真理の探求 ― 究極の真理を目指すあなたへ by ぜんぜんおきなわ

日々考えたこと、気づいたことについて書いています。

第三十一回 精神がかぶっている殻(その五)

2017-06-14 10:32:33 | 体験
前回、リチャード・モーリス・バックの言葉を紹介しました。

2008年10月の私の体験について話しましたが、その体験以後、私のそれまでの悩みはある意味解消されましたが、まったく別次元の悩みが生じました。

それまでは、リチャード・バックの言葉が何を言っているのか理解できないことが悩みでした。しかし、それ以後は、リチャード・バックの言う「永遠の生命」を、自分が表現する際、具体的にどう表現すればいいのか、そういう悩みになりました。

悩みが無くなったのではなく、悩みの内容が理解から表現へと次元転移したのです。

リチャード・バックはこう言っております。

「わたしは自らの永遠の生命を自覚した。永遠に生きるという確信をもったのではなく、自分に永遠の生命があることを自覚したのだ。さらに、人類すべてが不死であることを知った。」

リチャード・バックだけではありません。イエスや仏陀、その他数えきれないほどの先達が、同じことを言っているわけです。

無限に何万年も生き続けることが「永遠の生命」なのではありません。

数年でも百年でも何年でもいいのですが、そうした有限な生命を生きることが、既にして「永遠の生命」をやっていることなのです。

カゲロウの寿命が1日か2日しかなくても、その1日か2日に、永遠の生命は躍動しているのです。

この有限と無限の矛盾が理解できないことが以前の悩みでしたが、今度はその矛盾をどう表現するかということが悩みとなったのです。

今もこのブログを書くのに、毎日悩んでいます。

ある意味、固い殻に閉じ込められていた時代の悩みの方が、たとえ深い悩みだとは言え、楽と言えば楽だと言えます。

それは、私個人がそれを突破できるかどうかという、個人的な課題だからです。

しかし、その後の悩みはそういう次元ではすまされません。永遠の生命について語るということは、私個人の問題ではなく、宇宙大の問題です。

悪気がなくても、表現によっては、聞き手にとんでもない誤解を与えかねないものです。

ほんの微妙な表現の違いで、受け手に対して大きな触発となることもありえれば、逆にとんでもない誤解を与える可能性もあります。

そもそも存在物の一つ一つを見てみれば、この宇宙にあるものは全て有限なものだとわかります。

石も虫も草も、動物も人間も星も、太陽でさえも、いつかは終わりのあるものです。

その寿命はカゲロウのように短くとも、恒星のように長くとも、限りあるものであるのは同じです。

目で見えるものは全て、有限なものであり、永遠とはほど遠い。

しかし、サン・テグジュベリが言うように、目に見えることは「かんじんなこと」ではありません。

「心で見なくちゃ、ものごとはよく見えないってことさ。かんじんなことは、目に見えないんだよ」(星の王子さま 内藤濯訳 岩波少年文庫)

目に見える目の方はあえて閉じて、心で見てみる。あるいは、目で見える目で見ると同時に、目に見えない目でものごとを見てみる。

そうすると、この有限な命のどこを見ても、そこには永遠の生命が躍動しており、奇蹟が息衝いていることが見えるはずです。

このことを、信仰の問題ではなく、事実の問題として提示し、いかに力のある言葉としてあらわすことができるか。

それが私のチャレンジです。
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