユー」だし、フランス語なら滑らかに「ジュテーム」、中国語なら口を広げて「ウォーアイニィー」、ドイツ語なら力強く「イッヒビンダイン」、どれも音を縮めて言えそうな言葉じゃない。
 「すき」という言いやすい音の連続だから、普通の人は軽々と言ってしまうのかもしれない。と、僕は日本語のトリックに少し面白みを感じながら、小さな勇気を抱えてトイレを出た。


「あ、真央さんそろそろメインディッシュですよ」
「え、あ、う、うん」
 テーブル席に帰ってきた僕に、にこにこと子どものように食欲をときめかせ、次の料理を待つ彼の顔があった。
 僕は席につくと、眼鏡を一度直し、ついに彼に声をかける。
「ねえ中島くん」
「はい?」
「すっ……すーっ……すくぅ……すぅぃ……」
「すぅい?」
 ああ、だめだ。無邪気に返答を待つ、この顔と、この声。席につく僕の体は、彼の声に疑問が含むたびに石のように硬くなり、鏡の前で手に入れた小さな勇気は音をたてて崩れ去って、その瞬間全てが、緊張に変わった。また僕は魔法にかけられてしまったのだ。でもこんな所で負けてたまるか、僕は、最期の勇気を振り絞った。
「すぅぃーきっ!」
「え?」
 ついに僕の思いが言葉に乗って通じたか、彼は不思議そうな顔をしながらも、僕を見つめ返す。
 そして、恥ずかしさの余り物凄く赤面した僕に対し、彼はにこやかに言った。
「ああ、なんだ。そんなこと心配してたんですか。安心してください。メインディッシュは真央さんの好きな、ステーキですよ」
「!?」
 ちゃんと発音しなかった僕も悪いが、こんな展開は予想していなかった。もう嫌だ、二度と言うものか。
 確かに前から天然みたいなところはあったけど、普段の君なら気付くところだろ、そこ。変な時に気を回して、僕の一大決心を無にしないでくれよ。それに、僕の大好物は牛肉のステーキじゃなくて、鶏の手羽先の照り焼きだ。
「さっ、来ましたよ。ステーキ」
「あ、ああ。うん」
 メインディッシュの皿が来て、彼は会話をしながら、黙々と肉を口に運び、嬉しそうに頬張り続けた。なんだ、自分が好きな料理なんじゃないか、と思いながら、僕は決心が伝わらなかった切ない気持ちが一杯になった胸を抑え、黙々と食べ始めた。
 その後も彼との会話で、何度も「すき」と言うチャンスはあったのだが、さっき勇気を振り絞って出した台詞のせいか、心が消耗して勇気が出ない。
 もう、心の中で今日は出来ない、と最初から決め付けて、出来ないから仕方が無い、と思ってる節さえ出てきた。
 上手く言えないのが憎たらしい。そんな浮ついた気持ちは、僕の心を俯かせ、料理の感想も、彼との会話も、記憶にとどめることは出来なかった。
 僕が食事の中で記憶していたのは、彼の配属先が変わるという事と、デザートが少し苦味のあるティラミスだったことぐらいだ。

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短編:『アブノーマル』-①

2008年10月18日 00時03分50秒 | 短編
『アブノーマル』

 僕の毎日は、机に平積みされた書類のように粗雑で、平坦だった。
 モニターに映る表計算ソフトを片手に、0から9の数字を一字一句間違えずに打ち込む毎日。
 積みあがった請負いの事務作業に追われて、眠れない日もあるし。
 頑張って頑張って仕事を片付けて残業しても、成果なんて殆ど認められないし。
 だけど週末になると、そんな平坦な毎日のグラフィックがガラリと変わっているんだ。
 小さい頃、初めて雪が積もっているのを見て、手袋も無いのに、冷たさにかじかむ手も気にしないで雪玉を作って無邪気に遊んだような、あのワクワクに似た物が、週末になると僕の心に押し寄せてくるんだ。
 14、5歳の少女の時に普通はするものだと聞いていたけど、当時の僕には感じられなかった。
 25歳にして初めての思い。
 恥ずかしながら、僕にも出来たんだ。
 勘の良い人なら、もう気付いてると思うけど。
 出来たんだ。世間一般的な彼氏って奴が。

――――

 窓の外を見れば、空が暗い。
 腕時計に眼をやると、時刻は午後五時三十四分を指していた。
 夏の盛りには、まだ明るかった夕暮れの日は、もうとっくに落ちてしまっていて、季節の変わり目は眼に見えるほど。秋の調べが、もう始まっていた事に気付く、週末の夜。
 僕は、いつもの癖で残業しないように、定時までにキチッと仕事を終わらせて、まだ仕事の終わっていない同僚達に、先に帰る事を告げた。同僚達の恨めしい視線を後ろに浴びながら、高層ビルの地上三階にテナントを借りている、勤め先の会計事務所のエレベーターに飛び乗ると、地上一階に降りた。そして、どこか少女のように浮き足立つ心を沈めながら、そのフロアにいる誰よりも早く、玄関口まで足早に駆けていった。

 建物の玄関口は、余計なスペースと思われるほど広い出入り口だった。
 付近を見回すと、玄関口のガラス壁の先に、暗さの深まる遠い空を缶コーヒー片手に見つめている男を見つけた。
 僕は、歩みを少し緩めて、入り口をそっと出ると、出入り口にある物影から、男の姿を覗いた。
「……また無意識に隠れてしまった。どうしよう」
 待っている側の男からすれば、とても迷惑な話なのだが、僕は彼の姿を見ると無意識に身を隠してしまう。
 彼が気付いていないのを良いことに、絶対安全な位置に逃げ込む。
 メールで仕事が終わった事を教えようか、それとも電話で教えようか……ううん。
 いつもそうだけど、僕から声をかけるのは、何だか恥ずかしい。
 彼を見つけられなくて、探しているフリをして、見つけてもらうのが一番だ。
 そう思った僕は、あえて男の視界に入るような位置に飛び出して、男を探すフリをした。

ゴトン、カン。

 少し後ろで、空になった缶コーヒーが、ゴミ箱に投げ込まれる音が聞こえた。
 そして直ぐ、探すフリをしていた僕の肩を、ぽんぽんと優しく二回叩く音がした。
「お疲れ様です。仕事、もう終わったんですか?」
 男性にしてみれば少し高い、中性的な男の声。
 僕が声のほうに振り向くと、いつの間にか顔は感情が抑えきれないにこやかな色を見せていた。
「ああ、ごめん。寒い中、待たせてしまって」
 本当はもっと早く彼を見つけていたのに、僕は軽く嘘をついた。
「そんなに待ってないですよ。むしろ早いと思ってるぐらいです」
 比較的新しいフォーマルスーツをぎこちなく着こなす、僕の背丈より顔一つ分ぐらい大きい程度の、これまた男性にしては低い身長の男こそ、今、僕が付き合っている人だ。
「そんなに早かったかな」
「ええと時間は……午後五時三十九分。退社時間としては新記録ですよ」
 事務所を出てから約五分。休憩中の化粧直しも、昼食の時間もケチッて、仕事に精を出した結果、どうやら僕は自己新記録をたたき出したらしい。言われて気付いたが、確かに早い。彼が驚いた感じの顔をしているのも、納得できる話だ。
 こんな僕と彼の関係は、少し特殊だ。
 他会社の会計雑務をこなす会計事務所に勤める僕と、その会計事務所からの申告を受けて税を徴収する税務署に勤める彼。
 今年四月の会合面談で出会ってから、彼の熱烈なアプローチもあり、小雨の降る五月に付き合って、もう五ヶ月が経った。
 互いに多忙を極める職種なので忙しく、休日の関係もあり、携帯やメールを通した付き合いが多いので、週一度、週末の食事に行くことぐらいしか決まって会える機会は無いのだが、この付かず離れずの距離感、これが中々始まってみると楽しい。
 そして、そんな楽しい週末は、僕のため息と、この台詞から始まる。
「はぁ……しかし君ね。毎度言ってることだが、気になる事がある」
「え?」
 僕は、かけた眼鏡の位置を直しながら、やれやれと言った面持ちで彼のネクタイを指差す。
「……またネクタイ曲がってるぞ」
「えっ、またですか。おかしいなぁ。今日はバッチリ決めてきたはずなんですけど」
「そんなことはない。良く見てみろ」
「は、はい」
 僕が念を押すようにもう一度首筋を指差すと、彼は慌てて首にかかったネクタイの結びを解き、そして結び直した。
「いくら今日オフだったからって、社会人一年目だろ。しっかりしろ」
「あっ、あれっ、おかしいなぁ。家を出る前は上手く出来たんですけど」
 僕の前で、あたふたと慌てる彼の視線は、僕から離れて自分の指先に向かう。
 眼鏡の奥の瞳を、再びヤレヤレと曇らせながら、僕は心の中で、焦る彼の一挙手一投足に微笑む。
「これでどうですか?」
「違う。まだ正面じゃない。もう一回、やり直し」
「は、はい」
 だが、それはそれ。勤める職場こそ違うが、先輩社会人である僕は、入社一年目の彼に厳しい眼を光らせ、首に巻かれたネクタイが正しい位置になるまで、強い口調でやり直しをさせる。
「まったく、ネクタイ一つも結べないなんて、いったい大学で何を学んでたんだ」
「仕方ないじゃないですか、学校じゃネクタイの結び方なんて教えてもらえないし」
「グダグダ言ってないで、手、動かす!」
「は、はい!」
 普通の恋人同士なら、注意こそすれ、正しいやり方まで結びなおさせるのは、異常だと思われるが、僕は一旦気になりだすと、それが直るまで気が収まらないタイプで、社会人一年目の彼に苦言を呈すことが多く、会う度にこんなことの繰り返しだ。でも、付き合い始めて、ほぼ確信している事実は、僕が、そんな彼にぞっこんだということだ。
 外見は、世間一般で言う人受けが良いタイプ。
 というと身びいきというか、褒めすぎのような気もするけど。ネクタイの位置のやり直しを命じても素直にやり直すところや、礼儀正しい態度、生真面目さを感じさせる清潔感のあるルックスを持つ、自分より二つ年下の男。女の初恋にしては、大分遅いかもしれないが、僕の初めての思いに応えられる相手だと思っている。
「これでどうですか!」
「何度言ったらわかるんだ。そうじゃない」
「え、えぇっ。もう、こうかなぁ」
「あーあ、慌てるからまた位置がズレる……しょうがないな」
 自分の首周りの正位置を掴んで、ネクタイの位置を直せば良いのに、彼はいちいちネクタイを取り払って、襟首から結び直す。何度も彼が位置を間違えるのを見て、僕はたまらず手を出した。
「すいません……毎回毎回」
「ネクタイぐらいちゃんと付けられないと、社会人としてみっともないぞ」
 僕は、乱れていた彼のネクタイを、キュッと強めに締めた。
 苦笑いをしながら謝る彼が、とても可愛いと感じてしまうのは、僕らしくない感情だと思う。先輩社会人として、たしなめるような強い口調で言うものの、僕の頭は週末のこれからを想像して、わくわくを感じてしまう。チラッと彼の視線を感じるたびに胸が高鳴るのは、おかしいなと自分でも思う。
 職場では「雪女みたい」なんて陰口を叩かれてしまうような、感情を表に出すのが苦手な僕が、目の前のちょっとオッチョコチョイな男性と、今付き合っている状態だと考えると、何か変な感じがするなあ。
 あ、もしかして変な勘違いしてる人が居るかもしれないけど、僕はれっきとした女だよ。僕っていうのは、昔からの口癖。兄弟が全員男でね。学者肌の父が教え込んだのかは知らないけど、皆、一人称が「ボク」だった。
 その口癖が、僕にも伝染(うつ)っちゃったんだよ。
 数少ない付き合いのある同性の人からは、男を尻に敷くタイプ、なんて平然と言われてるけど、僕はそんな事一度だって意識したことはない。第一ああいうタイプが苦手なんだよね。男の子の気を惹こうとして強気で勝気で粗野なふりして……実際ぶりっ子。男にもたれかかって、甘えて、自分を研磨する事が出来ないなんて、精神的にダメな証拠だね。

 さてさて、僕の脳内の話がズレたところで、彼が話しかけてきたよ。

「じゃあ、そろそろ行きましょうか、真央さん」
「え?あ、ああ。じゃあ行こうか、中島君」
「……まだ俺の事、名前で呼んでくれないんですね」
「そりゃそうだろう。僕が君を名前で呼ぶなんて、その、なんだ。その、あの」
 僕は周囲に誰か居ないか見回しながら、思わず口ごもった。
 周囲は、これから騒がしい週末の夜を迎えようとしているのに閑散として、誰も居なかった。でも、僕の口は思うようにハッキリ動かない。別に誰が聞いてるわけじゃないのに、その一言が詰まる。
「理由、聞きたいです」
 こういう時、真顔で質問してくる彼は、世界中で息をしている誰よりも意地悪だと感じる。
 僕は顔の熱が段々上がっていくのを肌で感じて、頬の紅潮が彼にバレないように、アスファルトの見える下を俯きながら、彼の耳に聞こえるか聞こえないか、そのぐらいの小さい声で、答えを言った。
「……だ、だって、いい年した男女が名前で呼び合うなんて……はっ、はっ、は、恥ずかしいじゃないかっ」
 振り絞った勇気のある小さな発言が、僕の頬を再加熱させる。
「真央さんが、そういうなら仕方ないですね」
 でも、帰ってきた彼の言葉は、僕の勇気に比べて意外と簡素なものだった。
 僕は、残念そうな顔をする彼に一つ仕返しをしてやろうと、逆に質問した。
「第一、なんで君が僕の事を名前で呼ぶんだ。他の人が聞いたら、どう思うか考えたことはないのか?」
「どうって……俺たち、もしかして、まだ恋人同士じゃないんですか?」
「い、いや、実際そうだが。そうなんだがっ。その、なんだ……世間体というか、TPOというものがあるだろう!」
「真央さんって、変な事気にしますよね。普通の子と違って」
 痛いところを突かれた。
 先ほどまで上がっていた頬の熱が少し冷める。
 彼の言葉に、そうだよな、と何処か納得してしまう。この歳になるまで恋愛感情が沸かなかったなんて、僕は普通の子じゃないよな。というより、経験が無いから、彼の言う普通がわからないってのも、あると思うんだけど。
 でも、変わらない事実。

