東京文明博物館 Tokyo Civilizations

諸文明についての展示室

東京文明博物館 第二展示室 (インド文明)2 インド文明の中世とヨーロッパ文明の中世

2017-05-14 16:51:32 | 論文

インド文明における古典文明の大成はグプタ朝時代になされましたが、完成した古典インド文明は宗教的にして分権的であり※、商業は衰退していったといったものでした。ヴァルダナ朝のように仏教の一時的な復権もありましたが、仏教は商業の衰退と共に衰えていきました。なぜインド北部において、この時代に商業が衰え、バラモンが復権し、ヒンズー教が普及していったのでしょう。


※グプタ朝はマウリヤ朝と同じ名前の人物、チャンドラグプタが創始者であり、都は同じくパータリプトラだった。統治のための宗教としてマウリヤ朝が仏教を採用したのに対し、グプタ朝はヒンズー教を採用した。バラモンは行政官として地方に派遣されたが、このスタイルはヨーロッパ文明のスタイルと似ているところである。グプタ朝以降の宗教的にして、分権的な世界はヨーロッパの中世を思わせるものがある。ゴシック寺院とヒンズー寺院の壮大さを見比べてみよ。ヨーロッパ中世はイスラムによって地中海を遮断され、度重なる異民族の侵入によって形成されたが、グプタ朝はエフタル他の侵入によって都市が破壊されたが、インド洋が必ずしも遮断されたわけではなかった(ヨーロッパ文明もビザンチン帝国が残っていたが)。その地理的位置からカロリングルネッサンスの中心地が封建化したことと、ヒンズー・ルネッサンスの中心地であるグプタ王朝が封建化したことには類似の力を感じる。つまり両者とも北面が異民族に脅かされ、南面が商業帝国によって掌握されていったこと、ヨーロッパがビザンチン(ベネチア)の世界システムに入ったこと、グプタ朝が南部、パッラヴァ朝、チョーラー朝の世界システムに入ったことを暗示しないだろうか。フランク王国もグプタ朝も治安が悪化し、都市が成立しえず、封建、分権化したと思われる。
 
5世紀から6世紀にかけて、インドの商業活動は北部、グプタ朝において衰退し、7世紀から11世紀にかけて南部(パッラヴァ朝、チョーラ朝)において高まります。この頃、東南アジアへインド文明は広まります※。イスラムの侵入は11世紀からですので、その間エフタルの侵入などありますが、イスラム教が進出してくる前まではインド文明は他文明を同化していくことができたのでしょう。北部はグプタ朝の中心でもあり、ガンジス中原をめぐり、戦いがありましたが、インド文明の特徴としての宗教の力も強く残され、商業の衰退と共に仏教は衰退していき、生活宗教であるバラモン教が習慣として復活し、仏教を吸収しヒンズー教となっていきました。


※インド文明の東南アジアへの進出はサターバーハナ朝時代が第1期であり、東南アジアの港市国家形成に影響を与え、チョーラー朝時代は第2期にあたり、仏教、ヒンズー教といった文化的影響を東南アジアに与えたといわれる。
世界の歴史13 東南アジアの伝統と発展  P96

 

インド南端部はインド洋交易圏の中で通商に力をいれていましたが、インドの心臓部であった北部はアフガニスタン、隊商ルートを向いており、グプタ朝以後、ローマ帝国、漢帝国の衰退もあり、徐々に交易が衰退していったのではないかと思われます。それに伴いインド南部はインド北部との交易よりも海(西アジア、東南アジア)への発展を志向するようになっていったように思われます。インド南部は海洋国家であると同時に、西アジア、東南アジアと比べて相対的に軍事的に強力であったかと思われます。
 

またグプタの帝国は中央政府からの役人(主にバラモン)の派遣とはいえ、全盛期の後、分裂をともないやすい構造へ変わっていきました。都市化は異民族侵入によって治安が悪化し、抑えられ、おそらくは世界貿易の観点では後背地となり、農業生産力の発展の中心が地方、諸侯となり、ゆるやかに統合された王朝はしだいに分裂していきました。中世ヨーロッパの中心は神聖ローマ皇帝とローマ教皇でありましたが、インドには世俗性と精神性という区別はなかった、それらが混在した形で教権がグプタ政権にあったかと思われます。カースト制がこの時期、発展を始めますが、その程度がヨーロッパより強いのは、インド文明のそもそもからの特徴でしょう。ヴァルナ制、カースト、輪廻転生といった考え方が影響を与え、カーストは細分化されていきました。ヒンズー民族主義で始まったグプタ朝は内向的状況の中で文化は頽廃していきましたが、侵入してきたラージプトの新しい力や農業生産力の高まりも加わり、インドの三国時代※(パーラ、ラーシュトラクタ、プリティハーラ)を迎えました。

※インドの三国時代
中国の三国時代(三国志の時代)と比べて、インドの三国時代はあまり知られていない。パーラ、ラーシュトラクタ、プリティハーラ朝がそれであるが、実際にはその周囲にもっとたくさんの王朝が存在していた。インドについては歴史が記録として残されていないことが多く、それだけ政治に対する関心が低かったのか、、状況が苛烈だったことを思わせる。漢民族による古代国家の衰退と異民族(鮮卑)と漢民族の混合による唐の成立に対して、インドの三国時代はグプタ、ヴァルダナ朝という古代国家の衰退と異民族(イスラム勢力)とヒンズー勢力の混合によるデリーサルタナットの成立につながっていった。中国の三国志は漢民族の復活への予感あっての、さまざまな教訓が含まれる史劇であったのに対し、インドの三国志が成立しえなかったのはインド諸民族の復活への予感はなく、むしろ宗教への傾斜(タントラとイスラム教の衝突)がうかがわれる。そういうインドも「マハーバーラタ」が既にかってヴェーダ時代に成立していたのだが、この時代のインドが多様にして、階層的であり、宗教的であり、その一方で商業も復活しつつあったのだが、それが必ずしも統合につながらなかったのはムガール帝国の時と似たような現象といえるかもしれない。

ビザンチン帝国(ベネチア)の後背地であった中世ヨーロッパは農業生産力の高まりを受けて、都市化が進み、イスラム文明に対して十字軍を始めるのに対し、南インドの後背地となった北インドは三国時代に商業の発展を回復しましたが、中世ヨーロッパと異なり、世俗的、精神的中心がなかったため、統合することができず、イスラム文明に侵入されるようになっていきました。イスラムはインド民衆におけるカーストの弊害や分立していたラージプト王たちの過剰な戦意を利用することでインドを支配するようになりました。


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