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「アンネの日記」問題が意味すること

2014年03月14日 21時44分15秒 | Weblog
 「アンネの日記」連続損壊事件の容疑者が逮捕された。しかし今回の事件は背景に大変複雑な問題が存在していることをあぶり出した。
 今回の容疑者はどうやら精神的に不安定なようで警察は慎重に捜査をしているらしい。そのために出てくる情報は大変少なく、まだ何かを論評できる状況ではない。ただその中で一部報道では容疑者が書店に勝手に貼ったビラの内容が「アシスタントとゴーストライターは違う」というものだったと伝えられている。報道によっては「アンネの日記」とは関係ないとするものもあるが、常識的に考えれば当然これは「『アンネの日記』偽造問題」を指摘したものと推察される。

 以下ウィキペディア日本語版を参考にして問題のありかを探ってみたい。

 この偽造問題は公式にはすでに決着が付いているのだが、ネット上ではいまだにこの問題を蒸し返す論調が見られる。ただ偽造疑惑が生まれたのにも理由はある。
 周知のようにアンネ・フランクは隠れ家に隠れ住んでいる間にこの文書を書いたのだが、第一にこの文書は純粋な日記ではない。アンネは作家志望でこの日記も公開可能な作品として完成させたい意図があり、そのために元の日記の他に推敲された原稿が存在していたこと。またそのために架空の人物に宛てた手紙の形式という特殊な文学的手法で書かれていること。さらにはアンネたちが秘密警察に逮捕された際に原稿が散乱し、その際たった一人残された隠れ家の提供者の家族がそれをかき集めて保管してあったのを、戦後になってフランク家の唯一の生存者であるアンネの父、オットー・フランクが譲り受け、編集と校正を行った上で、最初に他国語に翻訳した形で出版したという経緯もあった。
 こうした特殊な事情があったために、正確に言えば出版された「アンネの日記」はアンネ自身が書いたものと全く同一とは言えず、オットーが偽作したのではないのかと疑われたことがあったのである。日本のウェブサイトで「アンネの日記」偽造を主張する人たちの多くが主張する記述内容の不自然さは、ほとんどオットーが編集した際に様々な配慮から削除した部分があったことに由来する。ただしその後の原本の研究の結果、出版された「アンネの日記」は基本的にアンネ・フランクの原稿に沿ったものであることが確認され、現行の「アンネの日記」にはその経緯が記されているものもあるという。

 問題がこれだけのシンプルなものであれば簡単なのだが、もちろんこの問題はもっと深く暗い。
 「アンネの日記」偽造論者たちのそもそもの意図は、ナチス・ドイツによるユダヤ人のホロコーストを否定することにあったからだ。「ホロコースト否認」は戦後70年近くなってもいまだに非常に重大な問題である。
 ウィキペディアによれば「ホロコースト否認」にもいろいろあって、完全否定派から歴史修正主義(一部の事実に新発見があり、全てを否定するわけではないが根幹になる部分は修正されるべきだという主張)まで、手法やトーンが違うらしい。ただ、この問題はよくよく日本の「従軍慰安婦否認」と似通っていることがわかる。その基本的な立場は被害者当事者の証言を否定するという点にある。
 加害側は当初から、また敗北が決定的になってから、徹底的に不利な証拠は隠滅してしまう。公式文書に意図的な戦争加害を証明する文章が残ることは極めて少ない。そうすると残るのは被害者の証言と状況証拠のみになる。それこそ「疑わしきは被告の有利に」という原則を盾に取れば、誰の目にも明らかなことであっても直接的な物証が無いから加害認定は出来ないことになってしまう。歴史修正主義者が狙うのはそこのところなのだ。
 まさに「アンネの日記」もそうした「あいまい」な被害者の主張を記した文書であり、こうした市井の証言のひとつひとつの根拠に疑問を投げかけることによって、全体としてのホロコーストの存在を否定するというのが否認論者の手法である。

 こうした否認は抑圧者にとって圧倒的に有利であり、正義が実行できない危険性をはらむ。歴史の風化をむしろ積極的に進めてきた日本では、こうした正義の立場がどこまでもグズグズと崩れ続け、いよいよ世界全体との倫理や歴史認識の差が決定的に違うところにまで突入しようとしている。それに対して欧米では被害者側の力が相対的に強いこともあり、「アンネの日記」の顛末に見られるように徹底的な検証と被害側証言の保全が図られてきた。
 しかしそうは言ってもそこにはまた別の問題が発生する。表現の自由、主張、研究の自由という問題である。
 欧米ではナチズムは現在でも重罪である。ホロコースト否認自体が犯罪、もしくは犯罪的であるとされてしまう。現在認定された歴史的事実とは違う、また現在の我々の倫理感とは相反するものであったとしても、だからと言ってそれを言論の場で主張することまで一方的に権力によって禁止してもよいのか、そうした対応は本当に正しいのかどうかという問題が生じる。
 特に戦後日本においては戦前の思想、天皇制ファシズム、皇国史観などを思想犯罪にしなかった代わりに、徹底的な表現の自由の思想が生まれた。こうした日本の知識人からは、それが仮にナチズムであろうとも思想的言論弾圧に対しては否定的な意見も出される。皮肉なことにこうした意見は、本来ナチズムやナショナリズムと対立する立場にあるはずのリベラルな知識人からより多く聞かれる状況となっている。