 彼は僕にとって、一人目だけど。
 僕は彼にとって、一人目じゃないんだ。

 そう思うと、高ぶっていた感情が反転して、どうもいつもの悪い癖を出させてしまう。

「前に君に言ったと思うが、僕は恋人という概念に慣れてないんだ。だからどういうのが恋人なのか、君の言う普通が何なのか、正直わからない。もしそういうところで気に入らないところがあって、僕と付き合うのが苦痛なら、遠慮なく言ってくれ……辛い事だけど、僕は君と別れる覚悟も……」
 そこまで言って、また口が詰まる。
 この、ひどく後ろ向きな恋愛観が、我ながら嫌になる。
 普通じゃない僕が誰かと付き合うことで傷つく事も、付き合う彼を傷つける事も怖いから。感情よりも先に、言葉が自己防衛に走ってしまう。普段、思っても口に出さない余計な一言を、素直に言ってしまう悪い癖。彼のいう普通の人が聞いたら、とても気持ちの悪い女なんだろうな。駄目だ、僕は、やっぱり普通の恋愛なんて向いてない。

「そういう真央さんのユニークなところ。俺は好きですよ」
「えっ」
 気付けば僕の手は彼に握られて、僕の手を伴う彼の手は、すっかり熱を失った僕の頬にピタりと優しく置かれていた。僕が驚いて顔を上げると、彼は照れくさそうにもう一方の手で自分の頬を掻きながら、視線を明後日の方向に向けていた。

「じゃあ行きましょうか。予約は七時なんで、急がないと」
「えっ、えっ」
 こういう時、僕の悪い癖を上手くかわす彼は、世界中で息をしている誰よりもズルイと思う。でも、同時に世界中で息をしている誰よりも優しいと思ってしまう。
 アレやコレや、僕が色んな事を考えて、一人で落ち込む悪い癖を遮るように、彼の柔らかな語調と似合わない強引な言葉と供に、僕の手と心はすっかり攫われていた。会った時は頼りなく乱れていた彼のネクタイは、まだ乱れずに、きちんと結ばれていた。
 僕、戸波真央の楽しい週末が始まる。

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短編:『泉の中の物の怪』

2008年08月03日 05時36分58秒 | 短編
 私は今、ある男を汗だくになりながら追っている。
 追っているのは、顔見知りの男ではない。

 時代は、大正の世。
 今日も乞食のような貧乏書生暮らしが板に付く私が、飯の種を探しに帝都を練り歩いていた時。
 モガやモボ。いわゆるこの時代特有の和洋折衷の衣装を纏ったモダンガール、モダンボーイと呼ばれる市民たちが賑わす帝都の人通りが、やや閑散となった夕方頃に、高級時計店が連なる表通りの通過路を私は何気なく歩いていた。人一人が通れる小道を右手に入ると、時計店の店先の入り口とは、ちょうど反対をなす裏口があった。ようするにそれは、時計店の店員が抜け出るための勝手口なのだが、その勝手口の方で、絹を裂くような女の悲鳴が聞こえたのだ。
 その声に振り返り、私は小道を通って勝手口に向かうと、開き戸から風体の醜い、見るからに汚らしい身なりの『ほっかむり』をした男が一人、膨らんだ唐草模様の風呂敷を持って飛び出してきた。
 不思議と思って、小道を走り出す男の背を目で追っていると、その内、勝手口のほうから荒縄で手足を縛られた店の番頭らしき女が、芋虫のように這い出てきた。私は、心配そうな面持ちで「大丈夫か」と語りかけたが、女は私を見るなり「泥棒!盗まれた!」と、やや錯乱気味に語気を荒げて大きく叫んでいた。

 膨らんだ唐草模様の風呂敷に、早足で走り出した男の姿を見て、大体の察しがついた私は、その泥棒を追った。

 ジャラジャラと風呂敷を重そうに抱えながら、暗くなってきた小道を悠々と走る泥棒を必死に追いかけながら、私は卑しい思考に口を歪めていた。
 高級時計店を荒らした大泥棒を捕まえれば、金一封ものだ。
 親戚の貧乏商店に転がり込んでいる穀潰しの私が、明日の飯に事欠くことなく、大金をせしめるチャンスではないか。最近は仕送りの金も少なくなって、好きな女遊びも自重していたことだ。大金を手に入れたら、まず色町へ出かけて散財しよう。
 まだ経験はないが、私には一度やってみたかった事がある。
 「わちきは嫌でありんす」とお高くとまっている色街のあの女を、金で物言わせて、手篭めにし、心まで征服する。そう考えるだけで、実に胸が高鳴るではないか。
 そう考えれば、逃げる泥棒の背を死に物狂いで追って、捕まえたくなる気持ちから、いつもの脚力以上の物もでるというもの。
 やけに長い小道を、私は歪んだ口元を光らせて泥棒を追う。
 逃げる泥棒とて人間だ。いつかは疲れる。そうなったら後は精神力だ。欲にまみれた私の精神力が、泥棒を捕まえさせ、時計屋が法外な金を出す。辛いのは今だけだ、乞食のような貧乏書生暮らしとは、もうお別れだ。と、頭の中で繰り返し、激しく息切れしながらも、長い小道を進んだ。
 その内にあたりは、すっかり夜になっていた。

 走りつかれた泥棒と私は、薄暗い小道の先に、鬱蒼と生い茂る雑木林が特徴的な寺を見つけた。
 どうやら小一時間走り続けた泥棒も、流石に疲れ果て、喉が渇いたらしく、寺の中に入り込み、水を一杯煽ろうと、寺の中にある水場を探した。
 私は泥棒の後をつけた。背の高い雑木林に隠れながら呼吸を整えつつ、泥棒が一瞬の隙を見せるその時を、息を潜めて待っていた。
 泥棒は、雑木林の先にある底の深そうな泉を見つけると、汗に濡れた頭のほっかむりを取った。私は雑木林に隠れながら、差し込む小さな月明かりが泉の水面に反射して見えた、泥棒の顔に驚いた。見るに歳は、五十を数えるほどシワも多く、食べ物が悪いのか口元はヨボヨボ。垂れた福耳に、下がり眉毛の人相は、人の良さそうな顔立ちなのに、何故泥棒などしているのか、私には皆目見当が付かないが、良く良く見れば、泥棒の体も自分より一回り小さい。手足も短く、骨も肉も皮が張り付いているように薄く細く、何処にあれだけ走り続ける体力があったのかと思えるほど、泥棒の姿は弱々しく見えた。
 こんな相手を捕まえるのは簡単だ。と、思いながら、私は泥棒の観察を続けた。
 周囲を警戒する泥棒だったが、周りに人のいないのを確認すると、高級時計が入っているであろう風呂敷包みをジャランとその場に投げ捨て、泉の水を浴びるように飲んだ。

 今が絶好の時!
 私は、隠れていた雑木林から離れると、ここぞとばかりに泉の水を飲む泥棒に襲い掛かった。不意打ちされては、流石に泥棒も抵抗することが出来ないと思ったからだ。
 だが、泥棒は見かけによらず熟練だった。
 私の初動に気付いたのか、するりと体を捻り私をかわすと、翻った逆の手で私の肩を押し、そのまま体当たりするように私の体にぶつかり、泉の中に飛び込ませた。

 ボシャーン。
 奥底の知れない水量の泉に放り込まれた私は、ガボガボと水中で酸素を逃がしてゆく。そう、不幸にも泳げなかったのだ。必死に犬のように水を掻くが、書生の服が水を吸い重くなると、疲れきっていた私の体は浮き上がることなく沈んでゆく。

 息苦しい、もうだめか。と、思ったその時。
 人間では無い、誰かの大きな手が、私の体を持ち上げるような感覚に陥った。次第に浮き上がる私は、泉の水を相当飲み、酸欠で意識は朦朧としていたが、なんとか水中を飛び出して、丘に揚がることが出来た。

 水中に沈んでいった男が、丘に戻ってくるのに驚いたのは、泥棒のほうだった。
 泥棒は、そぉっと打ち揚げられた私に近づくと、ペシペシと平手で顔を叩く。当の私はというと、叩かれることに意識はあるのだが、体が動かない。なんとも不自由な状態だった。

「おまえが落としたのは、その男か?」

 そうもしている内に、異変が泥棒の耳に入った。
 奥底の知れない泉の中から、ややくぐもった低い声が聞こえたのだ。
 誰だ! 居るなら出て来い!と語気を荒げて言い返す泥棒の声に、泉の中から聞こえるくぐもった低い声は、もう一度繰り返す。

「お前が落としたのは、その男か?」

 寺の泉に住み着く物の怪か。と、一瞬尻込みした泥棒だったが、泥棒家業三十年の熟練は、そんな不可解な者に怯えるほど、生半可な修羅場を潜り抜けたわけではない。呼吸を整え、スッと背を伸ばすと、物怖じしない態度で、ただ一言、そうだ! と泉の底へ言い返す。

「正直な奴だ。その男は返してやる。それだけではない。正直なお前には、褒美をとらせよう」

 泉の中から聞こえる低い声は、泥棒の反応を見て、一瞬穏やかな声になった。すると、水面を魚が跳ねる様なパシャッという音が聞こえた。泥棒は、音の跳ねた先を見ると、そこには一枚の白黒写真があった。写真を手に取り月明かりに照らした泥棒は、映ったそれを見るや否や、思わず泣き出してしまった。その写真に映っていたのは、艶めかしい三十路過ぎの女と、十歳ぐらいの背格好を子どもが晴れ着を着て、椅子に座ってにこやかに笑う、記念写真のようなものだった。

「お前にも、国に忘れてきた大事な家族がいるだろう。妻を思い、子を思うなら国へ帰るが良い」

 泥棒は、頭を覆っていたほっかむりを手ぬぐいに変えて、涙を拭いた。そして、泉の中から聞こえる穏やかな低い声に説得されるように、写真を抱えて寺を出て行った。その手には、高級時計をたんまり入れた唐草模様の風呂敷包みは無かった。

 すっかり意識を取り戻し、自力で水を腹から吐き出した私は、今までの一部始終を見ていた。その私がもちろん最初に眼を光らせたのは、泥棒が置いていった風呂敷包みだ。しめしめ、泥棒は逃げたが、これを持って帰れば時計屋から、たんまり大金が手に入る、よしよし。と、片手をついて私は立ち上がり、着物の隙間から手をだし、アゴをさすりながら、ニヤニヤ口元を物欲で歪め、泉の前にドッと置かれた唐草模様の風呂敷包みの前に立った。腰を下げ、水を吸って重くなった書生の服から、そっと別の手をだし、包みを手に取ろうとした時。

 ポチャン。

 あ、という焦りの言葉と供に、風呂敷包みは泉の中に吸い込まれるように落ちていった。なんということだ! と、私は思わず錯乱気味に嘆いたが、すぐに落ち着いた。なぜなら、泥棒と泉の中の物の怪の問答を思い出したからだ。

「お前が落としたのは、この風呂敷包みか?」

 案の定、泉の中の物の怪が低い声で囁きながら、風呂敷包みを水中から丘に揚げる。私はそれに飛びつくと、物の怪にそうだ! と言った。

「正直な奴だ。その風呂敷は返してやる」

 私は、ガシッと風呂敷包みを捕まえるように受け取ると、欲望にぎらついた目で、中身を確認した。どれもこれも壊れてはいない。なんとか売り物に出来る程度だ。と、その後起こるであろう幸せな毎日を脳裏に浮かべた。

 しかし、男には腑に落ちない点が一つあった。
 先ほどの泥棒は、正直な事を言って何かを手に入れていた。それが何かはわからなかったが、自分の盗んだものが入った風呂敷包みを置いて行くくらいだから、相当の値打ちものに違いない。そう思った私は、物の怪に対して一つ欲深な質問をした。

「おい、泉の中の物の怪よ。正直に答えたのだから褒美をよこせ。あの泥棒にも渡したのだろう? 私にも、それをくれないか」

 私の質問に、泉の中の物の怪は、低く唸るように水の奥から聞こえる声を震わせて答えた。

「良いのか? お前にとっては災厄な褒美かもしれんぞ」
「物の怪のくせに出し渋るな。はやくよこせ!」

 すでに私の目は、欲望にくらんでいた。
 手に持った風呂敷包みの中身から得る大金と、今から物の怪にもらう褒美をあわせれば、乞食同然の貧乏書生の私が、今日の今日で大金持ちに変貌する。金に不自由しない優雅な生活、食いたいものをいつでも腹いっぱい食い、着たいものを衝動的に買い、綺麗な女を毎夜毎夜これでもかと抱く、悠々自適さ。それがすぐに手に入るなら、何が何でも欲しいと思うのが、私のように欲深な人間の構造だ。

 さあ、くれ!
 褒美を、くれ!
 今すぐ、くれ!

