真理の探求 ― 究極の真理を目指すあなたへ by ぜんぜんおきなわ

日々考えたこと、気づいたことについて書いています。

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第四十七回 「悟り」から見た悟り(その十)

2017-06-30 12:12:05 | 悟り
セックスというテーマですが、まず私が驚くのは、世の中の男達が自分の性欲をあまりにも当り前のものとして見ていることです。

本能だ。以上おわり。

しかし、自分が男性であり、かつ男性としての性的エネルギーを持つということに、まず驚嘆しないのでしょうか。

一休さんもカラスが鳴いて大悟する前は、そういう驚嘆はなかったことでしょう。

自分は男だ。これは当たり前だ。だから男の本能としての性欲があると。これも当り前だと。しかし、大悟の体験後は、驚いたはずです。

なんと! 私は男か!

この驚きは、「俺は男だから性欲があって当たり前だ」というエゴの観念とはまったく別次元のものです。

自らの性欲の処理のために女を探すのではなく、心が驚きに満たされた一休さんは、驚きとともに空気を吸い、空を見、月光から光をもらい、蝶と話し、小鳥と心を通わせ、風になり、宇宙を泳いでいるうちに、女と出会います。

その時、彼はその女と、肉体に宿る性的エネルギーをもとにしながら、そこからさらに自分を無くします。セックスをしながら、無私は無私へと溶け込んでいく。

宮沢賢治の言うように、ひとつの大きな芸術を時間のうしろにつくるのです。

「ごらんなさい。向うの青いそらのなかを一羽の鵠がとんで行きます。鳥はうしろにみなそのあとをもつのです。みんなはそれを見ないでしょうが、わたくしはそれを見るのです。おんなじようにわたくしどもはみなそのあとにひとつの世界をつくって来ます。それがあらゆる人々のいちばん高い芸術です。」
(新編銀河鉄道の夜 宮沢賢治 新潮文庫 109-110頁)

みんなはそれを見ないでしょうが、「悟り」はそれを見るのです。
だから、一休さんは、女に対して、自分の性欲の投影を見るのではなく、存在の奇蹟を見るのです。

そうでない限り、セックスは娯楽と苦しみの混合体です。楽しみ半分、虚しさ半分、だから男のほとんどは、女と行為におよんで、終わったらさっさとタバコを吸いながらスマートフォンをいじって、アプリのゲームでもはじめるのでしょう。

「かわいそうなやつだ」と、きっと一休さんは心に言うはずです。

「あの男にこのすばらしい月光をやれたらなあ。」

女をただの人間と見る瞬間、女は女神でなくなり、女という肉のカタマリになります。

そうなると、鳥は空を飛ぶ奇蹟ではなく、鶏肉という自分の食欲を満たすケモノになり、女は自分の性欲を満たすための肉となり、宇宙は自分の欲望を叶えてくれない不可解な空間となるでしょう。

そういう奇妙で虚しいレッテルは、対象そのものにあるのではありません。
それを見る私の目やあなたの目の方にあるのです。

結局、人間の不幸の源は、その虚しい肉の目を無謬(むびゅう)に信じ込むことにあります。

13世紀のマイスター・エックハルトの言葉を引用して、終わりにします。

以下引用

それはちょうど、高い山に向って立って、「そこにいるのか」とさけぶと、「そこにいるのか」とやまびこがこだまし、「出てこい」といえば、「出てこい」とやまびこが答えるようなものである。

実際、一片の木ぎれといえどもこの光の内でそれを見る人には、それは一人の天使にも見え、知性をもつものにも思われる。

いや、知性をもつものどころか、すべての純粋さの満ちる原初の純粋性の内では一片の木ぎれといえども、純粋知性そのものとも見えるのである。

引用おわり
(エックハルト説教集 田島照久訳 岩波文庫 117-118頁)
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