真理の探求 ― 究極の真理を目指すあなたへ by ぜんぜんおきなわ

日々考えたこと、気づいたことについて書いています。

第五十八回 不立文字(その十)

2017-07-11 12:40:19 | 宗教
何年か前、東京でクロード・モネ(1840-1926)の展覧会があったので、行ってきました。

美術展は、絵を見る喜びだけでなく、絵に関する様々な説明も壁にかかっており、中には作者の言葉もありますから、そうしたものを読む喜びもあります。

その展覧会では、モネが海を描く際の描き方が本人の説明で紹介されていました。モネによる言葉の説明は、モネの作品という非言語的表現とうまくあわさっており、もの言わぬ絵画と矛盾のないものでした。

モネによると、海の絵を描く際には、まず浜辺に行って、海を探すようです。もちろん、海はモネの目の前にあるのですが、絵を描くポイントはどの場所でもいいというわけではない。彼は海を探し、逆から見れば、海がモネを引っ張るということなのでしょう。

そうして海に導かれて、モネはある地点に到達する。そこで海をただ何日も見続ける。そうして、見て、見て、ひたすら見続けた結果、海の生命があらわれる。それをキャンバスに描く。そうモネは言っておりました。

展覧会ではモネ自身の言葉だけでなく、その絵を見た様々な有名人のコメントが紹介されておりましたが、なかでも印象に残ったのは、詩の巨人、マラルメ(1842-1898)のこの言葉でした。

「クロード・モネが描く光の洪水に、私は溺れそうだ。」

おもしろいなと思ったのは、この「溺れそう」という言葉でした。

私は心の中で笑いながら、マラルメにこう言いました。あなたはモネの絵を見なくても、いつも溺れそうになってるじゃないですか。神の光に、存在の光の洪水に。

ニーチェが晩年を精神病患者、白痴として過ごしたことは有名な話ですが、彼はその光の海に溺れて、文字通り溺死してしまったのでしょう。もちろん、絶対無の光に溺れ死んでも、肉体は死ぬわけではないので、発狂の後10年、肉として生きたのですが。

ヘーゲルというバケモノはこの海を泳ぎ切り、その克明な水泳記録はあの難解な「論理学」として残っているわけです。

「神に酔うた人」と言われたスピノザはこの水を呑んで酔っ払い、「文法」という酸素ボンベを背負ったヴィトゲンシュタインは海底で沈黙する。

他方、私のような小人は、その小さな手のひらで水を少しずつくみとって、こうして毎日ブログに流しているわけです。

宮沢賢治は彼の洪水をこう唄います。

以下引用

わたしたちは、氷砂糖をほしいくらいもたないでも、きれいにすきとおった風をたべ、桃いろのうつくしい朝の日光をのむことができます。

またわたくしは、はたけや森の中で、ひどいぼろぼろのきものが、いちばんすばらしいびろうどや羅紗や、宝石いりのきものに、かわっているのをたびたび見ました。

わたくしは、そういうきれいなたべものやきものをすきです。

これらのわたくしのおはなしは、みんな林や野はらや鉄道線路やらで、虹や月あかりからもらってきたのです。

…中略…

ほんとうにもう、どうしてもこんなことがあるようでしかたないということを、わたくしはそのとおり書いたまでです。

引用おわり
(注文の多い料理店 新潮文庫 9頁)

ぼろぼろのきものは、ぼろぼろのきものであり、同時にぼろぼろのきものならず。柳は緑、花は紅。柳は緑ならず、花は紅ならず。

宮沢賢治の詩を読む時、存在の海を泳ぐ彼は、今どこで、どんな光を食べているのかなと、私は想像するのです。
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