「そうか。では褒美をやろう」

 そう物の怪が言った瞬間。
 私の体は、泉の奥底から出てきた、大きなカエルのような物の怪の獰猛な口の中に納まっていた。私は、逃げることも、抵抗することも出来ず、ただ物の怪の口の中で、もてあそばれた。

「ぺっ。人に褒美をせがむ欲深だけあって、味もイマイチだ」

 巨大カエルの物の怪は、男の体に抱えられていた唐草の風呂敷包みを舌で巧みに取り外し、中身を雑木林の幹の下に投げ込むと、再び水中に戻っていった。

 物の怪の細い食道を通り、吸い込まれゆく衝撃で骨が軋み、肉が裂け、激痛を伴いながら、物の怪の横隔膜の動きにあわせて、消化液のたっぷり入った胃の中に消えてゆく私の体。薄れゆく意識の中で、最期に私が浮かべた言葉は、こうだった。

「私のような穀潰しの貧乏書生が、何故こんな目に?」


【了】
=========================

>今回の意図

ちょっと書き手として怠慢だったので、
灯宮義流氏を挑発し、互いに同じ設定で縛りプレイをして
短編を書こうということになり、互いに2~3時間で仕上げました。

ちなみに灯宮義流の作品はこちら


>ちなみに縛りプレイの内容はこちら

■縛りテンプレ
・元ネタ
金の斧(きこりの泉)
・舞台
大正時代 帝都
・登場人物
24歳のごく潰しの乞食書生
50歳の妻子持ちベテラン泥棒


意外と書けるようで書けない大正時代の群像。
おそろしいかな縛りプレイ。
ちなみにその時の書き手間のメッセでのログのせました。
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短編:『初夜権』のあとがき、とか今後の更新とか

2008年07月18日 20時30分54秒 | 短編
こつこつ書き手としてのリハビリをしてるんです@kirekoです。


>短編、初夜権を読んだ方へ
申し遅れましたが、これは歴史的観点に基づいたフィクションであり、実話ではありません。
この話の中では『あった』と断定していますが、初夜権というシステムが、歴史的に存在していたかどうかは、未だあやふやな部分もあります。が、当時の世相を考えると、これに近いものがあったのではないかと、個人的に想像をめぐらせて書いています。
お目汚し失礼致しました。


>ちなみに
批評と感想は、日曜復帰にしようかと思ってます。
毎日更新しないかと楽しみにしている方は、はっきり言って
少ないだろうと思いますが、もし楽しみにしている方がいたら
日曜までお待ちください。


>またまたちなみに
久々に超能力の長編のほうの更新も出来そうなので、
やれるだけやってみようと思います。
独りよがりーな自己満足歴史ものも、久々に書いてます。
まあ、どうせダメでも、やるなら真面目にやらなきゃ仕方ないというか、
クソ真面目で堅苦しい文章を読める方は、非常に少ないと思いますが、
一応頑張ってます。

あ、自分で自分の作品を批評するという企画はどうだろう。
真のマゾ向けの企画としか思えないが…これは!\(^o^)/
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短編:『初夜権』-3

2008年07月18日 20時18分59秒 | 短編

「御領主様。私は、バイラッドの街でパン屋を営む両親を手伝う針子の女、名前をイザベラと言います」
「そうか。私は領主ロアン=ブリティッシュ子爵だ」
「御領主様、申し訳ありません。私は二つの罪を犯しました。一つは、領主様を殺害しようとした事。一つは、結婚する相手も居ないのに、この初夜権の儀式に名乗り出た事です。その二つの無礼、どうか、お許しを」
「罪の許しなど、別に乞わなくとも良い。私は、お前のような者に殺されて当然の男だ。それで、イザベラよ。君の言いたい事はわかるが、実際にどうすればいい。私は確かに戦は上手いほうだが、強大な権力を持つ教会と、戦争を始めるほど愚かな領主ではない」
「御領主様が賢明なお方であることは、領民誰もが知っていることですわ。でも、私達女は、権力の中で余りにも無力です。初夜権などという、邪な権威を作り出す教会に、抗うことも出来ないほど非力な生き物です」
「そう自分達を卑下するな。少なくとも、私より心が強いではないか。それに賢明な領主とて、実行できなければただの傀儡だ。教会の操り人形になっているに過ぎない。」
「いいえ、ロアン様は頭の回転が速いお方。それに他の領主では話しになりません。私たちがすがれるのも、貴方だけなのです。どうにか、娘達の悲鳴を毎夜聞くのを避ける方法はありませんか」
「ううむ…」

 ロアンは、すきま風に揺れる蝋燭の照明の中で、見え隠れする赤毛のイザベラの必死の表情を覗きながら、どうにか良い方法は無いかと、二人で熟考に熟考を重ねた。

 その内に夜は白み、唯一ある窓の外からは小鳥のさえずりが聞こえ始めた。
 直面したその余りに難しい問題に、二人は眼の下にクマをつくるほど悩み、考えあぐねる時間を過ごす。が、賢明たる領主ロアンと、強い意思を持つ娘イザベラの二人の頭脳を用いても、結局良い答えは浮かばなかった。

 そして、二人は気付いていなかった。
 教会の命を受けた者が、処女との一晩を過ごした領主を起こすために、部屋の戸に近づいているのを。

ドンドンッ!

「御領主ロアン様! 朝でございます!起きていらっしゃるでしょうか!」

 大きく戸を叩く、教会の者とは思えないほど低く乱暴な声。
 ロアンは、イザベラと供にその音に驚いた。そう、まだ領主の裏の仕事である、目の前のイザベラの処女を奪っていないのだ。どうする…とロアンが狼狽するうちに、乱暴な声は、戸を再び強く叩く。

ドンドンドンッ!

「そろそろ昼間の政務のお時間です! 一晩の慰み物にご執心する気持ちもわかりますが! 領主様は妻も子もある身です。起きなければ中に入って起こしますぞ!」

 あまりに不躾な乱暴者の言葉に、苛立ったイザベラが衝動的に刃物を強く握る。
 ロアンはイザベラの苛立ちを抑え、刃物を見つからないようにベッドの床の隙間へ投げると、スッとその場を立ち、扉の前へと進む。

ガチャッ…

「わかっている。すぐに政務に戻るつもりだ」
「ロアン様、起きていられてましたか。これはこれは…」

 扉の前で出迎えたロアンの事など気にせず、いやらしい目で室内を覗こうとする、教会に組する醜く腹の出た男。あわよくば、前夜の領主の相手、イザベラの痴態でも拝もうという魂胆だったのか、その習性に反吐が出るほどの嫌悪感を催したのは、イザベラだけではなく、ロアンもだった。苦虫を噛み潰すような顔で、眼を瞑り、眉をひそめながら、ただ男が室内を覗き終えるまで堪える二人。

 しかし、もちろん男が想像する情事など無かったので、男は「ちぇっ」とつまらなそうな顔で室内を覗くのを止めた。

 ロアンは、男の嫌な顔を見てホッと胸をなでおろす。
 イザベラの処女を奪ってない事を密告されれば、教会の権力者達が黙っては居ない。あれよあれよと言う間に、領主の座を蹴落とされてしまうだろう。そうなれば、これから権力者の毒牙にかかってしまう生娘たちを救うことも叶わない。それだけは何としても避けなければならなかった。

 だが、ホッとしたのも束の間。
 室内を覗いていた男は、一つの疑問をロアンに投げかける。

「はて、ロアン様。昨晩の御政務は激しいものだったのですかな? あのようにベッドのシーツがめくられ、床の所々に傷が見え…はて、守衛の話では、昨晩のロアン様の部屋は、一度大きな物音が聞こえた以外、静かなものだったと聞きましたが」

 ロアンは男の観察力に焦り、下唇を噛んだ。
 が、そこは領地を統べる器。なんとか話を取り繕おうと、訝しげにロアンを見る男に対して合わせるように考え付いた言葉を投げかける。

「は、はっはっは。守衛に聞き耳を立てさせるとは、貴方も悪い人だ。実はあの娘、気が粗暴な奴でな。見た目からしても乱暴そうであろう? じゃじゃ馬の手慣らしをさせるのは一筋縄ではいかなくて、少し激しい遊びを興じてみたのだ」
「ほう、どのような遊びを。グフフ…私も興味がありましてな」

 ちょこんと床に座るイザベラを見ながら、いやらしい笑みを浮かべる男。
 ロアンとイザベラは、そんな男に殺意を抱かせるほどの嫌悪感を募らせたが、ロアンが目でイザベラに堪えて聴くように合図させると、男に合わせて話を続けた。

「まずは娘の口を腰紐で縛って、抵抗する体力が無くなるまで一晩中追いたててな。逃げられずに疲れた所で、あの小ぶりの体を、嫌だと思う心が、欲しいと思うまで執拗に攻め続けてな。生娘とは言え、欲深き女だ。十分に女の快楽を知ってしまえば、大人しくなる。そこで、ベッドのシーツを床に敷き…というわけだ。」
「ほ、ほほう。グフフ…それはそれはロアン様、グフフ…羨ましい話ですな」
「それからは守衛の耳にも聞こえないほど、さぞ静かであったろう。床に傷がつくほど暴れる生娘の口を塞いで、処女を奪ってやったのだからな。貴方にも聞かせてやりたかった。あの痛みと喜びを同時に感じながらも、それを堪える生娘の声。あれが私は、何よりも好きだからな」
「グッフッフ…領主様の政務は、実に熱心でございますな。しかしまあ妻子の居る身で、なんと女に傷を付ける事が上手いこと」
「そう言うな。妻にはやれない事も、見ず知らずの生娘には出来る。それに、私も傷を付けられた。この手の傷を見てくれ。余りに暴れるんで、私が怪我するほどのじゃじゃ馬だったのだ」
「グフフフフ…本当に羨ましい話でございますなぁ」

 口から口へ連続して良くも出る、ロアンの創作した情事を聞きながら、男のいやらしい視線は、イザベラを捉えて離さなかった。
 あの細腕でありながら領主を傷付けるほどの暴れぶり、そして今でもキッと汚らわしいものでも見るようなキツイ目で睨む赤毛の娘が、この領主ロアンの嗜好のもとに、良いようにやられ、一晩で望まぬ女の喜びを与えられたと想像するだけで、男は無意識に垂れる涎に、舌なめずりを繰り返し、その興奮をあらわにした。

 が、興奮する男にも、その洞察の中で、腑に落ちない点があった。
 それは、イザベラの服も髪も体も顔も、領主ロアンの話す情事の中身ほど乱れていない事だった。ロアンの手の傷が、爪や歯で傷付けられたような雰囲気ではない不自然さも、手篭めにされたはずのイザベラが、自分に向ける憎しみに満ちた睨みも、情事の想像の結果にあるものとしては、理解できない疑問がわく。

 そして男は、核心である疑問を口にする。

「失礼ですが、御領主ロアン様は本当に、あの娘の処女を奪ったのですか?」
「ははは、何を言う。このロアン=ブリティッシュが嘘をついているとでも?」
「グヒヒ、あなたは昼も夜も熱心な官僚だ。だから、嘘をついているとは思わない。が、少し不自然な感じがしましてねぇ。何か証拠はありませんか?」
「証拠。証拠か…」

 男の疑問は、確かなものであった。
 辻褄あわせのように考え、並べられた創作の情事の結果にあるイザベラの姿を、迂闊にもロアンは忘れていたのだ。ロアンは焦った。自分の言葉の隙を突き、迫る男の洞察力の凄みに。その男が投げる疑問の目に。

 ロアンは誤魔化し笑いを浮かべながら、一度イザベラのほうを見る。
 イザベラが、不安そうな顔でロアンを見る。何とかしなければ。何か、この男に対して言い訳できる物は無いか。と、室内を探した。

「どうしたんですか、別に今から私があの娘の取調べをしてもいいんですよ」

 イザベラの姿が気に入ったのか、その内なる欲望の牙をむき出しにし始めた男は、部屋の扉を塞ぐように立つ、ロアンの体を離そうと、必死に催促をする。
 このままではまずい。と、思うロアンの心の中は、焦りの色で塗りたくられていた。

 しかし、部屋の中を見回しても、そこには何一つ、イザベラの処女を奪った証拠たるものが無かった。せっかく機転を利かせて喋った事が、逆に疑問を呼ぶ結果に気が動転していることもあり、ロアンの慌てぶりは、イザベラの目にも明らかだった。

「ふふふ、ないようですね。では私が自ら取調べをしてあげましょう」

 じゅるり、と音を立てるような舌なめずりを一度すると、ついに男が、己の中に滾った興奮に我慢できなくなったのか、焦燥感に揺れるロアンを扉にたたきつけるようにして押しのけると、床に座ったままのイザベラに足早に近づいていった。
 男の鼻息は荒く、獲物を狙うように一直線にイザベラへと近づき、欲望がギラついた目でイザベラを見つめ、その肩を力任せに掴むと、その場に押し倒そうとのしかかる。

 イザベラは、思わず悲鳴をあげた。

「い、いやーーーー!」

 些細な抵抗はしたものの、肩口を抑えつける男の力は強く、なるがままに押し倒されたイザベラは、男の欲望に歪んだ表情に拒絶に近い嫌悪感よりも、純粋な恐怖を心に抱いた。
 見ず知らずの醜い男が、体を奪おうと乱暴にのしかかってくるのだ。いくら気丈な彼女とて、心はまだ男を知らない少女のままなのだから、錯乱気味にならないはずはない。短く纏められた赤毛を振り乱し、顔を背けながら、襲い掛かる醜い男のアゴを、自分の右手をつっかえ棒にして押しのけつつ、もう一方の手は男を殺すための武器を掴もうとして必死になる。

