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別子銅山 マイントピア別子・東平地区

2015年10月10日 | 四国
所在地:愛媛県新居浜市立川町654-3

別子銅山(べっしどうざん)は、愛媛県新居浜市の山麓部にあった銅山。

1690年(元禄3年)に発見され、翌年から1973年(昭和48年)までに約280年間に70万トンを産出し、
日本の貿易や近代化に寄与した。一貫して住友家が経営し(閉山時は住友金属鉱山)、関連事業を
興すことで発展を続け、住友が日本を代表する巨大財閥となる礎となった。

別子銅山記念館は無料で利用できるが、時間の関係で行かなかった。

マイントピア別子では、別子銅山の鉱山鉄道跡を見学できる。最後の採鉱本部が置かれていた
この地区は端出場(はでば)地区で、採鉱本部が1930年(昭和5年)に東平地区から移転され、
1973年(昭和48年)の閉坑まで使用された地区である。採鉱開発は山の上から下に向けて進められている。

マイントピア別子にある端出場駅から鉱山鉄道で出発。




江戸ゾーンと近代ゾーンを人形で再現。こちらは、江戸ゾーンの湧き水の引き揚げ。
ほかにも、砂金採りなど、特に子供が楽しめるようにされている。


旧端出場水力発電所(登録有形文化財)。明治45年(1912)に建設された水力発電所。現在は非公開。


東平(とうなる)地区は、1916年(大正5年)から1930年(昭和5年)まで別子銅山採鉱本部が置かれていた。
このような山中に、かつて多くの人が鉱業に従事し、その家族共々生活し、小中学校まであった「街」が
あったのかと信じられないように現在は山中に静まり返っているが、閉鎖された坑道や鉱物輸送用の鉄道跡などが残っている。

東洋のマチュピチュとも呼ばれている。こちらは貯鉱庫・索道場跡。




インクライン跡。インクラインは傾斜面や勾配を意味する言葉で、当時は生活用品などが引き上げられ、
坑木などが引き下ろされていました。現在は220段の階段として整備されている。












向かいの山には、日本初の山岳鉱山鉄道が走っていた。今は説明がないと遠くからでは分からない。


社宅跡。今では人が住んでるのが考えられないような人里離れた地域である。


当時はこのように栄えていた。


第三変電所。明治37年建立。赤煉瓦造り建物で当時のままの外観が残っています。


何と建物の中にも入るがことができる。びっくりぽん。


2015年、明治日本の産業革命遺産として、九州や山口を中心とした産業遺産が世界遺産に
登録されましたが、この別子銅山もその流れで世界遺産に登録されてほしいものです。

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