 もちろん今回の事件が直接的にこうした問題を反映したものではないだろう。警察側の判断は思想的背景はないという方向に向かっている。それ自体は我々には今のところ判断材料がない。
 だがこの事件を巡る各種の論調を見ることによって、この問題の奥深さを考えることは出来る。
 たとえば次のようなブログ記事がある。(「アンネの日記破損で、30代の男が犯行認める供述/大日本赤誠会愛知県本部ブログ版”一撃必中”」)
 このブログはいわば正統派の民族派・行動右翼のものである。今となっては「YP(ヤルタ・ポツダム)体制打倒」のスローガンさえ懐かしくさえ思えるほどの「硬派」な団体だ。もっともヤルタ・ポツダム体制打倒と言いながら、最初に「現日米同盟は、対米従属に非ず!」と書き始めなければならない苦しさというか、ご都合主義的ニセ右翼の胡散臭さもいっぱいなのだが。
 ともあれ、このブログ記事で注目すべきなのは次のような文言だ。

「奴らの意図はこれを差別だ朝鮮だと結び付けたい」
「右系の本が図書館で千冊破られても誰も(特にメディア)取り上げない」

 このあたりの認識は大変に興味深い。
 まずここにあるのは強烈な被害者意識だ。しかしもちろんこれは被害妄想と言ってよいくらい現実とは正反対の感覚だろう。現実の日本の状況はどこを見ても極右的な言論が守られる一方、左翼どころかリベラルな発言さえ排除される事態にある。たとえばそれはNHKの会長や経営委員、デヴィ夫人の都知事選での発言、竹田恒泰氏の一連の発言など、最近の「失言」問題を見ても、これらの人たちがメディアから排除されることはない。むしろ彼らはこのことを契機にメディアへの露出が増えているほどである。一方で、靖国参拝に否定的なヨーロッパでの反応について触れた春香クリスティーンや、脱原発活動から国会議員にまでなった俳優の山本太郎などは、一気にメディアへの露出が激減した。
 この団体は実質的に(公式には否定しているようだが)親ナチス・反ユダヤ主義的立場である(しかも親合衆国というところが実は大きく矛盾しているのだが)。おそらくそうした立ち位置から今回の「アンネの日記」損壊事件に対して同情(?)的な論調であるように見える。その点では右翼一般が同じ論調であるとは言えないが、ここから感じられるのは、人権を尊重する立場、民族差別を糾弾する立場を「左翼的」であると見る雰囲気である。おそらくこういう感覚は右派全体に存在するのではないだろうか。ソフトな言い方では「行きすぎた人権意識」というやつである。

 ほとんどの人が正しく理解しているとおり、日本の繁栄は近代主義を全面的に取り込むことに成功したことによる。それがまさに明治維新であった。一方で日本を破滅に導いたのは偏狭な復古主義的ナショナリズムだった。もちろんこれもまた明治維新のもうひとつの面であったわけだが。
 戦後の日本は再び近代民主主義をいわば人類史の最先端のところで実現しようとし、その象徴が平和憲法であった。(新)帝国主義的問題を多く抱えながらも戦後の日本が世界に広く受け入れられたのは、その平和主義によるところが大きい。しかし安倍政権の登場はこの戦後日本の平和主義の清算と復古主義的イデオロギーへの転換点がやってきたことを示しているかのようにも見える。
 「アンネの日記」を巡る諸問題はまさにこの近代主義と復古主義のせめぎ合いの渦中にある。それは別の視点からみれば戦後日本の大きな矛盾を赤裸々に示しているとも言える。それは前掲の右翼団体の反ユダヤ主義でありながら合衆国と一体化しようとする矛盾に現れている。ナショナリスト、民族主義者が「憲法を押しつけた」と主張し、事実として日本へ無差別空襲や原爆投下を行い占領した合衆国を、賛美し追従せざるを得ないという矛盾である。
 そしてそれはただ右翼の中にだけ存在するのではなく、リベラル派といわれる層や左翼の中にさえ存在する。しかしその矛盾はなかなか表だって論議されない。なぜならそれはパンドラの箱だからだ。その問題を追及することは自分たちの思想的基盤を根本から問い直さざるを得なくなるからだ。この問題を根本的に解決することは日本の近代を次のステップに進ませることの中にしかない。それはもちろん安易に過去に逆戻りするのではなく、全く新しい時代、新しい思想を、これまでの自分を否定してまさに血だるまになって獲得する意外ではない。
 この問題が複雑で、深く暗い問題なのだと言うのはこういう意味でもあるのだ。

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