 しかし、ロアンを襲ったときの刃物はベッドの下に投げ込まれてしまったし、室内に男を払うことの出来そうな武器になるような物は無かった。

 一方ロアンは、扉近くの柱に叩きつけられ、軽い脳震盪にかかっていた。
 意識が朦朧となりながらも、態勢を直し立ち上がり、目の前で襲われているイザベラを救おうと、男の背中を追った。だが、その脳裏には一つの葛藤の種があった。男をつまみ出そうにも理由が見当たらない。しかし、イザベラは助けなければならない。ロアンの葛藤とそれに繋がる思考は、朦朧とする意識と相まって、彼の足取りを重くさせた。

 どうすればいい…どうすれば…と、ロアンが思ったその先に見えた物は、彼の答えに相応するものだった。そして、彼は、イザベラの唇に迫ろうとする男を前にして、大きく足を振り上げた。

「この獣め! やめないか!」

 悩みの晴れた様なロアンの一喝と供に、イザベラの耳にはドゴッと鈍い音が聞こえ、一瞬開いた目には、のしかかる男の苦悶の表情が見えた。
 同時に、イザベラを押し倒した男の体は浮き上がり、ガタガタッと勢い良く横へ二、三回転がりながら吹っ飛ぶと、ガンッと大きな音を立てて部屋の壁に強く叩きつけられる。そう、領主ロアンの思い切りの良い蹴りが、男の横っ腹に命中したのだ。

 恐怖と憤りの隠せないイザベラは、体を起こすと、ロアンによってベッドの下に投げ込まれた刃物を探した。彼女を襲った醜い男のトドメを刺そうと、殺意が活発に動き出したのだ。

スッ…

 だが、そんな彼女の肩を掴む手が…殺害を止めさせる手が一つあった。
 良く見ればそれは、傷口が生々しく残るロアンの手だった。

「どうして!? 私があんな獣に犯されてもいいと言うの!?」
「イザベラ。お前のおかげで領民の娘達が救われるのだ。何もその綺麗な手を、わざわざ汚す事はあるまい」
「えっ」

 イザベラは驚いた。
 殺害の意思が止められたからではない。領民の娘達が救われる、と言い切ったロアンの顔が、それまでの惰弱な領主の物では無かったからだ。

 そして、しばらくすると、ロアンに蹴り上げられ、壁にぶつかった男が、憎憎しい口調で語気を荒げ、ロアンに詰め寄る。

「うう…な、何をなさいます! いくら御領主ロアン様とて、審問中である聖職者の私に、理由も無しに傷をつければ! ただでは済みませんぞ!」
「勘違いをするな。証拠があるから、止めたまでの事。これが、私が彼女の処女を奪ったという証拠だ」

バサッ…

 ロアンの手に掴まれ、男に向かって思い切り良く投げられた一枚の薄布。
 それは、血のついたベットシーツであった。

「こ、これは…」
「それこそまさしく処女の血のついたシーツ。著しい証拠ではないか」
「馬鹿馬鹿しい! こんなものが証拠になるとお思いですか!」
「はっはっはっ、貴方のような敬虔な信者が、なんと血迷った発言をするのだ」
「ち、血迷う? 何のことです!」
「国王の決めた教会への査問委員会の条例に一つ、共通の取り決めがあるのをお忘れか」
「取り決め…?」
「初夜権の儀式を行使した次の日以降に、教会の者が娘を審問する際。領主に認められた『処女でないという証拠』が一つでもあれば、聖職者たる教会の者はどんな理由があるにしろ、その娘を姦淫してはならないという取り決めだ!」
「な、なに…なんだと…ぐぐ…た、たしかにそれは…そうだが!」

 くぐもった声で、反抗の意思を見せる男。だが、男はロアンの論法に一言も言い返せなかった。
 国と教会との、その取り決めは確かにあり、領主ロアンの言っていることは至極正論だった。教会が流布した初夜権というシステムは、災いをもたらす悪の象徴たる処女を、聖職者が姦淫することで清める儀式だからこそ成立するのであり、戒律で『みだりに姦淫してはならぬ』と決められた者が、非処女…つまり、生娘で無い者を姦淫すれば、それは戒律に背く事となり、教会から破門されることもある重大な罪であった。

「し、しかしロアン様。その女はまだ非処女と決まったわけじゃ…」

 なんとかイザベラを抱きたいと思う欲望が先に出て、意地汚くロアンにすがる男。
 イザベラに指を指し、惨めに処女であることを口ずさむ男は、すでに聖職者というより性欲の虜。食う時に食い、貪る時に貪る、獣そのものだった。

「女々しいぞ! 早くこの部屋から出て行け! 貴方を領主暴行の罪に問わないだけ、ありがたく思うのだな!」

 聖職者としての体裁さえ失い、醜い欲望を露にする男に、ロアンは今まで溜まっていた憤りを言葉で表した。手を振り上げ、汚物を見るような冷たい目で、男を蔑んだ。
 しかし、男はまだ食い下がる。

「ひぃ、そ、そんな。じ、自分だけ楽しもうなんて、御領主様は横暴だ」
「黙れ! 権力を傘に着て、生娘を辱め、己の欲望を満たすことにしか興味の無い獣め! 私は領民を守る義務があり、娘には愛する者を愛する権利がある!」
「そ、そんな格好の良いことを言って、ろ、ロアン様だって、生娘を毎晩抱いていたではないですか。へへっ、だから、今さらそんな事言わないで。グヒヒ…私にもあの娘の味見をさせてくださいよ」
「腐れ聖職者が…少し頭を冷やせ!」

 ロアンは、しつこく食い下がる男に業を煮やし、傷ついた手で男の頬を叩いた。
 その一撃に身構える男だったが、ロアンはもう片方の手で彼の胸元を掴み、肉を引き裂かんばかりの力で、ジリジリとその巨体を引きずった。そして、開き戸のついた窓を、蹴りで豪快に開け放つと、片手に掴んだ男を軽々と外へと放り投げた。
 男は良く整地された庭へ、ゴロゴロとまるで玉のように転がりながら、勢い良く教会の花壇へと突っ伏し、頭を数度打ったこともあり、その場でだらしなく気絶してしまった。

「御領主様!」

 一連のロアンの言動を見ていたイザベラは、思わず声をあげた。
 男に襲われていたという恐怖の解放からか、生娘がはしたないと思う気持ちも振り払い、ロアンの背に抱きついた。

「ありがとうございます…ありがとうございます…」
「イザベラ。私は、お前に感謝をされることなど一生無い男だ。結局、あの男が言ったように、私はあの男と同じ穴の狢だった」
「いえ、御領主様は違います…御領主様は、私の…いえ、領民の事を考えています…」
「そうだな。もう、お前達に悲しい思いはさせたくない。私は惰弱な領主から生まれ変わるつもりだ」
「ロアン様なら…必ずやってくれると信じています」
「うむ。すぐに領主として新たな触れを出す。イザベラ、お前もこんな息苦しい場に、いつまでも居たくないだろう。早くご両親の居る街へ帰りなさい。そして、本当に愛せるものを見つけて、幸せになってくれ」
「いえ…私は…」

 ロアンは、背に抱きつくイザベラの手を優しく解き放つと、その場を振り返って、イザベラの顔を見、その強い意思をもった生娘の顔を覗き込んだ。
 窓から差し込む日差しの影が、赤毛のイザベラの顔を隠す。
 ロアンは気付かなかったが、イザベラの目には、薄らと涙が溜まっていた。悲しみや喜びの混じったイザベラの目元に溜まる涙が何を意味していたのか、その時の誰にもわからなかった。


 少し後。
 どこか悲しげに手を振る生娘イザベラと別れたロアンは、自分の血のついたベッドシーツを持ち、自分の構想した初夜権の改革を胸に秘め、政務を行うために、領主の屋敷へと歩を進めた。

 ロアンがその日に打ち出した改革は、教会からの初夜権の買い上げだった。
 ロアン自らが王から賜った金銀財宝、その私財を投げ打ち、すべての権利を買い上げた。教会の者の中には、性欲を満たす材料を失い、不平不満を言い、妻子を持っていながら毎晩、初夜権の儀式に生娘を呼ぶロアンに向けて『好色領主』などと陰口を叩くものもいた。だが、ロアンは領内の生娘達に指一本触れなかった。その代わり、生娘達に一つの物を持たせて帰らせた。

 そう、生娘たちの手の甲に小さな傷をつけ、血のついたベッドシーツを『非処女の証』として持ち帰らせたのだ。

 そして、一つの報を領内に触れ回った。
 聖職につく者が、処女でない者を姦淫した場合、即刻極刑(死刑)に処す、と。

 この報は、教会という権力に虐げられていた市民、特にまだ相手を持たない生娘達を喜ばせた。
 今まで凝り固まっていた風潮を、逆手に取るようなこの改革は、少なからず教会という当時の絶対権力に対して、強い姿勢で取り組む領主ロアンの姿を、領民達の鮮やかに印象付けた。報せはロアンの治める領地を越え、教会に虐げられていた他領の人々も、ロアンの噂を聞き、進んでロアンの領国へ移り住むようになった。

 初夜権というシステムがあるからと、愛するものが居るのに結婚出来ず、心に夢を留めていた娘達は、この領主ロアンの話をすでに体験した他の者から聞き、続々と結婚する事を公表し、その喜びを領主ロアンに伝えた。

 そして、十年後。
 教会に睨まれ、妻子達に疎ましく思われながらも、領地の繁栄と発展と、領民の幸福を成功させたロアンは、自らは貧しくなるばかりだったが、非常に充足する毎日を送っていた。

 夕暮れに染まった城下で、楽しげに生娘達が話し合う姿。
 生娘達の幸せな振る舞いを、屋敷の窓から遠くで見ていたロアンは、ふと、あのイザベラとの一晩の記憶を思い出していた。

 「イザベラ、お前は今もどこかで、幸せに暮らしているだろうか」

 そう言いながら、窓の外から吹きぬける風に、どこか懐かしみを感じるロアン。
 毎日を忙しい政務に追われ、領地の教会との睨みあいを続け、領民達の幸せを考えながら、領主という重い肩の荷を背負い、遠くを見つめるロアン=ブリティッシュに、かつての惰弱な領主の影は無かった。


 しかし、彼の思い出の人物、イザベラは、もうこの世に居なかった。
 元々体は丈夫なほうで無かったので、たちの悪い流行り病にかかり、幸せとは正反対の苦痛を味わいながら、その短い生涯を閉じたのだ。
 彼女は生前、「愛している人がいる」と良く知る周りの者に話したことがあった。
 だが、相手が居るのにも関わらず、彼女は結婚をしようとはしなかった。
 きっと強い心を持つ彼女の事だ、未だに初夜権を恐れてのことだろう、と周りの人は実しやかな噂を立てたが、結局イザベラの愛した相手が誰なのかは、彼女の生涯の終わりと同時に、永遠の謎に包まれた。
 彼女を弔った葬儀屋が言うには、彼女は死ぬまで生娘のままであったという話だ。
 

【了】
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短編:『初夜権』-2

2008年07月18日 20時16分10秒 | 短編

ガチャ…

 重苦しい木の扉を潜り、今日も渋々、教会の人間に準備された部屋にロアンが入る。
 教会に組する誰かが片付けたのか、良く整理された室内の様子がロアンの目に飛び込んでくる。使い古されてすす惚けた暖炉、綺麗に並べられた蝋燭台、陰鬱な影を映し出す灯火、三人の天使の描かれた宗教画が光によって浮かび上がり、壁にかけられた十字架が、今夜も悪魔の呪物のように歪にギラつく。二階と通じる天井からは、木目の隙間から落ちる砂ぼこりと、ギシギシと何かが激しく揺れる音。そして、男の喜びと、女の哀しみがロアンの耳には聞こえていた。

「この世に存在する悪魔というものが本当に居るのなら、きっとそれは我らの事を言うのであろうな」

 蝋燭に照らされたロアンの顔が、一瞬、陰る。
 体よりも心がむせ返るような異様な暑さは、ここが邪教の巣たる所以か。地方を治める領主だからこそ、正義正論をもって市民を貪る悪魔に抗わなければならないのに…率先して教会と信仰という物にすがる悪魔の手伝いをしている。なんと情け無い事だろう。そう思いながら、室内の奥へ重い一歩を進むロアン。
 昼は『賢明な領主』を装っていても、夜は所詮『悪魔の小間使い』だ。
 教会という巨大な権力に逆らえない、惰弱なロアンの心が、無造作に置かれた木製のシングルベッドへ、なくなく足を運ばせてしまう。

「生臭坊主! 死ねぇぇ!」

 と、その時だった。
 物陰からギラりと光る何かを伸ばし、飛び込んでくる一つの影。ロアンが、しまったと顔を引きつらせた時には、もう遅かった。

スパッ!

 気よりも先に体が動いたロアンは、危機を回避するために体を捻れるだけ捻り姿勢を変え、手を影へとバタつかせ、辛くも急所はのがれた。が、ロアンの手の甲には一筋の切り傷がつき、そこから天井へと赤い鮮血が飛んでゆく。

 飛び込む影がロアンの体をすり抜けるように家具棚に突っ込んだのを確認すると、ロアンは見に迫る危険を察知し、影に対して正面に身構えながら流血の止まらない手の甲を他の手で抑え、再び動き出す陰を目で追いながら、ジリジリと逃げるようにシングルベッドの近くまで寄った。

ドッ!

