皇国ノ興廃此ノ一戦ニ在リ各員一層奮励努力セヨ

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友の作るポンカン

2016年12月09日 | 日本・国士



平成28年12月9日(金)

 昨日のようだが、
 遙か以前の高校三年の夏、「受験勉強」に集中するために、
紀の国の由良にある臨済宗の寺、興国寺に入った。
 しかし、勉強ははじめの二日間だけで、
あとは午前四時からの座禅と掃除と山林作業と老師にもらった公案に取り組み、
夜は時々、そのうち毎日、酒を飲む、にわか雲水のような生活になった。
そして、瞬く間に九月になり夏休みが終わったが、
しばらく天王寺にある学校に戻らず興国寺にいた。
 由良の興国寺は、
 勉強より、禅坊主になりたいと思った忘れがたい寺となった。
それ故、大学入学後も、しばしば興国寺に行って勝手に住んでいた。
 そのような昭和四十三年の二十歳の夏、
東京の大学を中退して放浪中に、
ぶらりと興国寺にやってきたもそっとした男がいて、
一緒にひと夏、寺で飲食を共にした。
 大阪に戻るとき、彼もまた一緒に大阪に行くという。
その理由は、住吉大社近くの「やろく」のハヤシライスが食べたいということだけ。
それで、わざわざ、住吉に行き、
「やろく」のハヤシライスを一緒に食べて別れた。
 
 普通なら、
大学紛争の学園閉鎖のなかで、大学を中退して放浪中の無口な男と、
たまたま寺にいた男との縁は、
ハヤシライスを食べ終わった時で終わる。
しかし、それから四十八年、
お互い、全く別々な世界に生きてきて、今も付き合っている。
毎年、一度か二度か三度、全国どこかで、ぶらりと会って酒を飲んできたのだ。
二年前には、ともに由良の興国寺を訪れた。
鎌倉時代に我が国に味噌を伝え寺を開いた
法燈国師の像だけが変わらずにあった。
 
 さて、
この由良の興国寺で会った男は何をしてきたのか。
放浪は二十歳代で止め、
三十歳頃から母の実家があった高知県の東端の
若者が都会に出て少なくなった甲浦(かんのうら)に定住し、
はじめは椎茸、次ぎにポンカンの栽培に取り組み始めた。
 そして現在、
奥さんと息子の三人で、村の多くのお年寄りの応援を得て、
五町歩の山の斜面を段々畑にしてポンカンを育てている。
 彼は、放置すれば耕作放棄地となって元の猪と猿だけの山に戻ってしまう
山林を借りてポンカンの木を育て、
有機肥料だけで美味しいポンカンを作ることに使命を見いだした。 
 陶淵明は、帰りなん、いざ、田園まさに荒れんとす、と詠った。
日本の中山間地が荒れれば、日本人の帰るところがなくなる。
 彼は、そう思って頑張ってきた。
 しかし、先日、彼と電話で話すと、
年を経るごとに、当然、村の人も一つ歳をとり、
山の斜面で作業ができる人が少なくなってきて困っている、とのことだった。
 
 そこで、
「俺らはまだまだ山の斜面で作業ができる」と奮い立ち、
「眞悟の会、堺」の仲間とともに、
七日、五人で甲浦に入り、
村の人に指導されて山の斜面でポンカンの実を収穫した。
そして、彼の奥さんと息子と我ら五人と楽しい夕食(飲酒)をし、
ぐっすりと眠って
翌八日の太平洋に昇る御来光に、山の上で手を合わせ、午後、堺に帰った。

この七日の、数時間の山の段々畑での農作業と、
八日の早朝、そこから眺めた御来光で、確かに実感した。
 それは、次ぎにことだ。

我が国の中山間地の段々畑を守らねばならない、
その為に、彼のしているこのポンカン栽培は貴重で、
如何に手間がかかっても、この活動を続けることが大切だ。
それによって、我が国の、
帰るべきまさに荒れんとする田園を守り、
人々に、村にいてもいつまでも仕事をする場が確保され、
豊で明るい村が生まれる。
それは、日本が明るくなることだ。

 そこで、諸兄姉にお願いです。
 私が、昭和四十三年夏、紀州の由良の興国寺で出会った彼、
 田中隆一君と高知の東洋町甲浦の人々が作ったポンカンを
 是非食べていただきたいのです。
 次は、田中農園の連絡先です。
 ここにポンカンを注文してください。
 現在、全国何処へでも出荷しています。
 私と仲間が、七日に収穫した一トン近くのポンカンも混ざっているはずです。
 山の中で食べました。美味しいですよ!

  〒781-7412
  高知県安芸郡東洋町河内203
    田中農園 田中隆一
   TEL・FAX 0887-29-2500
    Eメール tanakan3@cronos.ocn.ne.jp
    http://tanakanouen. com/


西村眞悟の時事通信より。



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