所在地:高知県高知市丸の内1-2-1
備考:日本100名城、国指定史跡、現存天守
高知城が築かれた大高坂山は、南北朝時代には大高坂松王丸の居城があったという。
安土桃山時代には、豊臣秀吉より土佐国を与えられた長宗我部元親がこの地に築城した。
しかし、僅か3年で水はけの悪い大高坂山城を捨てて、桂浜に近い浦戸に浦戸城を築いた。
関ヶ原の戦い後、山内一豊が掛川城より入封、大高坂山に新たに近世城郭として
高知城を築城し、四重六階の天守を建てた。山頂に本丸と二之丸、東側の一段下に
三之丸が配され、二之丸には藩主の居住空間である御殿が設けられた。
現存する天守は、享保12年(1727年)の大火で他の建物と焼失後、延享4年(1747年)に
望楼型天守として再建されたものである。築城当時の古い様式となっているのは、
掛川5万石から一躍土佐24万石の太守となった藩主・山内一豊への想いからであると
いわれている。また、天守に接続している本丸御殿(懐徳館)は全国でも数少ない
現存する御殿遺構として貴重である。
追手門と天守
山内一豊像
山内一豊の妻・千代と馬の像。司馬遼太郎作『功名が辻』に描かれた内助の功の物語。
全国でも有数の多雨地帯であるため、特に排水を考慮して造られており、
石樋(いしどい)は、排水が直接石垣に当たらないように石垣の上部から
突き出して造られ、その下には水受けの敷石が地面を保護している。
詰門(筋違いの門)
天守
天守と本丸御殿
黒鉄門
備考:日本100名城、国指定史跡、現存天守
高知城が築かれた大高坂山は、南北朝時代には大高坂松王丸の居城があったという。
安土桃山時代には、豊臣秀吉より土佐国を与えられた長宗我部元親がこの地に築城した。
しかし、僅か3年で水はけの悪い大高坂山城を捨てて、桂浜に近い浦戸に浦戸城を築いた。
関ヶ原の戦い後、山内一豊が掛川城より入封、大高坂山に新たに近世城郭として
高知城を築城し、四重六階の天守を建てた。山頂に本丸と二之丸、東側の一段下に
三之丸が配され、二之丸には藩主の居住空間である御殿が設けられた。
現存する天守は、享保12年(1727年)の大火で他の建物と焼失後、延享4年(1747年)に
望楼型天守として再建されたものである。築城当時の古い様式となっているのは、
掛川5万石から一躍土佐24万石の太守となった藩主・山内一豊への想いからであると
いわれている。また、天守に接続している本丸御殿(懐徳館)は全国でも数少ない
現存する御殿遺構として貴重である。
追手門と天守
山内一豊像
山内一豊の妻・千代と馬の像。司馬遼太郎作『功名が辻』に描かれた内助の功の物語。
全国でも有数の多雨地帯であるため、特に排水を考慮して造られており、
石樋(いしどい)は、排水が直接石垣に当たらないように石垣の上部から
突き出して造られ、その下には水受けの敷石が地面を保護している。
詰門(筋違いの門)
天守
天守と本丸御殿
黒鉄門