 そしてまた影が勢いをつけてロアンへ飛び込む。
 しかし、不意打ちならまだしも、今度はロアンも身構えている。丸腰とはいえ、ロアンは領主となる前は、荒くれの兵隊達を統率する武人であった。油断の無い一対一の勝負となれば、戦慣れしたロアンに勝てる男など、そうざらには居なかった。

 ベッドに敷かれたきめの細かい綿のシーツを止血をしている手の指で掴むと、まるで奇術師のテーブルクロス引きのようにスッと抜き取り、飛び込んでくる影に向けて、勢い良く飛ばした。

バッ…

 人間と言うのは、今まで見ていた視界が閉ざされると、一気に平衡感覚を失うものである。飛び込んでくる影も、ロアン目掛けて飛び込んできたのなら、また同じことであった。視界の閉鎖に混乱した影は、手に持った刃物を上下に振り乱しながら、ロアンの姿を探す。だが、ロアンはすでに、シーツにくるまれた影の背中を捉えていた。

ガバッ

 一瞬の捕り物だった。
 ロアンは、手馴れた具合に白いシーツの中で踊る影の手首を掴むと、影が慌てて振り回すもう片方の手に握られた刃物がロアンの体に触れる前に、影の足を払い転ばす。

バタンッ!

 その拍子に、影が刃物を落とす音を確認したロアンは、固い板場の床に受身もとれず、思い切り転倒した影の背、腰から尻にかけての部位に馬乗りになり、暴れる影の腕を掴み、骨と神経が痛むように天井へと伸ばす。ほぼ羽交い絞めにされるような形で、その影は痛みに堪えられず動きを止めざるをえなくなる。

「誰だか知らないが私の身分を知っての狼藉か! 私は、この地方の領主、ロアン=ブリティッシュ子爵だ!」

 ロアンの声が室内に響く。
 手首からは、しとしとと落ちてゆく少量の血液の飛沫が、影を包み込んだシングルベッドのシーツへと朱の色を広げてゆく。

「私に触るな! その汚らわしい手で、何人もの生娘を垂らしこんだ卑怯者め!」

 威嚇する獣の雄たけび様な、常軌を逸した金きり声にロアンは耳を疑った。
 まさか、と思ったロアンは、腕の拘束を解かないまま、影を包んだシーツをめくる。それに続いて、ジリジリと影の姿が、徐々に室内の蝋燭の明かりに照らし出され、ロアンの目に飛び込んでくる。

「お、お前、女か!」
「離せ、獣! 善良な領主の面をしながら、裏では生娘を手篭めにする、アンタのような卑怯者を、日の光の届くところに生かしておけるか!」

 赤毛にやや短く整えられた髪。綺麗な曲線を描くうなじ。意外なほど細い、腕と体。
 そう、ロアンを襲った影の正体は、意外にも女だったのだ。

 目の前の娘に獣(けだもの)と罵られたロアンだったが、ロアンもまた、目の前の娘の行動を見て、獣と思っていた。
 一般的な市民階級の着る衣服、いわゆる何処にでも居る、気優しい街娘の格好をしてはいるが、蝋燭の光が一度、娘の顔を照らせば、濃い赤毛は獅子のように逆立っており、体は罠にかかった野生動物のようにロアンの拘束を解き放とうと必死に動いて、目は落ちた刃物を追いながら殺意に満ちている。

 ロアンは、とりあえず娘を落ち着かせようと言葉を投げかけた。

「娘よ! 私の言葉を聞いて落ち着け! いいか、私は生娘の貞操など興味がない! それどころか、この行事自体も、悪しき体裁だと思っている!」
「ぬけぬけと嘘をつけ! ここから帰ってきた娘たちは、皆泣いていた! 皆、領主と僧侶に辱められたと口々に言っていた!」
「娘達を辱めたのは、不甲斐ない話だが、本当のことだ。だが娘よ、僧侶や私を殺したところで、何が変わるというのだ! 教会という巨大な権力の前では、何も変わらないぞ!」
「変わっていくさ! いや、変えていくのさ!」
「なに! それはどういう…」
「僧侶も、領主も、身に危険が迫って居る事を知れば変わる! 変わらざるをえなくなる! だから殺すのさ! アンタみたいな腰抜け領主が権力に屈し、教会に反抗できないと言うなら、私達がするしかない! 権力に屈しないことが、権力に犠牲になった私達の復讐なのさ!」
「なんと…」
「だから私の…いいえ、私達の貞操は、愛すべき人以外には誰にも渡さない! 意地汚い教会の僧侶にも! それに従うだけの領主にも!」

 激昂する娘の言葉と行動は強く、まさに正論に値するものだった。
 ロアンは言葉の数々を聞きながら己の心の弱さに、打ちひしがれた。

 すると、ロアンの肩から力が抜けた。手の拘束を解き、馬乗りになっていた娘の体を離れると、ロアンは蝋燭のかけられた柱に背を置き、膨らむ多大な罪悪感と、領主たる者として少々の絶望に心を潰した。

 その間に、サッと身を翻した娘は、落とした刃物を手に取り、うな垂れる領主ロアンの前へと、鈍い銀色を放つ刃物をちらつかせ近づく。まったく無防備な態勢のロアンだったが、万が一を考えた娘は、動けないようにガッとロアンの腕を片方の腕で掴むと、刃物を彼の急所に突きたてようと力を入れる。

 一方ロアンは、視界に飛び込んでくる獣のような娘と、その手に握られた銀色の刃物を、まるで世捨て人のように、落ち着き払ってぼんやりと見る。明らかな殺意を前に恐れる感情など一切無い、捨て身の姿勢。娘は、自らの殺意に満ちた目と手でロアンを捉えながら、その奇妙な行動と姿勢に少々の動揺を隠し切れなかった。

 そうしている内にロアンが口を開いた。

「どうした。さあ、殺せ。一思いにこの胸の下あたりを刺せ。苦悶の顔を見たくなければ重なるように飛び込んでこい。私は、苦痛の声も出ないで絶命するだろう」
「い、言われなくても殺すさ!」
「それでいい。お前のような心の強い娘に罪を負わせるのは不本意だが、私も罪悪を感じる毎日に疲れた。残した妻子達には悪いが、ここで私が死ぬほうが領民のためになる」
「余計なお喋りはやめろ! そんな気持ち初めから無いくせに!」

 死を前にして出たロアンの本音…いや、娘にとっては愚痴でしかない言葉。
 だが、その優しげな口調から出る言葉が、娘の殺意を鈍らせる。この娘も、領民のために汗を流す領主ロアンの昼間の賢明さは知っていたのだ。

 一方ロアンは、目の前の気丈な娘を何処か尊敬の眼差しで見つめながら、自らの胸を刺されるまでの空白の余生を、心の吐露、領主の愚痴で埋めてゆこうと思っていた。

「私が惰弱な領主でなく、お前のように心強い人であれば良かった。そうすればお前も、犠牲になった生娘達も、傷つくこともなく幸せを掴めていただろう」
「黙れ! 結果だけを後悔し、懺悔しても、行ってきた非道の贖罪にはならない!」
「お前の言う通り、私は罪深い人間だ。表では、お前達領民に慕われようと奔走する善人の顔をしながら、裏では生娘を喰らう聖職者と同じ、ただの獣だったのだからな」
「あ、哀れみを誘って、私の心を懐柔するつもりか! とんだ二枚舌だな!」
「すまん。お前の憎しみを満たすには、少々無粋だったな。さあ、心強きお前の手で私を殺せ。殺せば私の心も救われる…」

 そう言うとロアンは顔をあげ、眼を瞑った。
 やや傷口付近に固まり始めた血痕の隙間を縫うように、未だ血が少量流れ続ける手を大きく広げると、刃物をもった娘の前で無防備になった。

「悪く思うなよ領主。全て、アンタが悪いんだ!」

 強気に言葉を吐く娘は、ギリギリと音の出るほど刃物を握る手に力を入れる。
 しかし、強気な言葉とは裏腹に、刃はロアンの体を突こうとする動きを見せなかった。操を、勝手に決め付けられた処女権という制度で教会に奪われ、悲しみと憎しみに凝り固まっていたはずの娘の意志は、ロアンという領主を前にぐらついていた。願望であった権力の殺害、その一際の瞬間を前に感無量になるどころか、「ここでこの領主を殺して何になる」「この領主を殺しても、次の領主が生娘の処女を貪るだけではないか」と、思考という名の葛藤に襲われていたのだ。

 そして、蝋燭の蝋が半分ほど溶け尽きた頃。
 娘は一つの決断をした。

「腰抜け領主! 命が惜しければ、私の言う事を聞け!」
「な、なにっ?」

 娘の突然の命乞いの催促に、ロアンは驚きを隠せなかった。
 力強く刃物を向けたまま、娘の言葉は続く。

「一度捨て鉢になった領主とて、自分の命は惜しいだろう!」
「娘よ、何を考えているのだ。今さら命など惜しくは無い」
「命を惜しめ! 惜しむと言え! アンタが私の言う事を聞けば、私は助けてやると言っているんだ!」
「しかし、お前の憎しみと、私の贖罪の心を満たすことが出来る方法が、私を殺すこと以外にあるのか」
「あるから言っているんだ! さあ、命乞いをしろ!」

 命令口調で続く娘の言葉の節々に、ロアンは少々の疑問を感じた。
 この娘は、領主である私に何をさせようと考えている? と、素早く回り始めた頭の中で思考を繰り返す内に理解できた答え。それをロアンは口に出した。

「娘よ。この惰弱で、ちっぽけな私に、お前のような生娘達を権力から守れというのか」

コトン…

 ロアンの言葉を聞いた娘は、思わず手の持った刃物を落とした。
 同時に、娘はフワッと裾長のスカートをなびかせると、力なく膝をつき、領主ロアンの前に跪いた。そして、無防備に広げていたロアンの手が、すかさず優しく娘の肩に沿えられる。領主の前で俯く娘の顔からは、すでに、さっきまでの獣の怒りは消えていた。

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短編:『初夜権』-1

2008年07月18日 20時14分37秒 | 短編
『初夜権』


「ふうむ…」

 王国の領地を預かる領主の一人、その時の人ロアン=ブリティッシュは悩んでいた。
 毎日、見ず知らずの女と一晩を供にしなければならない生活に、嫌気がさしていたのだ。それもただの女ではない。夜伽を強制されるのは、およそ世の穢(けが)れを知らない処女ばかりだ。

「教会の僧侶どもは、今日も知らない女を私に抱かせるのか」

 静かな夜の寝室に一人、一杯の紅茶を片手に深いため息を漏らすロアン。
 現代から遡る事、およそ数百年。時にして15世紀半ば、王から土地を預けられた領主には、政務以外に一つ任された、裏の仕事があった。領内の由緒正しき家柄を持つ男女が結婚する時、そこに立ち会うことである。だが、ただ結婚式に立ち会うだけではない。両人が結婚する前夜に、花嫁の処女を領主自ら奪わねばならない、という掟があったのだ。

 当時の社会の風習は、科学が発達した今と比べれば、異常なほど迷信に縁深かった。
 その迷信の中の一つに、『処女は結婚する男にとって、後々に災いをもたらす』と言われて忌み嫌われ、それ故に『聖職者』と呼ばれる僧侶や領主が『初夜権』と称して、その処女を奪う事を当然としていた。

 もちろん、これには裏がある。
 後の歴史書などでは、暗黒時代と呼ばれるほど社会風紀の乱れた中世ヨーロッパ世界において、聖職者は教会という強大な権力の加護の元に座していた。だがその実態は、聖職者とは名ばかりの色欲に堕落し、物欲に腐敗していた。しかし、『みだりに姦淫してはならぬ』という一応の戒律があるため、その公の行動は一定制限されているのが実情だった。

 が、一概に欲深な聖職者というのは意地汚いものである。
 自らの色欲を満足させるために、処女への姦淫を悪の象徴とし、それを聖職者が奪うことによって、娘の身を清めるという『迷信』を広めたのだ。無償で生娘たちの処女を嗜める事の出来る『初夜権』は、教会権力に守護される僧侶達にとって、非常に都合の良い理屈であった。

 要するに、『初夜権』というのは、聖職者とは名ばかりの性欲旺盛な僧侶や領主達など支配者階層の『娯楽』だったのだ。

 もちろん、自分の花嫁の処女を奪わせまいと迷信を嫌う者も少なからず居た。
 だから、この『初夜権』を欲しいという花婿が居れば、僧侶や領主が花嫁に値をつけて、それに相当する金品を献上する事で解決するという時もあった。判りやすく言い換えれば、『初夜権』は支配階級が設けた臨時の税収。結婚税であったのだ。

 だが、当時の市民は、貧困にあえぐ者も多く、裕福な市民以外は皆、花嫁の処女を泣く泣く諦めるのが実情であった。内心、誰もが迷信など信じていなかった。ただ腐敗を続ける宗教家達に、結婚という身近な物でさえ支配される。領主、僧侶達の公然の横暴は、市民の怨嗟の声の中、当然として繰り返されていたのだ。

 そんな世間の風潮の中。
 市民を愛し、国を愛し、領主の中でも賢明と呼ばれたロアンは、どうにか僧侶達の権力を捻じ伏せられないかと画策した。だが、当時の絶対権力であった信仰教会を傘に着る僧侶達の抵抗は凄まじく、たかだか一地方の領主が、とやかく口を出せるような事ではなかった。

