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川越城

2010年10月08日 | 埼玉県
所在地:埼玉県川越市郭町2丁目13番地1

日本百名城、関東七名城に選定されている「川越城」は、扇谷上杉持朝が
長禄元年(1457)に家臣の太田道真・太田道灌父子に命じて築城させた。

当時、持朝は古河公方足利成氏と北武蔵の覇権をめぐって政防を繰り返し、
築城はこれに備えたもので、築城当初の規模は、後の本丸・二の丸を
合わせた程度と推定されている。

小田原を拠点に武蔵への進出を図る後北条氏は、天文6年(1537)に川越城を
攻め落とした。天文15年(1546)、扇谷上杉氏は、それまで対立していた
山内上杉氏・古河公方と手を結び川越城奪回を図るが奇襲にあい大敗する。
これが有名な日本三大夜戦のひとつである「河越夜戦」である。
その後、後北条氏は川越城を足がかりとして北武蔵への支配を固めた。

天正18年(1590)、豊臣秀吉の関東攻略に際し、川越城は前田利家に攻められ
落城した。同年8月徳川家康が江戸に入城する。川越城には江戸の北側を守る
重要拠点として酒井氏が配置され、その後も幕府の要職が藩主に任じられた。

寛永16年(1639)、川越藩主となった松平信綱は川越城の本格的な拡張・整備を
行い、川越城は、本丸、二の丸、三の丸などの各曲輪、4つの櫓、13の門からなり、
総面積が9万8,000坪(約326,000㎡)余りの規模を持つ城郭となった。

川越城本丸御殿は、寛永元年(1848)に時の藩主・松平斎典が造営したもので、
当初16棟、1,025坪(約3,388㎡)規模を誇っていた。明治に入り多くの建物が
解体され、現在は玄関・広間部分と移築復元された家老詰所を残すのみであるが、
日本国内でも御殿建築が現存する例は極めて少なく貴重である。





富士見櫓跡の土塁


川越市役所前には、川越城大手門跡碑がある。また太田道灌公像も立っている。
太田道灌は、現埼玉県に川越城、岩槻城などを築き、現東京都に江戸城を築き、
関東の歴史に大きく関与している人物である。

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