戦国時代に房総地方を領した里見氏の居城跡にある城山公園。
城山公園内には、安房の歴史民俗を学べる『館山市立博物館』と、
三層四階天守閣形式の館山城は『館山市立博物館 別館』となっていて
『南総里見八犬伝』に関する各種資料や展示を見学することができます。
鹿島掘跡は、館山城の防御施設として設けられた堀で、城の南東部から北にかけて
東側を巡っていたと推定されている。城の東側には四つの小丘陵があって「出郭」となり、
鹿島掘となって館山城を防備する形になっている。館山城は、里見氏の九代義康・十代忠義が、
近世初頭の二十数年間移住したところで、鹿島掘は関が原合戦の恩賞として、常陸国鹿島郡に
三万石を加増されたとき、その領民をして掘らせたと伝えられている。
しかし、慶長19年(1616)に里見氏が、伯耆国(鳥取県)へ国替えとなると、館山城は
取り壊され、鹿島掘も埋め戻された。現在鹿島掘の遺構としては、慈恩院前に現存する堀と、
御霊山の東緑を巡る空堀が確認されているが、昭和59年3月の発掘調査により、公園駐車場下
にも幅37m深さ2mの堀跡が確認された。堀跡からは、多量の木材が出土しているが、これは
館山城取り壊しに際して堀に埋められた建造物の一部と見られる。
里見安房守忠義公殉死八遺臣。南総里見八犬伝は、この八人をモデルに作られたと言われる。
館山城
館山市立博物館に展示されている阿波屋の徳利。安房が阿波と表記されていた
時期もあるので、昔から安房地方では阿波屋が存在していたのだろう。
また徳島と経済的な結びつきが強い大阪では阿波屋が多く存在していた。
城山公園内には、安房の歴史民俗を学べる『館山市立博物館』と、
三層四階天守閣形式の館山城は『館山市立博物館 別館』となっていて
『南総里見八犬伝』に関する各種資料や展示を見学することができます。
鹿島掘跡は、館山城の防御施設として設けられた堀で、城の南東部から北にかけて
東側を巡っていたと推定されている。城の東側には四つの小丘陵があって「出郭」となり、
鹿島掘となって館山城を防備する形になっている。館山城は、里見氏の九代義康・十代忠義が、
近世初頭の二十数年間移住したところで、鹿島掘は関が原合戦の恩賞として、常陸国鹿島郡に
三万石を加増されたとき、その領民をして掘らせたと伝えられている。
しかし、慶長19年(1616)に里見氏が、伯耆国(鳥取県)へ国替えとなると、館山城は
取り壊され、鹿島掘も埋め戻された。現在鹿島掘の遺構としては、慈恩院前に現存する堀と、
御霊山の東緑を巡る空堀が確認されているが、昭和59年3月の発掘調査により、公園駐車場下
にも幅37m深さ2mの堀跡が確認された。堀跡からは、多量の木材が出土しているが、これは
館山城取り壊しに際して堀に埋められた建造物の一部と見られる。
里見安房守忠義公殉死八遺臣。南総里見八犬伝は、この八人をモデルに作られたと言われる。
館山城
館山市立博物館に展示されている阿波屋の徳利。安房が阿波と表記されていた
時期もあるので、昔から安房地方では阿波屋が存在していたのだろう。
また徳島と経済的な結びつきが強い大阪では阿波屋が多く存在していた。