「どうにかできないものか…」

 熱心な愛妻家でもあったロアンは、自ら妻が居る立場でありながら、毎日教会の僧侶達に命ぜられて、代わる代わる見ず知らずの処女を抱かされる事に多大な罪悪感を覚えていた。

 キィー…

 そんな葛藤の日々を送っていたロアンに、軋む悪魔の音色。
 開門すれば、人四人がゆうに潜り抜けられる幅広さを持つ木製の扉が、まるで老婆の招き手のようにゆっくりと開き、同時に生ぬるい風が室内を通り抜ける。

「…ほっほ、ロアン様。今夜の花嫁の準備が整いましたぞ。それでは、ご政務のほう頑張りくだされ」

 苦悩する領主ロアンの部屋の戸から、老いを感じさせるしゃがれた声が聞こえる。
 その声の先には、薄らと灯火の灯ったカンテラを持ちながら、風の通り抜ける扉を通り抜け、下卑た高笑いを浮かべてロアンをジッと見る、骨と皮で出来たシワシワの老僧侶。

 その薄汚い聖職者の皮一枚剥げば、路頭を歩く性欲の獣と同じだ。と、ロアンは激しい苛立ちを老僧侶への視線に含ませ、キッと睨みつける。
 だが、老僧侶は「ヒッヒッ」と欲望に満ちた口で笑うだけで、何も語らず、そそくさと会釈をして扉の影へと消えてゆく。敬虔(けいけん)な聖職者と呼ばれ、太陽の昇る日中は市民から高僧と慕われるこの老僧侶もまた、今は人間的な欲望に支配されていた。

 きっと、今日も手頃な『生娘』を見つけたのだろう。

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『巨大ケーキを作って、食うだけの話』

2008年06月21日 22時37分25秒 | 短編

 昔から自分には、一つの夢があった。
 ケーキ屋に並ぶ、苺のショートケーキを腹いっぱい食べると言う夢だ。

 もちろん食べる時は、お上品に銀食器のフォークなんか使わず、クリームの甘さと苺の酸味が鼻をぶん殴るぐらいの乱暴な手づかみで食べたい。それに、ショートケーキなんていう、ご機嫌で、お上品で、お生ぬるいもんじゃない。がっつり生クリームでコーティングされて、スポンジがデデンと一塊になった、円状のホールケーキで食べたいのだ。

 大人になった私は、とにかく子どもっぽく馬鹿馬鹿しい夢のために、幾千万という金をかき集め、本物の材料と本物の調理器具、そして世界中で著名な一流のケーキ職人から、いつもは120円の偽ケーキをケーキと称して売っているような場末のケーキ屋職人まで、とにかく人と物をかき集めた。

 そして、ついに…

「出来ました! 直径3m、高さ6mの100号のホールケーキです!」
「おお、ついに出来たかね!」

 感無量だった。
 ビル建設予定地を丸々借りて、工事中と書かれた囲いの中で作った巨大な建物のようなホールケーキ。
 特設の巨大オーブンを使って、三日休み無く焼き上げられた、普通のケーキ何百個分にも相当する、スポンジケーキのブロック塊の重さは7トン。どれも焼きたての良い匂いが残っており、それでいて肌触りは、羽毛のベッドのようにふわふわ。職人の、少々の愛嬌でつけられた焦げ目が、またなんともいえない甘い香りをかもし出す。
 そして、これまた特設の巨大パレットナイフでスポンジの上に塗りたてられたクリームの総量5トン。職人が一日かけて徹夜で塗り伸ばし、見た目の質感から言って滑らかでしっとり、味見と称して一口指で舐めれば、淡雪のように軽い口当たりと、それでいて口いっぱいに砂糖とバターの甘みが広がる、まさに毒のような禁忌の甘さ。
 クリームの上には、収穫量にして畑一個分はあると思われる丁寧に処理がなされた、宝石のような赤い苺の海。内部の苺スライスと合わせて、使用された苺の数、なんと1万飛んで6500個。どこぞの童話で聞くお菓子の家なんて、一息で潰してしまうような甘味の巨塔が、今ここに完成したのである。

 この話を聞いて、TV局が取材に来た。
 100号という前代未聞の巨大なケーキを、独り占めしようというのだ。人の不幸と面白いことなら、倫理を蹴ってでも食いつくTV屋にとって、それは面白くて仕方ない光景だった。

 だが、私はTV局の取材を断った。
 いくら金を詰まれようが、自分の快楽のためだけに作り上げた、この甘みの塔。近年の甘みブーム従って、『タワーオブスイート』とでも名づけようか。こいつを食うのに、人の目があったら、自分としても食べるに食べにくい。マスコミの隠し撮りを避けるために戦争慣れした外国人傭兵部隊300人を警備員として雇い、私は念願だった夢のクリームの海へ、帆を立てて出航した。

「むおおお!!」

 この日のために仕立てた、イタリア製の黒いタキシードが、一気に白いクリーム色に変わる。6mのホールケーキの陸地に、がっつり外壁から飛び移り、まるで白蟻にでもなったように、無心にケーキの壁を食い尽くす!クリームを全身にぶつけながら、苺を片手に口に放り込むと、舌は今まで感じたことのないような甘みに支配され、私の口には、一気に広がる甘い世界の誘惑に堕ちてしまった。
 甘い!甘い!実に甘すぎて!甘すぎて良い!

ムシャムシャムシャ…

 クリームと苺の第一層を突破した私は、ついに厚いスポンジ部分に突入した。
 一口食えば、完全に意識を失うほどのスポンジの重厚感。寝転べば一面カステラのような黄色いが広がっている。その黄色の大地を、手で乱暴に千切って口に入れれば、それは柔らかな感触と供に、プロボクサーのアッパーにも似た強烈な甘味の洗礼が、胃の中を襲う。むむむ…こいつは手ごわい。

ムシャムシャムシャ…

 うえっぷ。そろそろ胃が苦しくなってきた。
 クリームの第二層、スライスされた苺の入ったクリームの荒波が、私の食欲を奪う。私は、ヤレヤレと言った感じで口にクリームを入れて、甘味のダンジョンを進むが、一向に楽しく無い。今まで感じていたはずの甘味への飽くなき充足が、「もう甘い物はたくさんだ!」と、一気に罰へと変わる瞬間。自身の満腹中枢が、完全に飽和しているのだ。

ムシャ…ムシャ…

 だめだ。もうだめだ。すいません。神様。私。甘いもの。大嫌いです。
 なんとかクリーム第二層を突破した私だったが、すでにクリームに塗れたタキシードの内側の腹はパンパンに膨れ上がり、息をすれば気持ち悪くなるぐらいの甘い吐息が放出される。ケーキを食べよう食べようと作り上げた夢の果てに、ふがいなく敗れた私は、その甘みへの情熱が消えてゆくのを背筋に感じていた。

「うう…すまん。このケーキを食べきるのは、うっぷ。無理だった。」

 私は、万が一のために用意した連絡用の携帯電話を使って、事実上のギブアップを職人達に宣告した。掘り進めたケーキの大地の上に見える空から、一筋のロープが投げこまれ、私はそれにすがるようにケーキのダンジョンから脱出した。

 総摂取カロリー22000cal。総摂取糖分125g。
 成人男性でも、一発で糖尿病になり兼ねない量だった。

「じゃあ、例の人達を呼んでくれ」

 私は、口からケーキが出るのではないかと感じるほどの嫌悪感を示しつつ、職人の一人に、連絡をさせた。そう、実はこの夢には、続きがあるのだ。

「「「いっただっきまーす!!」」」

 こんな非科学的なほど巨大なケーキを夢と称して作り上げといて、一人で食べきれない予想をしているというのは、男として実に情けない話なのだが、正直私も一人で食べきれるとは思っていなかったので、私が一人で満喫した後は、両国から読んできた力士100人、飢えたプロレスラー200人、成長期の中学生500人に、この私の夢の残骸を振舞う事にしてあった。

 ムシャムシャと巨大ケーキを食べる、甘みと食欲に飢えた人間達の後姿を目で追いながら、私は病院に向かう救急車の中で一言呟いた。



「夢ってのは、ショートケーキぐらいが一番だ」

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短編:『恋愛ゲーム』②

2008年06月14日 22時23分47秒 | 短編

 ピロピロピーピロピー♪

「な、なんだこいつ…!」

 理屈で攻略できないボスの存在。
最終面。ステージボスとの対決を意味する電子音は同じなのだが、そのボスキャラクターの質が、今までとまるで違う。悪質というか、悪辣というか、とにかく常軌を逸して強い!おそらく、これを作った製作者の性格がひん曲がっているとしか思えない仕様だ。

「そいつが、ラスボスの『三月鼠』。こいつがまた偉く強いんだわ」

 そう男が言った時、すでに私のキャラクターは地を転がって天使の輪を浮かべていた。
ステージボスと出会ってから、すでに1時間ほどが過ぎていた。通算対戦回数51回にして気付いた法則。『三月鼠』の技と行動パターンは、おそらく一つしかない。それは、以下の通りだった。

①開始直後に画面中央へ大ジャンプ。
②素早く2×2ドットの七つの誘導弾攻撃。
③着地と同時に左右に5×5ドットの火柱攻撃。
④その場に数秒間停止し、自分の操作するキャラに向かって走って体当たり。
⑤両端一方の壁に張り付き、滑り降りながら①の行動に戻る。

 おそらく行動パターンさえ読めば、攻略が可能だと思っていた私が、死亡すること51回目にして気付いた、このボスキャラクターの真の恐ろしさ。それは…

「こいつ、攻撃がまったく通用しないじゃないか!」

 驚くべき事に、この『三月鼠』には、自分の操作するキャラクターの一切の攻撃手段が効かない。隙を見て何度か武器を放つのだが、キンキン!と弾くような電子音が聞こえるだけで、まるで効いていない様子だった。効く武器があるのか?と仮定して、あらゆる武器を試したが、その都度実験は失敗に終わる。あれだけあった残機が、見る見るうちに消えてゆく。無常に流れる、ラストステージの電子音。気付けば、自分の操作する残り機数は、3機。

 しかし、前向きになれるような打開策も未だ発見できず。絶えず迫り来る鬼畜とも思えるステージ構成、そして何よりラスボスの存在が、状況を絶望的に塗り替えた。私は、心が折れて、泣きそうになった。理論で突破できないほど、敵が強かったからじゃない。ここでゲームオーバーを迎えることが即ち、男から見た私の敗北を認めるようで、ただ悔しかったのだ。一度でも私が、敗北をその身に感じてしまえば、今まで他者を突き放し、高まる自負心、プライドという己の作った防壁に逃げ込むことが途端に出来なくなる。他人を虐げることで悦楽を感じている、サディストとは名ばかりの寂しがり屋。実はそれこそが、私なのだと気付いた時には、また一つ残機が減っていた。

「…」

 いつの間にか、ゲームに怯えていたのは、私の方だった。
コントローラーを持つ手には力が無くなり、目には真剣味が薄れていた。ただ自嘲するように緩慢なプレイをしてしまう。隣の男は、それをどのような目で見ていたのだろうか。私は、残り一機となったところで、ゲーム画面にポーズもかけず、ただゲームを投げ出すように、操作を放棄した自分のキャラクターに死をくれる敵の出現を待った。

 だが、その時だった。

「おい!ふざけんなよ!諦めて死ぬとかお前らしくねえよ!」
「え…どういう…」
「いいから、コントローラー貸せ!」

 男の語気から見える、明らかな苛立ち。
何故?あと数秒もすれば、残機が無くなってゲームオーバーになって、同時に私の敗北と、男の勝利が確定するというのに。いったい何故なの?

 勝手気まま、野放図に、無造作に、私の手に置かれていたコントローラーを奪った男は、画面にポーズをかけ、暗転となった画面を見ながら、十字キーを数回動かし、設置された二つのボタンを一定のリズムで打ち出し、何かのコマンド入力処理を行った。すると…

ピロリロリーン!

「えっ…」

 ゲームを開始してから数時間は経っているのに、聞いた事も無い奇妙な電子音。
事の次第にわからない私は、画面を見回した。すると、今まで表示されていた自分のキャラクターの体力ゲージの横に、もう一本。同じ色の体力ゲージが用意される。そして画面上には、別色で塗られた操作キャラクターが居た。

「…な、なんだこれ?」
「協力プレイ!見りゃわかんだろ!頭でっかちに、ラスボスの攻略法も教えてやる!」
「わ、私は別に、このままゲームオーバーで構わんぞ!」
「ったく、素直じゃねえなあ、お前も…俺がお前の勝ちを手伝ってやるっていってるんだよ!」
「い、良いのか?きょ、協力プレイで倒しても、お前に土下座はさせるが」
「ああ、いいよ!このまま煮え切らないプレイで終わっても、ゲーマーとして面白くねえからな!」

 いつにも増して熱く、優しくも感じられる、男の言葉。
だが良く考えてみれば、土下座するのを覚悟でゲームクリアをするというのも、どうなんだ。…こいつ、そんなにサディストな私に攻めて欲しいのか?世間一般で言う、いわゆるマゾなのか?と、無粋な思考に陥りながらも、私は男から手渡されたコントローラーを握る手に力を入れた。不思議とさっきまで感じていた絶望感は無い。付かず離れず、男が隣に居るという感覚からだからだろうか。そして、その時、男が放った言葉を、私の耳は捉えて離さなかった。

「それに、諦めてゲームオーバーされて逃げられたんじゃ、俺がお前を誘った意味ねえだろ!」
「…え?」
「いいから、さっさとやるぞ!まずはラスボス前の敵の駆除からだ!」
「あ、ああ…」

 言葉の意味は良く判らなかったが、隣の男は確かに本気だった。
このゲームに対してそれほど愛着があるのだろうか、それとも捨て鉢になった私を許せない理由があるのだろうか。だが、今まで一人で進めてきたゲームを二人でやるのは心強い。とにかく今は何も考えず、二人でボスを攻略して、二人でゲームクリアを目指そう。

「そこっ、右から敵沸くぞ」
「そんな事ぐらい、わかってる!」

「大ジャンプ、私の動きにあわせろ」
「冗談きついぜ、お前こそ落ちないように気をつけろよ」

「上から来るぞ!おいおい、お前体力やばくねーか?」
「わかってる。次のポイントで回復できる。下は私に任せろ!」

「しまった!ダメージを喰らいすぎた…」
「俺のキャラの後ろを歩け、大丈夫。もうすぐ回復アイテムだ」

 おそらく通常時と比べて三倍以上の効率。一人が傷つけば一人が回復アイテムを譲り、一人が壁を壊せば、一人が敵を駆逐する。一人プレイでは味わえない、まさに二人プレイの協調という名の美徳。体力もアイテムも減らさずに、ボスステージ手前までガンガン進めることは、私の不安を払拭するのには十分だった。それよりも驚いたのは、私と男が、意外にも息が合うのだ。いつもは二人とも馴れ合いを嫌うような人間なのだが、コンビプレイという観点から言えば、その実、性に合っていたのかも知れない。今、この空間に居る二人の心は、ゲームという存在を媒介にして、俄かに交わりかけているのかもしれない。 

「ラスボス、来るぞ!」
「攻略法を早く教えろ。でないと足手まといになる」
「あいつは、前からの攻撃に無敵なんだ。だから挟むようにして、隙を見て背中から攻撃を連打すれば、必ず勝てる!」
「そうだったのか!よし、いくぞ!」

 二人プレイ必須とも思えるラスボスの構成。
このゲームソフトを作った人は、そう考えているのではないかと思うほど、ラスボスに対して二人プレイは必勝法だった。あの最高の難易度を誇っていたラスボスに、ダメージ効果である画面の点滅が出るほど、私は声高に「よし!」「やった!」と子どものように声を張る。優等生としての仮面、女の子として体裁、そんな煩わしいものを全て忘れた、ただ純粋な無邪気さが、今の私には、あった。

「これで最後ォォォ!」

ポン!バーン!

「や、やった勝った!やったぞ!私達やったんだ!」

 そして、ついに画面のまがまがしい点滅と供に、ラスボスを撃破した私達。
私はコントローラーを置いて、思わず男の手を握って声をあげて喜んだ。その時の私は、すでにプライドも何もなかった。ステージをクリアした。その、達成したという純粋な喜びが、アドレナリンを放出させ、あらゆる脳内快楽物質が、全身を駆け巡っていたのだ。手を握られた男が、少し照れていたのがニヤケ顔の隙間に見えたが、その後すぐに、勝利の余韻に浸るために甲斐甲斐しく画面を見守りだした男の顔は、少しカッコよく見えた。

 音の少ない三音の電子音と供に、浮かび上がるエンディング画面。
最終目的であった囚われの姫を持ち上げ、今まで操作されていたキャラクターが、操作の糸を離れて、自由に動き出す。ドット絵でもわかる可愛らしく踊る姫と主人公。おそらく数十年前には、感動と呼ばれていたであろうその画面を、私達は一緒に見ていた。男のほうは、なぜだかソワソワしていた。なぜだ?何かEDに内包された意味が、あるのだろうか。

 そして私は、次のED場面で驚くべきローマ字の表記を目にした。

『GOOD LUCK!! ORE NI TOTTE DAIJI NA HITO YO!』

 スタッフロールに書かれた一文の最後、名前の表記があり、その名前を私は知っていた。
隣に座っている、男の名前だった。

「え、これ…」
「悪いな騙して。俺って、こういう告白とか苦手だから」
「どういう意味?だって十年くらい前のゲームって…」
「得意分野でも無いのに、これでも調べ物しながら作って、結構大変だったんだぜ?」
「そんな…私、そんなの聞いてない」
「不意打ちだけど、俺みたいな文系の男が、お前みたいな理系の女の子を口説くには、これしかないと思ったんだ。そこんところ、よろしく加点お願いしますよ」
「…はい」

 私は、いつの間にか、恋愛というゲームの始まりを予感していた。
しかし、二人の恋愛というゲームのスタート画面は、『土下座』からだった。

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短編:『恋愛ゲーム』①

2008年06月14日 22時22分38秒 | 短編
 テレッテ、テレレレーン♪

「あっ…」
「ぷぷぷ、こんなところで死ぬなんて、お前だっせえのー!」

 いつも私が鼻で笑い、その無能ぶりを馬鹿にしていた同級生の男に、『ただ一度の失敗』で罵られた、この悔しさ。このやり場の無い怒り。誰にどう伝えていいものだろうか。

「う、うるさい!だいたいなんで私が、こんなゲームをやらなきゃならんのだ!」
「あれぇ?誰だっけ?『クリアできないゲームは無い』なんて言ってた人は」

 テレビモニターを前に体をワナワナと震わせる私、17歳。
いわゆる女子高生真っ盛りの時期。肌に合わないその称号を手に入れたばかりの私は、相変わらず小洒落た物に貪欲な女友達の誘いを断り、下校の瞬間から一直線に、毎日馬鹿ばかりやっている同級生の家に来ていた。テレビモニターには、天使の輪を浮かべて転ぶキャラクターの絵。そして私の隣には、座布団の上に胡坐をかいて座る同級生の男。

「やっぱり勉強だけ出来ても仕方ないよね。あ、ちなみにこの面、俺は小学生の頃クリアしたぜー?」
「ッ…!」

 私は下唇を噛みながら、男のあざ笑う顔をキッと鋭く睨みつけると、黒塗りのコントローラーを同級生に向かって放り投げた。

パシッ…!

「おっととと、ゲームオーバーの度に人ん家のコントローラーを壊されたら堪らねえからな」

 私の投げたコントローラーを軽く片手で受け止めると、男はニタニタと薄気味悪く笑った。ナイフのように鋭く尖った私の視線にこめられた、静かな憤怒を感じることもせず、この男は眉と口元を一杯に歪ませて笑ったのだ。

 燃えさかる火災の中へ、ドラム缶にたっぷり入ったガソリンを撒く。
この男がやったのは、それに近しい物。私の放つ刃物の視線は、その鋭利さを増した。相手の体を貫くほど刀身が延び、刃先は鋭さを増し、想像しうる『女の子らしさ』とは、まるでかけ離れたような別世界が今、私の目には存在していた。

 だが、そんな視線を感じながら、汚らしくスナック菓子の油に塗れた男の口から放たれた言葉は、炎上爆発を繰り返す火災現場に投入された次のガソリン缶だった。

「おやおやぁ~?そんなにムキになって簡単にコントローラー投げるなんて、もう降参ですか~?ははっ、誰だっけ?自分にクリアできないゲームは無いとか、ほざいてたお嬢さんは」

 ゲーム機とゲーム画面が見守る二人だけの空間、とは言えだ。
 人を見下すような男の薄ら笑いに含まれた意味。おそらくそれは、理屈で畳み掛けようとした私でさえ閉口してしまうような、正論…約束事。…抗えない事実だった。

 その瞬間まで成立していた、圧倒的支配関係にあった私と男の、まさかの逆転劇。
それまでの勝者敗者の立場と理念が一転し、勝利者に君臨する男の顔に咲く『いやらしい』笑み。夏が来ると耳障りに聞こえ始める蝉のような、その憎たらしい男の笑顔を見れば見るほど、支配者であった私のプライドが、ズタズタに傷付けられてゆく。

「うるさい!今のは手が滑ったんだ!さっさと、それを返せ!」

 傷付けられたプライドと威信を回復させるために、私は沸きあがる怒りを最大限に殺して、自分が投げたコントローラーを男から奪い取り、汗に濡れた手でガッと掴むと、『GAMEOVER』と書かれた画面を憎憎しく思いながらも、まだ慣れないボタン操作を精一杯素早く入力し、スタート画面へと戻る。

 ピコーン♪と軽い電子音。ゲームを開始する私の目は真剣…いや、汚名返上の執念に狂う獣そのもの。気付けば、せっかく綺麗に整えた長い黒髪は、私の逆上する心に伴って、もう纏まりを失っていた。

「見てろ…たかが十数年前の…前時代のアクションゲーム一つぐらい、この完璧な私が解けないはずは無いんだ!」
「ほー、やる気あるねえ。その根性だけは認めるけど、また同じところでゲームオーバーにならないようにね」

 ゲーム画面を見ながら鼻息交じりに意気込む私と、それをニタニタ笑いながら見る男の姿は、誰かここに人が居たなら、実に好対照に映っていただろう。

―――――

 事の始まりは、支配される側に立っていた男の些細な悪戯心だった。
全てを熟知し、全てにおいて完璧な、理系数学の神童と呼ばれた私が、全てを知らず、全てにおいて不出来な、文系馬鹿の筆頭たる男に、ある日誘導尋問されて、「クリアできないゲームなんてない」と言わされたことが、そもそもの間違いだった。男が「じゃあこれクリアできるか?」と、持ち出した一本の古めかしいカセット式のゲームソフト。

 ゲームタイトル『スーパーファンシーブラザーズⅡ』。
当時としてはポップなタイトルロゴに、ピコピコと耳に付く音で始まる、奥行きの無い縦と横だけのゲーム画面。その内容はというと、お世辞にも美麗とは言いにくいマス目のドットで描かれたオヒゲのキャラクターが、ある日さらわれた姫を救い出すために、持ち前の槍を駆使して、難関ステージを潜り抜け、各ステージに存在するボスを倒すという、いわゆる『前時代型』アクションゲームだ。

 しかし、これがなんとも、不条理な難易度だった。

 1面に出てくるキノコ型モンスターの『ファリボー』は、丸っこくて可愛らしい姿かたちに見合わず自分のキャラよりも素早く動き、同じく1面に出てくる亀型飛行機乗りの『PATAS』は、地面スレスレを水平に飛ぶミサイル攻撃を仕掛けてくる嫌味な敵だ。しかもこれが雑魚キャラクターとして、画面狭しとワサワサ出てくるのだから、初めて操作する私にとっては、たまったもんじゃない。通算5回のコンティニューを繰り返し、私はやっと1面のボスと対面した。

「ふっ、どうだ!ボスまで来たぞ!」
「甘い甘い。ここからが、このゲームの恐ろしいところだよ」
「何ぃ?…わっわっ…わわわ!」

 男を優越の座から引きずり降ろそうと、私が「ふふん」と自慢げに鼻を持ち上げ、ふとゲーム画面から目を逸らした瞬間。それは、起こった。

 ピロピロピーピロピー♪

 リズムの速い電子音の羅列。
おそらくボスの激しさをテーマとする楽曲が聞こえると、画面には恐るべき事態が起こっていた。

「な、なっ、なななっ、こ、こいつなんだ!」
「ふふ。こいつこそ初心者キラー。一面のボス『アックス蜂蜜熊』さ!」

 私が見たゲーム画面は、すでに一回り巨大な黄色のグラフィックで描かれた『蜂蜜熊』の投げる大量の手斧で一杯になっていた。画面半分が灰色のドットで埋まるほど、大量な手斧の数にパニックを起こした私と、私の操作するキャラクターは、斧を避けようとして右往左往しているうちに、体力が削られ、死んでしまった。

「…な、なんなんだ今の」
「ぷぷぷ、一発も当てられないでやんの」

 為す術もなく敗れた光景に、コントローラーを持ちながら呆然とする私。
それを見て、手を口に当てて溜まった空気を含みながら嫌みったらしく笑いを堪える男。

「お、お前、本当にこのゲームクリアしたことあるのか!」
「ええ、ありますよ。ちなみに二度ほど。ぷぷぷ、それにしても無様なことで」
「こ、このぉ…次は絶対攻略してやる…!」

 私は、含み笑いを浮かべる男に完全にキレた。もうこうなったら、どんな事をしても、この男をギャフンと言わせてやる。そうと決まれば、見た目を気にしている場合じゃない。邪魔に感じた制服のスカーフを解き、胸元手前までシャツのボタンを外し、袖を捲り上げ、上着のポケットに入っていたゴムバンドで髪を後ろへ結わくと、残機2人と表示されたゲーム画面を見て、「なにくそ」とボス攻略へ乗り出した。

――――――

 一つの事に不屈の根性を発揮した理系人間の怖いところは、場面場面での瞬発力というより、何回にも渡る仮定と実験を繰り返して得られる洞察と解析力だ。

 私は、とにかく出てくるボスのパターンを読んだ。おそらく前時代のカセット容量では、各ステージボスの細かな行動アルゴリズムは組めないと推測した私は、『蜂蜜熊』の投げる手斧の始点と終点、描く放物線の距離を計算し、コントローラーのジャンプボタンと、移動ボタンを握る指に感覚を焼き付けていく。

「…武器投射後、落下時に減速する際には投射をやめる、求められる答えは…今っ!」
「げげえ!」

 自らの操作するキャラクターが飛ばした、怒涛の槍の連射。
それが、ステージボス『蜂蜜熊』に直撃すると、画面が七色に点滅した。

「よしっ!」

 観察を始めて早くも十数分。私は、入念な仮定とそれに基づく実験、そしてたどり着く結論、至る全ての準備の末、ついに初心者キラーの『蜂蜜熊』を撃破した。
 ふぅ、と息をつき、画面を凝視した目に瞬きを与えて休めながら、私は男に「どうだ、やったぞ」と言わんばかりの視線を送った。男は、手を頭の後ろに回し、乾いた笑いを浮かべていたが、余りに早い適応能力に動揺を隠し切れない様子だった。

「だ、だがな。まだ1面だぜ。後の4面、はたしてお前なんかにクリアできるかなぁ?」
「すぐにクリアできる。お前は約束の土下座の準備でもしながら黙ってみていろ」
「さっきまで死にまくってたのに…ど、どこから来るんだよ、その自信は…」
「ふん、私は完璧だからだ。たとえ仮想空間であるテレビゲームにおいても、それは同じだ!」

 男は、私にそう言われて、俄かに背筋を凍らせたようだ。
さっきまで見えなかった男の気持ちが、壁だった難関ステージをクリアした今では、手に取るようにわかる。男が心に抱いていたのは、私への怯えだ。

 もし万が一、この女がクリアしてしまったらどうしよう。
 この女は、本当に男の俺にゲーム一つぐらいで土下座をさせるのか。

そんな怯えた心のぐらつき…震えが、空気を伝わって、聞こえてくる。
聞こえてきた分だけ、『そうだ』と確信する私のコントローラーを握る手が、冴えを増す。

「きゅ、急に暑くなってきやがったぜ」

 それまで開いていた部屋の窓を閉めて、室内空調のスイッチを押す男。座布団に座ると黒い瞳が、ゲーム画面と私の間をチラチラと泳いでいる。それに気付いた私が、ふとゲームにポーズをかけて見れば、驚いた表情で強がって「降参か?」なんて聞いてくる。なんと、その姿の判り易いことか。

 すっかり水気の無くなった渇いた唇、クリアしそうになる度に喉を飲む音。さっきまで盛んに伸びていた菓子を掴む男の手がグーの形を保っている。ゲーム画面に集中しすぎて、止まっているのだ。敗者から、勝者に成り上がった時と対して違わない時刻、対して違わない空間だというのに、着々とステージクリアする私と、約束の『土下座』という言葉が、途端に緊張という湿り気となって体を襲わせるのだ。男は、二、三回深呼吸をしながら、Yシャツをバサバサと忙しく上下に揺らし、その中へ冷たい空気を滑り込ませてゆく。今日が特別に暑いわけでもないのに、焼くような苛立ちが心を刺す。

 どうしてそこまで私が怖いか。
答えは簡単だ。私が凡そ女子高生に通じるはずの冗談が通じないタイプの人間だからだ。

 空気が読めない女、だとしても私は執拗に刑を執行する。約束事で相手を土下座させるとなったら、例え相手が泣いて喚いても、例えばそこが汚らしい便所の床だとしても、顔を何度も床にこすり付け、誠意が見えるまで何時間も土下座させられる。愚かな敗北者が、泣き叫びながら許しを請う姿を見るのが、たまらない。我ながらサディスティックな思考回路だと知っているが、抗えない。

「…はやく始めろよ」

 そういう女だと知っていたからこそ、男は菓子も食わず、ただ一心に私のゲームオーバーを念じていたに違いない。必死に冷静を装ってゲーム画面を見ながら、飛び跳ね、右へ左へ移動する私のキャラクターに向かって、「穴に落ちろ!」とか「敵に当たれ!」など、無言のプレッシャーをかけるのだ。

 だが、一度私の方へ向き始めていた風向きが、変わることなどなかった。

「よしっ!1UPアイテム獲得!」

 コントローラーを握る手の無駄のなさ。出てくる敵、出てくるアイテム、出てくる武器、ありとあらゆるブロックを壊して回り、ありとあらゆるスコアを稼ぎ、確実に機数を増やしていく私のキャラクター。流石に各ステージのボス戦は苦労したが、これも洞察力と解析、そして負けてなるものかと思う根性が私の背中を押していった。

 私の洞察力と解析を加えたプレイ方式は、まるで攻略本を刷り込ませたように完璧なものだった。

「上下4×4ドットの蛇行する放射物の軌道…間隔は1秒毎に4発。2×2の遮蔽面積こいつには、この短剣が有効っ!」
「おまえ、なぜそれを」

 上下に弾を放つ2面のボス『ミサイル白雪姫』を、短剣で串刺しにし。

「三度目、四度目の移動後は炎を吐いた後、次の移動まで4秒の停止時間があり、そこに一番有効な武器はたいまつ!」
「な、なんだと…!」

 高速移動しながら炎を吐く3面のボス『テレポートランプの精』を、たいまつで焼き殺し。

「悪質な水平移動は、しゃがみで避けて、着地を狙って槍を叩き込む!」
「うおお…!」

 恐るべき噛み付き攻撃を得意とする4面のボス『キングライオン』を、槍で突き殺した。
 
 瞬転…!
高難度を誇る、難解なアクションゲームを前に、さっきまでズブの素人だった私が、いつの間にか発見していた見事な打開策の連続。人の目を気にしないほど肌けた体のことなど当に忘れ、私は、いつの間にかゲームの鬼になっていた。ステージをクリアするごとに、私の動くキャラクターの、その一挙手一投足に声をあげながら、内心『土下座』という意味に怯えて竦む子ウサギのような男。それを見て、もっと苦しむ顔が見たいと悦に浸る私。

やはり私は完璧だ。
こんな男が、付け入る隙など微塵も無いほどに。
だが、それは、最難関のラストステージを見る前の、私の戯言に過ぎなかった。

―――――
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短編『うっかり天地創造』

2008年06月06日 02時51分27秒 | 短編

 昔々、宇宙には星と銀河を創る神々の住む場所があった。
星を生む、星を創るというのは暇を持て余した神々の一種の娯楽であり、また神としての地位を示す、その手腕が試される修練の場所でもあった。神々の間では、銀河を彩る生きる者の居ない死が蔓延する星ほど『良い星』と讃えられ、生命が誕生してしまうような恵み豊かな下劣な星を『悪い星』とした。

 神々は日々、自分達の娯楽と地位向上のために喜んで死の星を創り続けたが、その中に一人、死の星を創ろうとして何度も失敗した落ちこぼれの神が居た。神々達は、余りにその落ちこぼれの神が不出来な星を創り続けるので、神々の住む場所から追放した。良識ある神々達は、落ちこぼれの神に言った。

「落ちこぼれのお前が、銀河に綺麗な死の星をあげるまでは帰ることを許さん。命を誕生させぬように気をつけて星を創れ」

 神々の住む場所から追放された落ちこぼれの神は、黒い宇宙に抱かれながら非常に落胆した。と、同時に沸々と湧き上がる苛立ちがあった。何故自分だけがこんな事になってしまったのか、その他の神々への純粋な怒りは、銀河に一つの爆発を生み出した。いつまでも絶えず消える事の無い炎の渦の星の誕生だった。

 だが落ちこぼれの神は、まだ苛立ちを抑え切れなかった。思わず巨大な腕と足を宇宙の真ん中で上下左右に振るわすと、銀河に浮かぶ小さな原石が落ちこぼれの神の近くへ吸い寄せられるように集まり、それが互いにぶつかり合って銀河に散らばった。比較的丸みを残した原石は、炎の渦巻く星の近くに寄ると、浮き上がる熱の波に焼かれながらも、合間を量るように直列に並んだ。

 数万年後。落ちこぼれの神は、いつまでも落胆している場合ではないと、その日決起した。そうだ。銀河に輝く死の星を創りさえすれば、もとの神々の住む場所へと帰れるのだ。全知全能たる神にとって、それは難しいことではない、むしろ簡単な事ではないか。そう思った神は、炎の渦巻く星を中心に『死の星』を創ろうと必死になった。

 落ちこぼれの神が、必死に創る死の星の海は、意外にも順調だった。
銀河の中心点である炎の渦巻く星が、全ての原因だった。近づく星は焼け焦がれ、遠い星は凍りつき、何もしなくても宇宙に煌く死の星が出来上がる。これには流石の落ちこぼれの神も喜んだ。今まで失敗ばかり重ねていた自分に、これほど上手い死の銀河を創れる能力があったとは。神は自惚れた。その自惚れがいけなかった。炎の渦巻く星と直列に並ぶ、八個の星に命の基が芽生え始めたのだ。

「どどどど、どうしよう。このままじゃ神々の場所へと帰れない…」

 神の焦りは、冷や汗を滴らせた。
するとどうだろう。垂らした焦りの冷や汗は、炎の渦巻く星から七番目と八番目に近い星に降りかかった。芽生えそうだった生命の基は、大量の汗に流されるように消えてゆき、宇宙に放り出された生命の基は、その育みを遮断され消えていった。

「おおお、なんたる偶然。はぁぁ、しかしあと六つ」

 神は死の星を創らんと、ため息混じりに作業を続けた。
だが、呼吸の度に繰り返される、その神のため息は、いつの間にか炎の渦巻く星に届き、炎の渦巻きから出る巨大な風となった。すると、炎の渦巻く星に一番近い星と二番目に近い星に吹き付ける気体の分離した粒子を含んだ熱風が、生命の基を吹き払い、銀河の遠くへ消えて行く、熱砂の風と供に二つの惑星を死の星へと変えた。

「またまた偶然だ。うーん。しかし手ごわそうだな、よし。次は力ずくでいこう」

 神は炎渦巻く星から五番目と六番目に近い星を、生命の基が付かぬ様に両手に掴んで力いっぱい振り回した。するとどうだろう。五番目の星は、神の手の些細な震えによって眠っていた火山が噴火し、生命が育たない巨大な磁力の塊となった。神が動いた事によって、惑星の周辺に輝きを隠すような大きな石ころが近づいたが、死の星のためには仕方ないと、神は断念した。六番目の星はガスばかりの星だったので掴みにくかったが、五番目の星とは逆に、星から噴出した塵やガスが、神の手によって上手く纏められ、偶然にも綺麗な輪を作った。

 生命の基が芽生えた星もあと二つ。
落ちこぼれの神は、ここで怠惰な気持ちになった。「今まで偶然に消えていった生命の基だ、別に今やらなくてもいい」と、少し運動して疲れたので眠りについた。神の眠りは、時間という概念を超越するほど長い。星の誕生から、再び数万年の年月を重ね、神は深い眠りから覚めた。起き抜けに気になっていた二つの星を見た。

「な、なんだって!まだ死んでないじゃないか!」

 神は、その光景に驚いて惑星に頭をぶつけてしまった。
惑星は神の一撃を受けて、崩壊し、神の憤慨する呼吸に運ばれて隕石群となった。大きな流星のような星の残骸は、あたかも狙ったかのように炎の渦巻く星から四番目に近い星に降り注いだ。隕石が星の表面を破壊してゆく。芽生えた命は降る石のつぶてに消えて、死の共鳴が四番目の星を砂の星に変えてゆく。またもや偶然にも、四番目の星が死の星となった。

「や、やったぞ!残るは一つだ!わはは!だが見ろ!もう風前の灯だ!」

 神は、最後に生命の残った三番目の星を指差しながら喜んだ。
地表は海に覆われ、陸地もそれほど無い青き星に、四番目の星を死の星へと変えた隕石の残りが向かってゆく。これならば、すぐに死の星になる。これでやっと、自分の念願であった銀河全体を死の星で埋めるという計画が遂行できた。これでやっと神として認められる。指を指されるような落ちこぼれで無くなる。ああ、あの懐かしき神々の場所へと帰れるのだ。落ちこぼれの神は、歓喜の声をあげ、眉を垂らすと、ひどく上機嫌な面持ちだった。

「あら、あなたも、やればできるじゃない」

 その時だった。
気に入りの女神が、神の場所から落ちこぼれの神を迎えに来ていた。落ちこぼれの神は、喜び勇んで女神の顔に近づいた。高潮する己の達成感を、今目の前に居る女神にも伝え、浅ましくもその唇を奪おうと飛びついたのだ。だが、急に女神に接近してきた落ちこぼれの神の顔は、お世辞にも美意識に足りるものではなかった。女神はボサボサ髪にクレーターのような顔面と、一滴の水も通さない砂漠のような唇を見て、恐怖に慄いて落ちこぼれの神の頬に強烈な平手打ちを食らわせた。

「ふごごごっ…」

 バチーンと大きな音と供に、落ちこぼれの神の体がグワンと宇宙に揺れる。
するとどうだろう。炎の渦巻く星から三番目の惑星に向かっていた隕石の群れは、女神の平手打ちの衝撃と、落ちこぼれの神が漏らした鼻息で、吹き飛んでしまった。神は強烈な一撃を受けて、そのまま気絶すると、起きる頃にはまた数万年の時が流れていた。

「ああああああ!」

 落ちこぼれの神は、ついにやってしまった。
炎の渦巻く星から三番目に近い星に生命の誕生を促し、育みを止める事が出来なかった。また汚らしい命の生まれる星を創ってしまったのだ。失敗を悔いる神の脳裏には、二つの陰があった。プイッと顔を逸らして神々の場所へと帰ってゆく女神の後姿と、ついに死の星に出来なかった憎たらしい三番目の星。落ちこぼれの神は、悲嘆にくれながら、渋々この銀河の製作を諦めると、また他の死の銀河の製作へと向かった。

 落ちこぼれの神が失敗した、この炎渦巻く星から三番目に近い星の名前は、後にそこに誕生した生命によって『地球』と言われるようになった。
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